影武者
「もう寝たの?」
千咲が背を向けた俺の肩にそっと手をかけた。眠れるはずもなかった。
俺は寝返って上半身を起こすと、サイドテーブルの上にあるタバコに手をのばした。千咲が体を寄せ、脚をからみつけてくる。
「別に哀れんでくれなくたっていいさ。俺は慶太の代わりに千咲姫様をお護りする、ただのお庭番なんだからな」
精一杯の強がりだった。俺は千咲に惚れていた。毎日だって抱きたかった。並んで横になっていながら指一本触れることのできない夜は、なかなか寝付かれなかった。
「そんな意地悪言わないで……ね。お願い」
俺はわざとゆっくりタバコの火をもみ消し、スタンドの電気を消した。うれしくてついゆるみかけた口元を無理に引き締め、しぶしぶ応じるふりをしているだけだと悟られたくなかったからだ。
窓のすぐ下を通る幹線道路の車の騒音も、いつのまにかすっかり静かになっていた。隣の部屋のテレビの音ももう聞こえなかった。世界中がこの部屋の気配に耳をすませているようだ。千咲は、「汗をかいたから気持ち悪い」とシャワーを浴びに行った。マンションの四階のこの部屋の窓は全部開けてあるが、なんとなく蒸し暑い夜だった。俺は暗闇の中で目を開けたまま、言いそびれた言葉を噛み締めていた。
俺と慶太と千咲がこの奇妙な生活を始めてからもう二年になる。
事の起こりは、そもそも俺と慶太が一卵性双生児だったことにある。俺たちはあまりにもよく似ていたため、二人を本当に見分けられるのはお袋だけだった。しかし、似ていたのは単に外見だけであったことは、二人が成長するにつれてだんだんはっきりしていった。慶太は何をするにも要領がよく上手にでき、その頭の回転の速さと口達者には大人も舌を巻いた。それに比べて俺はぐずで不器用で、勉強でも運動でも趣味でも慶太に勝てたことは一度もなかった。人懐っこい慶太はどこに行っても可愛がられ、人見知りする俺はいつも慶太の後ろに影のように控えていた。まるで絵に描いたように正反対の双子だった。親父もお袋もいつのまにか慶太をより可愛がるようになり、俺のことは見ていて歯がゆいのだろうか、なにかと慶太を見習うように諭した。家の中では慶太が長男で俺が次男という順列がつけられたのも、当然の成り行きだった。戸籍上では、先に生まれた俺が長男になっているにもかかわらずだ。俺は自然となんでも慶太の真似をするようになっていった。
俺たちが高校生だったある日、慶太は突然家出した。両親にも俺にも原因となりそうなことはまったく思い当たらなかった。両親は悲嘆にくれた。それはそうだ、自慢の息子がいなくなって、あとには彼のできそこないの影だけが残ったのだから。両親は取り乱し、警察に届けると言ってきかなかったが、ある親戚の人に「大騒ぎしてはかえって慶太を追い詰めて、取り返しのつかないことにもなりかねない」と説得された。その時から俺は、ショックで何も手につかなくなった両親を慰めるために、慶太の身代わりになろうと決めたのだ。慶太とは違う自分という人間に両親の愛情を向けさせるのではなく、心から慶太になりきって彼が今まで独り占めしていたみんなの愛情を一気に手中にするために。そう決めてから不思議と俺は、勉強も運動も慶太と同じほどよくできるようになった。両親が望むように東京の一流大学を卒業し、一流商社に就職した。誰も慶太のことを口に出さなくなった。親父やお袋さえも、表向きは俺が一人息子であるように振る舞った。俺という完璧な替え玉のおかげで、みんな慶太の家出のことなど忘れてしまったかのようだった。むしろ、できそこないの息子が消えてほっとしているようにさえ見えた。俺自身も、俺という人格の消失を惜しんだりしなかった。
二年ほど前に親父とお袋が相次いで亡くなって、一週間休暇を兼ねて帰郷した後のことだった。土産のまんじゅうを持って久しぶりに出社すると、駅で俺を見送った直後に慶太を見かけたと同僚が言うのだった。今さっき列車に乗ったはずなのにおかしいなと首をひねった途端、以前ちょっとだけ話した双子のことを思い出したと言う。慌てて声をかけようと探したが、もう人ごみにまぎれてどこにも見当たらなかったそうだ。俺はその話を聞いたとき、なんだかドッペルゲンガーに出会ったような不気味さを感じた。この世に同じ人間が二人も存在する余地はない。本物の慶太が現れてしまえば、この俺は単なる影だ。まやかしだ。その日が忍び寄ってくる気配を背中で恐怖しつつ、俺はしかし慶太に会いたいと思っている自分を意識していた。常に慶太の影であった自分自身を嫌悪していた過去の日々を、懐かしく感じたからだ。それに自分が被った慶太という鎧はもはや本物以上に確固たるもので、本物に会ったくらいではびくともしないという自信もあった。
それから三ヶ月ほど経って予想通り俺は、通勤帰りの駅で自分のドッペルゲンガーと対面した。
「元気……そうだな」
慶太は俺を見て屈託のない笑顔を作った。俺はそれとまったく同じ笑顔をうかべて答えた。
「慶太こそ……今までいったいどこにいたんだ?」
二人で慶太の馴染みのスナックに行った。店のママは俺たちの顔を見比べて目を白黒させ、気味悪そうに「いやだ、まるでコピーみたいにおんなじね」と言った。クローンなんていう今時の言葉はご存知ないらしい。
俺たちは夜更けまで、慶太の家出以来のそれぞれの人生について語った。慶太は家を出た後、祖父の葬式でたった一度会っただけの遠い親戚を頼って行った。千葉のその親戚も驚いてすぐに両親に電話しようとしたが、慶太が弁舌さわやかに説得するとすっかりまるめこまれてしまった。それどころか、両親に騒ぎ立てないよう電話までかけてしまったという。もちろん慶太はただの居候ではなかった。早速次の日からアルバイトを始めて部屋代も食費もきちんと払ったので、その親戚としても身元保証人になる事に関して異論はなかった。そういえばこの親戚は両親の葬式に顔を出さなかったが道理で、最後まで内緒にしていたのが余程後ろめたかったのだろう。
二十歳でそれまでずっとアルバイトをしてきた会社の正社員にしてもらったのをきっかけに、慶太は独立して職場近くのアパートに引っ越した。工作機械を販売する小さな会社だったが、慶太が最初十七歳で営業のアシスタントとして入ってから売上が二倍にも三倍にもなったという。高校中退とはいえ慶太の頭のキレは、その辺の大卒に勝るとも劣らなかった筈だから不思議はない。社長に気に入られ正式に入社していきなり営業課長に抜擢され、五年前に社長の一人娘と結婚してから次期社長の椅子は約束されている。社長が建てた大きな家に住み子供も一人いて、一般的な見方からすればかなり幸せな人生と言えるかもしれない。しかしなぜかそれを話す慶太の口ぶりには、見知らぬ他人の人生を語るようなよそよそしさがあった。
俺のほうはといえば、とりたてて話すほどのこともない、ごく平凡な人生だった。勤めているのは確かに一流企業だが、今のところ昇進の見込みもない。侘しい一人暮しで恋人もいない。誰も慶太のことを知らない環境で俺は、真似る相手を見失った九官鳥のように無気力だった。唯一、慶太の身代わりとしての俺の価値を認めてくれた両親はもういない。
「死ぬ前に親父やお袋に会ってやったら喜んだだろうに。おまえのこと、一日だって忘れてやしなかったぞ」
たぶん、と心の中で付け足した。
「おまえがいれば十分だったさ。おまえがいれば俺は必要ない」
慶太は遠くを見るようにそう言った。なぜ、という問いは俺の口から出なかった。俺が十分慶太の代わりになってきたことは、誰よりも俺が一番よく知っているからだった。
「それにお袋はおまえのことを溺愛してたしな」
「……どう言う意味だ、出来の悪い子ほどかわいいってやつか?」
俺はそう言いながら、そんなことは有り得ないと確信していた。物心ついてからずっと、お袋が慶太より俺を贔屓にしたことなど一度もなかった。むしろ、俺は疎まれていると感じることのほうが多かったのは事実だ。
「おまえのことが心配でしょうがなかったんだ、お袋は。ずっと俺と比べられていたらお前が駄目になってしまうって……慶ちゃんの成績がもうちょっと悪かったらねえ、なんて言われたこともあるんだぞ」
皮肉っぽく笑った慶太を見て俺は思い出した。そうだ、慶太はいつだって大人の気持ちを完璧に理解して、両親と同じ側に立ってまるで俺を年の離れた弟のように見下ろしていたのだ。俺はといえばあの頃から自分のことだけで精一杯で、もしかしたらお袋の本当の気持ちがわからなかったのかもしれない。お袋は俺のことが不憫でいじらしくて、まともに向き合うことすら辛かったのか。どちらにしても、今となってはもう本人に確かめる方法はないのだ。
「けど、それが家出の理由じゃないよな?」
「あたりまえだろ」
慶太はそう言ったものの話を濁し、家出の理由についてはとうとう話さなかった。
別れ際に慶太は、
「ちょっと相談したいことがあるから、近いうちにまた会おう」
と言って、俺の連絡先を控えて去っていった。
慶太から連絡があったのは、それから一ヶ月もたたないある金曜日のことだった。携帯に電話があり、今晩時間があったら会って欲しいと言った。その日は残業もなく、独りで映画でも観に行こうと思っていたので、承諾して場所と時間を聞いた。
慶太が指定したのは、横浜のあるレストランだった。俺が着いた時にはすでに、慶太が一人の女性とグラスを傾けていた。
「お待たせ」
と言って何気なく二人の向かい側に座った瞬間、その女性は驚きのあまり手にしていたグラスを落としそうになった。おそらく何も聞いていなかったのであろう、言葉を失い、ただただ俺と慶太を見比べるだけだった。
「紹介するよ、こちらは千咲。これは俺の分身」
慶太は分身、というところを妙に強調して俺を紹介した。俺はてっきり慶太の妻だと思っていた千咲が実は愛人だと聞いて、ちょっと驚いた。この若き次期社長の人生に、わずかでも捌け口を必要とする不満があるとは思わなかったからだ。それに千咲には愛人という言葉から連想する、いわゆる水商売風のところは微塵もなかった。OLとも違う自由な雰囲気と服装に加えて、いたずらっぽくよく動く目が印象的だった。
「こんなことおまえ以外に頼める人間はいない。勝手だと思うだろうが、できればやってもらえないだろうか」
と言って慶太が切り出した話は、普通の人間ならばまず信じられないような内容だった。慶太と千咲は半年ほど付き合っているが、その間自宅を留守にする時間がどうしても長くなり、妻が浮気を疑いだしているという。自業自得といってしまえばそれまでだが、隠し通せれば浮気の事実はないのと一緒だと言われれば、納得せざるを得ない。何とか千咲と今まで通り付き合いながら、しかも奥さんを安心させる方法を見つけたい。そのために一ト月に何日かでいいから慶太が千咲の家に泊まる日に、慶太の身代わりになって彼の自宅に帰ってほしいというのだ。
「うちで何かしてくれと言うんじゃない。俺の服に着替えて夜遅く家に帰って、一晩寝て、次の朝違う服を着て出てきてくれればそれでいいんだ」
といとも簡単そうに言う。俺は当然誰にも見破られない自信はあった。しかし、どうして俺が慶太のためにそこまでする理由があるのか、とは思った。
「俺にいったいどんな得があるっていうんだ……面倒くさいだけじゃないか」
「双子だからというだけじゃだめなんだ。おまえだからこそ、俺の代わりができるんだ。それに……もちろん、ただでとはいわない」
慶太は思わせぶりな目付きを千咲から俺へと移して言った。
「俺が自宅に帰っている時、おまえは俺の身代わりとして千咲の家に泊まってくれて結構だ。おまえは俺なんだからな」
俺と慶太は昔から女の趣味が一緒だった。たしか高校生の時も同じ後輩に夢中になったことがあった。今もちらちらと横目で見る限り、千咲はまったく俺のタイプの女であった。
「でも……千咲……さんはそれでいいの?」
と俺がなるべく控えめに聞くと千咲は、
「今だって私には見分けがつかないわ」
と言ってちょっと舌を出した。その仕草が愛らしいというより妙になまめかしく、ぞっとするような欲情が下半身から背筋を這い上がり始めた。この女のために完璧な慶太を演じることは大きな喜びになりそうに思えた。捨てられかけた九官鳥は、新たな生きがいを見つけて大いに胸を膨らましたってわけだ。
こうして俺たちの奇妙な生活が始まったのだった。
すべてはうまくいっているようだった。あらかじめ慶太は俺に、家の間取りから歯のみがき方まであらゆる情報を徹底的にたたき込んだ。すると意外に細かいクセの違いに気付いたりした。例えば俺は鍵をズボンの右ポケットに入れるが、慶太は必ず左ポケットに入れる。こんな些細なことに家族が気づいているかは疑問だったが、俺はそうした小さいクセまですべて身につけた。そのおかげで俺はすっかり慶太になりきって、彼の自宅で正体がばれるようなヘマは一度だってしなかった。しばらく前から慶太夫婦の間の会話や性生活が、ほとんどなくなっていたことも助けになった。
ただ、冷や汗をかいた経験はある。慶太の家にはなるべく夜遅く帰って、家族との接触を最小限にとどめる努力はしたが、ある晩眠っていたはずの慶太の娘が急に起き出してきたことがあった。キッチンでビールを飲む俺をじっと見つめて何も言わない娘に慶太の妻が、「どうしたの、パパでしょ」と言った途端、娘が大声で泣き出したのだ。まだ五才くらいの娘がどうやって俺たちを見分けたのかはわからないが、俺は慶太の妻が何か勘付くのではと内心うろたえた。そのうちに娘は、父親が二種類いることについて自分なりに納得したらしく、俺を見ても泣き出さなくなったのが救いだったが。
慶太の身代わりを演じる準備として、千咲の部屋には何着かの洋服を置いておき、週末ごとに自宅のアパートに帰って服を入れ替える生活を繰り返した。が、しだいに面倒になり、結局俺のアパートは引き払って千咲の部屋に転がり込んでしまった。千葉から帰って大手町に出勤するのに、浦安の彼女のマンションは交通の便がよかった。また千咲のほうでも、男出入りを気にする近所の手前、まだそのほうが体裁がいいというので、俺は彼女の婚約者ということになった。
俺たち二人は結構気が合った。休みの日など妻帯者の慶太に代わって、買い物につきあったり一緒に映画を観に行ったりした。食べ物の好みも洋服の趣味も、好きな作家もよく似ていた。ただその点については慶太も同じなので、それらが本当に俺自身が選んだものなのかどうかはわからなかった。知らない人には俺たちは、仲のよいカップルにしか見えなかっただろう。
最初のうち千咲は、しきりに慶太が家出する前の話を聞きたがった。どんな子供だったとか他愛のないことだが、慶太は昔のことを話したがらないらしい。もちろん家出の理由についても千咲には教えてくれないという。
「なんていってもエベレストより高いプライドの持ち主だからね、そのプライドを傷つける何かがあって、未だにその傷を克服できないでいるんじゃないかしら……そこから逃げてしまったせいでね」
千咲はそう分析していたが、俺にも慶太のプライドを傷つけたものが何かはわからなかった。なにしろ成績はダントツに一番で、横に並ぶライバルさえいなかったし、誰かに負けて悔しかったという話も聞いたことがない。唯一の挫折は中学の時に壊した膝で、そのせいで本格的にスポーツの道に進むことができなくなったことぐらいだ。それにしたって、高校三年になってからの家出の原因としてはあまりにも古すぎた。俺はそんなことやら、実家にできた賞状とトロフィーの山の話やらを、自分のことのようにおもしろおかしく千咲に話したのだった。その代わりに俺は、千咲から千咲自身のことや慶太とのことをいろいろ聞き出した。
千咲は、慶太との出会いは偶然だったと言った。彼女はフリーでスペイン語の通訳と翻訳の仕事をしている。ある時渋谷の画廊で南米のモダン・アーティストのグループ展があり、千咲はそこで通訳をしていた。たまたま営業の帰りに通りかかった慶太がその絵画や彫刻に吸い寄せられるように入ってきて、突然スペイン語を教えてほしいと千咲に頼んだのだった。慶太はそれらの作品のおおらかな民族的エネルギーに魅了され、ふとこれからは南米に営業活動を展開すべきだと思ったという。もちろん最初は単なる先生と生徒だったが、何度か会ううちにお互いどうしようもなく惹かれ合っているのに気づいた時には、自然とこういう関係になっていた。
慶太のどこに惚れたのかと千咲に訊いたことがある。すると千咲は、「だって、自分の仕事はつまらない些細なものだと言い切ったのは、あの人が初めてだったから」と答えた。それまで千咲のまわりには、いかに自分が大きな仕事を任されている重要な人材かをアピールしたがる男しかいなかった。高校中退の慶太にとって、たとえ小さくともひとつの会社の社長になるということは途轍もない夢だったに違いない。ところが実際に手が届くところまで来てみると、自分のその夢が意外にあっけなくて、物足りなく思ったらしい。もちろん慶太は社長になるためだけに結婚したのではないし、娘のことも心から大切に思っている。かわいい娘にもっと大きな夢を残すためには、この千葉の小さな会社を世界的な企業にしなければと考えたのだ。千咲は月並みだがその前向きな姿勢と、常に凡人には計り知れない遠くを見ている慶太の目が好きだと言った。慶太は千咲と男女の関係になった後もスペイン語の勉強を続け、かなり話せるようになった今では、メキシコを中心に南米への営業計画を進めているという。この話を聞いてから俺もスペイン語を習い出したのは言うまでもない。
千咲にもいつかメキシコで、日本語・スペイン語・英語の通訳と翻訳の会社を始めるという夢がある。父親の仕事の都合で子供時代を過ごしたメキシコは、千咲にとって第二の故郷でもあった。慶太とはいつも将来の合弁事業について話し合うが、結婚はその中に含まれないと千咲ははっきり言った。慶太は離婚するつもりは毛頭ないし、一緒に夢を叶えられたら自分は慶太にとって奥さん以上の存在になれるかも、と笑った。その笑顔に俺はしかし、言葉とは裏腹な寂しさを読み取ってしまったのだった。
振り返ってみれば、あっという間の二年だった。幼かった慶太の娘ももう小学生になっている。面と向かって「偽者!」と断罪されるのが今日か明日かと思うと、恐ろしかった。
はじめはとにかく慶太を完璧に演じることだけに一生懸命だったが、そうやって月日が経って千咲の心の中をよく知るようになるにつれ俺は、『慶太』という表面的な人格の下から、亡霊のように『俺』という人格が染み出していると感じるようになった。特に千咲の話を聞く時、頭がキレ過ぎる慶太には他人の痛みがわからず、悩みを相談されても簡単に一言で片付ける癖があった。俺は親身になって千咲の悩みやグチを聞き、自然に慶太としてではなく俺としてアドバイスをするようになっていた。それは一見、慶太でありながら、まったく慶太らしくない優しさを滲ませた、いわば『理想の慶太』だったのかもしれない。そうして千咲といる時間が長くなればなるほど、俺は千咲が慶太ではなくその『理想の慶太』に気持ちが傾いているのではと思い始めていた。
そのうち俺は慶太の家に帰らなければならない日、つまり慶太が千咲のもとにくる日が耐え難くなっていった。翌朝、千咲のアパートに戻ってのろのろと慶太の服を脱ぐ己を、心底情けないと思うようになったのだ。どこかいつもより幸せそうな千咲と向かい合ってコーヒーを飲む慶太の首を、思わず後ろからネクタイで絞めそうになったことは何度もある。千咲はもともと慶太の愛人なのだから、その身代わりである俺が慶太に嫉妬するのは筋違いであろう。慶太はと言えば、俺を自分と同等とは思っていないのか、まるで俺の存在に不安を抱いている様子はない。だからと言って俺は、そんな慶太の隙をついて千咲をこっそり盗み取ろうと思っていたわけではなかった。千咲の部屋に一緒に住んではいても、俺は自分から手を出して千咲を抱いたことは一度もない。なぜなら千咲は慶太のものだからである。千咲が望んだ時だけするが、あとは指一本触れないのが俺なりのプライドだった。しかし同時にそれは、力づくで千咲を自分のものにできない俺の意気地のなさでもあった。
これ以上千咲を自分一人のものにせずにはいられない焦燥感が、二年という月日の重さと相俟って、今夜のゆるぎない決断を俺に迫っていた。
「いやに蒸すわねえ」
千咲の声がすぐそばで囁いた。俺は考えごとをしながら眠ってしまったらしい。
「明日は慶太がくる日だろ」
と言うと眠そうにうん……といった返事が聞こえた。俺はどうしても今夜それを言ってしまわなければならなかった。
「千咲、俺と結婚してくれないか」
暗闇の中で一瞬、千咲が息をつめたのがわかった。もうすぐ三十歳になろうとする女に、結婚という言葉が動揺をもたらさないはずはなかった。しかも相手は彼女が愛する人と見分けがつかないくらい瓜二つなのだ。
「君だっていつかはこうなるんじゃないかと思っていたはずだ。慶太には戸籍上妻子があるが、俺は独身だ。君を幸せな奥さんにもお母さんにもすることができる。俺は単なる身代わりかもしれないけど、慶太以上に君の気持ちはわかっているし、君をもっと大事にしたいんだ。君の夢のためならどんなことだってする覚悟はできている。幸いにも両親からの遺産がいくらかあるから、結婚して二人でメキシコでやり直さないか」
彼女の夢を餌にするつもりはなかった。ただ千咲が俺のものになったら、誰とも彼女を共有する気はない。日本にいたら、いつまでたっても俺は慶太の影以上の存在にはなれないだろう。
千咲は長い間沈黙していた。そして言った。
「私の夢のためならどんなことだってするって言ったわね……」
「言った」
千咲の手が急に俺の腕をつかんで力を入れた。今まで聞いたことのない千咲の真剣な声が、鋭いナイフのように俺の喉元を刺した。
「……じゃあ、私の夢のために死んでくれる?」
自分のドッペルゲンガーを見た人間は死を迎えると言う。
俺はアクセルペダルをさらに踏み込んだ。慶太の車は東北自動車道を北へ北へととばしている。出掛けにラッパ飲みしたウィスキーのアルコールが体中を満たしたおかげで、恐怖心はまったくなかった。俺のパスポートと両親からの遺産をそっくり持った慶太は、千咲とともにもうメキシコへ旅立ったはずだ。俺の辞表は一週間前に受理されている。慶太が出発前に投函した遺書は明日、妻子のもとに配達されるだろう。そうしてぐちゃぐちゃになった俺の遺体を見て、慶太に間違いないと妻は涙を流すはずだ。俺の左手の薬指には、ご丁寧に慶太の結婚指輪が光っている。
慶太が最初からこうなることを予想していたかどうか、俺にはわからないし、もうどうでもよかった。しかし俺さえ現れなければ、慶太は決して妻子と別れようとはしなかっただろう。そういう意味では、周りの人すべての一生を狂わせたのは俺の責任だ。それに、いつか終わらせなければならないものならば、俺はみんなが幸せになる終わり方にしたかった。千咲の想いを遂げさせてやりたかったし、慶太の娘には生涯不自由しないだけの保険金を残してやりたかった。
このことが決まってから慶太は、俺に家出の理由を話してくれた。
「高校の時、後輩でテニス部の女いただろう、覚えてるか。俺もおまえも夢中だったあの女が俺にこう言ったんだ……『先日は電車の中で助けていただいて、本当にありがとうございました。私、もうすぐ引っ越すんですけど、よかったら文通してもらえませんか』だと……俺には何のことかさっぱりわからなかったよ」
慶太はしかしすぐに、その後輩が慶太を俺と間違えて話しかけたのだと気づき、屈辱にうちひしがれたという。俺はその電車の中の出来事を覚えている。気分が悪くなった彼女のために乗客に席を譲ってくれるよう頼み、窓を開けてやった。それだけだった。
「俺は彼女に『悪いけど興味ないから』と言ってその場を立ち去るのが精一杯だった。その晩俺は身の回りの物だけ持って家を飛び出した。あのままあそこにいて、またおまえと間違われるかと思っただけで気が狂いそうだった……」
その時すでに「慶太の影」であった俺に比べ、本物である慶太のほうがアイデンティティーの危機にさらされていたとは皮肉だった。同じ状況で慶太ならおそらく、次の駅で彼女の手を引いて電車を降り、どこかで道草デートをするくらいの気はまわっただろう。彼女がそこまでわかっていれば、二人を容易に見分けられたはずだ。わからなかったとすればそれは、彼女の気持ちが慶太に向いていなかったことを意味した。慶太は俺に成り下がってまで女とつきあおうなんて気には、これっぽっちもなれなかったのだ。
だからこそ今、慶太がプライドを捨て、俺に成り下がってまで一緒にいたいと思う千咲はやはり、彼にとっても特別だということだろう。その気持ちがよくわかるだけに、俺には慶太を責めることなどできなかった。あの夜の真剣な千咲の言葉を聞いた時、俺のはかない想いはすべて砕け散った。千咲の瞳が慶太ではなく『理想の慶太』、つまり俺自身を見てくれているに違いないと信じたかったのに、千咲は俺と一緒の時いつだって慶太しか見えていなかったのだ。一緒に街を歩いている時も、俺の腕の中に抱かれている時も。慶太が俺に嫉妬しなかった理由はそこにあった。『理想の慶太』も所詮、慶太の別の顔にすぎなかったのだ。
全身が麻痺したように気怠かったが、頭の中の一点だけが氷のように冴えかえっていた。警察は俺の歯型や指紋を調べるだろうか。ただの交通事故なら調べないだろう。唯一俺たちを見分けられるお袋はもうこの世にいない。あのスナックのママや会社の元同僚は何か感づくだろうか。慶太の娘がいまさら何を言っても、大人はまともには信じないだろう。ガソリンがだいぶ残っているのが気になったが、車が炎上してDNA鑑定になっても双子の俺は心配することはないし、どちらにしてもスピードメーターは考えを変えるにはもう遅すぎると、警告を発している。
俺は現代の影武者ってわけだ。生まれた時からそういう運命だったのだろう。千咲さえ幸せであれば、それはそれでいいような気がした。十七歳で慶太に成り代わった時すでに、俺という男は死んでしまっているのだから。
俺は人生でただ一人、俺を俺として選んでくれたテニス部の後輩の顔を思い浮かべようとしたが、目鼻立ちはもとより髪形すらはっきりしなかった。空っぽの脳みそがかわりに映し出したのは、とうに失われたはずの俺自身を思い出させてくれた千咲の、猫のような瞳とやわらかいクセ毛だった。
ああ、千咲も双子だったらよかったのに、と思いながら俺は、切腹に臨む侍のように静かにシートベルトをはずし、前後に他の車がいないことをもう一度確かめた。アクセルを床まで踏み込み、対向車線に飛び込まないようハンドルをめいっぱい左に切った。
「……今日午前三時半ごろ、東北自動車道で事故があり、炎上した車内から男性の遺体が発見されました。警察の調べによるとこの男性は、歯型などから千葉県浦安市の無職、関野雄太さん三十二歳とわかりました。警察では保険金詐欺の疑いもあるとして、事故を起こした車の所有者で、現在所在が不明になっている、関野さんの双子の弟の行方を追っています……」