第六話 忌まわしくも甘い追憶(Ⅵ)〜最強の女神の愛【★挿絵有】
ヴェールント・サタナエルは、数十m離れた場所に出現した、マイエの存在を即座に捉えた。
そしてこちらに向っていることを確認すると、ゆっくりとビューネイの脇をすり抜け、戦闘態勢に入ろうとする。
「はあ、はあ……マイエ……。ありがとう、来てくれてよ……。あたしは、ターニアを、助ける……」
ビューネイは、全身にすでに5箇所の深手を負い、地に大量の血を吸わせていたが、辛うじて動き、地を這ってターニアのもとに移動する。
「……マイエ・サタナエル……」
ヴェールントが呟く。すぐに、両手の結晶手を油断なく構える。
ビューネイは驚愕した。自分たちの渾身の攻撃を直立のまま軽く振り払うこの化物が、ここに現れて初めて「構え」をとったからだ。
その一瞬の後――。飛来したマイエから、関節を外し伸ばした両手の結晶手が、風切音とともに縱橫無尽に襲いかかる!
二本同時に遅い来たその刃を、ヴェールントは辛うじて受け止めた。
ビューネイの目には――全く見えない攻撃だったのにも関わらず。
しかし受け止めたものの、その攻撃の余りの重量に、ヴェールントの身体が1m以上後方に突き飛ばされる。
体勢を整える間もなく――すでにマイエの姿は眼前にあり、容赦ない第二撃、第三撃が加えられる。攻撃を受け止めるもそのたびに余りのパワーに、鉄壁の城塞のごときヴェールントの身体から、ミシリ、ギシリ、とダメージを感じる音が響く。
「――すげえ……。今更だが、あんた本当にすげえよ、マイエ。こんな怪物の中の怪物でも、まったく問題にしねえ。強い、強すぎる……」
十撃以上をしのいだヴェールントだったが……。ついにその身体が捉えられた。
左足の腿をざっくりと抉られたのだ。
「……!」
ガックリと膝を落とす寸前――ヴェールントは左結晶手で即座にアッパーカットを放つ!
しかし、振り切られる前にマイエはことも無げにこれをむしろ力で弾き返し、この勢いでヴェールントの身体は数m吹き飛ばされる。
そして、どうにか体勢を整え着地、右膝をついて左足をかばう体勢を取る。
「一族男子でも、初めて見る貌だな。もう、勝負はついてる。けれど、正直今までの敵でお前が一番、手強かった……。
ビューネイ、大丈夫? ターニアの具合は、どう?」
すでにターニアの傷を押さえながら看ていたビューネイは、マイエの言葉を受け答える。
「あたしは、傷は深いが大丈夫……。ターニアも右半身は真っ二つに斬られちゃいるが……心臓には達してない。どうにかかわしたのは、さすがってとこだ。意識はないけど、命に別状はないと思うぜ」
「わかった、ありがとう。
……不幸中の幸い、私の家族は生きているようだ。見逃してやろう。
まだやるなら相手になるが、どうする? 勿論次に攻撃されたら容赦なく、殺すが」
マイエの通告に、ヴェールントは低く、呟くように声を発した。
「何とも……甘いな。後悔せぬことだ。
しかし、俺の目的は、達せられた。マイエ・サタナエル……このヴェールント・サタナエルは今、貴様を、『妻』に迎えると決めた」
ヴェールントのその言葉に、マイエの表情が一瞬で凍りつく。ようやくこの場に追いついたレエテの表情も――。
彼は、その様子に構わず言葉を続ける。
「俺は、間もなく“魔人”の地位につく。
その妻として、申し分ない器量、何よりも圧倒的な実力。
強き子を残すに、この上ない女だと判断した」
マイエが表情を変えず、首を振って言葉を返す。
「私が、承諾するとでも? それに、お前達には血の戒律があるだろう」
「貴様の承諾など求めん。いずれ実力行使で迎えに行かせてもらおう。
血の戒律は、問題ない。すでに施設の記録を調べさせ、俺と貴様とは10親等以上血が離れていると判明している」
「用意の良いことだな。
だが私は断固、拒否する。もちろん、実力行使される気もない」
マイエのその心地よい位の断固たる拒絶の態度に、ヴェールントの貌が初めて笑みで緩んだ。
「フッ……一年か、二年か。すぐに俺は貴様の頂の力を超えよう。
頂点に君臨するのは、“魔人”一人でなくてはならぬ。
次会う時の俺を、今と同じ俺と思わぬがよい」
そう云うと、ヴェールントは会話の間に出血の止まった左足を、若干かばいながらも立ち上がった。
そして、走り出すと、両足を断たれ立つこともできないロブ=ハルスのもとに近づく。
「ヴェールント殿……。どうか、お助けを……」
「貴様には、“魔人”からの処罰が待つであろう。
その処断の場所までは、連れていってやる」
云うと、100kgを大きく超えるであろうはずのロブ=ハルスの身体を、何の苦もなく軽々右肩に抱え、ジャングルの樹々の間を瞬く間に走り去っていった。
*
「レエテ、ビューネイ――私から、云うことがある」
ターニアの状態を確認し、そのまま振り向くことなくマイエが云う。
感情を殺した、淡々とした、呼びかけ。
それは、何か悪いことをしたときのいつもの、彼女らを叱るマイエの前置きだった。
レエテとビューネイは怒る親を前にした子供のようにビクッと震えて青ざめ、互いに負った傷を手で庇いながら、並んで目を閉じた。
叱られる――叩かれる。そう思った反射行動からだった。
「マイエ……。ご、ごめ……」
云いかけたレエテの言葉は、途中で止まった。
彼女の頭は、マイエの腕に、ビューネイもろとも強く――強く抱きしめられていたからだ。
「馬鹿、ばか! こんな危ない目にあって――死んだらどうするの!?
もう何人も家族を、子供たちを失って――。
もうあなた達しかいないのに。今あなた達まで死んだら、死んでしまったら、私、もう私――生きて――うっ……ううう……うう」
マイエは、号泣していた。大粒の涙と嗚咽を漏らし、子供のように泣きじゃくっていた。
レエテも、ビューネイも、こんなマイエを見るのは、記憶している限り初めてのことだ。
もちろん、マイエの愛情はいつもその身に感じているつもりだった。
けれどもどこか、あまりに強く完璧で頼もしすぎ、いっさい負の部分を出すことのない彼女に、ある部分で非人間的なものを感じていたのも事実だ。
いつも戦神のように強く、くじけず、皆を導き、助け、いたわる姿――。
それらは全て、愛情を注ぐ家族を失いたくない一心で、そう演じ振る舞っていたにすぎない。
裸の心を見せ、愛情をぶつけるマイエの身体を、レエテとビューネイはギュッと抱きしめ返した。
その鋼のような身体の感触が、幼い日を思わせ優しく――。その身体の温度が、心と心が繋がったように温かく――。
自然に、レエテとビューネイの目にも大粒の涙が流れた。
その心が、どうしようもなくマイエへの――母であり姉である存在へのこれまで以上の愛情で満たされていく。
「ごめん、ごめんよ、あたしが悪かった。マイエ……うう」
「私も……ごめんね……マイエ。もう、私たち勝手なことしないから……マイエと、ずっとずっと、一緒だから……ううっ」
彼女たちの嗚咽は、しばらく止むことがなかった。