第九話 太陽を貫く槍
ラルバの泉の清らかな水は、とても冷たく清涼感に満ちていた。
レエテは一度頭まで身体を水に潜らせて、一気に立ち上がり、その身体を伸び伸びと反らせた。
水しぶきが大きく立ち上がり、その褐色の身体から、銀色の髪の毛の先から、飛沫を滴らせる。
(――気持ちいい――)
身体にこびりつく様々な汚れだけではなく、それ以外の様々な邪念、憑き物も洗われるかのようだ。
その後髪を水につけ、濯ぐ。
屈んで身体を水に浸け、手で血や脳漿の残滓をこすり落とす。
そうして綺麗になった身体は――。
その場に見ているものが居れば、男女の別なく息を呑むであろうほどの美しさに満ちていた。
八頭身を優に超える、長い手足の均整がとれたプロポーションは、発達した筋肉が表現する肉体美と、女性の魅力に満ちた艶めかしい身体のラインとを両立している。
特にそのラインで突出して目立つ、大柄な男性の手でも全く掴みきれない、はちきれそうに大きな二つの乳房は、レエテがわずかでも身体を動かす毎に生き物のようにたわわに揺れた。
その下の腹部は発達した腹筋がへそ廻りから下にかけて程よく盛り上がり、それと対をなす後部の尻も、乳房に劣らない大きさで丸く突き出されている。
太ももからは水面に隠れる長い脚も、カモシカのような機能美と、艶めかしさを両立している。
それは、芸術家から見れば彫刻や絵画の題材として垂涎の対象であり――。
男から見れば、それがどのような聖人君子であろうとも、すぐにでも強引にその身体に触れたくなる劣情を催させる――。
夥しい神々しさとエロスを持ち合わせる奇跡の女体、といえた。
(こんなにゆっくり水に浸かったのなんて、半月ぶりくらい、かしら――。
皆に感謝しなきゃだし、キャティシアにもぜひ入ってもらいたいわ――)
そんなことを想いながら、乳房から腹部にかけてを両手で揉みしだき洗い流していた、その時。
レエテの超鋭敏な感覚が――背後の樹々の間に潜む、一つの絡みつくような視線と気配を察知した!
「――誰だ!!! そこにいるのは!!!」
水しぶきをあげながら振り向き、即座に両の手に結晶手を出現させる。
振り向いた先は、深い樹々の密集する北の方角だった。
レエテが確実な視線と気配を感じた先には、一見すると何の人影も認められなかったが――。
数秒間の沈黙の後、大きな樹の後ろに身を潜めていたその主が――観念したようにゆっくりと姿を現した。
「……参ったよ、降参だ。
まさか、この俺の気配をこうも簡単に感じ取れるやつがいたなんてなあ……!
銀の髪、褐色の肌、何よりもその両手――やっぱりあんた、噂に聞く『レエテ・サタナエル』だろ?」
両手を上げつつ姿を現したのは―― 一人の若い男だった。
極めて頑健な、手足の長い長身だ。195cmは優に超えている。
その肉体の全身を、素材は不明ながら極めて美しい光沢を放つ、黒を基調に橙の色あいをあしらった金属の重装鎧で固めていた。
年齢は――おそらくレエテと同じかやや年上くらい、23、4といったところか。
こわくクセのある黒髪を背中まで長く伸ばし、その毛先が外側に大きくはねている。
その貌つきは――。あまりそのように男性を見たことのないレエテの目から見ても、極めて魅力的な美男子といえた。
目尻の下がった秀麗な眉目は、ある種の優しさと同時に、おそらく自分の魅力に絶対の自信をもっているのだろう、見方によっては傲慢といえるナルシシズムを漂わせる。
鼻筋は通り鼻先は形よくとがり、やや広めに薄く整った唇に鼻持ちならない笑みを浮かべ、その尖った顎には若干の顎ひげが蓄えられている。
全体的に優男という呼び名がぴったりの男であり、レエテが想い浮かべた同じく整った顔立ちを持つシエイエスとは、同じ美男ながら真逆のベクトルを持っているといえた。
しかし、この男が持つ最大の特徴はその貌ではなく――。
その右手に握られた、一本の剛槍だった。
武器の銘などにまったく知識のないレエテであっても、間違いなく一流の匠の手による大業物、と思わせた。
その長さはおよそ2m半。長さの大半を占める柄の部分は、上等な樫の樹から削り出した芯の上に、荘厳な美しい白銀の彫刻がびっしりと散りばめられている。おそらくはこの国の宗教、シュメール・マーナに存在する精霊や神々を彫ったものだろう。
先端にある刀身は鋭利で美しい三角形状をなし、刀身にも美しい彫刻が彩りを見せている。かつ彫刻の中心に埋め込まれた大きな宝石は、通常黒色であるのに、時折橙の光をキラリと放つ神秘的かつ魅惑的なものだった。
刀身に近い部分、太刀打ちを持つその手の動きから察するに彼が一流の槍使いであることは容易にうかがい知れたが、どう見ても一介の戦士などが所有するような品ではなかった。
「そうだ――。私はレエテ・サタナエルだ。お前は――いったい、何者だ。
サタナエルの者、ではないのか?」
油断なく結晶手を構えたレエテの、敵意に満ちた眼光を向けられた男は、貌をしかめて首をふりつつ答える。
「よしてくれよ。あんなろくでもねえ人殺し集団と俺を一緒にしないでくれ。
俺はあのソガール・ザークや“剣”ギルドの奴らみてえな外道や――そいつらとつるんでる国王ソルレオンとは敵対する立場さ。
ま、今は詳しく名乗れねえが……“義賊”ホルストース、それが今伝えられる俺の名、だ」
「ホルストース……」
その名乗られた名を口にしながら、未だその言葉を信用して良いものか、また信じたとしても「敵」でないという保証はあるのか――。頭の中で思案しながら警戒を向け続けるレエテに対し、男――ホルストースの視線はどのようにしても自然に、魅惑的なレエテの身体に向いていた。
先程はちらちらと覗き見る状態だったが、今はレエテはその裸体を惜しげもなく晒しており正面から見放題だ。ホルストースは一つ口笛を吹きながら、その件について触れた。
「いやそれにしても――。あんたの噂話をきいて想像してたのは、もっと鬼みてえな恐ろしい姿だったんだが――。なんとまあ、人間離れしてるって意味ではそうだが、こんな超絶の別嬪さんだったとは……。うれしすぎる誤算だね。
やっぱ、人外の一族ともなると、普通の女の子みてえに恥ずかしがったりしないもんなのかね?
俺が今までに見たどんな子とも比べ物にならねえ、その堪らん身体を見てられるのは、あまりにも良い目の保養ってやつだ……。
さっきも、覗くつもりはなかったんだが……悪いと思いながらついつい見入っちまってねえ」
欲望のこもった、舐めるような視線――。
これを自分に向けられるのは、レエテにとっては初めてではなく、過去に何度も経験してきた。
しかしそれを向ける相手は、これまで例外なくサタナエルギルドの男たちだった。
それはレエテにとってほぼ獣と同義であり、人間の男などとは到底見ているといえなかった。強く感じてきたのは、激烈な嫌悪感だけだ。
が、今曲がりなりにも普通の男と感じられる、しかも美男子と認識した男からの視線は――。
レエテの中に、今までに経験したことのなかった、新しい感覚を呼び起こした。
何か、身体が熱く、むずがゆいような――落ち着かない感覚。
自分の身体を強く意識し、隠してしまいたい、それも目の前の男の目が集中して向く二つの乳房や、秘部を一刻も早く隠したい衝動に囚われ、結晶手を解除する暇もないまま手で覆い隠す。
貌は熱く紅潮し――自分の身体を見た相手の男に対し、何かを奪われたかのような怒りが、内側からこみ上げてくる。
その感覚に困惑は覚えるものの――今この瞬間に、あまりに特異な環境で育ったレエテという女性に――初めて「性的な羞恥心」というものが芽生えたのだ。
「ああ、悪い悪い。そんなハズはねえよな――今までは興奮して忘れてただけだよな?
申し訳ねえ、今すぐ見るのをやめるから、勘――」
レエテの様子を見て、すぐに視線を外そうとしたホルストースだったが、それを云い終わらぬうちに――。
彼に向けて一本の嚆矢が高速で迫った!
ホルストースは目を光らせ、即座に手にした槍の刀身を眼前に掲げ、矢を完璧に防御した。
弾かれた矢は、弾道を変え付近の樹の幹に深々と突き刺さる。
彼が目を向けた矢の発射元は――。
レエテが脱ぎ捨てた服の付近で怒りと、同期した羞恥に貌を赤くして剛弓を構える、キャティシアの姿だった。
「この――この変態男!! レエテさんに、何をしているの!! 何をしようとしてるの!!! いますぐに、離れなさい!!! そしてどこかへ行け!!! さもないと、こんどこそあんたの額にこの矢を打ち込むわよ!!!」
叫ぶキャティシアに、ホルストースは余裕の表情で肩をすくめた。
「可愛いお嬢ちゃん……レエテのお仲間か? その弓、なかなかの腕だが、俺の脳天を撃つにはまだまだ10年早えなあ。俺のこの国宝たる“太陽を貫く槍”ドラギグニャッツオを越えるのはな。
が……あんたの云う通り、今はひとまずこの場を去るぜ。用件はただの一言だしな。
レエテ・サタナエル。あんたがソガール・ザークを倒したいのならば……。バレンティンの南東にある、“不死鳥の尾”まで来い。
そこで、この“義賊”ホルストースはあんたを待つ。
詳しいことは、そこにたどり着くことができたら話してやるよ……。
じゃあな、色々と楽しかったぜ。運命が導けば、また、会おう」
云い残すと、ホルストースはその巨体に似合わぬ極めて俊敏な動作で飛び退り、またたく間に深い樹々の向こうへと姿を消していった――。
「レエテさん、大丈夫ですか!!?? 何か――何か変なことされてませんか!?」
貌を真っ赤にしたまま叫ぶキャティシアに、身体を手で隠したままの全裸の姿で、困惑の表情で答えるレエテ。
「大丈夫よ! キャティシア。今からそっちへ上がって説明するわ!」
そして透明な水の中を歩きながら、この予期しなかった出会いの一幕とその残された謎の言葉に、記憶を何度も再生しながら思いをはせるのだった――。