第六話 白く青い、死【★挿絵有】
アンドロマリウス連峰、エストガレス側最初の険、ルヴァロン山。
標高は3500m、 アンドロマリウス連峰最初の試練といえる難関である。
その裾に広がる地は急な斜面であり、また北壁側から吹き下ろす寒風による厳しい寒さが襲う。
幸いなことに現在は若干穏やかな気候であり、高らかに陽もさしている。
そんな白光反射する銀世界の中を、歩む一つの列。
レエテ・サタナエル一行である。
現在あのメイガン・フラウロス殺害の日より、2日後。
ショック状態だった孫娘キャティシアは、あの日数時間泣き明かした後眠りについた。そして惨劇から一夜明けた朝、レエテより案内以降も同行を許可する意向を聞き、半日ぶりの嬉しそうな笑顔を見せた。
山小屋を閉じる準備を始め、次いで一行の装備を事細かにチェックし、不足する装備を確実に揃えた。
そしてその後全員を集め、アンドロマリウス連峰踏破に向けての行程と、注意事項の説明をしてくれた。
ベテランの山岳案内であるメイガンが太鼓判を押したとおり、キャティシアの実力は本物であった。
その的確な指摘、質問に返す説明の理にかなった適切さ、あまりにも豊富な知識。
この娘についていけば、連峰の踏破は間違いなく可能だろうと思わせるに充分な頼もしさを感じさせた。
同時にもちろん――あえて仕事に徹することで、肉親を失った哀しみを忘れようとしているのは、皆が感じていた。
余計なことは云わず、先導を任せ、黙って云う通りについて行っていた――というより、ついていかざるを得なかった。
「皆さん。 何よりも裂け目に注意してください。 ここら一帯はすごく多いんです。
たとえ滅多にないうっかりでも、落ちてしまったら、場合によっては何百mも下に墜落します。
そのうえ、雪に隠れて見えない隠れ裂け目もいっぱいあります。
私は場所を覚えていますから、私の後を必ず通り、それ以外の場所に行かないでくださいね。
とにかくピッケルを手放さず、靴に付けたスパイクも、ずれていないかときどき確かめてください」
このような脅しを掛けられては、キャティシアに全てを委ねざるを得ない。
彼女を先頭に、レエテを始め皆一列になって、おっかなびっくり進むしかなかったのだ。
「それとシエイエスさん。ここではどんなことがあっても音の出る鞭を使うのは禁止です。
あの斜面を見てください。すごく雪崩が起きやすくて、いったん起きてしまったら津波みたいな大雪崩になります。
声も、できるだけ抑えてくださいね」
さしものシエイエスも、青ざめた貌で小声で返事をせざるを得ない。
「分かった……気をつける」
そしてどうにか、数百mを進んだ時だった。
キャティシアの後ろを歩くレエテの、右足に取り付けたスパイクの紐が突然切れた。
足がずれ体勢を崩した慣性を摩擦のない氷上で留めることができず、そのまま30cmほどの間近にあった、幅2mの底の見えないクレバスに落下していった!
「レ! レエ……」
叫びそうになったルーミスが、口を強く押さえて声を飲み込む。
「レエテさん、大丈夫ですか?」
すぐにキャティシアが駆け寄り、下を覗き込む。
そこには――右手の結晶手を氷壁に突き刺し、辛うじて墜落を免れているレエテの姿があった。
「――危なかった、わ……。
多分、この手を出せる私以外の人が落ちていたら、本当に命がなかったかも……」
青ざめ、貌を引きつらせるレエテ。
すぐに、腰から取り出した分銅付きロープを振り回し、投げつけレエテの身体に巻き付けるキャティシア。
ロープのもう一方の端を、がっちりとピッケルに固定し、それを岩と岩の間の地面に深々と差し込む。
「さあ、ゆっくり、ロープをたぐり寄せながら上がってきてください。
ごめんなさい。最初に点検はしたんですけど、レエテさんのスパイクが一番古かったから……。
さあ皆さんも、こうなりたくなかったら、少なくともこまめにスパイクを点検してくださいね。
これで落ちて死んだ人は、今年に入って5人。それでなくても、ちょっとしたことで足を滑らせて死んでいったお客さんは過去何十人もいますからね」
即座に、かがんでスパイクの紐を全て点検し直す一行。
*
その後5時間あまりをかけてようやく、裂け目が口を開け、雪崩の危険が間近に迫る死の谷を通過した一行。
極限の緊張感から開放された安堵感からか、キャティシアを除く全員が、針葉樹の森の前の広い雪原に腰を下ろす。
皆ぐったりとし、息を荒げて5分ほど、動くこともできなかった。
そんな中ナユタが立ち上がり、キャティシアを手招きしてついてくるよう促し、針葉樹の森に向っていく。
「……ナユタ。いったい何処へ行くんだ?」
両手を後ろ手に雪原に着いたままのルーミスが尋ねる。
「ん? そりゃああんた、『下の』用事、てやつだよ。
見たいっていうんなら、付いて来て観察してくれても構わないけどね。ただ、あたしのは高くつくよ?」
涼しい表情で、本気とも冗談ともつかない際どい言葉を返すナユタ。ルーミスは、貌を真っ赤にしてうろたえて目をそらす。
ナユタは、キャティシアの案内に従って針葉樹に入った。
そこで色々説明を受けた後、さらに奥へ進み、雪の盛り上がったちょうど良い場所を見つけた。
ランスロットは、キャティシアの肩に乗って待つ体勢だ。
「やれやれ、寒くてこうやって脱ぐのも気が滅入るね……」
云いながら、ナユタは毛皮のジャケットの前をはだけて固定具を外し、同じく防寒用のパンツと下着に手をかけ下ろそうとした――。その瞬間。
突如、樹上から彼女に向って一つの影が猛スピードで襲いかかってくる!
「……!!!」
即座の反応を見せ、赤雷輪廻を繰り出すナユタ。
襲撃者はこの超業火の前に飛び込むことができず、耐魔しつつ軌道を変え、反対側の地面に降り立った。
「それ」は――余りにも禍々しい異相、だった。
全身を覆う獣の毛皮で誂えた防寒具。その上に乗る頭部は――骸骨をモチーフにしたような醜い仮面ですっぽりと覆われている。
両眼の部分がくり抜かれた孔から覗く、真っ赤に充血し興奮状態の眼。
仮面下の牙のような部分からは、熊かトロールのような、荒々しい息遣いが離れていても詳らかに聞こえてくる。
取る体勢もまるで獣のように身を低く、片手を地面に接しての次の攻撃態勢にあった。
下半身は獲物を前にした肉食獣そのままに、バネを縮めに縮め、力を溜めに溜めた状態だ。
しかし、その「人」と呼んで良いのか覚束ない存在の、最大の驚愕を禁じ得ぬ異相は――。
その、仮面の首の隙間から長く長く伸び、風にはためく白銀の頭髪。
さらには、突き出した右手が形成する、ナユタらにとってはあまりに見慣れた現象、能力。
「結晶手」であった。
「なんて、こった……あんた、サタナエル『一ぞ』――」
ナユタに最後まで言葉を発する間を与えず――。
襲撃者は、再度ナユタに襲いかかった!
今度は、先程とは――到底比較にならないスピードで。
おそらくはレエテを遥かにしのぐ超スピードで、結晶手を繰り出す襲撃者に――。
ナユタですら、反応は間に合わなかった。
襲撃者の右結晶手は、ナユタの左肩から脇までを真っ直ぐに薙ぎ――。
ナユタの左腕は、肩から下が胴体から離れ、数m吹き飛んだ!
鮮血が――振った酸葡萄酒のように大量に空中へ迸り――。
ナユタは驚愕を貼り付けた蒼白の貌で、真っ直ぐに地面に崩れ落ちていった。
「うあああああああ!!! ナユタああああ!!!!」
「ナユタさん!!!」
すでに異常に気づき駆け出していたランスロットとキャティシアが、悲痛な叫びを上げる。
そしてすぐにキャティシアは背負っていた剛弓を取り出し、矢をつがえ――。
襲撃者に向けて放った。
ランスロットも氷矢を放つ。
氷矢は撃ち落とされたが、キャティシアの細身の身体に反して力強くしかも精度の高い射撃による一矢は、獲物を仕留めた直後の襲撃者の隙を突き――。
その禍々しい仮面の、左目の開いた孔から、眼球から脳を撃ち抜いた!
一瞬、大きくのけぞる襲撃者。しかしその後またしても身を低くして力を蓄えつつ、左手で矢を掴み、勢い良く引き抜いた。
鮮血があがる。その破壊された左目は光を失っても、残った右目で気のせいか「ニッ」と嗤ったかのように見えた襲撃者は、その蓄えた力で今度は上空に飛び上がった。
そして針葉樹の枝に飛び移り、そのままムササビも上回る速度で遠くへ飛び去っていった。
「ナユタ!!! ナユタ、ナユタ!!!!」
その声は――レエテだった。ランスロットとキャティシアの声を聞きつけ、いち早く現場に駆けつけたのだ。
遠目からこの惨劇を目の当たりにした彼女は、大きく貌を引きつらせ、その褐色の貌を極限まで白く血の引いた状態としていた。
大きく取り乱しながらも全力で走り、即座に切断されたナユタの左腕を取り、ナユタの元に駆け寄った。
「ルーミス!!! ルーミス!!!! 早く来て!!! お願いいいいいい!!!
ナユタが、ナユタがあ、死んでしまうわ!!! 死んでしまう、早く!!!!」
涙を流し叫びながら、パズルのごとく左胸と肩の切断部分に切れた左腕を押し当て、ルーミスを呼ぶ。
途轍もない大量の出血が、毛皮のジャケットを真紅に染め、瞬く間に雪原も紅く紅く染めていく。
すでに手の施しようがない、瀕死の状態としか云いようがなかった。
「うう、これは、ひどい……!! もはや……!」
駆けつけたルーミスが、貌をしかめつつ直ぐに全力の法力を当てる。
直後に、到着したシエイエスが冷静に大声で指示を出す。
「ランスロット! すぐにナユタの傷口周囲を凍らせ止血しろ!
キャティシア! 君も法力が使えるんだろう? ルーミスと反対側の背中から法力を当ててくれ!」
そして自身は、少しでも出血を減らすためナユタの身体を横向きにかかえて傷口を上にし、その膝に彼女の頭を乗せた。同時に少しでも出血を止めようと、止血点を押す。
そしてランスロットとキャティシアは、すぐに指示通り傷の処置に動いた。
「ああ、そんな、ナユタ……目を開けてよ、僕を置いてかないでくれよ……!!」
ランスロットの呼びかけも虚しくすでにナユタの意識はなく、口からは浅い呼吸をし、元から白い貌はすでに雪よりも白く青く、すでに死の兆候が見えていた。
「レエテ! お前はナユタに声をかけろ! 励ませ! 必要なら呼吸の手助けをしろっ!」
云われるまでもなく、レエテは地に膝と腰をつけて大きくかがみ、ナユタの頭を両手でそっと掴んで声をかける。
もうレエテのその両眼と貌は、涙でぐちゃぐちゃになっていたが――必死で声をかける。
「ダメよ、ダメ!! ナユタ……お願い!! 頑張って!!! 死なないでええ!!!
あなたは、今の私にとって一番大事な人なの!!!!
……死ぬなんて、許さないわ。大陸一の魔導士になるんでしょう!!?? フレアを殺してお師匠の仇をとるんでしょう!!??
もう私達、親友なのよ!! いえ、家族って云ってもいいわ!! これからも生きて一緒に目的を果たしてよ!!
ねえ!! ナユタ!!! ナユタああああああ!!!!」
ナユタに呼びかけ続ける抑えたレエテの大声は――それでも森林の針葉樹をかすかに震わせ続けたのだった――。




