第二十五話 脱獄
少年は――。己の右腕の激痛により、その目を覚ました。
ハッと覚醒した瞬間、自分の右腕に目をやると――。そこには数匹のラットがたかっており、あまり適切な処置とはいえなかった石膏の割れ目からこれを噛み砕き、その隙間から包帯を巻かれた失われた右手の大傷に噛み付いていたのだった。
「くっ――やめろ、あっちへ行け!! オマエら!!」
法力を右腕の血破点からスパークさせ、発生させた火花でラットを追い払ったその少年――“背教者”ルーミスは、大きく息を吐いた。
それを吸い込むと、すぐに鼻をつく異臭。腐臭と、真新しい血の匂いが混ざった強烈な臭いだ。
周囲を見渡すと――そこは牢獄、であった。
およそ5m四方ほど。壁面に設けられた小さな窓から差し込む少量の光源しかなく、薄暗い。
不衛生な床面には、一面藁が敷き詰められている。
その中で自分は――壁面に設けられた鎖と枷で首・左手・両脚を固定され、立たされていた。
グラドの犯罪者留置場と状況は大差はないだろうが――そこでないのは明らかだ。
自分はグラド町長ネイザン・ゴグマゴグの計らいにより、そこから首都バレンティンに移送されたはずだ。
傷のダメージと極度の疲労で眠ってしまったが――間違いなくここは、バレンティン内の監獄にあたる場所なのであろう。
ルーミスは元司祭にして、一流の法力使いだ。
囚われている間も、己の体力が続く範囲内で法力を発して少しずつ傷を治療しており、眠って起きると再度治療する行為を繰り返していた。
激しい痛みを発する爪の剥がされた末端や、その他痛みの激しい身体の部位に法力を発生させ、僅かながら治癒はしているものの、やはり掌を当てなければ効果的な治癒は望めない。
ましてや――。引きちぎられた右手に関しては焼け石に水であるため、彼は最初から治療を放棄していた。化膿はしないよう対処するぐらいのことしかできなかった。
こんな身体になってどこまでやれるかは分からないが、一刻も早くここを脱出してナユタと合流し、レエテのため少しでも有利な情報を得るか有利な状況を作るかを成し得なければならない。
なのに如何ともしがたい現況をルーミスが嘆いているとき、一つの近づいてくる足音が聞こえた。
石床を、底の硬いブーツの踵が当たる音が不吉に響く。
それは徐々にここに近づいて来――ようやくその主が牢獄の格子の前に、姿を現した。
若い、男だった。いや、男というにはまだ若干のあどけなさを漂わせる、紅顔の美少年といっていい面差しだった。
髪も良く手入れされてやわらかく、ややパーマがかかったその黒髪は肩まで伸びている。
しかしながら幼さすら感じるその貌に比して、180cmを超す身長であり体格は決して細くはない。筋肉隆々とまではいえないが、非常に引き締まった鋼のような肉体を感じさせる。この身体をキャメル色のハードレザー軽装鎧で覆い、背には黒のマントと地につきそうなほどに長い、上等なロングソードを差していたのだった。
男は口を開いた。発される声も、まるで声変わりを経る前の少年のようだ。
「やあ、“背教者”ルーミス・サリナスくん。調子はどうかな?
まあ良くはないだろうね。痛くてたまらないって貌だ。右手を引きちぎられたんじゃあね……。
おれは、エルウィン・ブラウフェン。サタナエル“剣”ギルド副将だ。貌が子供に見えてびっくりしたかもしれないがこう見えて歳は君よりだいぶ上、19だよ。
まあ流石に、偉大なソガール様のようにこの歳で将鬼、とまではいかないけれど――歴代屈指の若さで副将と認められた実力は持っているつもりだ。
君は“短剣”ギルドの副将二人にやられたんだろう? 彼ら、いつの間にか君がバレンティンに移送されてしまったのを知って慌てて追おうとして、首都の検問所で検問官とだいぶ揉めてたらしいんで、おれが話を通して入れるようにしてやったよ」
一人で勝手によく喋る軽薄な男だ。ルーミスが苦手とするタイプで、彼は不愉快そうに相槌もうたずに黙ってお喋りを聞いていたが――余計なことをしてくれたものだ。これで“短剣”副将シャザーとセフィスはバレンティン入りしてしまい、血眼になってルーミスを探すであろう。
「さきほどグラド町長ネイザン・ゴグマゴグが、おれ達のアジトを尋ねてきてね。あの厭らしい笑いを浮かべながら君について話したんだ。
それによると、グラドで“短剣”ギルドの副将たちが、あのレエテ・サタナエル一派の一員たる君“背教者”ルーミス・サリナスを捕らえて拷問するのに自分は協力したと。君がソガール様との面会を希望しているので、自分は囚人の死の前の願いを聞き入れてやるためにここバレンティン監獄へ移送した。この重犯罪者棟にいるから、ぜひともソガール様に引き合わせてやってほしい、とね。
けれどね……君ごとき木っ端な餓鬼が、いかにあの大反逆者の仲間だとしても、偉大なソガール様に直にお目通りしようなどと勘違いも甚だしい。だからおれが代わりにやってきたって訳だ。副将が目通りしてやるってだけでも、有難く思ってほしいな?」
エルウィンは軽薄な言葉の中にも不遜な態度と鋭利な刃をチラつかせながら、ルーミスに向かって凄んだ。
ルーミスは表情を変えなかったが、内心でニヤリとした。
(あの狸親父、なかなかやってくれるじゃないか。これで、本人は最初から無理だとしても、ソガール・ザークに関する一定の情報を引き出せるかもしれない……うまく話を合わせるか)
「なるほど、それでか……。だがな、オレはもうすぐ殺され、地獄に落とされるのを待つ身だ。その最後の願いすら……オマエら悪魔は聞き入れてはくれないのか。
あくまでオレが逢いたいのはオマエのような雑魚ではなく、ソガール・ザーク本人だ」
エルウィンは軽くこめかみに青筋を立てながら、ルーミスを問いただした。
「ほお……じゃあ聞かせてもらおうじゃないか。一体、なぜそこまでしてソガール様に逢いたい?
その理由を聞く権利はおれにもあるよねえ?」
「オレはレエテ・サタナエルに協力しサタナエルに敵対した。が、オレは甘かった。サタナエルは想像してたよりもあまりに強大で――。こうして地獄の責め苦を負わされて死を待つ身になって、オレは自分のしたことを後悔しているんだ。だから――最後に知りたい。オレたちが倒すつもりでいた“剣帝”ソガール・ザーク。本当はどうすればあいつを倒すことができたのか、を……」
これを聞いたエルウィンの表情が瞬く間に緩み――むしろ、満足の表情を浮かべた。
己の身の程知らずと自分たちの偉大さを最後に思い知った少年。その死を前に知りたかったせめてもの答えを得たいのだという言葉を聞いてだ。
その絶望感あふれる言葉に、組織への忠誠心とそこに所属する己の自尊心を満足したのか、再び機嫌よくエルウィンは喋り始めた。
「そうか、そういうことか。よく、身に染みたんだね。自分たちがいかに偉大な存在と組織に牙をむき、途方もない愚行をしでかしたかということが。
そういうことなら、ちょっとは教えてやろう……といいたいところだが、ソガール様の究め尽くされた剣技と、人間離れした超肉体の隙をつく術は――おれには現時点で見当たらない。
倒すどころか、かすり傷一つ負わせるのも不可能といえ、そもそも当てることができてもその時には攻撃した者の命はないんだからね。
あえて弱みが一点あるとすれば――『右膝』かな。
ソガール様は、過去に鍛錬で“魔人”ヴェルと立ち会った際、右膝を完膚なきまでに破壊され、敗れた。
法力で治療はしたものの、あまりの徹底した破壊ぶりに、完全な回復はできなかった。以降現在まで、構えるだけでも痛みが走るその右膝を、ソガール様は常に庇いながら立ち回っているんだ。
とはいってももちろん最強の剣士たるソガール様のこと――常人には全くわからんレベルだ。超一流の達人において、ようやくほんの少し見ていて違和感を感じる程度のものでしかない。
が、仮にもしも右膝の古傷に強烈な一撃をみまえる敵が現れたら――敗因につながる可能性は全くのゼロではないだろうね」
「…………」
それだけか、と一瞬落胆しかけたルーミスだが、極めて貴重な情報であると思い直した。
拮抗する超一流の達人同士の立会いでは――ほんのわずかな指の切り傷であっても、勝負を分けることもあるという。まして、それを事前に知ったうえで闘いに望むことができれば、途轍もなく大きなアドバンテージとなる。
「ま……知ったところで君には、他の誰にもこの事実を伝えるすべはないわけだけど。
少しは、満足したかい? 地獄では、番人の悪魔どもへの土産話くらいにはなるだろう。
じゃあ、おれも忙しい身なんでこれで失礼するよ、最後に会えてよかったよ“背教者”ルーミスくん。君にとって佳き最期となることを祈っているよ」
その言葉を最期に、“剣”ギルド副将エルウィン・ブラウフェンは再び足音を響かせながら牢獄の前を去っていったのだった。
ルーミスは、牢獄内をくまなく見回した。
目の前の格子に設けられた出入り口までは3mは距離があり、しかも厳重に施錠されている。
あとは壁面の上部に設けられた窓と、50cm四方の空気供給管のみだ。
そもそもまず、この戒めを解かないことには全てが始まらないが、右手を失った今の状態では血破点打ちを使うことすらままならない。
絶望的状況の中、なんとか脱出の方法はないかと探るルーミスの耳に――。
ある、音が届いた。
それは――ガサ……ゴソ……という何かが蠢くような小さな音と、今一つは――明らかに、人間の、声だった。
「…………ス、ルー…………。……ルー……ミス!」
自分の名を、呼ぶ声だ。そのかすかな音の位置を集中して探ると、それは、壁面の上部に設けられた、空気供給管から発されていることが分かった。
その中から発せられる音に集中していると、音ははっきりと、耳に届いてきた。
「……ルーミス! いるのかい?
僕だよ、ランスロットだよ! 聞こえたら、小声でいいから返事してくれないか?」
それは――まさに天佑に等しい、救いの手だった。
ルーミスは、外の廊下のいずれかに居ると思われる看守に気取られないよう、声を落として言葉を返した。
「ランスロット……! オレは、無事だ。本当によく、来てくれた。ここへ来て、オレを繋ぐこの鎖を、破壊してくれ!」
その声を聞くやいなや――。
空気供給管からするり、と飛び出し、牢獄床の藁に着地したのは――。体長20cmほどの栗色のもふもふの毛に覆われた身体、つぶらな両目、3本の角を生やしたリスの魔導生物ランスロットに他ならなかった。
「ルーミス、良かった……無事で。ちょっと待ってくれよ……? すまないが、もう少しだけ前に出て鎖をピンと張ってもらえないか? 効果的に魔導をかけられないからね」
ルーミスが云うとおりにすると、ランスロットは戒めの鎖に向け、酸素濃縮魔導を放つ。
「酸素侵潤功!」
すぐに、変化は現れ――ルーミスを縛る鎖と枷は、数十年風雨にさらされたかのように錆びてボロボロとなった。この魔導を得意とするランスロットが直に放つそれは極めて強力で、鉄の拘束具はなすすべなく茶色の破片となって崩れ落ちていった。
「あ、ありがとう……ランスロット」
「ああ、間に合ってよかった。グラドでは副将どもを警戒してて、間に合わなくて本当にすまなかった。そのせいで君の、君のその右手が……」
「オレのことはいい、それよりもすぐに、今度は格子の錠前を破壊してくれ。
すぐに外へ脱出しなければ。ナユタは外に……いるのか?」
ルーミスの云うとおり、すぐに錠前に向けて酸素侵潤功を放ちながら、ランスロットは答えた。
「ああ……もちろんさ。きっと……会ったら驚くと思うよ。完全に、一皮剥けた、て感じだ。
ある意味君のおかげだよ、ルーミス!」
「……? 良くわからないがまあ、待ち伏せてくれてるなら安心だ。
このまま、脱獄を決行するぞ、ランスロット!」