思考には最小の単位がある
思考には最小の単位がある。
思考には多様性があるが、それを構成する最小の操作となると共通である。
賢い人と愚かな人がいるとはほとんどが幻想だ。
人格の知的優劣とされているものは、生まれ育った環境の違いだ。
たとえば、1×2+3×4+5×6=44だ。
もちろん、2+12+30=44だからね。
だからこの式は一見、掛け算と足し算を知っていれば解けるように見える。
でも実際は、掛け算を優先するという記法のルールを知っていないと自明には読めない。
世間にはそんなことがありふれている。
教わった人には自明なルールであれ、それを逆算するのは難しい。
掛け算を優先して計算すれば44が得られるって、知ってるからそう見えるのだ。
よい教育を受けられるかどうかは、物心つく前から決まっている。
そして、当然のことを知らない者は、多数者からは馬鹿に見える。
崩壊家庭の子を見つけるのは簡単。髪型が変。
虐待家庭の子を見つけるのは簡単。服装が変。
あの子は変な子だね。私は変な子なんだな。
じゃあ私の考えもみな愚かで的外れなのかなって。
いやいや、最小の操作は等しく妥当である。
『根本的な帰属の誤り』。
実際には人間に多様性なんてあまりない。あるのは環境の多様性である。
世の中には面白い仕事と面白くない仕事とがある。
なぜなら社会には権力関係があって、上の人が求めるのは下の人の幸せではなく見返りだから。
法律で罰せられない範囲で弱者を絞るのが仕事の一つの本質である。
人の世の経済とはそもそも不平等ないじめなのだ。
だから低い仕事の報酬は少なくなければならず、人格的尊厳も劣位と見なされねばならないのだ。
よって時間は縛られ、工夫は禁じられて、低い仕事はつまらない。
でも本当は、たいていの仕事は仕事の内容はそれなりに面白い。
人間の尊厳に不平等があることは、理想的には不可欠ではない。
別にみなに気分よく働いてもらっても、今の科学があれば暮らしていける。
でも大きな権力を握った人間は自分の利益を広げようとするから、そうはならない。
人の世は動物園だ。そこに正義なんて始めからない。
社会にとって有益なことをしたかとか、有用な能力を備えているとか、関係ない。
誰が幸福に報われるに値するかなんて、関係ない。社会はチームではないので。
つまり世俗的な権威こそが人の世における真実のすべてだ。
社会正義とは、貧乏人と若者の善意を消費するために作られた幻想にすぎない。
そんな処世術は、恵まれた人々にはわかってる。
よい学校に行き、よい会社に勤め、よい肩書きと生きるもとにしか、よい幸福はないとわかってる。
実は頭がいいとか、実は社会に貢献してるとか、実はすごく立派な性格だとか、関係ない。
知的刺激を得たければ高い立場の仕事をしなければならないとわかってる。
そしてそこでは、英語と数学が不可欠だとわかってる。
数学は天才のための学問ではない。
訳のわからない記号を多用するが、一目見て理解できる者などどこにもいない。
ただ、便利だとわかっている道具の使い方に慣れることがそのほとんどだ。
そこで有用なのは、よい仲間と、よい教師と、よいテキストと、さらに言えば若さだろうか。
しかしそれらは恵まれた環境の属性である。
ユニークなアイデアなんてものは存在しない。
あるのは順当な操作だけである。
生まれが低ければそこからたどり着ける高さは、みすぼらしいものかもしれない。
しかしその階段は誰しもに平等に天の果てまで続いている。
すべての思考を、神は等しく愛している。