第十一話 忌まわしくも甘い追憶(Ⅺ)〜怨念の慟哭【★挿絵有】
「……何てこと。何てこと!!! 大変だわ! こんな、こんなことに……!!!
仲間を、逃がすために、自ら犠牲に……?」
フレアがうろたえ、青ざめる。
その視線の先で、ヴェルが、あらゆる感情の綯い交ぜになった、深い険の刻まれた表情で――。己の手の中で、自ら息絶えたマイエをじっと見つめている。
「マイエ……貴様、貴様は……」
そして――。
フレアの直ぐ側、で――。
魂の抜けたように呆然と立ち尽くし、目を見開き、唇を開いて、停止している――レエテ。
10秒ほど、その状態は続いた。
そしてその後――津波のように押し寄せる感情とともに――。
噴き出す涙とともに――。
ついに感情の爆発の瞬間は、訪れた。
「マイエ。
いや――マイエ。マイエ!
うっ……ああああ!!! いやあああああ!!!! マイエエエエーー!!!!
あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ” あ” あ” あ” あ” あ” あ” あ” あ” ーー!!!!!」
それは――。
過去に発現した、レエテのいかなる雄叫びとも――。
次元の全く異なる、「音の大爆発」だった!
空気は、震える過程を通り越し、瞬時に張り裂けた。
樹々は一斉にざわめき、空気の強振によって葉が一気に飛び散る。
そして音の爆弾は、この場に居る二人の人間にも容赦なく襲撃し――。
すぐ近くにいたフレアは――。
耳から、鼻から大量の血を吹き出させ――。
眼鏡が飛び散り、その下にある両眼からも、大量の血の涙が噴出する。
「ぐ、あ、あ、ああ……」
脳も強振し、脳震盪を起こしたばかりでなく、ほとんどの血管が破れ、意識が飛ぶ重篤な状態となり――。
白目を剥いてビクン、ビクンと大きく痙攣した後――。
なすすべなく地に倒れ伏す。
ヴェルにも―― 一瞬の間をおいて襲いかかり、耳、目、鼻から大量の血が噴き出し、ガックリと膝をつく。
意識を失いはしなかったものの、聴力と嗅覚が完全に失われ、平衡感覚も滅茶苦茶に狂った。
視界も薄赤く、極度に狭くなっていた。
声を振り絞って後――。
「うああああああああ!!!」
尾を引く叫び声を上げながら、レエテ・サタナエルは大きく跳躍し、全速力でその場を走り去った。
その足は――。自然に『宮殿』の反対方向、ドミノ達家族4人が走り去った方向に向いていた。
マイエ、マイエ――私、私――。
お願い――。まだ無事でいて。
ドミノ。アラネア。ビューネイ。ターニア――。
死なないで、皆――お願いよ。生きていて!
一緒に、逃げよう! 確信はないけど、可能性のある場所を、私知っている!
私を、一人ぼっちにしないで――。
心の中で呟きながら、走り抜けること、数分。
強い、血の匂いがして――レエテは、その足を止めた。
足元を――。
ゆっくり、見下ろすと――。
一面の、赤い、血の海。
レエテの貌から、一気に、全ての血の気が引いた。
おこりにかかったように、全身がブルブルと震える。
目は大きく剥かれ、視点が固定される。
ダメ――怖い。見たくない。
やめて――イヤだ――。
心は拒否するが、その意志に反して――。
彼女の目は、ゆっくりと、血の海の向こう側に、向いた。
二つの、女性の、身体がそこに横たわっていた。
どちらも――。首は、ない。
それに相対する二つの、首は――。
その手前に、無造作に、放置されていた。
いずれも、恐怖の断末魔を、その貌に刻んだまま――時が止まったかのように。
「ふっ……うう……ふぐうう、ううううう……ふっううううう……」
レエテが、ガックリと膝を血の海に浸け、泣き呻きながらその二つの首をたぐり寄せ抱きかかえる。
その身体は首ともども血に塗れて凄惨を極めたが、構わず二つの首に頬ずりする。
「ふうっ……うぐうううう、ふぐうう、ターニアああ……! アラネアあああ……! うぐうううう……いやああ……あああああああああ!!!」
そう、その二つの首は――。
ターニアと、そしてアラネアの無残な、成れの果てだった。
明らかに、捕らえられ、冷酷非情に処刑された、跡だった。
涙と血でぐちゃぐちゃになりながら、慟哭し続けるレエテ。
ドミノと、ビューネイの二人の姿はそこにはなかったが――。
将鬼の死体が一つもない以上、一方的で絶望的不利な追撃を受け続けているはずであり――。
ターニア達と同じ姿になるのは、時間の、問題だった。
と――。レエテの耳に、音が飛び込んできた。
大勢の――。人間が、近づいてくる、草葉をかき分ける、音。
周囲の広範囲にわたっている。
おそらくは――ヴェルが仕掛けていた、二重、三重のサタナエルの追手。
レエテは、バリ、バリと歯ぎしりし、身体を大きく震わせた。
激烈な憤怒が、身体の隅から隅まで駆け巡る。
黒い炎となり、身体を灼き尽くさんとするように。
そしてその口から、地獄の底からのような怨念が、言葉となり吐き出される。
「許さ、ない――。
許さない――腐りきった外道ども、悪魔ども――!!
お前ら、よくも――よくも、家族を……。
ターニアを、アラネアをビューネイをドミノを! マイエを殺してくれたなああああああ!!!!!
私は、お前らを、殺す!!! 殺してやる!!! 必ず!!!
一人残らず、皆殺しにしてやる!!!
サタナエルを、この世から消し去ってやる!!!!」
人とは思えぬ凄絶な、鬼神――いや、魔神の形相をもって天に向かい、悲しみから怨念に変わった自らの思いを打ち放った!
それは――失われた家族の魂に誓う、激烈なる復讐の宣言だった。
その声に反応し、追手らしき物音はより確かに、近づいてくる。
レエテは、手に抱いていたターニアとアラネアの首を、そっと地に置いた。
「ごめんね……。本当にごめんね。ターニア、アラネア。
あなた達を葬ってあげる、時間もない……。
だけど、私は必ず、あなた達の仇を討つ。あなた達の魂に報いる。
だから、許して……。
愛してるわ……さようなら」
その大粒の涙が、二人の首に落ちると同時に――。
レエテの身体が、跳躍した!
そして今度は、家でも、「宮殿」でもない、ある方角へ向けて、全速力で駆け抜けていく。
もはや、後ろは振り向かない。
現状を打開する、唯一の可能性に賭け、目的の場所を一心不乱に目指し走るレエテ。
奇跡としかいいようのない強運だが、その間サタナエルの追手に捕捉されることは、なかった。
まるで天に上った彼女の家族達が、導いてくれたかのように――。
そしてレエテはついに――。
目的の場所へ、辿りついた。
それは一年ほど前、一度だけビューネイ、ターニアの二人と訪れた禁断の忌諱の地、深淵だった。
そこは、相も変わらず、昼間にも関わらず一切の光を反射することのない真の漆黒の巨穴。
レエテが目指すのは、その漆黒の闇へ吸い込まれていく――大量の水。
瀑布だった。
それは地下水へ通じ、地下水が海底へと通じ、海底から上がった先がアトモフィス・クレーターの外へと通じていると、レエテは書物からの知識で仮説を立て信じていた。
ただし――専門的な知識のない者の全くの推測にしか過ぎず、それが正しいなどという保証はどこにも、無い。
これから自分の行う行為は、1%の生存の希望に対し、99%の確実な死が待つという、死に際でもない限り選択などできない危険な賭けである。
いや、もしかしたら、その100分の1の希望すら、無いかもしれない。
だが、やるしかない。
レエテは、深淵の縁の数百mの距離を駆け抜け、瀑布の入り口に立った。
その崖から覗く深淵は――。
想像以上の、恐怖の塊、だった。
遠くの縁から覗くときとは、比較にもならない。
どこまでも、どこまでも続く、巨大な悪魔の口。
瀑布から落ちる水は、一切の水音なく――音ごと呑み込まれているとしか思われぬ。
いったい、何百m、いや、何kmの高さになるというのか。想像もつかない。
覚悟を決めていたはずなのに、怖気づいた。身体が云うことをきかない。
その時――。レエテは一つの気配を背後に感じ取り、全身が総毛立った。
近づいてくる、巨大な殺気の塊。
奴だ。動けるまでに回復したあの男、“魔人”、だ。
ここへやって来る。
今度、奴が目の前に現れたら――。今度は、自分を抑える自信がない。
激烈な怒りに我を忘れて、無謀にも飛びかかってしまうことだろう。
マイエ――。私に、力を貸して。お願い――。一歩を踏み出す勇気を!
脳裏にマイエの姿を思い浮かべてようやく――。
レエテの身体は、瀑布の中に真っ逆さまに落ちていった!