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最後まで、お母さんでした

  あの、デコった上履きの方と同室だった、お婆さんの物語です。


 その方は、あの方とは正反対?の、いつも微笑んでいる、品のある、誰からも好かれる、ちいちゃなお婆さんでした。まったく、誰もが、

「イシイさんだから、あの部屋で、我慢できるのよね」

と、言っていました。

 目薬を点しにお部屋を回っていると、カーテンを閉めたままで、イヤホーンを付けて、テレビを見ています。

「今日は天気もいいし、カーテン、開けましょうか?」

と言うと、

「○○ちゃんが嫌がっているから、私はいいよ」

と、答えられます。時々、話が長引くと、隣から、

「うるさいんだよ」

と、声が飛びます。すると、片眼をつぶって、手を振って、口元だけで、

「またね」

を、言ってくれます。

年齢も、あの方より一回り上、まったく喧嘩になりません。


 そうそう、あの方と同室で、良いこともありました。

 なにしろ遠慮がちな方だったので、困っていても自分からコールを押すことが、出来ません。そこは、あの方です。もぞもぞしていると、速攻コール!

「隣がガタガタしているよ!早く、見に行ってやってよ!」

と。

そのおかげで、転ばずに済んだこともありました。


 あの方が入院されてから、部屋に一人となりましたが、生活は変わらず、洗面台はほぼそのまま。変わったのは、カーテンを開けるようになったことぐらいでしょうか。特に、イシイさんから、

「寂しい」とか、

「いつ帰ってくるの?」などの話はなく、もちろん、

「清々した」

という、感想も、聞かれませんでした。でも、私達が感じるに、清々した感は、まったくなく、やはり、寂しそうに見えました。寂しいけれども、それを口に出してはいけないと思っているのか、何となくですが、前よりも口数が減ってしまいました。


 そして、亡くなったことを知って、イシイさんの中で、何かが壊れました。


 亡くなったことは、スタッフの会話から知ったのかもしれません。なにしろ、存在感半端ない方でしたので、亡くなったという衝撃は大きく、入居者さん達の知ることになってしまったのでしょう。お盆の迎え火を待たずに、「わかる人には、わかった」ということです。洗面台を片付けるまでもなく……


 イシイさんは、介護者にとって、全く問題の無い方でした。こちらの言うことを理解出来るし、察しても下さる。お願いすれば、待ってもくれる。それが……


 いつもは、介護者と共に車椅子へ移乗するのに、一人で車椅子へ移り、夜中の廊下を、徘徊しだしたのです。見つけた介護員さんが、

「どうしたのですか?」

と聞くと、

「呼ばれたから」

と。

みんなもう

「え~!!」

です。

「○○ちゃんが、帰ってきたんだわ」

と、言い出すスタッフもいました。何というか、夜中のイシイさんの形相は、鬼気迫ったものがあったらしいです。

 まあ、夜中に、音がするからと独りで行ってみたらば、暗い中を、ありえない人がウロウロしていた、というシチュエーションは、怖いものがあります。そんなことが続き、車椅子を朝まで部屋の外に出すことにしたのですが、今度は、独り言が。一人っきりになった、その部屋から……


 そんな事もあって、イシイさんは、日中も、何だかおかしくなってしまいました。

 昔働いていたお店のことが、急に心配になってしまい、

「もうすぐ、日が暮れるけれど、私はお店のシャッターを閉めて来たか、忘れてしまったのよ。どうしよう?行かなくては」

と、何度も何度も、スタッフを捕まえては、訴えてきます。

 お店で働いていた話は、よくしていました。

「この細腕で、たい焼きを焼いて、息子を二人、大学までやったのよ。いい子に育ってくれました」

と。お店の話は、苦労はしたけれど、イシイさんにとって、誇りと思っている、いい話でした。

 急にです。急に、イシイさんは、今この時の住人では、なくなってしまったのです。


 そんな訴えが、あまりにも頻回になり、そのうち、怒り出すようになったため、家族と相談して、

「お店は閉めて、土地は、大家さんに返しました」

という趣旨のことを書いた紙を、車椅子の後ろのポケットに、入れておくことにしました。お店に関する訴えがあった時、スタッフが、その息子さんが書いた紙を、イシイさんに、渡します。両手で持って、それを読んでいくイシイさん。以前よりも、更に一回り、身体が小さく萎んだように、見えました。


 それから少しして、今度は、

「目が見えなくなってきた」

と、こぼすようになりました。白内障が進んできたのだろうと、家族と相談して、手術が出来るのかと調べてみると、可能とのこと。100歳近い方でも、手術が出来ることに、びっくりです。しかし、いよいよ入院して手術という時になって、イシイさんは、尻込みしてしまいました。

「怖いから、やめる、迷惑をかけてしまう」

と、言い出したのです。

 痛くないことや、入院しても、すぐに帰れること、その後の生活や、もし、手術しないと、どうなるのかなど、色々伝えたのですが、ダメでした。あの時、あの方がいたならば、

「怖がるんじゃないよ、子供じゃあるまいし」

と、一括してくれただろうな~と、思います。


 あの時、だましても、手術してもらえば良かった……と、後で思いました。


 目が見えなくなるにつれて、イシイさんから、微笑みがなくなってしまったのです。あの、お店のことを訴えていた頃も、その話が落ち着けば、いつものイシイさんに戻りました。それなのに、まるで石のよう。柔らかいあの表情が、失われてしまいました。

 目が見えなくなることによって、イシイさんは、独りぼっちになってしまったのです。声をかけてもらえなければ、そばに誰かいることに、気付けません。独りぼっちの世界で、見えない目を、遠く遠くに、向けていました。通りがかりに、声をかけると、

「あら、嬉しい、見えないから、こっちへ来てもらえるかね」

と、言われ、近づくと、手を出してきます。そして、

「冷たい手だね~水仕事をしたんだろう、ご苦労様です」

と、言ってくれます。

 時々、独り言を言う時がありますが、返事が無ければ、それで終了。次第に、自分から話すことが、なくなりました。


 問題は、それだけではありませんでした。食べられなくなってきたのです。

 お盆の上に、何が乗っているのか、わかりません。今日のおかずは、何で、右に何が置いてあり、左には……と、伝えてから、スプーンを渡してくれるスタッフもいましたが、前のように、ただお盆を置かれただけでは、食事に手をつけられない。

   そこで、食事介助をされてしまいました。

 イシイさんは、嫌がりません。人の好意を、踏みにじる方では、ありませんので。でも、好意では、ないんだけどな~ただ、食事介助した方が、早く業務が終わるからだと、思うけれど……です。


 いくら、口に運んでもらっても、何を食べさせられているのかが、わからない。もしかしたらば、今日のメニューに好きなものがあったとしても、それが口に来た時には、すでにお腹一杯ってことだって、あると思います。食事が楽しいはずはなく、食欲も、減っていくのが当たり前です。


 この食事介助によって、更に問題が出てきました。手が、動かなくなってしまったのです。


 どうせ、自分では食べないのだからと、エプロンの上に、出してももらえなかった両手の指は、知らぬ間に伸ばせなくなり、とうとう、硬く握ったままになりました。。もっと、早く気付いてあげれば良かったと、後悔しましたが、拘縮してしまった指は、戻りません。イシイさんは、指を伸ばすととても痛がって、爪切りするのも、大変です。でも、切らないでいると、手のひらを傷つけてしまいます。そして、湿った手のひらには、細菌が繁殖しいて、すぐに化膿して、しまうのです。爪を切りながら、

「この手で、たい焼きを焼いていたんだな~」

と、思うと、涙が出てきました。


 食事量が減ってきていることを、家族に知らせると、より多く、面会に来てくれるようになりました。イシイさんも、嬉しそうで、昔の話をしています。そして、息子さんを気遣う言葉も言っていました。

「まだまだ、ああ、お母さんなんだなあ~」

と。そして、

「まだ、今でもお店で焼いているのつもりなんだ。お母さんをしているということは、子供のために、働いているというシチュエーションが必要だったんだ。ただ、産んだだけでは、お母さんではないし、お荷物になってしまったら、もう、お母さんでは、いられなくなってしまう。そんな風に、どこかで、思ったのかしら」

そして、

「もしかして、持ち直してくれるかしら」

と、思うくらい、ハッキリと、亡くなる一週間前ぐらいまで、お話をしていたのです。


 とうとう、何も食べなくなり、水分も口を開けてもらえない。家族と相談の上、「苦しませないように」と、お看取りすることになりました。


 最後まで、静かな方でした。スヤスヤと眠っていて、苦しそうな表情をされることもなく、口腔ケアも、嫌がらずにやらせてくれました。

 そして、朝、足の裏にチアノーゼが出て、ご家族に連絡をして、ご家族に見守られて、息を引き取りました。


  イシイさん、相変わらずあの方は、元気にしていますか?


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