きっと、涙だと思います
施設に入所していた方が、「病院で亡くなる」……きっと、寂しい思いをしたのではないか?そう、思ってしまう訳は……
ほとんど意識が無く、目を開けていても、見えているのか、不明。それでも、音や気配を感じることが出来ていたとしたらば、「独りぼっちだ」と、病室で、寂しく思っていたのでは?と、想像してしまうからです。
病院は、生活の場ではありません。基本、治療する所です。元の生活に戻る為には、痛いことも、不自由なことも我慢して、リハビリも頑張らなくてはなりません。病院は、それを患者さんに強い、援助していきます。
治療しても回復が見込めない方の場合、ホスピス病棟では、残された時間の痛みを取り除き、苦しむことなく過ごしてもらえるように、援助していきます。
薬でコントロールしなければならないような痛みが、ないのならば、もう、打つ手がないのならば、それが、老化によるものならば、施設に帰ってきて欲しい!返して欲しい!
これから、多死社会になることが、問題視されています。今は、かなりの割合で、病院で亡くなっていますが、このままでは、病院がパンクしてしまいます。
老衰で体調が悪くなり、家ではとても看切れないからという理由では、入院出来ない。たとえ、救急車で運ばれても、ベッドがないからと、入院させてもらえない。
「もう、後少しで亡くなりますので、ご準備をしながら、家でお待ちください。亡くなりましたらば、死亡証明書を書きに、伺いますので、都合の良い時間に、ご連絡ください」
なんてことになるのかな~私個人としては、それがいいと思います。だって、痛いことをされずに、馴染みの匂いや声に囲まれて、生活している延長で、死ねるのですから……
「死」は、悲しいけれど、忌み嫌われるべきものではない、と、思うのです。特に、老衰でなくなる場合は、「生き切った」のであり、むしろ「お疲れ様」と、感謝を込めて、送ってあげるべきです。みんなで、声を掛けて、送ってあげるべきだと思うのです。
病院では、ほぼ老衰であったとしても、たえず血圧を測り、上がれば、降圧剤、下がれば、昇圧剤の点滴。酸素濃度が減れば、酸素吸入。そして、それらを外してしまうからといって、ミトンをして拘束です。コースによっては、自分で呼吸が出来ないからと、挿管もします。食事が取れなくなれば、鼻腔からチューブを入れるとか、一日中点滴。それが続けば、胃瘻造設。至れり尽くせり……
が、オムツ交換や、清拭の時間、話しかける余裕など、ありません。だいいち、コミュニケーション取れなくなってからの入院患者さんでは、語りかける言葉が、ない。処置の時以外に、ベッドサイドに行くことはないし、もちろん、手を握ったり、足を擦ったり、頭を撫でることも、ない。
仕方がないのです。この、ベッドに横たわっている人は、ただの患者さんであり、家族でも、大好きな知り合いでもないのですから……
病院に勤めていた時、もう、手術出来ない、手の施しようもない肝臓病の患者さんがいました。一日中点滴で管理されていて、テレビの音を聞いているだけ。ナースコールをまだ押せる頃は、体の向きを変えて欲しいと、終始訴えられていました。「身の置き所がない」そんな、身体中のだるさや、疼き、痛みに耐えかねてのことだったと思います。クッションで、少しだけ向きを変えながら、背中や足を擦ると、
「はあ~ありがとう」
と、言ってくださいます。でも、ずっとその方に付いている訳には、いきません。
訴えることも出来なくなった頃、シーツが濡れていることに気づき、それが、ふくらはぎからだということに、愕然としました。点滴から入った水分が、浮腫んだふくらはぎの皮膚を通して、あふれ出てきたのです。オムツパットをふくらはぎに巻きながら、それが、その方の「涙」に見えて、とても悲しかった……声を出せなくなって、身体が、悲鳴をあげていました。
病気になってしまった、年老いてしまった、は、仕方がないとして、最後の時をどう過ごすかは、自分で選びたいものです。
痛いのは、嫌だな。




