生きていくには、「意地」が要ります
ショートステイをご利用になっている方の話です。
この方の学生時代を知っているという、施設で再会した方曰く、
「ん~あの頃から、身体を動かすことは苦手、というか、動こうとしない人だったような。おとなしいっていうのかしら」
と、
初めてお会いした頃は、まだ、歩行訓練という、一日一回歩行器で廊下を歩くことを、家族の希望でやっていました。それが、立位訓練になり、それも、本人から「身体が痛い」と、拒否されることが増え、今では、ほとんどの時間をベッドで過ごし、食事の時だけ車椅子と、なりました。
食事も、手を動かす能力あるのに、最近ではエプロンの下から手を出そうともしません。スプーンを持ってもらっても、自分から口を開けて待っている始末。
「食べられるのですから、自分で食べましょう」
と、促すと、ゆっくりですが完食出来るのです。ただ、その「ゆっくり」に、こちらが我慢できず、食事介助してしまうことも、多くなりつつあります。
この方にとって、「食べさせてもらうこと」が、望む介護なのでしょうか?それとも、尊厳を守りたい?
「○○さん、手を動かしてください」
「○○さん、目を開けなくちゃ、食べられないでしょ!!!」
叱咤激励?が飛び交う中での食事が良いのか、それとも、何を食べさせられているかもわからないまま、食べるタイミングも決められない状況で、ただただ口に運ばれるのが良いのか?
食事介助をしてしまうと、自分で食べるという、運動機能を失ってしまいます。同時に、食べるという欲、意思そのものが、無くなっていくように思えます。排泄もオムツになってしまっている現状では、食べることだけが、自らの意志で「動く」ことで、それ無しでは、動く物、動物と言えないと思うのですが……
受け答えは出来るし、記憶力も保たれている。それなのに、「やる気がない」。認知症というよりも、老人性の鬱状態なのでしょうか。そういう方のお話を聞いていると、こちらもぐったりしてしまいます。
「痛い、しんどい、やって下さい……」そして、「死にたい」です。
百歳を超えた方が、朝、廊下で手すりにしがみついていました。朝御飯のために、部屋から出てきて、力尽きたのです。慌てて駆け寄り、押していたシルバーカーに、まずは座っていただき、車椅子を用意しました。その時、
「悔しいよ、意気地が無くなったね~前はこんなじゃなかったのに」
と、涙ぐまれました。ひとしきり泣かれるのを、手を添えて見守り、
「朝だからですよ、いつもは歩けているじゃないですか。百歳超えて、走って来られたら、こっちが困ります、やめて下さいね」
と、肩を抱きながら笑うと、
「そうだね、歳は取りたくないものだ」
と、笑い返して下さいました。
聞けば、子どもの頃、器量は良くないし、勉強もダメだったけれども、駆けっこだけは、一番。それだけが、彼女の自慢だったそうです。百歳になっても、自分の身体に妥協出来ない!意地があるというのは、あっぱれです。
今年も、元気に過ごしていただきたいと、お帰りになる時思います。彼女としては、
「私のお母さんは、「クミの家で死にたい」と、いつも言っていたの。で、その日、朝ご飯を食べて、昼に死んでいた。私も家で死にたいよ、ぽっくりね。ここに来なくなったら、「ああ、ぽっくり逝ったか」って、思ってね」
と、
その望み、叶えてあげて下さい。神様……




