第三十六話 魔人ヴェル(Ⅴ)~一つの愛情の、形
*
「本拠」アトモフィス・クレーターより、はるか北東に離れた場所。
ドミナトス=レガーリア連邦王国首都、バレンティン。
超々巨大樹の上に建設された大陸で無二の都市の中心、インレスピータ宮廷。
最奥部の国王の寝室のベッド。厳重な看護体制が敷かれるその場所の中央で、国王ソルレオン・インレスピータはひどくやつれた貌で、苦しそうに眠っていた。
傍らには、それを心配そうに見つめる嫡男、キメリエス・インレスピータが居た。彼は父の手をしっかりと握りながら貌を見詰めていた。
重体となる傷を負ったエスカリオテの会戦の敗走の後、命からがらに辿り着いた居城。そこへ到着するまでに峠をこえ一命をとりとめた父だったが――。その後クピードーという魔導生物によって、衝撃の悲報がもたらされた。
愛息、次男ホルストースの戦死という事実に、悲しみに打ちひしがれたソルレオンは、見る見る憔悴し現在に至るまで予断を許さぬ状況が続いていたのだ。
自らも弟の死という衝撃に打ちひしがれはしたが、今は自分が父を支えねばならない。周囲が心配するほど付き添い続けていたのだ。
そのキメリエスの目の前で――。ソルレオンはゆっくりと、目を見開いたのだ。
「――親父! 大丈夫か。俺が、分かるか? キメリエスだ」
ソルレオンの落ち窪んだ目は、ゆっくりとキメリエスに向いた。
「……うるせえ……なあ。分かるに決まってんだろ。
まあ、心配してくれたことにゃあ、感謝しとくぜ、キメリエス……」
「……どういたしまして。その調子なら、心配なさそうだな」
「俺あな……今奇妙な、夢を見たんだ……」
「夢……?」
「ああ……サタナエルの……“魔人”ヴェル。俺のホルスを殺しやがったというクソ野郎が……。
レエテ・サタナエルに心臓を貫かれて……死んだって内容だった……」
「……!」
「それでな、根拠は、ねえが……分かるんだ。こいつは夢じゃなく、ドーラ・ホルスが俺に見せてくれた、現実の出来事だって、ことがよ……。
ホルスが命をかけて……従い守ったイイ女、レエテ・サタナエル。
あいつが、やってくれたんだよ、キメリエス」
そう云うと、ソルレオンはゆっくりと起き上がり、完全に上体を起こした。
「おい――! 親父!!」
「心配、すんな……。俺あもう、大丈夫だ。
こうしちゃ、いられねえんだよ。“魔人”ヴェルが死んだってことは、サタナエルも死んだってことだ。
やらなきゃならねえことは、腐るほどある……。新たな連邦王国を、ハルメニア大陸を作るためにな。
ホルスの死を無駄にしねえためにも、俺はやる。まだまだな。
さあ……わかったら着替えと、メシをたんまりと持ってきやがれ、野郎ども!!!」
*
その連邦王国からはるか西――。
カンヌドーリア公国首都、アヴァロニア。
その城の最上階で、慌ただしく公務に励んでいた、王国女王オファニミス。
その傍らには、オファニミスの身を案じてファルブルク城より駆けつけていた、ダレン=ジョスパンの腹心ドレークの姿があった。彼は多忙なオファニミスを支える副官の役目を買って出ていた。そして実際、有能なドレークは目覚ましい働きをしてくれていたのだ。
ある書類に目を通していたオファニミスの両目は突如見開かれ、動きが止まった。
そして書類を取り落とし、頭を抱える仕草をする。
「――オファニミス陛下! いかがなされました!? どこか具合が宜しくないのでは?」
心配し声をかけたドレークに、しばしの沈黙の後、オファニミスは視点を固定したまま応えた。
「……大丈夫、ですわ、ドレーク……。身体の具合ではありません。
今、突然わたくしの頭の中に――強く、情景が流れてきたのです。おどろくべき情景が」
「情景――?」
「そう。鬱蒼としたジャングルの中で、レエテ・サタナエルと“魔人”ヴェルと思われる人物が闘い――。
レエテがこれに勝利し、“魔人”を討ち取ったという、その様子が」
「……何と?」
「信じられぬのも、無理はありません。わたくし自身が信じられないのですから。
ですが――はっきりと云えないのですが、これはハーミアの啓示か何かのような、不思議な事象だと。間違いなく現実に起こっている事実だと、そう確信させるものでした」
「……」
「これが事実なら、大変なことです。大陸は大きく動き、我らが成すべきことはどっと増えます。真の平和のために。なさなければ、なりません。
そして――その情景の中に居た、シェリーディア。彼女の表情と様子を見てわたくしは、もう一つの事実について理解しました。
……ダレン……ジョスパン公爵が……。お従兄さまが、亡くなられたのだと、いうことが……」
「なんですと……! あの公爵殿下が……? 信じられません」
「わたくしも、信じたくは、ありません……。けれどたぶん、間違いなく事実……。
でも……もうわたくしは、それについては覚悟していました。前に、進まなければ……。
……お従兄さま……どうか……安らかに……。幸せな最期、だったと……信じておりますわ……うううううう……」
耐えきれず、公の場で泣き出したオファニミス。
ドレークになだめられても、しばらくその涙はとどまるところを知らなかったのだった。
*
そのカンヌドーリア公国から、東に少し進んだ、大平原。
ノスティラス皇国の国軍キャンプ。
中央の巨大な天幕の中に設けられた、一大医療施設。
様々な魔工医療危機が居並び、医者や魔導士が慌ただしく動くその現場で、イセベルグ・デューラーは険しい表情で指示を出していた。
中央のベッドで、二週間以上も目を覚まさぬ意識不明の状態が続く彼の主。
ノスティラス皇帝ヘンリ=ドルマンを一刻も早く回復させる、そのために。
ヘンリ=ドルマンはヴェルの手によって、左半身をズタズタにされ手足を失うという、到底死を免れない大傷を負った。だが奇跡中の奇跡によって、一命を取り留めたのだった。
しかし、意識を取り戻す見込みは全くなかった。このまま植物状態が一生続く。それが現実味を帯びてきている状況だったのだ。
イセベルグが何気なく視線を移した、主の貌。
それを見た彼は、一瞬にして刮目した。震えながら叫んだ。
「陛下!!!!! 陛下、お気づきになられたのですか!!!!」
慌てて駆け寄る、イセベルグ。
その彼の前で――ヘンリ=ドルマンは確かに、両目を見開いていたのだ。
皇帝は、周囲を見回し、かすかな声で、イセベルグに問うた。
「イセ――ベルグ。
妾は一体……どのぐらい……眠って、いたのかしら……?」
「……はっ! 2週間と、4日ほどになりますかと」
「そんなに……? ごめんなさい、諸卿にはだいぶ迷惑をかけたわね……」
そう云ってヘンリ=ドルマンは左腕に違和感を感じ、掛け布団の間からそれを出してみた。
それは、彼本来の腕ではなく――彫刻のなされたオリハルコンとイクスヴァ製の魔導義手であった。
「……まだ調整不足ではありますが、取り付けさせて頂いた次第。左脚は、少々お時間を頂戴したく。陛下は毎朝お化粧をなされますし、脚よりもまず腕であろうと」
「……ふふ、気が、利くわね……。本当に、ありがとう。大義だったわ。
ところでね、イセベルグ……妾は不思議な夢を見ていたのよ」
「夢、でございますか?」
「そう。できれば、四騎士やカールに、会いたかったのだけれど――。
それは、レエテと“魔人”ヴェルの壮絶な闘いの場だったわ」
仇敵であり、己を殺す寸前までいった恐るべき敵。ヘンリ=ドルマンは憎しみと恐怖の入り混じった固い表情を浮かべた。
「激闘の末、見事……レエテはヴェルに、勝利した。
まるで神話の絵画のような、荘厳な情景だったわ……。そしてそれは、ただの夢などではなく、ハーミアのごとき不可思議な力が、妾に現実を見せているのだと確信させるもの、だった……」
「左様で、ございますか」
「ええ……。やはり彼女は、偉大な人物だったわ。妾の目に狂いはなかった。そしてナユタも、大きな力となったに違いない。
……彼女たち、オファニミス陛下、ソルレオン陛下、貴男、ミナァン、その他生き残ってくれた皇国勇士たち。皆の力を結集し……大陸再生に、邁進しなければ……。
そのためにも、苦労をかけるけどできるだけ早く……左脚の魔導義足もお願いするわ……。イセベルグ」
*
「本拠」、アトモフィス・クレーター。
マイエの「家」付近の、ジャングル。壮大なる戦闘が行われた、その場所。
自らの心臓を掲げて死した、“魔人”ヴェル。
最終目的が達成されたことを、己の目で見届けたレエテは、充足感を感じるよりも圧倒的に、絶望的に自分の身体に迫る「虚脱感」を感じていた。
そして――突き上げる衝動とともに、胸の奥からの黒い血を、再び吐き出したのだ。
「ぐううう……ええええええ……」
そして落下するように膝を地に着け、胸を押さえてうずくまってしまった。
「レエテ!!!! レエテえ!!!!!」
「――レエテ!!!!!」
「だめだ……だめだそんな!!! レエテ!!!!!」
必死の形相でレエテに駆け寄る、ナユタ、シエイエス、ルーミス。
シェリーディアも駆け寄りたかったが――胸に拳を当ててその衝動をぐっとこらえた。
肩を抱きかかえるシエイエス、貌を覗き込むナユタ、手を取り握るルーミス。
顔面蒼白な彼らに、倒れそうになる身体を全力でこらえて、微笑みを返すレエテ。
「みんな……。
私は、やったわ……。ヴェルを……最期の仇を、斃した……。
マイエの、皆の……ホルストースの、ランスロットのキャティシアの、仇を、取ったわ……」
「レエテ!!! もういい!!!! 喋るんじゃあない!!!!」
「そしてごめんね、みんな……。私は……これでもう、『衰弱期』に、入る……。身体をほとんど動かせない寝たきりの状態になって……。進行の早さから、いって……それからほんの何日かで、核が停止して死を迎えることに、なるわ……」
「!!!!」
「――!!!!」
「そんな……そんな!!!!」
「わがままを云わせてもらえる……なら……。
このまま、私の、『家』に……連れて、行って……。
私、そこで死にたい。最期を、迎えたい……。懐かしい匂いの、中で……皆の思い出の中で……。マイエも、一緒に寝てくれた、自分のベッドの上で……死にたいの……。
お願い……そうして、シエル……」
弱りきった視線を自分に向ける妻の貌を、シエイエスは見ることができなかった。
自分の、目を覆い尽くす涙の塊で。
ナユタも、ルーミスも言葉を発することができなかった。
枯れることのない涙を流し続け、嗚咽をもらし続けることしか、できなかった。
遂に、現実のものとなってしまった。恐れ続けた、「寿命」が。
間近に迫った、認めたくない、別れ。
それを避ける術は、もう本当に、ないのだ。遂に――現実を受け入れるしか、ないのだ。
それを遠巻きに見ていたシェリーディアも、涙していた。嗚咽のもれる口を必死で押さえていた。
何て、可哀想なんだろう。生まれた瞬間から地獄を味わい、大切なものを奪われ――這いつくばって死に物狂いでそれを精算した瞬間、無慈悲な死を迎える。
ほとんどが不幸で埋め尽くされた太く短い、人生。彼女には幸せを得る権利があるはずなのに――。神というものがあるなら、彼女を何のために生み出したのか。無念の思いがこみ上げる。
真の絶望が支配した、その場所。
そこへ、ただ一つの冷静な、澄んだ声が響き渡ったのだ。
「――レエテ。
あんたにはまだ――選択肢が、残されている。
今からあたしの云うことを良く、聞け。そしてそれを聞いて、決めろ。
それこそが――ヴェル様から与えられたあたしの、任務だから。このレーヴァテインがあんたをここへ誘い、最期の激闘を見届けた、理由だから」
レーヴァテイン、だった。
彼女の手は、あるものを持ち掲げていた。
それは――死した“魔人”ヴェルが今の今まで己の右手で掲げていた、自身の心臓。
核に、他ならなかった。
驚愕の表情で固まる一同をよそに、レーヴァテインはレエテの前まで歩き、彼女の仲間達に、云った。
「あんたらは、どけ。今からあたしが、こいつと話をする」
超然としたその態度に、ナユタ、シエイエス、ルーミスは――。
一言も反論することなく、レエテから離れた。
その前に屈んで、レーヴァテインはヴェルの核を差し出し、云った。
「レエテ。サタナエル“魔人”はな、過去幾世代にも亘り――。七長老がとうにあきらめた寿命の克服の手立てを、探り続けてきた。組織を、より良い方向へ導くために。一族の長として、一族を救うために。
決して書物には残らない、秘密裏にね。代々の“魔人”に、一子相伝でだ。長老どもに主導され、利用されるのを防ぐために」
「……!!」
「おおかた、それは失敗に終わったが――。たった一つだけ、成功した方法が、あった。
それは、他者の核を直接自分の核に取り込み、融合させること。
それによって、『寿命』を迎えていた対象者――三代目“魔人”スランは復活し、五年間生き続けることができた」
「――!!!」
「ただし――この方法を使えるのは、親子もしくは、双子の兄弟、のみ。普通の兄弟じゃなく、同じ子宮を共有した同じ遺伝子の者のみだ。
“魔人”スランも、提供を受けたのは直前に死んだ一卵性双生児の弟からだった」
「そんな――!!!」
「こんなことが七長老に知れれば、心臓のスペアなんて馬鹿げたものを大量に確保するために、奴らによるさらに非人道的な血の操作が行われるだろう。だから、隠し続けた。
そしてそれを知る、前“魔人”ノエルは、自分の息子を長く生かしたいと強く望んだ。
このヴェル様の核は――ノエルのそれと、融合したものだ」
「お父さん、の――!!??」
レエテは驚愕し、眼の前の核をまじまじと見つめることしかできなかった。
「近い遺伝子を持ちながら、あんたにだけ寿命が来てヴェル様がそうでなかった理由さ。
そしてヴェル様は、『家』に向かう直前、あたしを呼び任務を与えた」
「……」
「すなわち――『レエテ・サタナエルと俺が闘い、仮にもしレエテが勝利したのならば――。
この事実をレエテに伝え、選ばせよ。仇の命で生をつなぐか、運命を受け入れ死ぬか。
我が妹に、俺の命、くれてやる。そのために貴様は見届人となるのだ、レーヴァテイン』とな」
「……そんな……そんな……」
「こうも仰っていた。『俺が勝利しても、レエテの核を利する気はない。俺にはサタナエルを危機に陥らせた責任があるゆえな』と。先に知れば、あんたは動揺し実力を出せないだろうから、最後まで知らせないともな。
……方法は、簡単だ。その左胸を切り裂き、自分の核にヴェル様の核を触れさせるだけだ。そうすれば自然に、核は他のそれを取り込み吸収する。不思議な、もんだけどね」
「ぐ……うう……」
「ヴェル様とあんたは二卵性双生児だから、100%成功する保証はないが――。どちらにせよ早く選ばなければ、ヴェル様の核は壊死し、吸収は不可能になる。
さあ、選べ。この核を手にとるのか。それとも拒否し、自然の死を受け入れるのか」
突然現れた、思いもよらぬ生存への道。
レエテは――激しく逡巡した。
実の兄の、しかも父のそれも融合した心臓を食らう。それに等しい禁忌を伴う意識が、拒否反応を起こさせた。そのために殺したのではないとはいえ、世間から見れば到底受け入れられない行為だろう。
そしてまた、ヴェル自身が云ったとおり、憎き最大の仇敵である彼の命を吸い取り生きながらえること。そのことも、大いに心が拒否をした。
だが――。復讐を果たした今、レエテの心は動いてもいた。
兄としてのヴェル、という意識は、強くなっていた。そんな彼が、実は自分を妹として、このような選択肢を己の犠牲とともに用意してくれたことは、衝撃と感動をレエテの心に与えていた。
父と、兄が自分の中で生き続ける。それは、幸せなことではないか?
それに、それよりも、何よりも――。
「レエテ!!!!! お願いだよ!! 核を受け入れてくれよ!!!
生きてよ!!! あたしはあんたと!!! 生きたいんだ!!!!!」
「レエテ――頼む――!!! 俺はお前を、失いたくない! これからも、俺の、妻として、生き続けてくれ、お願いだ――!」
「そいつの云うとおりに、してくれ、レエテ!!!! オマエはオレ達に必要なんだ!!!!
施設の子供たちだって、エイツェルだって、居るじゃないか!!! 生きてくれ!!!!!」
突然現れた神の手のごとき、生存への道。
それを知ったナユタ、シエイエス、ルーミスは、泣いて手を着きながら、なりふり構わず必死に懇願していた。
そうだ。自分には、この仲間たちがいる。
彼女らを、悲しませたくない。そして自分は彼女らと、ともに生き続けたい。
ルーミスの云うとおり、レエテの手に委ねられた小さな命たちの存在も、ある。
後ろめたさを感じることは、ない。
やるべきだ。全ての迷いを、捨てて。
レーヴァテインも口を開く。
「あたし個人の思いとしても、受け入れて、欲しい。
ヴェル様の温情を、無駄にするな。妹として。そしてあの方があんたの中で生き続けてくれるというなら、あたしも、幸せだから。
やれ……すぐに、やるんだ!!」
最後の背中を押され、レエテは貌を歪めつつも、眼の前の核を、震える左手で受け取った。
そして、右結晶手で左胸を縦に裂き、開口部に――。
意を決して核を強く、押し込んでいった!