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死に支度を整えて

 老人介護施設でのことです。

 トキさんは、100歳になりました。今日が何日なのか、いえ、すでに何月なのかも不明の世界に住んでいるので、たとえ、生年月日を覚えていたとしても、本人からのアピールは、当然ありません。なので、お昼になって、やっと、四階のスタッフが気づきました。


「あれ~お盆にケーキが乗っているよ、やっだ~100歳だって!」

 慌てて、紙の箱で作ったホールケーキを持ってもらい、写真撮影。トキさんも、まあ、自分の誕生日と気付いたかどうか、怪しいところですが、とにかく少し笑顔で、ピース。

「あ、入れ歯!ちょっと、持って来てよ、少しはマシになるからさ」

 ということで、入れ歯装着して、再びポーズ。それが今、トキさんの床頭台に飾られています。もっと、素敵な服もあったのに……ケーキを画面に納めなくてはいけないので、しっかり朝の食べこぼしも写っています、残念。


 あの頃、まだ一人で何とか食べていました。入れ歯をしても、あまり意味がなく、かえって、歯茎と入れ歯の間に食べ物が入ってしまう。それでも、トキさんは、入れ歯をすることに、こだわりました。それともう一つ、どうしてもお粥への変更を拒みました。

「こんなもん、食べない!」

と、お粥の入った茶碗は、押し返してきました。


 100歳になってからの秋、トキさんは、ほんの僅かしか食べられなくなりました。一応、お盆の上の食器から、食べ物は消えているのですが、それは、お盆の上やエプロンの上に移っただけです。

「トキさん、こぼれていますよ」

 なんて言おうものなら、あの鋭い眼光で、睨みつけられます。

「まあ、好きにやらせればいいか」

 と、放っておいたらば、自走していた車椅子も、動かせなくなっていきました。心配して

「トキさん、何か食べたい物ないの?」

 と、尋ねても、答えを返してくれません。甘いものなら好きだろうと、プリン風味の栄養ゼリーを渡しても、全くダメ。無視して、メガネをかけて、単行本を読んでいます。それが、最近、逆さに持っていることに気づきました。トキさんなりのポージング。尊厳を守るために、そのことは、指摘しませんでした。


 そんな状態になってから、息子さんが、私の知る限りでは初めて、面会にいらっしゃいました。娘さんは、何度かお会いしたことがあるのですが、男の方は初めて。後で、一番下は、長男だと知りました。


「お母さん、お土産」

 と、トキさんに渡したのは、コンビニのチョコレートパフェでした。甘い物は食べないのでは、という私達の心配をよそに、トキさんは、美味しそうにそのパフェを食べだしました。ゆっくり、ゆっくりと、半分食べたでしょうか

「もういい、後で」

 と、トキさんは話し、それから目を細めて、飽きることなく息子さんを眺めていました。

 ほとんど、会話らしい会話はありませんでした。ただ、母親のたべるのをじっと見て、それから、食べ終わった母親にじっと見てもらう、それだけでした。

 

 帰るからと言われたので、私はトキさんと、玄関の所まで見送ろうと、車椅子を押しだしました。息子さんは、

「いいですよ」

 と、言われたのですが、もう会えないだろうと思うと、トキさんに「ね」と言って、車椅子を押しました。彼女は、扉が閉まっても、しばらく、手を振ていました。見えなくなって、ホッとしたのか、気丈なトキさんも、泣いていました。

 結局、その息子さんは、亡骸がここを出て行く時、迎えに来てはくれませんでした。


 面会の翌日からです。とうとうトキさんは、スプーンを握ろうとしなくなりました。もちろんのこと、食事介助など、させてくれません。お茶だけでも、と、勧めますが、それも一口二口。しつこく食べたい物を聞くと、

「アイスクリーム」

 と、言われたため、ハーゲンダッツを買ってきました。たぶん、カロリー高いだろうという理由で。

 何日かは、その小さなカップを一日一個。それも、少しずつ量が減ってきて、もう三日、ほとんど食べてくれません。私は、半分怒ったように

「なんで食べてくれないの!」

 と、言ってしまいました。ベッドに横たわったトキさんは、自分の胸を、握った右手でトントンと叩き、それから、右腕を上にあげて、開きました。

「何?わかんないわよ」

 と言うと、又同じ仕草をして、

「ここが、いく」

 と、小さな小さな声で、教えてくれました。

 ここ、魂が、いく、天に逝く……と、伝えてくれたのです。

 私は、急に悲しくなってしまい、

「嫌だよ」

 と、言ってしまいました。そして、

「大好きだよ、トキさん」 

 と、顔を近づけると、トキさんは、皺くちゃの、曲がった指の両手で、私の頬を挟んで、

「可愛い」

 と、言ってくれたのです。それはそれは、はっきりした声で……


 すぐにトキさんの両腕は力尽き、私は、その冷たい手を布団の中に入れました。


 その翌日です。水分補給用のゼリーを介助するためベッドを起した介護員さんから、呼吸がおかしいとの連絡を受けました。急いで居室に行くと、トキさんの指に、紫色のチアノーゼが、すでに現れています。酸素が足りなくなっています。亡くなる前兆。でも、その顔は、苦しむことなく、とても穏やかでした。

「トキさん」

 と、呼びかけると、わずかに頷いてくれたようにも、見えました。

 

 最後の息を引き取る時、本当に、トキさんの魂が、昇ってるように、見えました。昨日、トキさんが教えてくれたようにです。

「お疲れ様でした、ありがとうございました」

 と、みんなでお礼を言いました。


     トキさんの写真は、笑っています。

 彼女なりの死に支度を整えて、その身体は、不純なものを一切そぎ落とし、美しく、神々しく、その笑顔で見守られていました。

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