第八話 忌まわしくも甘い追憶(Ⅷ)〜魔人と、将たる鬼【★挿絵有】
深淵付近における、ヴェールント・サタナエルとロブ=ハルス・エイブリエルの二名による襲撃事件が起きてより一年あまり――。
その一件以来ビューネイが自重してくれたおかげか、家族の中では大きな事件もなく、このところは平和な時間が過ぎ去っていた。
レエテとビューネイは20歳を迎え、方向性は違うものの、内面的にもより大人になった。
ビューネイは、その勇猛さと行動力をより仲間のために奮うようになった。
レエテは日々勤勉に知識を深めて仲間のために役立て、より冷静に、より判断力を増し――。ときにマイエに代わって、家族の精神的支柱になれるほどに成長した。
そんな彼女たち家族だったが、ここ一ヶ月ほどで撃退したサタナエル暗殺者から、不穏な話を耳にしていた。
それは、サタナエルの頂点たる“魔人”ノエルがついにその寿命を迎え――。息子であり継嗣たるヴェールント・サタナエルが正式に称号を受け継いだ、というものだ。
その名は、“魔人”ヴェル――。
その話は、この男がかつてマイエへの求婚を行った事実を知る、レエテの心をざわつかせた。
何か、良くないことが、近いうちに起こりそうな気がする――。
その予感は、余りに不幸にも、的中することになる――。
*
その日――時刻は昼下がり。
この日は、ドミノが狩りに出かけている他は、珍しく家族のうち5人が家に居た。
何も変わらない朝、何も変わらない一日となることを信じて疑いようのない、まったく何の変哲もない一日が進行していた。
家の外では、アラネアが川で水洗いした洗濯物を、彼女とともに干すターニアの姿があった。
前日少し夜更かししてしまった彼女は、時折あくびをしながら気乗りしない様子で手伝いをしている様子だった。
大きめの寝台の敷物を、手にとって干そうとしたその時――。
その両眼が大きく、見開かれ、手のものを放り出し、突然叫び声を上げる!
「みんな!!!! すぐに外へ出て!!!! 奴らが来る!!!! それも10人近い!!!!」
ただならぬ雰囲気、しかもそれを、突出した五感をもつターニアが発していることで――。
事態の緊急度合いはすぐに、全員に伝わった。
家の扉から、ビューネイ――レエテ――そしてマイエが、次々飛び出す。
アラネアも、青ざめつつも荷物を放り出し、彼女にとっては久しぶりの結晶手を両手に出現させる。
「ターニア! 奴らなのか! どこから来る!!」
ビューネイが獰猛な表情でターニアに怒声を上げる。
ターニアが目を閉じ、しばし聴覚と触覚のみに神経を集中、ややあって言葉を継いだ。
「そうよ……! 来るのは、『宮殿』の方角から。 そして、人数は……そう、たぶん……7人。
どいつもとんでもない殺気を放ってるけど……。
一人、3人分くらいの殺気と、音を放ってる、化物がいる。……たぶん……たぶん『あいつ』だ……。 ……そんな、いやだ……どうしよう……」
ターニアの身体が、足が震え、涙を目に貯め始める。
ビューネイも、それを聞いて冷や汗をかき、青ざめる。
そう、彼女たち二人がかつて闘い、思い出したくもないトラウマを生み出した、「あの男」が近づいているという事実によって。
ならば――散り散りに逃げるのは得策ではない。
ここで一箇所に固まり、まとめて自分が相手するべきと考えたマイエが、皆に指示を発する。
「みんな、背中合わせに固まり、私の後ろに下がって。
大丈夫。落ち着いて。私が全員倒す。
あなたたちは、絶対に結晶手を解除せず、いつでも全力で跳べる体勢を確保して」
努めて落ち着いた口調で、皆を安心させようとする。
たしかに並の相手ならば、10人いようが20人いようが、最強の戦士マイエの敵ではない。
しかし、彼女も感じていた――。
事は、そう簡単ではない。
マイエを相手に、唯一善戦した存在――「あの男」がやってくる。
その実力は、以前の勝負のときの比ではあるまい。
まして、今回やって来る目的は、おそらく――。
ならばそれに随行する者も、量・質ともに最大最上であることだろう。
「奴ら」が近づくにつれ、そのプレッシャー、殺気、物音は増す。
すでに、家族全員が肌で感じるまでに、それは間近に迫っていた。
やがて――数十m先の樹々の間から――次々と、姿を現す男女。
家族の前にその不吉な姿を並べ、ある者は殺意を込めた射るような鋭い視線を、ある者は侮蔑とともに不敵な笑みを、ある者は一切の表情を浮かべることのない無感動の目を、彼女らに向ける。
その数は、6名。
いずれもが、一見しただけで只者ではないと知れる、圧倒的な殺気と存在感の持ち主であった。
ある者は大剣二本を背負い、ある者は巨大な戦槌を握り、ある者はアルム絹を使用した魔導衣を身に着け、ある者は巨大なジャックナイフ二本を携えていた。
その中の一人、ジャックナイフを持つ男は、以前の襲撃者である、ロブ=ハルス・エイブリエル。
そして、魔導衣を身に着けているのは、栗色の長い髪と銀縁の眼鏡が印象的な美女、フレア・イリーステス。
家族達が彼らの姿を確認し終えるか否かのうちに――。
最後の一人である「あの男」が、ついに、その最後方から姿を現した。
ゆっくりと、しかし一歩近づくごとに、押しつぶされそうな重量のプッシャーを強めつつ歩を進めるその男。
ここに居るアラネア以外の家族4人が、忘れたくとも忘れられない負の記憶を伴ってまざまざと脳に刻んでいる、絶対悪の存在。
かつてヴェールント・サタナエルと名乗り、今や組織最高峰の地位を正式に継いだその男の名は――“魔人”ヴェル――。
以前から気迫と殺気の固まりであったその表情、巨大で黒いダイヤモンドのような強靭な肉体は、明らかに数段凄みを増していた。
すぐにでも、その場から逃げ出したくなる存在感、だった。
マイエですら、気圧されているかのような動揺を、すぐ後ろにいたレエテに感じさせてしまうほどだった。
その普段開かれぬ“魔人”の口が開き――。
地獄の底からのような低く、太い声が耳に響く。
「マイエ・サタナエル――。
予告どおり、俺は戻った。その時告げた行為を今実現する。
貴様を、妻に迎える。
今から貴様を倒し、力づくでな」
マイエは結晶手を出現させた両手を下げ、直立で一歩、ヴェルに近づく。
「ヴェールント。
前にも云ったとおり私は、お前の物にはならない。実力行使も、はねのけるだけだ」
「それで、良い。
もう一つ、付け加えておこう。この者共は、全員が各ギルドの頂点、将鬼。
貴様のコミュニティを完全に潰し、帰還する場所を奪う為、今回同行させた」
その言葉に――マイエの表情に目に見えて動揺が走った。
ある程度の、想定はしていた。
ヴェルがマイエを強制的に「宮殿」に連れ去るつもりなら当然、帰る場所である彼女の家と、家族を放っておく訳がない、だろうと。
脱走の動機を削ぐためだ。
戦力を投入して皆殺しにかかってくる――とは考えていたものの、まさか将鬼全員を招集するほどの入念さを持って襲い来るとは、想像を超えていた。
この様子では、さらなる二重、三重の陣容を備えていてもおかしくない。
この連中と、“魔人”の全員を自分一人で制し切り、家族を守りきるのは、おそらく不可能だ。
そのあまりに絶望的な状況、家族を失うかもしれない恐怖の実感に、マイエの両眼は見開かれ、顔は青ざめて震えた。
そして小さく、すがるような必死の口調で、うつむきながらヴェルに向け哀願する。
「お……お願い……それだけは……やめて。
それなら私は、お前の物になっても良いから……。
『宮殿』にも、大人しく付いて行くから……。何でも、するから……。
家族は……私の家族だけはどうか、どうか助けて……お願い。あの子達を、見逃してあげて……」
云いながら、思わず地に両膝をつくマイエ。
レエテが悲痛な叫びを上げる。
「バカなこと云わないで! マイエ。あなたを差し出すぐらいなら、今ここで死んだ方がマシだわ!
お願い、最後まで闘って!」
それを聞いたヴェルが、マイエに冷酷に宣言する。
「その女の云うことは、正しい。
たとえ貴様が抵抗せずに俺に従ったとしても、コミュニティの者は、残らず殺す。
どうやら今は一人足りないようだが、たとえ逃げても、ジャングルの果てまで追い詰め殺す。
この決定は、不変だ。
俺は人質など取って目的を果たすことはせん。最後まで抗え。そしてねじ伏せる。それが俺のやり方だ」
取り付く島のない、冷酷非情な宣告を受けたマイエ。
その雰囲気は、瞬時に変化した。
表情のよく見えない貌の中で、ギラリと光る両眼。
「そうか……残念だ。
ならば……私が今ここで、お前達を皆殺しにする!!!!!」