第十話 忌まわしくも甘い追憶(Ⅹ)〜頂上戦争【★挿絵有】
“魔人”ヴェルとマイエ・サタナエル――。
おそらくは、現在のハルメニア大陸――いや、世界オファニムにおいて最強の肉体を持つ人間達といえるだろう。
その身体と内包する力は、通常の人々をして、人の姿をした化物と形容するにふさわしい。
頂点をなす両者が、今現在その力の全てを開放し、すでに数十合に亘って激突している。
その一人マイエ・サタナエルは、これまで10年近くの長きに亘り、他の追随を許さない圧倒的な頂点の存在だった。
一年程前――。“魔人”ヴェルの力は、まだマイエに遠く及ばなかった。
彼女のそれまでの相手に比べれば格段の善戦ではあったが、まだ勝負となる以前の問題であった。
しかし、この一年、ヴェルは地獄の鍛錬を積み上げた。
生まれ持った、“魔人”後継者としての、圧倒的に強靭なる肉体。
これを武器に、通常の人間ならばごく短時間で死に至る鍛錬――。ギルド兵を動員した数万回の組手、肉体へ絶えず与え続けるダメージ、数百頭に及ぶジャングル食物連鎖頂点の怪物どもとの狩り合い――。これらを不休にて死に至る寸前まで繰り返し、回復すればまた継続する。ただひたすらに、愚直なまでに続けてきた。
常人を超えた耐久力で重ねた鍛錬が実を結び、今や、その力は頂点たるマイエを超えようとしていた。
「ハアアアアアアアッ!!!!」
裂帛の気合とともに、マイエの右結晶手の一撃がヴェルの両手結晶手に対して打ち込まれる。
ガアアン!! という、巨大な鉱石と鉱石がぶつかり合うような、この世の誰も聞いたことのない音が大音量にて響き渡る。
ヴェルの身体が、地面に踵の軌跡を描きながら数m後方へ吹き飛ばされる。
女性としては長身で恵まれた体格とはいえ、男とは比べるべくもない細身の身体のどこから、そのようなパワーが生まれてくるのか。
その極限まで細く絞り込まれた筋肉に、内包されているのだ。
かつてレエテ、ビューネイ、ドミノの3人が、マイエと力比べをした際、3人が同時に引っ張る綱を、彼女はこともなげに引き返した。
サタナエル一族女子が3人係りであれば、通常人十数人分以上に匹敵するにも関わらず。
対するヴェルの反撃は――速かった。
両手を前方で交差させたまま、地が砕ける勢いで蹴り抜け、その巨体からは信じられない速度で前進する!
マイエもすぐに攻撃に転じ、一旦繋いでいた関節をまた分離し、恐るべき先端速度の攻撃を縦横無尽に繰り出す。
これに対し、ヴェルは――。その動体視力で正確に見極め、前後左右にその身体を移動しさけながら、自らの結晶手で弾きかえしながら、着実にマイエに近づく。
時折躱しきれない斬撃によって、肩や腕、顔が切り裂かれるが、急所や足は完全に躱しきっている。
そして、ついにヴェルの身体が、マイエに肉薄する。
マイエは即座に右結晶手を戻し、突きを繰り出す。
その攻撃は――的をずらされたものの、右胸を完全に貫通した。
鮮血が噴き出し、その身体を染め、マイエにも返り血を浴びせる。
通常であれば、勝負の決まる決定的な一撃。
サタナエル一族であっても、その甚大なダメージにより、一旦はダウンを余儀なくされる深手だ。
しかし、ヴェルは全く、怯むことなく――。倒れるどころか、微動だにすることなく、表情一つ動かさず――。
冷静に左腕を、全力の速度で振り下ろす。
その攻撃はついに――ついに、マイエの左半身を捉え、肩口からざっくりと、結晶手が彼女の胸にまで食い込む!
「あああっ!!! あああああああああ!!!! うあああああああああ!!!!」
「マイエ!!! マイエェェェー!!!」
マイエが悲痛な叫びを上げ、地に伏して苦痛にのたうち回る。
レエテも衝撃のあまり叫び声を上げるが、マイエの耳には入っていないようだった。
目を剥き首を振り、あまりの痛みに我を忘れているかのような、異常な苦しみ方だった。
一種のショック状態といって良い。
レエテが貌を歪め、マイエに叫ぶ。
「マイエ!!! な――何をしてるの!? 早く、早く動かないと、奴が――!!!」
その叫びも虚しく、ヴェルはマイエにゆっくりと近づく――。
すぐに次の何らかのアクションを起こさねばならない状況下で、依然マイエは倒れたまま、ただ傷口を押さえ転げ回るのみ。
最強の敵を前に、取り返しのつかない致命的な失策だ。
そして、全く何もできずにいる彼女は――結晶手で、両足を寸断される!
「いっ……いやあああ!!! ぐああああああああああ!!!!」
両足の腿は、骨も両断され、皮一枚でぶらさがる状態となった。
マイエが、半狂乱になりながら、さらに苦しみにのたうち回り続ける。
「やめて、やめてえええ!! お願い!!! もうやめてえ!!!」
レエテが地に伏したまま、泣き叫んで哀願する。
「これが……戦闘者として貴様の唯一にして最大の、致命的な弱点だ、マイエ・サタナエル」
女達の叫びを意に介さず、ヴェルがマイエを見下ろしつつ云い放つ。
「あまりに強すぎたがゆえの、痛みに対する耐性の、決定的な不足。
おそらく貴様は、ここ十数年の間、月のものは別として痛みを感じたことは全くあるまい。
当然だ。貴様にかすり傷一つすら、付けうる存在が現れなかったのだからな。
しかし、そんな状態で突然、途轍もない重傷をもし負ってしまったならば――。
その苦痛は想像を絶する。おそらく脳が麻痺して、何も考えられず、何もできまい。
対して俺は、いかなる地獄の痛みも、もはや己のものとしている。
決定的な、差だ。
――おそらくその点においては、貴様よりもまだそちらの女の方が数倍も痛みに耐え、対処ができたであろうな」
マイエはぜえ、ぜえと荒い息を吐きながらも、先程のショック状態から、ようやく少しずつ落ち着きを取り戻しているようだった。
「心臓を軽く傷つける程度に攻撃を調整してある。足も動かず、逃げることも、もはやできん。
俺の、完全勝利だ。
これから、貴様を『宮殿』に連行する」
「ま、待て……!!」
ヴェルの冷酷なる宣言の最中に、声を上げつつ立ち上がったのは――レエテだった。
これまでの激闘の時間を使い、動けるまでに回復してきていたのだ。
「そんなことは、させない……次は、私が相手だ、“魔人”ヴェル」
その言葉に、側に立つフレアの貌が怒りに紅潮し、手に熱球が形成されていく。
「いい加減にしなさい……! 私ももう、我慢の限度を超えてるわよ。
あの方は貴方が声をかけて良いような存在ではなく、ましてや一丁前の宣戦布告など――侮辱も甚だしい!
すぐに、消してあげるわ! 」
それを聞いたマイエが、ようやく出るようになった言葉を振り絞り、レエテに向けて叫ぶ。
「レエテ……!! バカなことはやめて、すぐに、逃げなさい!!!
これは、命令よ。全力で、逃げて!!!」
レエテは、ぶんぶんと首を振り、涙を流して叫び返す。
「イヤだ、できない!!! マイエを見捨てて逃げるくらいなら、私は今ここで死ぬ!!! 私は、大好きなマイエと、一緒に居る!!!」
もう終わりだ、という絶望からか思わず出た、昔の聞き分けのない子供に返ったかのようなレエテの心の底の純朴な言葉。
これを聞いたマイエは――。
一度静かに目を閉じ、顔を伏せ――そして再び顔を上げ、レエテに向けて、云った。
その表情は、これまでのものと違う――慈愛に満ちた、とても穏やかな表情だった。
口許には、優しい笑みが湛えられて、いた。
そしてその目からは、大粒の涙が溢れ出て、いた。
「ありがとう、レエテ――。
そんなにも、私を思ってくれて――。私は、本当に幸せ者。
私も、愛してる――あなたのことを。ずっと、ずっと。
でも、分かって。私は、ここで終わりなの。
あなたは、ここで終わっては、いけないの。
――今まで、本当に、ありがとう。
私は、いつまでも、あなたのことを、見守っているからね……」
その言葉を最後に――。
突如マイエが、電光石火の動きを見せた!
ほぼ寸断された両の腿をひねり――。
腰のバネを使って飛び上がり――。
真っ直ぐに自分に向けられていた、ヴェルの結晶手に向けて、飛び込んで行く。
そして両手で、彼の手首を掴むと―。
自分の心臓に向けて真っ直ぐに、突き立て、貫通させた!
すぐに、噴水のような鮮血がマイエの身体の前後に噴き出し――。
その眼差しが、涙をためてゆっくりとレエテを振り返り――。
口許に優しい笑みが形作られたまま――。
彼女の身体は動きを止め、首はガックリと垂れ下がり――。
マイエ・サタナエルは、息絶え、死んだ。