第一話 忌まわしくも甘い追憶(Ⅰ)〜死の追放【★挿絵有】
ハルメニア大陸、中原――。
大陸の北西部に南北にわたって横たわる、大陸で最も肥沃な一大穀倉地帯である。
北はノスティラス皇国内ラムゼス湖から始まり、途中アンドロマリウス連峰の裾野を経由、南はエストガレス王国内エストガレス湾岸にまで達する60万平方kmもの面積を有する地域。
このうち実に6割以上にあたる40万平方kmが農耕地である。主たる収穫物である麦系穀物のほか、トウモロコシや豆類などその他穀物の畑、各種野菜畑と果樹園、一部に稲を育てる水田、また大量の家畜を放牧する酪農地を有する。
栄養豊富な良質の土、極めて穏やかで四季のある気候、雨期の豊富な水量を背景にハルメニア大陸の食料庫として君臨してきた。
大陸全土の食料を補ってまだ余りあるこの中原を有することは、すなわち強大な国力に直結する。
過去数百年にわたり大陸最大のエストガレス王国がこの地域を支配してきたが――。そのエストガレス領内より分離独立した巨大新興国、ノスティラス皇国は領有権を主張し強引な交渉と実力行使を行った。
そしてここ百年ほどの間、ノスティラス皇国とエストガレス王国は中原の領有を争い、幾度もの紛争と条約締結を繰り返してきた。
一時は苦しい状況にも置かれたエストガレスであった。が、5年前の戦“ドゥーマの反攻”における、ラ=ファイエット、ラディーン、そしてダレン=ジョスパンら英雄の活躍による大勝利によって大きく領土を回復した。
現在は7:3ほどの割合でエストガレス優勢にて領有。ラ・マロリー川を挟んで南北に領土が別れる状況となっている。
そのラ・マロリー川中流域、夕刻。
北岸の、小高い丘の中腹にある林の中で野営する、レエテ・サタナエル一行の4名。
北岸はノスティラス領内国境線にあたるため、常ならば警備兵が哨戒するエリアであるはずだ。しかし5年前のドゥーマ条約締結により、国境線より3kmを緩衝地帯とすることを決めたため、兵の姿はない。しかしながらいつ戦乱が勃発してもおかしくない地帯であり、旅人や行商も街道沿いを足早に過ぎ去るのみ。そこへ留まる者など皆無なため野営には最適だ。
あの法王府において彼女らが巻き起こした騒乱から、すでに3夜を迎えた。
アルベルト司教を看取ったルーミスに対し、ナユタは「南へ向かう」と告げたはずだが、彼女らの現在地は法王府の東方およそ120kmの位置だ。
あのロブ=ハルスやその手の者が居るかも知れぬ場で、正しい行き先を告げることを避け――。そして南大門を出れば南へ向かうという思い込みを逆手に、あえて緩やかに違う方向を目指す意図であった。
すでに日も暮れ、徐々に闇に支配されようとする空。
見通しの良い場所であり、交代で見張りを立てる人員も豊富なため、焚き火を用意し丸一日ぶりの食事を取ることを決めた一行。
地面に串を刺し、火に当てて焼かれる大きな川魚は、レエテが川に入り大量に捕獲した。
薪は血破孔打ちを用いたルーミスが用意してくれたため、若干レエテの負荷は減ったが、それでも自然の中でのサバイバル環境では圧倒的にレエテにかかる負担は大きい。
レエテは自ら積極的にとはいえ3日間働き詰めであり、さすがに疲労の色が濃かった。
これを案じたルーミスの提案をナユタが受けての今回の野営だ。
ナユタとルーミスが少し離れた場所で今後の計画について話し込む中、レエテは先に食事を終え、木の枝と草で造ったベッドに気だるそうな様子で横たわっていた。
そこへランスロットがひょこひょこと近づき、レエテの枕元の岩に飛び乗った。
「レエテ、大丈夫かい?」
「ああ、ランスロット。ありがとう、大丈夫よ。心配いらない」
「そうやって無理をしすぎるのも考えものだよ。とりあえず法王府エリアは完全に抜けたし、聖騎士の追手は少なくとも懸念しなくていい状況になったみたいだしね」
「そうね……だけれどこのまま進んでいけば、完全にエストガレスの領内を抜けてしまう。ルーミスの家族を探し出さなければならないのに、まだ手がかりも得られていない状況で」
額に手の甲を当てながら、表情を曇らせるレエテ。ランスロットはちらりとナユタを見やりながら言葉を継ぐ。
「ああ、それに関してはどうやらナユタは、ドゥーマに向かうことを考えているみたいだ」
「ドゥーマ? たしか、ここから南方にある城塞都市で、5年前の戦乱の舞台になった最前線の場所だったっけ?」
「そう……。多少物騒で物々しい場所だけど、法王府から直線距離で最も近い都市。加えて王都ローザンヌへの中継地点でもあり、ルーミスの兄シエイエス・フォルズが立ち寄っている確率が非常に高いとみてのことらしい」
「そう――。だけど、都市に近づくということは、必ずサタナエルの副将以上との遭遇があるということ。それを踏まえた計画を実行しないとね」
「ああ、ナユタが考えてくれているようだから、君が聞いて実行に移すか決めてくれ。
けども――僕は少し疑問に思ったんだけど、質問していいかい、レエテ?」
少し改まった様子のランスロットに、顔を向けて目を開くレエテ。
「なに……どうしたんだい?」
「サタナエルはこれまで数百年、大陸のほとんどの人々が名前すら知らず、たとえ名前と組織について聞いていてもナユタのようにおとぎ話の存在としか信じていなかった人が大半だった。
それがレエテ、君のダリム公国コロシアムでの行いによって、一気に人々がその内実について詳細に知る存在となりつつある。
最初の頃こそ、奴らが君を狙うのはその秘密を漏らすまいとする口封じ、もしくは秘密を公開する行動を行ったことへの処罰かと思ってた。けど、もはや君はそこまで組織の総力を上げて始末するほどの存在ではないんじゃないか? 秘密がおよそ秘密でなくなった以上もう放っておこう、と判断することもあるんじゃないか、って思ってね。どうだろう?」
レエテは、やはり疲労が濃かったのか、ランスロットの質問に再び目を閉じてしまった。
そして消え入りそうな声で、ランスロットの問いに言葉を返す。
「それは……私を放っておくことは……あり得ないよ、ランスロット。なぜなら奴らが最も脅威を感じているのは、私自身の行為や存在、ではなく……。私の中に流れるサタナエルの血、だから」
「あ……!」
「そう。奴らが何を犠牲にしても……避けたいのは私にサタナエルの血を受け継いだ子供を産まれること……。これまで数百年、徹底した血統管理と同時に血統の流出も防いできた奴らよ。
暗殺者として派遣される、生殖機能を奪われた男と“魔人”は別として――。少なくとも『一族』の女子としてはおそらく私以外、誰もあの『本拠』から外に出た者はいない。奴らにとって今の状況は、未曾有の危機なの。
一年放っておいたら、それだけで一人子供を産まれてしまう可能性がある。奴らとしては全力を上げてとにかく一刻も早く、私の命を奪わなければ……ならない」
「そう、だったのか……」
「だから……この先もずっと……、奴らのほうから、最後の一兵まで、攻め続けてくる……。
……ごめん、少し疲れた…….。もう、寝るね……」
レエテの言葉は途切れ途切れになり……やがて、深い眠りに……落ちていった。
*
レエテは、一旦漆黒の暗闇になった視界が、徐々に――大きな粒の光点が外側の視界から徐々に、そして少しづつ大きくなるように――鮮明に見えてくるのを待った。
身体の感覚は、とても心地よい浮遊感と、柔らかい風が耳をなでるような静かな音に支配されている。
肌にも、とても暖かいぬくもりと、心地よい手触りのようなものを感じる。
やがて視界が完全に――開けてくるとそこに展開されていたのは、おそらく周囲を1200kmにもわたって完全に切り立った山脈に囲まれ――。高さ100mを優に超える、異常繁殖した異形の木々が一面に果てしなく織りなすジャングル。そしてその中で幾つか立ち並ぶ、数百mの山々の上に建設された石の建物、施設、宮殿だった。
そのどれもが、大陸の通常のいかなる自然、そして文化とも異なるまさに異形の地、だったが――。レエテにとっては懐かしさを感じる場所だった。――心地よいものと不快なものの綯い交ぜになった、奇妙な感覚を伴って。
レエテはそれを1000mにもおよぶ空から俯瞰して眺めていることになるが、まったく違和感は感じなかったし、感慨もなかった。
やがて視界は先程見えた施設の一つに移動し――急激に拡大したかと思うと一気に建物内部へと移動した。
そこは、極めて殺風景な、石造りの大広間だった。
飾り気は一切なく、規則正しく並べられた同じく石造りの寝台が20ほどあり、粗末な布を引いただけの場所に10歳ほどかと思われる女児たちが寝そべっていた。
女児たちが身につけているのは、ボロボロの布に縄の帯を引いただけの粗末極まりない衣服だけであったが――その身体には明確な特徴があった。
頭髪は、髪型こそバラバラだったが自ら発光しているかと見紛うばかりの、輝く銀髪。
瞳は、大きな黄金色。肌は小麦色の褐色。
そしてその中の一人の女児を見て――レエテの心臓は一瞬ドクン! と脈打った。
その女児は頭一つ身長が高く、髪を首の上で短く刈り込み、際立って整った顔立ちをしていた。
身体が大きい割に気が小さいようで、両膝を手に抱えてブルブルと震えている。
これは――私だ。ここは、11年前の『本拠』、アトモフィス・クレーター――。
そう感じた瞬間、レエテの視界は一気にすううっと女児の中に取り込まれ、彼女の視界と一体化した。
「レエテ、レエテ! だいじょうぶ? わたしが、ついてるからだいじょうぶよ?」
震えている子供時代のレエテを見かねて、近づいて背中をさすってくれたのは、幼馴染として最も彼女と仲良くし、面倒を見てもくれたアリア・サタナエル。
今にして思うと、レエテとどの程度血のつながりか濃かったのか分からない。
けれども当然同じ銀髪褐色の肌。髪型がストレートに長く伸ばした髪で、身体はすこし丸みを帯びて小さく、なによりそのしっかりして面倒見の良い性格にレエテは頼ってばかりだった。
「今日はずいぶんおいしいものを食べさせてくれて……。あのきょうかん、なにか明日の朝はだいじなくんれんがあるっていってたけど。しんぱいしなくていいよ。わたしが、ぜったい守ってあげるから」
「アリア……でも、きょうかんがあんなこといったつぎの日は、とってもひどいことがおきるでしょ。わたし、なんにもできない子だし、へびはこわいし……。きっとほかの子みたいにしんじゃうと思う……ひっく、ひっく」
レエテは震えながら反論する。
「そんなことない。レエテ、とってもびじんでやさしいし、だけどおこるとすごくこわいし。しっかりしたらちゃんとできる子なんだよ。だいじょうぶ。しんだりなんかぜったいにしないから」
その言葉に頷き、アリアに抱きつくレエテ。
*
「さあ、今日がお前たちの試練の日だ!! グズグズしてないでさっさと森に降りろ!! そして死ぬまで戦え!!!」
教官の怒号とともに、20人からなるサタナエルの女児たちは、次々と千尋の谷のごとく地獄の森へと突き落とされる。
「まったく……。早くギルドに復帰させてくれよ……こんな餓鬼どもの相手じゃなくてよ」
愚痴をこぼしながら容赦なく一人ひとり崖から突き落としていく、ギルド上がりの若い教官の男。
その次は――アリアの番だった。
彼女も、さすがに震えながらレエテと小さな手を握り合っていたが――意を決してその手を放した。
「レ……レエテ。わたしも、がんばるから。レエテ……ぜったいしなないよ。わたしといっしょにいようね……」
そして無情なる教官の手により――アリアは谷底に消えていった。
「アリアー!!!」
「うるさい! お前もさっさと行っちまえ!!」
これ以上なく手荒く、レエテは背中を強く押された。
身体が宙を舞い、100mに達するかという崖を落下していった――。