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禁じられた『アレ』

作者: 塩生


 新幹線の中からのどかな田園風景が広がっている。風になびく青草と自転車に乗った少女。すぐに後方に流れていって見えなくなる。新幹線は速い。

 東京から僕の地元までは地図上で見ると相当離れているが、新幹線に乗れば三時間ほどで着いてしまう。三時間なんてあっという間だ。社会人になってから尚更そう感じるようになった。

 山際に立った「727」の看板が見えてきたところで地元に帰ってきたのだという実感が強くなる。この看板が見えたということはもう間もなく到着するだろう。

 僕は倒していたシートを元に戻し、頭上にある荷物置きからキャリーケースを取り出した。衣類やパソコンなど何もかも詰め込んだせいか相当重い。バランスを崩してふらついてしまい、後ろに倒れそうになる。何かが背中に当たった感触がした。

 振りかえると、小学生ぐらいの女の子が尻餅をついていた。僕は慌ててキャリーケースを置き、少女に手を差し伸べる。

「ごめんね、大丈夫?」

「……うん」

 少女はおずおずと僕の手を取って立ち上がる。

「ケガはない?」

 そう訊くと、コクっと無言でうなずいて逃げるようにどこかに行ってしまった。

 

 その少女の背中を見ながら、僕は七年前の実家での出来事を思い出していた。


「ねえねえ、今日も『アレ』やろうよ」


 そう言って僕の手を引っ張る彼女。無邪気な笑顔を浮かべて楽しそうにステップする。

 畳の匂い。熱い吐息。汗でへばりついた髪の毛。

 彼女は恍惚の表情を浮かべ、息を切らしながら言う。


「もう一回しよ……」




 姉は僕より十三年早く生まれた。小さい頃は、姉というのは大人のように大きいのが当たり前なのだと思っていた。僕にとっては母と姉は同じようなものだった。後に、十三歳も年の離れた姉弟は珍しいのだと知った。

 姉は僕とよく遊んでくれた。一緒に公園に行き、背中を押してもらってブランコに乗ったり、砂場で山を作ってトンネルを掘ったりした。上手く掘れると「上手にできたねぇ」と拍手してくれた。

 その面倒見の良かった姉は、僕が小学校に入学した年に東京の大学に通うために家を出て行った。

 それからは一年ごとにお盆になると家に帰ってきた。毎年僕の顔を見るたびに、姉は「背伸びたねぇ」と言った。

 夏休みは楽しかった。一年で一度だけ姉と過ごせる時間。一緒に虫取りをして、プールに行って。宿題で分からないところがあれば聞いた。姉は何でも知っていた。

 僕はそんな姉が好きだった。だけど同時にどれだけ手を伸ばしても届かない遠い存在だった。

 それは今でも変わらない。



 姉は大学を卒業した後、実家に戻ってきた。僕の地元では有名な企業に就職した。会社までは車で一時間もかからない距離だった。

 僕は嬉しかった。姉と昔みたいに遊べると思っていた。

 だけど姉は仕事が忙しく、夜遅くまで帰ってこないことも多かった。休みの日に姉を遊びに誘おうとすると、母から「お姉ちゃんは疲れてるんだからまた今度にしてあげて」と言われた。その『また今度』はあまり訪れなかった。

 姉は二年間、その会社で働いた。


「お姉ちゃん、結婚するの」

 そう、姉が言ったのは僕が五年生の時の事だった。結婚とは何かを僕はまだよく分かってなくて、男女が一緒になって手をつないだり、キスしたり、そういう恥ずかしい行為をすることなのだという認識だった。だから僕は「ふーん」と言って、あまり気にかけないようにした。

「相手は雅史さん。前に会ったことあるでしょ?」

 前に一度、ウチに来て一緒にキャッチボールをしてくれたお兄さんだった。優しそうな人だという印象を持っていた。姉とその人がキスしたり、手をつないだりするところを想像して途端に恥ずかしくなり、「そうなんだ」とだけ言って、僕はその場から逃げた。

 

 姉が子供を産んだのは結婚した翌年だった。女の子で、「千奈美」と名づけられた。よく笑う子で、鈴を鳴らしたりするとキャッキャと喜んだ。

 中学生の頃は僕もよく彼女の世話をした。泣いたらおもちゃを鳴らしてあやしたり、オムツを換えたこともあった。抱っこしてあげると、気持ちがいいのか僕の耳たぶをよく触っていた。言葉が話せるようになると、彼女は僕のことを「紡おにいちゃん」と呼んだ。

 子育てに忙しい姉は僕にかまってくれることはなくなったが、中学生にもなって姉弟で遊ぶということは子供っぽいと思っていたし、千奈美の世話をしている時は姉と共同で子育てしているみたいで、少しだけ姉に近づけている気がして、それだけで満足だった。

 千奈美はすくすくと成長し、三歳から保育園に通い始めた。

 

 高校生になったある日、夕方塾に行こうとして外に出ると、雅史さんと姉が千奈美の手をつないでこっちに歩いてくるのが見えた。雅史さんと姉の優しい笑顔。千奈美のはしゃぐ声。それは幸せそうな家族の姿だった。

 近づいたと思っていた姉が、また遠ざかっていったように感じた。

 僕に気付いて姉が手を振った。

「ただいまぁ」

 僕も手を振り返しながら言う。

「おかえり」

 そのとき僕は、高校を卒業したら家を出ることを決めた。



 

 東京の大学に合格して一人暮らしをすることになった。キャンパスは山の上にあり、僕の住まいはその周辺に決まった。初めて一人で生活。掃除、洗濯、食事、全部きちんとこなせるか少し不安だったが、案外うまくやっていけた。

 大学の勉強はつつがなくこなし、単位を落としたことは一度もなかった。週三で大学の図書館でアルバイトをした。返却された本を棚に戻したり、古くてもう何年も借りられてない本を地下の書庫に移したりする作業。機械でも出来そうな仕事だった。

 サークルには入らなかった。大学生活を通してできた友人は五人だった。

 ボーっとしているうちに就活の時期が来て、友人たちより大幅にスタートが遅れた僕はなかなか内定が決まらなかった。六月までに決まらないと絶望だな、と就活前に友人たちと冗談交じりに笑いあっていたが、夏休みに入っても僕は就活を終えることができないでいた。

 何もやる気の起きない夏休み。クーラーを効かせた部屋で音楽を垂れ流して虚空を見つめていると、母から電話がかかってきた。

「あんた、これからどうするの?」

 そう言う母の口調は厳しいものではなく、どこか慈悲深さを帯びていた。

 僕が無言で答えないでいると、

「とりあえず、お盆には帰ってきなさい」

 そう言い残して、母は電話を切った。

 

 

 

 大学生になってから一度も帰ってなかったので実家を見るのは本当に久しぶりだった。玄関の前に立つと、他人の家に来た時のような気持ちになった。妙に緊張した。

 遠慮がちにインターホンを押すと「はい」と高い声が響いてきた。

「あの、紡だけど……」

「あぁ」

 そこでポチっという音と共に声が切れた。

 少し待っていると、家の中からドタバタと音がして、ドアが開けられた。

 出てきたのは成長した千奈美だった。ショートカットの髪にヘアピンをつけて、僕の顔を上目遣いで見ていた。

「入って」

 そう言ってドアから手を離し、僕を招き入れてくれた。

 玄関に入ると、まったく嗅いだことのない匂いが鼻を突いた。僕の実家が本来はこういう匂いがするのだということを初めて知った。

 家の中は静かだった。千奈美以外の誰かがいるような気配はなかった。

「千奈美だけ?」

 そう聞くと、「うん」と頷いて千奈美は冷蔵庫からお茶を取り出した。

「あ、てか僕のこと覚えてる?」

「うん、紡おにいちゃん」

「覚えてくれてるんだ」

 コップに満杯のお茶を注いで、僕の手元まで持ってきた。

「ありがとう」

 リビングの椅子に腰を下ろして、こぼれないように表面だけをすすった。

「お母さんとお父さんは?」

「買いもの」

「そっか」

 会話はそこで止まった。久しぶりに姪に会ったというのに何も言葉が浮かんでこなかった。リビングの家具の配置も随分と変わっていて、なんだか落ち着かなかった。

「トイレ、行きたいの?」

 僕のそわそわしている様子を見かねてか、千奈美が訊いてきた。

「あ、いや、ちがうちがう。なんか結構変わったなあと思って」

「なにが?」

「テレビの位置とか、カーペットも新しいのになってるし」

「それ、買ったのかなり前だよ」

「そうなんだ」

 また会話が途切れた。けど今度はすぐに千奈美が口を開いた。

「ねえ、おにいちゃん」

「ん?」

「あ、おにいちゃんじゃなくておじさんなんだっけ?」

「うん、まあ、正しくはそうだけど」

 小さい子に面と向かっておじさんと呼ばれるのは、ちょっとショックだった。

「私ね……おじさんがいなくなってからずっと我慢してたことがあるの」

「……なに?」

 訊くと、千奈美は僕に近づいてきた。


「……耳たぶ、触らせてほしいの」


「……え?」

 僕はなぜそんなことを頼むのか一瞬理解できず、ポカンとしてしまったが、すぐに小さい頃千奈美が僕の耳たぶをよく触っていたのを思い出した。

「ダメ……?」

 そう、上目遣いに小さく首を傾げて訊いてくる。

「まあ、別にいいけど……」

「やったあ!」

 なぜそんなに喜ぶのか不思議なくらい嬉しそうに声を上げて、千奈美は僕の左の耳たぶをプニプニと触ってきた。

「あぁ、やっぱりおにい……おじさんのやつがいい」

「……他の人のは?」

「あんまり良くない」

「姉ちゃんのとか……」

「硬い」

 そう言って、今度は僕の膝の上に乗ってきた。

「両耳で」

 千奈美の左指が僕の右の耳たぶを掴んだ。半ばもたれかかるような態勢になって必死に僕の耳たぶをプニプニしていた。

 しばらくそうしていじり続けてひと段落ついたのか、僕の耳から指を離した。

「……ねえ、食べてもいい?」

「……は?」

 なにを言ってるのか分からず聞き返した。

「耳たぶ、食べてもいい?」

「えっと、それは……」

「こうやって……」

 そう言うと千奈美は僕の首に手を巻き付け、左の耳たぶを唇で咥えた。そしてそのまま唇で感触を確かめるように耳たぶを甘噛みし始めた。

「……はぁ、あむ……んむんむ……はぁ……」

 千奈美の激しくなっていく吐息が耳穴に入り込んできて、僕は思わず彼女の肩を掴んで引き離した。

「……おじさん?」

 キョトンとしたあどけない表情で首を傾げる千奈美はこの行為がどれだけイカれていてどれだけ恥ずかしいものなのか分かっていないようだった。

「あ、わかった。おじさんも食べたいんでしょ」

 そう言って千奈美は自分の耳を僕の方に差し出した。

「じゃあ次はおじさんの番でいいよ」

 近づいてくる千奈美の耳。その耳の裏には垢一つ付いてなくて、透き通ったように綺麗だった。

 ここで彼女の誘惑に乗ってはいけないと思った。

 もしここで誰か帰ってきてこの光景を目にしたら、きっと僕はこの家には二度と帰れないだろうと思った。それ以上に小学生の女の子の耳たぶを甘噛みしながらはぁはぁ言うなど、立派な犯罪だし、通報されたら最悪牢屋にぶち込まれる可能性だってあった。

 息がかかるくらいまで耳が口元まで近づいたとき、僕は気づいた。

 姉に近づく方法……姉を支配すらできていると感じられる方法。

 彼女---千奈美を自分のものにすること。

 僕は―――。

「ひゃあ!」

 僕は彼女の耳たぶを甘噛みした。しきりに、必死に体内に彼女を取り入れるために味わった。舌も使って舐めまわした。まだ産毛も生えていない耳たぶはツルツルした舌触りだった。


「……はぁ、はぁ、」

「ふぅ……くっ、あはは」

 息を切らしながら耳たぶから口を離すと、彼女は赤くなった頬ではにかむように小さく笑った。

「なんかゾワゾワするね、これ」

 そして僕の首にまた腕を回して言った。

「もう一回……いいでしょ……?」

「……いいよ。でも、約束して。これは皆には秘密」

 僕は人差し指で彼女の唇をふさいだ。

「わかった?」

 千奈美は僕の目をじっと見つめ、ニコッと白い歯を見せてこくっと頷いた。


 

 僕と千奈美の間で耳たぶを甘噛みしたり舐めまわしたりする行為は「アレ」と呼ばれた。僕は実家にいる間、毎日千奈美とアレをやった。一日の中で僕と千奈美以外だれも家にいない時間帯――祖父母が夕飯の買い出しに行っている夕方にアレをやった。リビングで。千奈美の部屋で。和室で。クーラーを付けずに熱気むんむんの状態でやることが多かった。千奈美が部屋に入るとすぐ抱き着いてきてリモコンに触ることもできなかったからだ。だから終わるときには二人とも汗だくで、着替えるしかなかった。一日二着の服を着ていることは母に気付かれたが、千奈美と外に遊びに行って汗をかいていることにしてごまかした。

 毎日毎日千奈美とくっついていたが、彼女の唇を奪ったり、それ以上の行為に及ぶことはどうしても出来なかった。

 僕は結局千奈美を自分のものにすることはできなかった。

 

 東京に帰る前日の晩、僕は母と父に呼ばれた。母は和室の襖を開けて、入りなさいと言った。部屋の真ん中にテーブルが置かれていて、向こう側に父が座っていた。

 母も向こう側に回り込んで腰を下ろした。

「そこに座りなさい」

 言われて、僕は母が指さした座布団の上に腰を下ろした。

 数秒の沈黙。

 僕はこの物々しい雰囲気に、千奈美とのアレがばれてしまったのかと疑っていた。

 けれど、父が口を開いた時にその疑いは晴れた。

「お前、これからどうするつもりなんだ?」

 大学を卒業した後どうするかの話だった。千奈美といた時は頭を空っぽにできたから今まで忘れていたが、僕がここへ戻ってきたのは両親とこの話をするためだったと思いだした。

「どうって……」

「どこかへ就職するのか、ここに帰ってくるのか」

「もう就活はやめたんだ」

「じゃあここに帰ってきなさい」

 実家には住みたくなかった。姉に一生追い付けないままそばにいるなんて出来なかった。きっと今みたいに毎日千奈美とアレすることになりそうだった。そんな退廃的な生活なんて続けられそうになかった。

 僕が黙っていると、

「まだ採用募集してる会社はあるんじゃないの?」

 母がお茶を片手に訊いてきた。

「……あるにはあると思う」

「調べてエントリーしてみたら?会社なんてどこでもいいから一度社会に出て働いてみなさいな」

 そう言って、母はずずーっとお茶を啜った。

 その時ガチャ、と音がして「ただいまぁ」と玄関の方から声が聞こえた。

 ドン、ドンと廊下を歩く足音が近づいてきて、襖が開けられた。

「え、三人ともこんなとこで何してんの」

「あら夕美、おかえりなさい」

 音の主は姉だった。レディーススーツを着崩して、ゴムで留めていたらしい髪は背中に垂れていた。

「いま紡の進路について話し合ってるのよ」

「へぇ、そういえば紡、就活上手くいってないんだっけ」

「そうらしいのよ」

 母が僕の方に顔を向けた。

「そういうことです」

 僕は姉の方を見ずに呟いた。

 姉はそれを聞いて「うーん」と言ってジャケットを脱ぎ、腕にかけた。

「紡なら何でもできそうだけど」

「え……?」

 僕は驚いて姉の方を見た。

「昔から私がなにかやってみせるとすぐにマネできたし、物覚えはいい方でしょ」

「それは……」

 姉ちゃんに近づきたかったから。姉ちゃんみたいになりたかったから。

「それにあんた成績いいんだからさ、もっと自信持ちなよ。単位ギリギリで卒業した私とは違うんだよ」

 そう言って姉は僕の頭をポンポンと撫でた。

「姉ちゃん、もうガキじゃないんだからそういうのやめてくれ」

 僕はため息交じりに言った。

「あれ~?昔は『お姉ちゃんお姉ちゃん』って感じだったでしょ?」

 そう、姉はニヤニヤしながら、

「あの頃は可愛かったなあ」

と、思い出すように天井を仰いだ。

「やめろって、そんな母さんみたいなこと」

「私、あんたの第二の母親みたいなもんでしょ」

 そしてクスッと微笑んで、

「大丈夫。あんたならやっていけるよ。私が育てた自慢の弟だよ」

 もう一度念押しのように僕の頭を撫でまわした。

 


 不思議と姉の言葉が頭に残っていた。自慢の弟……。そんなことを言われたのは初めてだった。

 姉は僕のことを理解していた。ずっと遠い存在だと思っていた姉は本当は近くにいて、誰よりも僕に寄り添っていた。僕が勝手に遠ざかっていると思い込んでいただけだった。

 姉には敵わないと思った。

 

 東京には最終便で帰ることにした。千奈美と最後に話をしなければならなかったからだ。

 夕方。西日の差し込む和室の中で千奈美といつもよりちょっと長めのアレをした後、二人で麦茶を飲んでいた。

 息すらもしづらいほどに畳の匂いと熱気が充満している中で、先に口を開いたのは千奈美だった。

「おじさん、今日帰っちゃうんだね」

 千奈美はコップを少しずつ回しながら小さい声で言った。

「そうだね」

「次こっち戻ってくるの、いつ」

「分からないなあ」

 そう答えると、千奈美はコップを置いて僕の膝の上に乗ってきた。

「なるべく早く戻ってきて」

「頑張るよ」

「そしたら……また『アレ』してくれる?」

 千奈美はじっと僕の目を見つめながら訊いてきた。その目は少し寂しそうで、うっすらと涙を湛えていた。

 僕は彼女と目を合わせたまま、膝から下ろして正面に座らせて、そして言った。

「それはできない」

 千奈美の目が見開かれて、「え?」という微かな声が漏れる。理解できない、という顔をしていた。

「なんで……?」

「なんでも、だ」

「おじさんは……気持ちよくないの……?」

「……千奈美、聞いてくれ、こういうことは―――」

「やだ……!」

「千奈美……」

「やだ!やだよ!またやりたいよ!」

 千奈美はそう言い張って、口を真一文字に結んで、なにかをぐっと堪えるような表情をした。泣かないように耐えているようだった。

 分かっていた。これは僕の責任だ。

「なんか、耳がふわーってなって、ゾワゾワってして……あれがいいの!」

 こんなことをやっても姉に近づく、ましてや支配している気になどなれるわけがなかった。だって姉はいつも近くにいて、僕を見ていてくれた。いくら姉の娘の耳たぶを舐めまわしたところで何の意味もなかった。

「……おじさんは、あたしとするのイヤなの……?」

 そう言うと、千奈美はポロポロと涙をこぼし始めた。

 僕は千奈美の手を取って引き寄せ、優しく抱いた。その体は僕の腕の長さではあり余るほどに小さくて、抱きしめたら壊れそうなほどに脆く思えた。

 僕はこんなまだ年端もいかない女の子を使って感情のままに動いてしまった。最低だ。だからこれは僕の責任で、僕が終わらせなければならない。

「……千奈美、ああいうことは、恥ずかしいことなんだ。やっちゃダメなことなんだよ」

 千奈美は僕の胸に顔をうずめていた。涙が服を通して肌に感じられた。

「だから……もう僕は『アレ』はやらない。千奈美もやっちゃダメだ」

 千奈美は聞いているのか、聞いていないのか、無言のまま僕に抱き着いていた。

 数分の後、千奈美は顔を上げ、僕を上目遣いに見つめた。

「禁止なの?」

「そうだよ」

「わかった」

 そう言って、千奈美は僕の胸から離れて立ち上がった。そして出ていこうと襖を開けたところで僕の方を振り返った。

「大人になったら?」

「うーん……千奈美の彼氏と相談……かな?」

「わかった」

 いやに物分かりよく頷いて、千奈美は出て行った。


 僕はその日の午後八時十分の新幹線に乗って東京に戻った。千奈美はあの後泣きつかれたのかすぐに寝てしまって見送りには来なかった。

 


 

 

 七年ぶりの実家は、また変わっていた。特に庭の木々や花の種類が前よりも増えていて、よりカラフルになったと共に鬱蒼とした小さいジャングルのように見えた。姉か雅史さんが買ったのか、車が三台になっていて、新しくカーポートが増設されていた。そのカーポートの隅にはかわいい形をした自転車が置いてあり、後輪の泥除けに近くの高校の名前が書かれたステッカーが貼ってあった。

 インターホンを押すと、中から白髪だらけの頭が出てきて、ちょっと驚いた。

「おかえり、待ってたよ」

 母はそう言って僕を中に招き入れて、リビングのドアをスライドさせた。

 テーブルにはすでに姉と雅史さん、父がおり、テレビを見ながら三人で笑っていた。

「あとご飯だけだからね、座ってていいよ」

 そう言って母は、キッチンに入る。

「あ、紡おかえり~!」

 姉がそう言って立ち上がり、抱き着いてくる素振りだけ見せる。

「久しぶりのお姉ちゃんだぞ~。嬉しいだろ~?」

 姉の手が僕の頭に向かっていたので、サッとよけた。

「姉ちゃん、母さんの事手伝ってやりなよ」

「あら、この子こんなに優しいこと言う子だったかしら」

 そう言って母は料理が乗った皿をテーブルに置いた。

「え~久しぶりに紡の事わしわししてやろうと思ったのに~」

 そんなことをぶつぶつ言いながら姉はキッチンに向かった。

 僕は荷物をリビングの脇において服をパタパタさせた。クーラーの冷気が入り込んできて涼しい。

「紡くん、おかえり」

 雅史さんが優しく微笑みながら言う。

「はい。ご無沙汰してます」

「かたいかたい、俺たちは兄弟みたいなもんなんだからさあ」

「あぁ、はい」

 雅史さんに肩を組まれながら椅子に座ると、父が「おかえり」とだけ言ったので僕も「ただいま」とだけ返した。

 そこで僕はあることに気付いた。

「あの、千奈美は?」

 訊くと、雅史さんは困ったような顔をした。

「千奈美なら二階にいるよ。最近学校以外ずっと部屋にいるんだよ」

 そう、ため息交じりで言いながら酒をあおった。

「女子高生にもなるとそうなるんじゃないですか」

「そうなんかねえ」

 寂しそうに言って、新しいビール缶のプルを開けた。


 全ての料理が出そろったところで、姉が千奈美を呼びに行った。僕はその間、少しだけ緊張していた。

 あの千奈美は今どんな子になってるんだろうとか、あの頃のことを思い出して僕を嫌ってたりしていないだろうかとか気になることが沢山あった。

 リビングのドアがガララと開いて、姉が入ってきた。

「この子、また制服のままで。帰ったら着替えてっていつも言ってるのに」

「えーだってめんどくさいじゃん……って」

 姉に続いて入ってきた女子高生もとい千奈美は僕を見て固まり、姉の耳元に口を寄せた。

「(え?なに?なんでいるの?)」

「今日帰ってきたんだよ。言ったなかったっけ?」

「(うっそ聞いてないし!あぁ~もうお母さん!)」

 ニシシと意地悪そうに笑う姉の隣で千奈美は僕の方をチラチラ見ながら何か言っている。ちなみにほとんど聞こえていた。

 やっぱり嫌われてるのかもしれないと少しがっかりしていると、ちょうど僕の対角に千奈美が座って、食事の準備ができた。

「じゃあ、いただきまーす」

と、姉が言ったのを皮切りに皆も「いただきます」と手を合わせた。


「それにしてもあれよね、紡のやってる仕事って大変なんでしょう?」

 母がコップにお茶を注ぎながら言う。

「まあ、大変なのは時期によるよ」

 僕はあの後4年生の秋からでもエントリーできる企業を探し回り、なんとか就職することが出来た。労働環境や福利厚生などいろいろ調べてこれが最適解だったと思っているが、それでもキツイ時期はキツイ。

「あのはす向かいの大場さんとこの息子も同じ仕事してるらしいんだけど、体壊したって。あんたも気をつけなよ」

「体調管理はちゃんとしてるよ」

「ならいいけど。心配ねぇ」

 困ったように眉を八の字にする母を見て、

「大丈夫よ。紡はそういうのちゃんと考えてるから」

と、姉は唐揚げを取りながら言う。

「給料はそこそこいいんだよ」

「あら、そうなの?」

 それにしても、と母はまた続ける。

「あの時ここに帰ってこなくて正解だったわねぇ、ねぇお父さん」

「……そうだな」

「こっちじゃ就職なんてできないわよねぇ」

 それを聞いて、姉が意地悪そうにニヤリとする。

「でも、千奈美は紡に早く帰ってきてほしかったみたいよ」

「ちょ、ちょっと!お母さん!」

 千奈美は箸をバチンとテーブルに叩きつける。

「『紡おじさんまだ~?』ってずっと言ってたもんね?」

 千奈美は顔を紅潮させて肩を怒らせていたが、はあ、と大きなため息とともに立ち上がって、

「ごちそうさま……」

と、そっけなく言ってリビングから出て行った。

「あちゃ、やり過ぎた?」

 ペロと舌を出して、姉は悪びれる様子もない。

「思春期だからごめんね。あんたに会いたがっていたのはホントだから」

 それを聞いて、嫌われているわけではないと知って安心した。



 晩御飯を食べ終え、風呂に入ってテレビでニュースを見ていると眠くなってきた。

「そろそろ寝るよ。部屋は変わってないよね?」

 老眼鏡をかけてテーブルで雑誌を読んでいる母に訊いた。

「いらなそうなものはいくらか捨てたけど、ベッドはそのままだよ」

 それを聞いて、僕は二階の自分の部屋に向かう。上がってすぐ目の前にある部屋のドアに「CHINAMI」と書かれたプレートが下げてあった。

 結局あの後一度も下に降りてこなかった。お腹、空いてないだろうか。

 心配だったが、入るのはさすがにまずいと思ったので自分の部屋に向かった。

 開けると、僕の部屋は思ったよりも変わってしまっていた。

 積み上げられたダンボール。一番上のダンボールは開いていて、中に中学生の頃集めていたカードが見えた。学習机の上には大量の書類が散乱しており、漫画でいっぱいだった本棚は今は空っぽだった。どうやら僕がいない間に物置部屋と化したらしい。

 ただ、不自然と言えるほどベッドの位置だけは変わっておらず、そこだけ時が止まっているかのようだった。

 懐かしいベッドに倒れこみ、僕はすぐに眠りについた。



 どのくらい寝たか分からないが、まだ朝ではないことは確かだ。窓から月明かりが指している。こんなに明るい月を見るのは久々だなと思うより前に、腹のあたりに重みを感じた。

 晩御飯になにか悪いものでも食べたかと思ったが、これは腹の内部の異常ではないことはすぐに分かった。気になって腹部をみると、スカート、太もも。誰かが僕の上に乗っていた。

「あ、やっと起きた」

 その制服姿の声の主は月明かりに照らされて、僕の腹まで垂れている黒髪を耳にかけた。

「千奈美……」

 僕がそう呟くのを聞いて、千奈美はふふっと笑った。

「そう、千奈美。おじさん、あたし待ってたんだよ?」

「なにを?」

「なにって……」

 千奈美は僕の上に倒れこみ、顔を近づけてくる。

「おじさんがあたしのカレシになってくれるのを、だよ」

「……は?」

「おじさん言ったでしょ?大人になったらカレシと相談って。高校生はもうオトナだよ?」

 そう言って、僕の首に腕を巻き付けて柔らかい身体を押し当ててくる。

「……恥ずかしく、ないの?そんなこと言って」

「恥ずかしいよ」

 言われて千奈美の顔を見ると、恥ずかしくてたまらないというふうに目は潤んでいる。

「それは昔から変わらない」

「昔から……?」

 あの頃はただ無垢で、純粋だったんじゃなかったのか。

「あの年で男女こと意識しないわけないよ。保健体育でもいろいろ習う時期だよ?」

「じゃあ、君は……」

「あたし、おじさん……紡おにいちゃんのことが好きだったの」

 吐息がかかるくらいに近い距離で、

「今でも大好き」

 小さく、けれど力強く千奈美は言った。

「だからね、あたしのカレシになって、また『アレ』やろうよ」

「『アレ』って……」

 まさか―――

「禁じられた『アレ』、だよ」

 そう言って、千奈美は妖艶に微笑んだ。





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