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サタナエル・サガ  作者: Yuki
第四章 運命の交差
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第二話 忌まわしくも甘い追憶(Ⅱ)〜喪失と邂逅【★挿絵有】

 苦しい――。

 100mもの断崖を突き落とされ、為す術なく落下する幼きレエテ。

 落下の風圧は容赦なく皮膚を叩き、耳を轟音でつんざき――。重力に引かれ加速していく肉体の内部では、あらゆる内蔵、脳が落下に後れまいと極限までの圧迫感を主であるレエテに加える。


 どうにかもがき、体勢を整えようとするが、地上にいた時の百分の一も身体を動かせはしなかった。


 時間にしてはほんの一瞬であるはずだが、悠久の時であるかのごとく体感されるその刻。


 そして――何かが身体に触れたと感じた瞬間。

 今度は背中から始まり身体の外側に衝撃を感じた。

 ジャングルの木々の頂点に達したのだ――葉や枝に身体を包まれながらさらに落下していく。


 ザザザザッザザザ――! バキバキバキバキッ!!


 葉がこすれ、枝が身体を打ちつけ、鋭利な部分が身体を切り裂いていく。


 やがて木々の枝を抜け――地面に落下する!

 衝撃は大分吸収されたとはいえ、背中からしたたかに落ちたレエテの身体は地面に陥没をつくりつつ数十cmバウンドし、再び地に落下する。


「がっ!! かはっ!! ぐあぁぁぁ! い……たいぃぃ……いたいようぅ……!」


 レエテは咳き込みながらしたたかに血を吐く。そして全身を襲う刺し貫ねつくされるような激痛に、泣きながら悲鳴を上げる。

 その全身は、鋭利な枝による無数の切り傷で覆われ、夥しい血が皮膚をつたい地に落ちる。

 おそらくは内蔵の損傷、肋骨や背骨などの各部骨折も起こしている。

 

 彼女たちサタナエル一族の女子は、これまでギルドより派遣される教官のもと、肉体を壊されるまでの訓練を受けてはきた。

 が、今まで感じてきたどの痛みよりも強烈なその苦しみに、レエテは全く起き上がることができない。

 ただし――彼女はその訓練で知っていた。自分の身体は首を落とされるか心臓が停止――破壊されるもしくは全血液を失うこと――しない限り死ぬことはなく、どんなに痛くともしばらくじっとしていれば自然に回復してしまうことを。


 痛みに耐えつつ、周囲の状況をなんとか把握しようともがく。


 そこは木々に光を遮られ、暗く――。鼻をつくのは太い木の根が密集し、一面に苔むした大地より上がる湿気の充満する空気。


 遠くからも、ほど近い場所からも耳に入るのは――。鳥のさえずる声や獣の鳴き声、だけではなく、何かが這いずるもしくは轟音をたてて移動する不気味な音と唸り声。


 自分たちが追放されたのは理解したが、ここは安息の地とはこの世で最も遠い場所だ。

 まともに入ったことはないが、このジャングルがどのような場所かは知っている。

 簡単な言葉や数以外、ろくに基礎的な教育すら受けていなくとも、闘い方とジャングルの環境については嫌というほど教育されているのだ。


「は、はやく、にげないと……。アリア、わたしとちがってたたかいがじょうずだし……。ぐうぅ! ……きっと、そんなにケガしないでもうどこかに行ってる……」

 

 レエテは途切れ途切れに呟いた。アリアの体術は彼女たちの代では群を抜いている。

 きっとダメージを最小限にして、どこか安全な場所を探して移動していると感じていたのだ。

 

 しかし――現状にはもう一つ深刻な問題があった。

 レエテは、訓練のときも、落ちこぼれの劣等生だった。彼女を支えるために、側にはいつもアリアがいて、教官もそれを黙認していた。

 つまり彼女は、今まで一人になったことがない。現在の絶体絶命にして最悪の環境の中、たった一人という恐怖感は、ある意味肉体以上にレエテに苦痛を与えた。

 彼女は動く右手で自分の身体を抱き、青ざめながらガタガタと震えた。

 

「こわい、こわいよう……。たすけて、アリア……」


 その間にも、時折レエテに続いて断崖を落下してくる一族女子の悲鳴や落下音が聞こえてくる。

 教官は、無造作に突き落としているように見えて、女子達が一箇所に固まらないよう見定めながら落としているのだ。


 そしてそのまま約1時間――。


 奇跡としか言いようがないが、その間レエテはいかなる獣にも怪物にも襲われることはなかった。

 そして皮膚の傷はふさがり、骨折した背骨と肋骨の修復、内蔵のダメージ回復――。落下で負った傷をほぼ回復し痛みが引き始めたところで、ようやく起き上がり、恐る恐る移動を始める。


「アリア……どこ? どこなのー?」


 震え声で控えめにアリアを呼ぶレエテ。

 高い密集した枝の間から少しでも光の多く差す方向へと、歩みを進めようとする。


(駄目……駄目よ。 そっちへ行っては……駄目!!)


 いまや幼き自分と同化している、成人した現在のレエテが、なんとか警告を発しようと声を出そうとする。

 しかし、それは声になるどころか、いかなるサインも幼き自分に送ることはできなかった。


 あまりにも、静かだった。妙だ。

 さきほどは一時近くにも聞こえていた、数々の不穏なる物音のほとんどは、明らかに遠く離れてきている。

 これは――前兆だ。

 弱い存在が、より強い存在を恐れ、遠のいている証拠――。すなわち危険な怪物の襲来を示すもの。


 そう教官から教わった内容を、ようやく思い出した頃には――手遅れだった。


 フラフラと歩いていたレエテを横合いから襲う、大きな影、鋭い牙!


「きゃあっ!!」


 瞬時に反射で避けたレエテ。

 襲い来た存在、それは――。黒々とした針金のような毛並み、体長2mに届く巨大な狼のような引き締まった肉体を四つ足で支え、その1m上方に存在する頭部は3つ。それぞれの漆黒のオニキスのような黒い瞳の周囲には極限まで皺がよせられ、全ての牙と歯をむき出した口からは薄緑色の涎。

 これも知識にはあるジャングルの獣の一種――。ケルベロスだ。


「うあ……あああ」


 涙を流しながら後ずさるレエテ。しかし防衛本能からか、その小さな両手はすでに結晶手化している。

 少しずつ距離を詰めるケルベロス。

 レエテは恐怖と混乱で破裂しそうな脳内で、必死に考えた。

 教えられたところではたしか、ケルベロスは3つのうち中央の頭に本体脳があり、ここを損傷すれば即死するはずだ。


 震えながらも右手を前に出し、襲いかかる瞬間を狙って敵の頭を切り裂こうと、訓練でしみついた構えを取るレエテ。


 そのときだった――。


「ォォオオオオオオ!!」


 突如! 耳をつんざく叫び声とともに視界の上方から巨大極まりない緑の腕が降り注ぎ、ケルベロスの3つの頭を同時に叩き潰した!

 グシャッ!! という怖気を震う音と共に、赤い果実のごとき脳漿と組織を大地にぶちまける。

 間を置かず、その手はケルベロスの身体を持ち上げ、さらに上空の――自らの幅1mになろうかという悍ましい巨大な口の中に放り込み、グチャ、グチャと咀嚼する。


 その体高はおそらく5m、筋肉に覆われ巨大猿(ゴリラ)に似た両腕の長い身体の重量は、推定5~8トン。体毛のない全身は濃い緑色で、太い血管の通る黒い筋が何千と身体にはりめぐらされている。頭部は丸く巨大で、4つもある目は小さく鼻はなく、口だけが巨大で大理石の並ぶような歯で埋め尽くされる。

 そして何よりも最大の特長であり武器である、脚の数倍の長さと太さを誇るその両腕。ケルベロスのような獣でも撫でるだけで無残に潰し、片方の腕力のみで大木を易易倒す超怪力を持つ。

 この一帯では決して出会ってはいけない最大危険種――トロール・ロードであった。

 下位の獣たちはこの存在を恐れて逃げ、先程のケルベロスは逃げ遅れていたのだ。


「……!! ……! ……!!」


 もはや極限の恐怖で声も出ない。死を覚悟する、しないの問題ではなく、もう全身の力が抜けて地にへたりこむ以外のことができない。

 レエテの頭は、真っ白になった。脳裏に、これまで訓練の中で幼い命を落としてきた一族女子の姿が高速で巡る。ついに、自分もその中に入り、教官から教えられた「地獄」へ落ちていくのだと思った。


(立て!!! 立つんだ!!! 今お前が闘わないと――闘わないと――)


 またも、成人したレエテが何かを伝えようと――声にならない叫びを絞り出す。


 トロール・ロードは食事を終えたものの、まだ飢えているようだった。

 どれが見ているのか分からない、4つの目は確実にレエテを捉え、ズシン……ズシン……と地響きを立てながら彼女に近づいてくる。


 そして唸り声を響かせつつ、ゆっくりとこの小さな獲物をその手に収めようと右手を伸ばした――その刹那!


 木の陰から突如小さな影が飛び出し――その大木のような右手を縱橫無尽に切り刻んだ!

 刻まれた傷から黒い血液が噴出し、悲鳴を上げ腕を引くトロール・ロード。


「レエテ! だいじょうぶ!?」


 その声は――。レエテが待ち望んだ救世主の声、だった。


「アリア! いきてたんだね!」


 肩より長く伸ばした銀髪をなびかせ、レエテよりも頭一つ小さいその体躯。

 震えながらも両の手の結晶手を油断なくかまえた、アリア・サタナエルの姿だった。


「レエテ……。わたしがさきに行くから、レエテもあとできて。あのとろーる・ろーどは、足がはやいからみつかったらにげられない。あいつをころさないと、わたしたちもしぬ!」


(アリア!!! やめて!!! 私のことなんて放っておいて、いえ、私を囮にしてすぐにあなただけ逃げて!!! お願いだから!!!)


 成人したレエテの声にならぬ叫びは、これまでに増して悲痛、緊迫感を帯びていた。


 アリアは素早い動きでトロール・ロードの足元に近づき、右足に渾身の斬撃を入れる。

 

 踝を両断し、黒い鮮血が上がる。

 ややその巨体がぐらついたように見えたが……。二度の苦痛を味わった、異形の巨人の王の怒りは頂点に達した。


「オオオオオオォォ!!!!!」


「アリア!!! はやくこっちにもどってー!!!」


 トロール・ロードの足元から、レエテのところまで一直線に戻ろうとするアリア。

 その走力は同年代の中でも最速で、充分に怪物の攻撃をかいくぐれる――はずだった。


 しかし――怒り狂ったトロール・ロードの左手の動きは、想像をはるかに超えて――速かった。


 城門破壊用の槌のように一直線にアリアに向かったその手は、易易とその小さな身体を捕らえた。


「ああっ!!!」


「ア、アリアー!!! おねがい、にげてー!!!」


 この時点で、ようやくレエテは立ち上がることができた。

 そしてトロール・ロードに向かって走り出そうとする。

 トロール・ロードの手は無情にも何十もの荒縄のようにビクともせず、かつ両腕を捕らえられたアリアには何もできない。


 その大人の拳大の歯が並ぶ、地獄の底のような漆黒の巨大なる口がアリアに近づく。

 アリアの表情は、極限の恐怖に凍った。


「い……いやああ!!! レ、レエテー!!! たすけて、たすけてえ!!! やだあああ!!!!!」


 首を千切れんばかりに振り、泣き叫ぶアリア。

 

 次の瞬間――無情にも、あまりに無情にもアリアの小さな身体はその巨大な歯に圧縮され――鮮血が迸った。

 歯からこぼれた、身体から離れた彼女の首が、地面に向かって――落ちていく。

 その表情は、目を剥き、青ざめ、死の断末魔で凍りついていた。


「……アリア。……アリア!!! アリアぁぁぁぁぁー!!!!! うああああああああー!!!!!」


 目を剥き、涙を噴き出し、身体をのけぞらせて叫ぶレエテの慟哭が、ジャングルに響きわたる。

 それは――人間の形をしたものからはおよそ及びもつかない、途轍もない大音量の叫びだった。


 巨木の枝はざわめき、地は揺れ、空気は張り裂けんばかりとなる力場を作り出した。その音量は、周囲1kmにも及ぶのではないかと思われる程であった。


 アリアの身体を飲み込んだトロール・ロードも、完全に怯み、その両手を頭に当てて一瞬うずくまった。


「よくも!!!!! よくも!!!!! おまえぇぇぇぇぇー!!!!!」


 子供とは思えぬ鬼神のごとき憤怒の表情で、一直線に走り出す。

 そしてトロール・ロードの目前で大きく跳躍すると、その左手に飛び乗り、両の結晶手を交差させる。


 その両手を一気に振り下ろすと、怪物の手首から下が両断され、黒血が噴き出す。


「グオオオオオオ!!!」


 そしてそのまま肩に飛び乗り、怪物の目を狙う。

 両手を振り下ろし、全ての目を潰そうとするが――。


「オオオオオ!」


 正気を取り戻したトロール・ロードが右手を一閃し、レエテの身体を吹き飛ばした。


「ああっ!!」


 レエテの身体は一直線に木の幹に激突し、そのまま根元までずりおちぐったりと倒れる。

 かなりの衝撃で、内蔵破裂と腰骨骨折をしたとみえ、痛み、動くことができない。


 トロール・ロードの目は、左側の2つの目は切り裂いたが、まだ右側2つの目が無事だった。

 失明させれば、かなりの確率で逃走に成功したはずであるが――。万事休すであった。


 自らを怯えさせ、ここまでの深手を負わせた小さな生き物に、トロール・ロードの怒りは極限に達していた。

 叫びを上げながら、地響きを上げてレエテに襲いかかる。

 死が――目前に迫っていた。レエテはぎゅっと目をつぶった。涙がとめどなく流れる。


「アリア……ごめんね。ごめんね……。アリア、わたしのせいでしんじゃったけど、わたしも、すぐいくよ。ずっといっしょにいようね……」


 巨大な怪物の手が彼女の身体を掴む、まさにその瞬間。


 ドスン、と音が響き――。幅1mにもなろうかというその手は、持ち主の身体を離れて地に落ちた。


「ギエエエエエエエ!!」


 残った腕を寸断され、叫び声を上げるトロール・ロード。

 

 レエテの目前には――結晶手が伸びていた。

 子供のものではない。明らかに、大人の女性の手だ。

 そしてもうひとつ尋常ならざる状況は、その手から腕を追っても、女性の身体が見えない。

 手から伸びる腕は、関節が外され、常人の倍以上に伸びていた。

 はるか先に、女性の本体があった。

 

「とても、いい叫びだ。離れた所にいた私にもよく聞こえたよ。

あのトロール・ロード相手に、あそこまでやるとは……よく頑張ったね。あいつを片付けたら、お互い自己紹介しようか」


 その女性は、おそらく年の頃17、8。背は高く、細身でスタイルが整って見えるものの、密集した筋肉が体内に詰まっていることが伺える張りのある身体の線。

 身につけているのは、狼などの毛皮を縫い合わせたものと思しきチュニックに、皮のベルト。誰から奪ったのか分からないが、仕立てのしっかりしたブーツ。

 髪は長く、後頭部の高い位置で髪を結わえている。貌は非常に端正で、太い眉は意志の強さを感じさせる。

 その髪は、発光しているかと見紛う銀髪、肌は小麦色の褐色。

 まごうことなきサタナエル一族の女子だった。

 

 レエテは当然のごとく、大人の一族の女性を見たことがない。

 全てがそうなのかは分からないが、その女性は知性があり、気品があり――余裕があり、なによりも全てを包み込むような優しさを感じさせた。

 こんな雰囲気を持つ大人がいる、ということだけでも、衝撃を感じさせる存在だった。


 トロール・ロードは、己の最後の手を寸断したこの女を、残った右側の目で睨みつける。

 そして、直接喰らい尽くそうと、口を大きく開けて女性に襲いかかる。


 女性は、眉一つ動かすことなく、ゆっくりと怪物に歩み寄り、その関節を外し長く伸びた右結晶手を上下に一閃した。

 一閃――したように見えたのはレエテの目からであって、実際には数往復していたらしい。


 走り寄ってきていたトロール・ロードの身体は、頭から胴体を左右真っ二つに分かれ、右と左の部分が女性を避けて左右に反れる形で後方の異なる場所に激突していった。


 ――これほどの怪物を、何の苦もなく一瞬にして屠った女性は、右手をゴキッゴキッと関節をつないで元に戻すと、レエテのもとに歩み寄り、座して視線を合わせた。そして優しい口調で語りかける。


挿絵(By みてみん)


「もう、大丈夫だ……。どうやら、大事な友達をなくしてしまったみたいだね。それはとても残念で悲しいことだけど、これだけはわかってほしい。その子が死んだのは絶対に、『あなたのせいなんかじゃない』。

……これは、私も昔同じような体験をしたから云うんだ。あなたは生きなければならない。そのために、私はあなたを一緒に連れていく。

だからまず……名前を聞かせて。

私は、マイエ・サタナエルっていうの。あなたの名前は?」


「レエテ……。レエテ・サタナエル……」

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