第十二話 忌まわしくも甘い追憶(Ⅻ)〜前人未到の脱出
落下の、衝撃。
かつて、「追放」を受けた際に経験した、数十倍の衝撃と、水から受けるダメージがレエテを苦しめ続ける。
何秒ほどかかったのだろうか。
ようやく――。彼女の身体は、底へ辿り着く!
パァン! ――という、水面に落下した衝撃。
相手が水であっても、その衝撃力は想像を絶するものであり――。
サタナエル一族の肉体を持つレエテをして、全身の骨は砕け、筋肉に囲まれた内蔵にもダメージをもたらしていた。
他ならぬ、心臓も損傷を受けたが、破裂の憂き目は逃れた。
首ももげていないため、辛うじて死は回避した。
瀑布の水の落下エネルギーによって、地下の湖の中にブクブクと沈んでいくレエテ。
やがて少しづつ浮き上がる自分の身体が――、移動していることに気づく。
この地底湖には、流れがある。
一旦水面上に身体が浮き上がったのを見計らい、大きく呼吸をするレエテ。
流れは、確実に底へ、底へと引き寄せられている。
この流れに乗る限り、あとわずかで呼吸はできなくなろう。
サタナエル一族も無酸素状態に耐性は持つが、呼吸せずに命を保てるのは、30分ほどだとされる。
それ以上は、核である心臓自体が機能しなくなるためだ。
命が続く時間のうちに、次に呼吸ができる状況が訪れるかは、またしても賭けとなる。
レエテは覚悟を決め、水中に身を投じる。
全身が激痛に支配され、満足に手足を動かせない状態の中――。
彼女の身体は、地底湖の底へ、底へと流されていく。
数多く内部を遊泳する色とりどりの魚達。
彼らにとってはこの流れも生活の一部であり、あるものは流れに身を任せ、あるものは流れに逆らって優雅に泳ぐ。
流れに身を任せ、為す術をもたないレエテは、しばしぼんやりとその幻想的な水中の風景に見とれる。
やがて、その流れが急激となる。
明らかに、何か巨大な吸引力が働いている。
その近くまで、やって来ている。
それが働く元が何か、レエテは見ようとした。
そういえば――。一切の光が届かないはずのこの地底湖で、なぜ自分や、魚達の姿が視認できているのだろう?
それは、地底湖の底や岸壁をびっしりと覆う、自己発光する苔や藻類の放つ、弱い光の集合体であった。
したがって、地底湖の「外」には、この深さでは光が差さないということ。
それを示すように、レエテの眼前に、まるで深淵のような漆黒の穴――。
高さ数十m、幅数百mにおよぶ、岸壁にできた巨大な裂け目が出現していたのだ。
為す術なく、その裂け目へ吸い込まれていく、レエテ。
やがて周囲は完全に漆黒の闇となり、流れの方向がやや変化した。
その口に感じる水の味が――明らかな「塩味」であることが、彼女に、今居る場所が「海」であると教えた。
本の知識でしか知らなかった未踏の場所、おそらくサタナエル数百年の歴史の中で、一族女子の誰一人知らないであろう未踏の場所に達したのだ。
すると、今自分の身体に感じている流れとは、「海流」――。
海に発生する、惑星規模で生じる巨大な流れのことだ。
流されながら、少しずつ、自分の身体が浮上しているのを感じる。
同時に、体内の圧力の急激な変化で、身体中の血管が破れ血が噴き出し始めるが、レエテにとっては大きなダメージとはいえない。
それよりも――。そろそろ、無酸素状態の限界を超えてきている。
30分はとうに過ぎている。
苦しい。あと僅かで窒息する。
まだなの――? まだ水面は近づかないの?
大分、辺りは光が差し始めている。
あと、数十mの範囲のはずだ。
そのとき、何割かの回復を果たした両腕がようやく動き、レエテは死にもの狂いで水をかく。
あと少しで、あと少しで――。
既に超えた命の限界をさらに超える、死のラインに到達する寸前――。
ついに、レエテは、海の水面上に達した!
「はあっ! はあ、はあ、はあ、はあ……!」
若干咳き込みながら、ようやく吸うことの出来た酸素を、全力で肺に取り入れるレエテ。
上空には――抜けるような青空が広がり、雲の間からギラギラと照りつける太陽光を時折さえぎる海鳥たちの鳴き声につつまれる。
同時に鼻には、生まれて初めて嗅ぐ潮の香り――が一気に満たされる。
周囲を見渡すと――まず目に入ったのは、目もくらむほどに広大な、どこまでもどこまでも続く、大海原。
泳いで180度背後を振り向くとそこには――稜線いっぱいに広がる陸地。
ことにレエテの目を奪ったのは――。かつて自分がジャングルの樹の上から覗いたことのある、アトモフィス・クレーターの周囲をくまなく囲んでいた、樹の無い巨大な山脈。
これを海から自分が見ている、ということは――すなわちアトモフィス・クレーターの外に自分がいる、ということだ。
ついに、レエテは前人未踏の、隧道以外の場所を通じた脱出を成し遂げたのだ。
「やった……やったよ、マイエ、みんな……私は、逃げ切った。
クレーターの外に、出たんだ……。
私達家族みんなの、勝利だよ……ありがとう……」
レエテは、左前方数百mの陸地に、上陸可能な場所を確認、そこを目指して泳いだ。
そしてついに、クレーター外の陸地への上陸を果たす。
同時に砂浜の上で、ガックリと膝をつき、両手で身体を支える。
回復しきっていない身体、限界を超えた疲労。
身体が崩れ落ちそうな目眩を感じ、もう意識を保つのも難しい状態だ。
意識を失う前にと、レエテは一つの行動に、出た。
まず左手で、濡れそぼった自分の長い銀髪をまとめて掴み、上方に伸ばす。
そして右手に結晶手を出現させると――その髪を根本付近から、切り落とした。
その短髪は――ビューネイの、髪型だった。
「ビューネイ……あなたの髪型、貰うよ。そして私にあなたの勇気を与えて。
マイエ、ドミノ、ターニア、アラネアも……。
私は、必ず、みんなの復讐を果たす。
まず私の、この髪が、伸びきるまでには……私は必ず……復讐のための、道筋を……付け、る……」
云い終わらぬうちに……レエテの意識は、深い眠りの中に、沈んでいった。
*
と、突然――。
視界が、急激に、暗転したかと思うと、もの凄い勢いでズームアウトしていく。
身体も、一気に上空に吸い上げられるかのようだ。
そして、耳に何か聞き覚えのあるいくつかの声が、入ってくる。
誰……? いったい、誰の声だったろう……。
*
「……テ。……エテ。レエテ!
大丈夫かい? 随分とただ事じゃないよ! 起きて、目を覚ましな!」
「ああ……レエテ。目をさましてくれよ」
「レエテ! 落ち着くんだ! しっかりしろ!」
ああ……そうだ、この声は、この声は――。
「あ! 良かった、ナユタ。目が開いた。やっと意識をとりもどしたみたいだよ!」
声の主――魔導リス、ランスロットの声に安堵の言葉を返す、紅髪の女魔道士ナユタ・フェレーイン。
「まったく心配かけてくれちゃって……。おーいレエテ、どうなの? このあたしが誰だか分かるかい?」
完全に両目を開いたレエテ――脱出前の彼女ではなく――。コロシアムの闘いとコルヌー大森林の激闘、法王府の作戦を経た、現在の21歳となったレエテ・サタナエルは、笑みを浮かべてナユタに答えを返す。
「分かるに決まってるじゃない、ナユタ――。あなたを忘れるはずないでしょ。
何か、とても心配かけてしまったようだけれど、ごめんね、皆。
何があったの?」
これには金髪の“背教者”の少年、ルーミス・サリナスが答えた。
「オマエは疲れたと云って眠りに落ちたあと――。まる一日半、目を覚まさなかったんだ。
それだけならばまだしも、尋常じゃないうなされ方で――。突然叫び声を上げたかと思うと痙攣を始めるし、涙を流して泣きながら誰かの名前を呼び、眠りながら結晶手を出したり。
それなのに、どれだけオレ達が起こそうとしても、全く目を覚まさないんだ。
そのまま息をしなくなるんじゃないかと、気が気じゃなかった。
ちょうど何かの病気かどうか、調べてみるしかないと思っていたところだった」
これを受けて、ナユタが三日月のような目をしながらレエテに云う。
「そうだよ……。勿論あたし達も心配したんだけどね、特にこのルーミスの心配の仕方といったらなかったよ。
ほとんど交代せずにあんたの側を離れなかったんだからねー。感心するね」
これにルーミスが貌を真っ赤にしてうろたえる。
「なっ、何をバカな……オレはただ、法力使いとしてレエテのそ、側を離れてはいけないと――」
レエテは、にっこりと笑い、ルーミスに云った。
「ルーミス、ありがとう。けど私は大丈夫よ。
私、今まで、とても長い長い夢を見ていた――。
『本拠』アトモフィス・クレーターで送った、私の人生を追う夢。
生まれてから――脱出するまで大切な人と出会い、そして失ってきた。未だたどり着いていない、憎くて仕方ない敵もいる――。
それら私の、原点に帰ることができた。
大枠は話したけど――。本質にあたる、詳しい話はまだできてない。
皆にも、いずれしっかりと話すわ。そして、私の罪の意識や、迷える心について、できたら相談に乗って――ほしい」
これには皆が笑って答えた。
「ああ、ぜひ話してくれ。オレは聞いてみたい」
「同感だね。僕はまあ、いつも好奇心の塊ではあるけど」
「いつでも話してくれよ。相談だっていつでものるよ。
ところで、目をさましてすぐで悪いんだけどさ。
これから向かうドゥーマでの作戦について話してもいいかい?
今度は、今までと動きを変える必要があるんだよ……」
自分の話を始めてしまうナユタを、ルーミスがたしなめる光景を見ながら、レエテは一人哀しみをたたえた眼差しで彼らを見た。
そして誰にも聞こえないほど静かではあるが、決然とした口調で云った。
「ナユタ、ランスロット、ルーミス……。私は、決してあなたたちを死なせることは、しない。
今の私にとっては、復讐と同じ位大切なこと。
絶対に、あなたたちを守ってみせる」
が、レエテは気づいていなかった。
「復讐」と、「今の仲間」。
これらは今後常に究極の選択として、いずれを採るのか、彼女の中で苦しみ続けざるを得なくなっていくことを――。