序章① 森の魔女
空中浮遊大陸・アトラスガーデン。
その最果ての地。見渡す限りの雲海が広がる公園で、幼き少年と少女が向かい合っていた。
雲の海原が夕暮れの茜色に染まり、きらきらと煌きながら、二人を包み込んでいる。
幻想的な輝きに照らされながら、活発な印象を与える少年が少女の小さな手を取り、どこか控えめな印象の少女は驚いたように目をぱちくりさせていた。
しばらく二人は静かに見つめ合った。
真っ直ぐな瞳を向ける少年と、なにかを期待するようにその眼差しを受け止める少女。
「ルシアちゃんはぼくが護るから!」
「……ほんと?」
少年の高らかな宣言に少女が首を傾げて問う。
少年は躊躇いなく頷きを返した。
「ぼくはすごい錬金術師になって誰より強くなる! だから、ルシアちゃんをいじめるヤツは、どんな悪いヤツだってぼくが追い払ってやるんだ!」
確かな自信に満ち溢れた声で少年はそう言った。
とても優秀な因子回路を持って生まれた少年は、両親や親族を始めとする周りの大人たちに天才だの神童だのと持て囃されていた。実際、類稀なる才能を持っているのは事実で、ゆえに少年自身も己がいずれ一流な錬金術になる――否、現段階で有望な錬金術であることを疑っていなかったのである。
「……イツキくんはやさしいね。わたしなんかのために、ありがとう……」
そして少女もまたそんな彼のことを信頼していた。
なんの才能もなく生まれた落ちこぼれである少女。錬金術の才能こそすべてと言ってもいいアトラスガーデンにおいて彼女に居場所はなかった。誰からも期待されず周囲からは貶められ蔑まれながら身を縮ませる日々を送っていたのだ。
そんなとき――いつものように周りの子供たちに虐められているとき――この少年は少女の素性や立場など関係なく救ってくれたのである。周囲の子供たち、ひいては大人たちと比べても頭一つ抜けている少年は、その才能を大切にしながらも優しくあろうと常に心掛けている。誰もが認める力があるからこそ、誰に対しても平等であり、そして虐げられる少女のためにも全力を尽くさんとしてくれる。
だから、少女は少年のことが好きだった。
自分とはあまりに遠い場所にいながら、そのくせ自分のような人間に寄り添ってくれる彼を、誰より信頼していたし誰より尊敬していたはずだ。
「……ねえ、イツキくん。これからも、その……わたしのこと、護ってね……?」
「当たり前だろ!」
不安げに問い掛けた少女に少年は即答した。
「だってぼくたちは友達なんだから!」
「……とも、だち…………!」
夕陽に照らされた少年の屈託のない笑顔はあまりに眩しかった。
少女は、彼が口にした『友達』という言葉を噛み締めるように、そっと胸に手を当てた。
とても嬉しかったのだ。なんの才能も持たぬ空虚な少女には友達なんていなかった。だから彼は生まれて初めての友達だったのである。
少年がスッと小指を立てた拳を差し出してくる。
「約束するよ。どんなときだって、ルシアちゃんのピンチには、必ずぼくが駆けつける!」
「やくそく……うん、約束、だね……!」
少女はその小指に自らの小指を絡めた。
ゆっくりと陽が沈みゆくなかで、二人の少年少女は約束を交わすのだった。
◇
魔女の森。
アトラスガーデンの片隅にはそう呼ばれる工房が存在していた。
おどろおどろしく陽の光さえ遮った不気味な森林地帯。その最奥にはまるで中世の城塞かと見紛うほどの威容を携えた洋館が聳えていた。いまにも呑み込まれてしまいそうな深淵の森と、すべてを追い払うように構える洋館の組み合わせに、まともな人間ならば近づこうとさえ思わないだろう。
そこに住まうは、美しい金糸の髪と宝石のような双眸を煌かせ、艶めかしい色香を漂わせた絶世の美女であると噂されている。
しかし、
「実際には、ズボラでだらしなく、おまけにちっこいくせに態度だけはデカい――ある意味で魔女と呼ぶべき厄介な女なんだけど」
「む、随分と失礼な物言いをしてくれるものだな、我が弟子よ」
ため息交じりに呟いた少年に対して、噂に違わぬ金髪と碧眼の少女が、眉をしかめて膨れた。
洋館の外観とは裏腹に、どこにでもありそうな木製のテーブルを囲んで、朝食のトーストとスープとサラダをそれぞれ口に運んでいく二人。少女――正確には年齢不詳の女――は幼さを残したあどけない顔立ちをしている。その背丈もよくて十四、五歳程度で、とてもではないが艶めかしい色香など漂っていない。おまけに付け加えるならぺったんこである。
「そして、なにやら失礼な視線が私の胸に向いている気がするのだが、気のせいかな?」
「あー、はいはい、気のせい気のせい。……というか、アンタもしかして、この偽りだらけの噂はまさか自分で吹聴してるわけじゃないだろうな……?」
少年・折原一輝が確かめるようにそう問うと、金髪碧眼の魔女・アリスはそろ~っと視線を逸らしていくのだった。
「やっぱりそうなんだな! いや、他にも炊事洗濯、裁縫も完璧にこなす家庭的な魔女だとか、最高の嫁になること間違いなしとか明らかな嘘っぱちばかり! そのくせ金髪に碧眼とかいう一部の身体的特徴だけ正確だったから怪しいと思ったんだよ! ったく、炊事も洗濯も裁縫も全部俺に任せてるくせによく言うぜ」
「……ち、違うぞ。炊事も洗濯も裁縫も私の手に掛かればチョチョイのチョイなんだがな? ほら、やはり弟子であるおまえになにかやらせなきゃいけないし、じゃあそういう家事全般を任せてやろうと……」
「まず前提として俺はアンタの弟子になった覚えはない!」
なんと!? とイツキの反論にわざとらしく驚愕してみせるアリス。
彼女はこほんと一つ咳払いをして、「そんなことより」と少年の追及から逃げるのだった。
「イツキ。おまえ、明日から学園都市のアルヴァート学院に通うことになったから、今夜にはきちんと転入生になりきる準備をしておけよ」
「は……? え、いや、ちょっと待て……いま、なんて……?」
突然、アリスが口にした謎の言葉の羅列に、イツキはスープ片手に呆然としてしまう。
この洋館で引きこもり生活を満喫していたイツキは、彼女が紡いだ学園だの転入生といった単語の意味が理解できなかった。
もはや脳が理解することを拒んでいたと言ってもいい。
「フフン。アルヴァート学院と言えば、アトラスガーデンの学園都市において名門中の名門、七賢学院の一つに数えられる場所だぞ。どうだ? 明日からの華々しい学園生活の始まりだ。嬉しいだろう? 楽しみだろう?」
「い、いやいや、ちょっと待てって!」
イツキは、理解を拒みながらも思考をフル稼働させ、どうにか状況を整理しようと叫んだ。
「俺はどこの学院にも入ってない引きこもりだぞ! それなのに転入生って一体全体どういう理屈でそうなった!?」
「いや、新入生でもよかったんだがな? ほら……名門に入るのに来歴が『引きこもり』では、こう、なんとも箔がつかんというか、面倒くさいことになるというか……というわけでだ! この私が偽装の履歴書を作ってやったというわけだ!」
ババーン! とアリスは明らかに経歴詐称だらけの資料を、両手で広げてみせるのだった。
おなじ屋根の下に住んでいるせいで忘れていた。アリスは術式管理局『ヘルメス』――このアトラスガーデンにおける治安維持組織――の元・副局長にして、現在では術式犯罪対策室・特別顧問を務める大陸トップクラスの錬金術師だ。その名と権力を用いれば学園都市の要人を手中に収めるなど造作もないだろう。まさに職権乱用の権化とも言える悪質極まりない行為が人知れず行われていたわけだ。
イツキは、「感謝したまえよ」と平たい胸を張っている家主に対して、ただただ頭を抱える。
「……ったく、アンタは本当になにを考えてやがんだ? 俺はもう昔みたいな神童でなければ天才でもない無能なんだぜ? それこそ錬金術なんてまともに扱えないって知ってるだろ? だいたい俺はもう錬金術となんか関わりたくないんだよ……」
「まあ、そう己を卑下するな……なんて、おまえのいまの状態を考えれば、そうは言えんか。たしかにおまえは錬金術師としては最底辺に違いない。だが、学院に通うことでなにものにも代えがたいものを得られるかもしれんぞ? なにせ人生は一度きり――こんな陰気くさい森に引きこもっているよりは意味のあるものだろうさ」
「でも――ッ!?」
まだ反論を重ねようとしたイツキだったが、不意にその言葉が喉の奥底へと抑え込まれた。
とても柔らかな感覚に唇を支配されていた。いつの間にか、まさに瞬間移動するようにして、アリスの小柄な肢体がイツキの膝の上に跨っていた。子供っぽいくせに女性らしい柔らかさと甘い香りがイツキの全身に絡みついてくる。
人形のように整った顔と碧玉の双眸が、完全密着のゼロ距離からイツキの視界を埋め尽くす。
やがて、しばらく数秒ほど唇を塞がれたのちに、その艶めかしい色が離れていった。
「……不安に思うことはない。いま私が愛すべき弟子に『祝福』を与えてやったのだからな」
「…………」
もはやイツキはなにも言葉にすることができず、ただ呆然とアリスの姿を見つめることしかできなかった。
初めてのキス。
それは、かぼちゃのスープの味がした。