第二十六話 第一席次(ディエグ・ウヌ)(Ⅰ)~偉大なる男の病理
アトモフィス・クレーターを覆い尽くす、果てしない巨大なるジャングル。
この場所を、鳥の視点ではるか上空から俯瞰したとき、一つの目の中の小さな瞳のように見えるであろう、黒点。
中心に巨大な口を開け、正午の太陽の位置でも底の一切を見せることのない、文字通りの漆黒の闇。それが存在する、この世でただ一つの場所。
それが“深淵”だ。
アトモフィス・クレーターに存在する湖沼や高山の雪解け水は、ところどころで川を形成するが、それら水源は全て、この“深淵”へと最終的に落ちる。決して、水音を響かせることのない、ただ一つの瀑布を形成しながら。
レエテ・サタナエルは人生で2度、この“深淵”を訪れている。
しかも、その2度ともに人生でも屈指の死の危険にさらされ――屈指の強烈な体験を身に刻んでいる。決して、忘れようのない場所なのだ。
レエテは後ろに続く仲間の、特に最も足の遅いシエイエスに合わせたスピードでもって、先頭を走っていた。そのレエテに、先導する意味はないと知りながらも、並走するレーヴァテイン。
やがて――明らかに“深淵”に至る開けた場所と思われる、強い光が樹々の間から差すのが見えた。
その手前に――鈍重な動きで地響きをたてる、深緑色の体色をしたトロール・ロードが3体、一行の行く手を塞いだ。
足元に転がる、好物であるユニコーンの肉を食らいつくし、尚足りぬといった面持ちだ。
5mもの巨大な体躯をもつ岩山のような肉体は、「本拠」内ですでに幾多の怪物どもと遭遇したシエイエスやルーミスにも、一瞬視覚的な威圧を与えた。
が、レエテは――極めて鋭い視線でこれを睨み、歯ぎしりをしつつ結晶手を出現させた。
「ここへきて――立ち塞がるのがお前達だとは、宿命のようなものだな。
私は、お前達が、大嫌いだ――! 立ち塞がる気なら、容赦はしない!!」
そう云って、歯車を一気に二段階も三段階も切り替えたかのような、とてつもないスピードで――。
レエテはトロール・ロードの集団に殺到した。
――それが作り出す、頬をなでる突風と殺気に、レーヴァテインは心ならずも青ざめた。
レエテはまず、右側のトロール・ロードに襲いかかった。意外なほどのスピードで襲いかかる巨大な手を難なくくぐり抜け、すり抜けざまにその腕を切り刻んで肉片に変えて落とす。
そして悲鳴を上げるトロール・ロードに、“円軌翔斬”を仕掛ける。
正中線を深々と切り裂かれたその個体は、為す術なく大地に崩れ落ちる。
中空高く上がったその勢いを殺さず、レエテは中央のトロール・ロードの肩口に上空から乗りかかる。そして間髪入れること無く、結晶手で――直径1m以上に達する巨大で厚い頭蓋骨を、脳天から粉々に砕く。
崩れ落ちるその個体に乗ったまま地の高さまで下がったレエテは、残った唯一の個体に向けて、屍体の上でそのまま力を溜める低い姿勢を形作った。
云うまでもなく捻り上げられた右手は、解放されると同時に猛烈なスピードで回転をかけ――。
全身の全ての力を集約させ、最後の個体の脇腹に到達させた。
“螺突”。その絶対の破壊力を内包した滅殺の渦の前に、頑強な筋肉と骨格で形成されるはずの巨大な胴体は――。たちまち血の詰まった風船のごとくに破壊の限りを尽くされた。
一瞬にして、凄惨な虐殺の場を創り出し、巨大生物の桁違いの量の血液を周囲に撒き散らせてそれをかぶる、悪鬼羅刹のようなレエテの姿。
トロール・ロードに対しては――。かつて自分も殺されかかり、最愛の幼馴染であったアリアを食い殺された無残な思い出が影響しているのは確かだろう。
だがそれ以上に、今のレエテからは「守るべきもの」ができたことに対する強すぎる思い、そして――。これまでの長い長い戦いの最後の標的達に対する、凄まじい怨念が噴火せんばかりに強大な熱をもって体内に渦を巻いていることをまざまざと感じさせた。
原点に立ち返って、究極の姿に達しようとしている「復讐鬼」レエテの姿に――。
彼女がそうなることを予期していたにも関わらず、背筋を凍らされるような戦慄に打ち震える一行だった。
そしてついに――。
一行は樹々の間を抜け、このジャングルの中でもっとも空に開けた場所である“深淵”へと到達したのだった。
何も、変わっていなかった。その威容と、恐ろしさが。
訪れた経験のあるレエテとレーヴァテインはそう感じた。
そして生まれて初めてこれを目にするシエイエスとルーミスは、最初に“深淵”を前にしたものに必ず降りかかる洗礼――。神と自然の雄大さと人間の卑小さを思い知らされると同時に、生物が宿す根源的な、死への恐怖というものを再認識させられていたのだった。
その、死を体現した風景の中に――。
一つの人影が、あった。
その人物は――。“深淵”の縁に立ち、雄大な瀑布を見詰め続けていた。
かつて、レエテが唯一人組織の追跡の手を逃れ、極限の恐怖に打ち勝って底へと飛び込んだ、死の断崖を。
後ろ姿は、白い法衣と背筋の伸びた長身、風になびく長い白髪によって、天上の神人ででもあるかのような浮世離れした様相を形作っている。
やがてゆっくりと振り返った、年老いた年輪を感じさせる精悍さ、叡智を漂わせる極めて知的なまなざしを持つその貌は。
サタナエル七長老の長、“第一席次”にして――シエイエスとルーミスの祖父、クリストファー・フォルズその人であった。
髭のない、厳格な形を形成する口元が動き、重々しい言葉を口にする。
「辿り着いたか――シエイエス、ルーミス、そしてレエテよ。待っていたぞ。
レエテ。お主にとって忘れられぬであろう、この場所で。約束どおりな。
お前達の方は――約束どおり、『施設』の産前棟で、辿ってきたのか?
サタナエルが生まれ、今に至るまでの、200年の時を」
それに応えるように、レエテが進み出る。
すでに彼女の貌は悪鬼のような怒りと、刺し連ね尽くすような殺気に覆われている。
「ええ……辿ってきたわよ。
サタナエルの創始者、ケテル・デュメルスカールと、それを全面的に支えた一族の始祖、クリシュナル・サタナエルの物語をね。
そして――どういう理由なのか、その二人がシエイエスと――私に瓜二つの姿だったという、悪い冗談だとしか思えない事実もね」
冷静に言葉を発しながらも、結晶手が発現するのを止められないレエテを制止するように、シエイエスが前に出た。
「サタナエルの創生については、十分に知った。後は――おそらく創始者らと俺たちとの関わりを持つであろう――。クリストファー、貴方があのとき口にした『フォルズ家の宿命の秘密』について、この場ではっきりと聞く。残すはそれだけだ」
それを聞いたクリストファーは――ゆっくりと目を閉じ、語り始めた。
「――よかろう。聞かせてやる。
我らの家門、フォルズ家がいかに生まれ、どのような役割を負っていたのか。
そして私が何故、いかにして滅びの道を往こうと思ったのかをな」
それを聞いたレエテは一旦膨大な殺気を抑え、シエイエスとルーミスは固唾をのんでクリストファーの次なる言葉に集中した。
*
ケテル・デュメルスカールは、妻に迎えたクリシュナル・サタナエルとの間に、4人の子を設けた。
男子が一人、女子が三人。現在では周知の事実だが、子供たちは全員、銀髪褐色の肌に黄金色の瞳という、クリシュナルの特徴を完全に受け継いだ。もちろん、後天的にクリシュナルが得た結晶手も。おそるべき身体能力も、再生能力も受け継いでいた。
それを知ったケテルは当初、大変に喜んだ。この無敵の血を受け継ぐ最強の戦士で組織を固めれば、自分が理想とする世界を恒久的に維持できる。それに相応しい、1000年は通用する組織体制を整えねばと、年月をかけてケテルは邁進した。
しかし――その目論見は修正を余儀なくされることになる。
妻クリシュナルが28歳を迎えた歳に、突然大量の黒い吐血症状を呈したからだ。
「寿命」の到来である。
クリシュナルはケテルへの愛と、見捨てられることを恐れるあまり、自分の寿命についての事実を明かしていなかった。
ここに至って初めて真実を知ったケテルは、まず悲しみと絶望に打ちひしがれた。
1ヶ月をかけて徐々に死に向かっていく愛おしい妻。手のほどこしようもなく――。最後に「ごめんなさい、ケテル……」との言葉を残し、クリシュナルは息を引き取った。
しばらくは毎日、妻の墓の前で泣き崩れるケテルだったが、そのように足を止めている猶予はなかった。
4人の子供たちは、当時5~10歳の子供。妻が明かした「寿命」の詳細が事実なら、10年を過ぎた段階で子供たちも次々と寿命を迎えていくことになるのだ。
こうしては、いられなかった。ケテルは組織の総力を上げて寿命の克服を研究させるのと同時に、20~30歳で寿命を迎えてしまう今後の自分たち子孫「一族」が、確実かつ恒久的に組織を守り支配し続けられるシステムの構築に舵を切らざるを得なかった。
ケテルの思いと裏腹に、寿命の克服は絶望的だった。そのような方法は見つかる希望も見いだせなかった。
徐々に、ケテルの精神は病んでいった。堅牢な組織体制の構築を求め、彼はついに「女子」を切り捨てることを選択した。頂点の“魔人”とそれ以外の男子、“幽鬼”の贄にすることを定めた。
そしてもう一つ――。妻クリシュナルへの後ろめたさを感じながらも、ケテルは組織の幹部の複数の女性を妾として迎えた。そうして出来た通常人の子供の中から、最も優秀な一人の息子に、陰ながら「ケテル」の分身として組織を管理し続ける役目を託すことにしたのだ。
彼の名は、ロメオ・デュメルスカール。
やがて、老境を目前にしたケテルの目の前で、クリシュナルとの愛の結晶の子供たちは次々寿命を迎え、死んでいった。しかし、組織の中で結ばれた通常人の伴侶との間に、多くの子供達を残していた。その数――男4名と、女8名。
ケテルは――長年をかけて構想してきた悪魔の組織体制を、この己の孫の代からついに決行することに決めた。
男子と女子を分け、別々の教育を施し、10歳になった女子の追放――。悲劇はこのとき、幕を開けたのだ。
そして――この己が組み上げた組織体制を監視する機関、“七長老”を立ち上げ、初代“第一席次”に自ら就任した。
さらに、これまで十分な洗脳教育を施してきた息子ロメオに、己の古巣であり戒律でサタナエルが不可侵である法王庁に居を構え、名前を変えて家門を持つことを命じた。
壮年を迎えていたロメオは――妻とともに一般の聖職者としての、サタナエルとは一見何の関わりもない家門を構え――。
自らを「ロメオ・デュラル・フォルズ」と名乗り、営々と家を存続させる地盤を固めたのだ。
ケテルの目的は、“第一席次”を唯一、組織のほぼ誰にも正体を知られず、名前を知られることもない、世俗から徹底的に距離をおいた絶対者とすることにあった。
それによって、あらゆる組織の内紛や仲間の情、欲望にまみれた悪意に汚染されない、「正しい」判断を下し続けることのできる管理者を生み出すのだ。
やがて、ケテルが老衰によってついにこの世を去ると――。
ロメオは正体を隠し、法王庁の表の貌と、裏の“第一席次”の貌をもつサタナエルの影の支配者となった。
そして、「フォルズ家」は、代々“第一席次”を受け継ぐ、悪魔の家系となるに至ったのだ――。
*
言葉を切ったクリストファーの前で、シエイエスとルーミスはショックを隠しきれない様子で、視線をさまよわせブルブルと震えた。
ルーミスが口を開く。
「狂っている……。完全に。ケテルは、そこまで理性をなくしてしまったのか。そんな馬鹿げた体制維持のため、フォルズ家は創られた――。そして、そして――!」
ルーミスが視線を向けざるを得ない先、レエテの横顔。
それを見てクリストファーは、重々しく頷いた。
「そうだ。お前とシエイエスを始めとするフォルズ家、そしてレエテを始めとするサタナエル一族は――。同じケテル・デュメルスカールを祖とする、遠戚同士に他ならぬ。
……とはいえ安心せよ。お前たちでいえば、200年近い時を経て7世代、10親等以上に渡って血が離れておる。完全に他人も同然だ。シエイエス、レエテ。お前たちが結ばれたとて、血の禁忌を犯していることには決してならぬ」
それを聞いたシエイエスは、鋭くクリストファーを睨みつけ、問いただした。
「真実は、理解した。フォルズ家の持つ秘密に関してはな。
だが貴方は、貴方の父から受け継いだはずの、“第一席次”の座とそれにまつわる真実を、子である我が父アルベルトにも――。孫の俺達にも一切受け継がせなかった。それは、ケテルの思想に真っ向から反するもののはずだ。
貴方の目的は何だ。なぜあえて思想に反逆し、恐ろしい変動を世界にもたらすような行動に出たのだ。俺達を、レエテらを利用する行動に出たのだ。
それを――俺達は聞く権利があるはずだ」
シエイエスの言葉に頷き、クリストファーはさらに続けたのだった――。




