第十話 絶対破壊者フレア(Ⅷ)~すれ違う、求めし者と与えし者
*
そこは――。
建物の、中だった。石造りの、無骨で大きな建物。
「ナユタ――。ランスロット――」
背後からかかる、うっそりとした男の声。同時に――尻に感じる、生暖かい手の感触。
「きゃああああ!!! いつもいつも――この、エロ爺いがあああ!!!」
その当時――齢18になったばかりのナユタは――。怒りと羞恥の嬌声を上げて、振り向きざまに“赤雷輪廻”を放った。
瞬間温度が数千度にも達する業火の環は、しかし一瞬にして無力化され――消滅した。
信じがたいほどに強力な、耐魔によるものだ。
その行為を成し遂げた、脅威の魔力の持ち主たる、白髪のダンディズムあふれる長身の老人。
整った貌に皺を寄せて、極めて好色な笑いを口元に浮かべて老人は云った。
「ふむ……日毎に触り心地が向上しておる。悪く思うな。このようにけしからん身体に育ったお主が悪いのであって、儂はあくまでそれを戒めるために――」
真面目くさった老人の言葉は、ナユタが放った渾身の平手打ちで止められた。
すさまじい破裂音。その威力に、老人は頬を両手で押さえ、うめき声をあげながら尻餅をついた。
「うごおおお……お主、師匠に向かって、ここまで本気で……おおお」
「アリストル大導師……。本当に毎回毎回、懲りませんね貴方は。詭弁にもなってないです。いつでも常に完全に、貴方が悪いですよ……ほら、ナユタ、落ち着いて落ち着いて」
なだめすかすように云う、ランスロット。ふーっ、ふーっ、と肩で息をして激怒するナユタはそれに応えず、アリストルを睨みつけるだけだった。
そう、破廉恥な行為を働いた目前の老人こそ――アリストル・ダキニ・クロムウェル大導師。
ナユタの魔導の師にして、大陸最強の魔導士。
だがここ、ノスティラス皇都ランダメリア内に有る大導師府の日常においては――。スタイルの良い女弟子たちの身体を日々まさぐる、およそ偉大な存在から程遠い行為を繰り返す困った老人でしかなかった。
怒りに身体を震わせながら立ち去ろうとするナユタを、アリストルは呼び止めた。
「待て……ナユタ。お主に話があるのだ。儂の書斎まで、ランスロットとともに来るのだ」
「誰が……大人しく行くと思ってんだ? うら若い乙女を部屋に連れ込んで、とうとう越えちゃならねえ一線を越えようってのか、このドエロ爺いは!」
「……相変わらず、美人なのに口が悪いなお主は。違う違う、本当に真面目な話なのだ……」
「で……話ってのは何なんだよ」
大導師の書斎のソファにふんぞり返って、艶めかしい足を組むナユタ。この年頃らしい瑞々しさと、そぐわない性の魅力という二面を身体に併せ持つナユタは、どのように振る舞っても男の目を釘付けにするほどの色香を発散していた。大導師のお気に入りになっている現状、謂れなき肉体関係をささやかれて同期のねたみを得るのが通常だが、そうはならなかった。ナユタの豪放磊落、気さくで優しく仲間思いの性格が皆に心底好かれていたからだ。
アリストルは自身の大きな椅子に腰掛け、上等な造りの机の上に肘を付き手を組むと、ナユタに云った。
「ナユタ。お主、フレア・イリーステスを、どう思う?」
ナユタは怪訝な表情で、ランスロットは含む所のある難しい貌で、大導師を振り仰いだ。
「フレア? 半年前に入ってきたばっかの、あの綺麗だけど大人しい眼鏡の子か?
まあ、才能はあるんじゃないか? もうすでに酸素操作魔導を使えてるってことからして。修行も雑用もほんとに一生懸命やってるし、あたしの好きなタイプの子かなあ。
入ってきてすぐ位? に少しだけ話したことがあるけど、あたしと同い年らしくて親近感もわいたよ。
あの子がどうかしたのか?」
「うむ、ならばいい……ここだけの話にして欲しいが……。フレア、あやつはな、己の出自を偽っておるのだ」
「?」
「ランダメリアの職人の子、という出自は嘘だ。人をやって調べ上げた。本当の出自を調べようとしたが――それはどのようにしても掴むことはできなかった」
「そう、なのか。けど――わからねえな。何で、そこまでしてあの子のことを調べたんだ?」
「あやつはな――おそらく娼婦の出身だ。それも、子供の折りからの、な。
それが、儂にはすぐに分かったからだ。普段の仕草一つ一つからな」
それを聞いたナユタは、悲しげな表情で下を向いた。アリストルは故郷ボルドウィンでの少年期、劣悪な環境のもと両親に男娼を強制させられ金づるにされていたという、凄絶な過去を持っていた。それをナユタは知っていたからだ。
「それゆえゾラドスも調べてみたが、そのような名前の子が居た事実はなかった。他の土地でゆえあって従事させられ、逃れてきたのだろう。
個人的な感情と思うかも知れぬが、そういう訳で儂はあやつが不憫でならなくてな。
きっと劣悪な環境での抑圧から、力を求めてここへ参ったのだろう。儂にはそれが痛いほどわかる。だから目をかけ教えてやりたいし――。ナユタ。お主のように良い心をもって人を導ける素晴らしい子に、ぜひ仲良くしてやってほしいと思っておるのだ」
「なっ……なん……だよ、藪から棒に……! そりゃあ、あたしはお師匠とドルマン師兄を除けばここで最強だと思ってるし、友達も多いけど……! そ、そ、そんな急に褒めたって……なにも出ねえぞ……!! そ、そうだよ! あ……あたしじゃなく師兄に頼めばいいじゃんかあ!」
自分に対する、アリストルの不意な賛辞に、髪の毛よりも真っ赤に貌と耳を染めて照れるナユタ。それを隠そうとするかのように、そわそわしながらもわざと突っぱねる素振りを見せる。心より尊敬する師に褒められたことが、嬉しくて嬉しくてたまらないのだ。
その様子を見たランスロットは、必死で笑いを堪えていた。後でこのときのことを散々にからかいのネタにするつもりだろう。
アリストルはゆっくり首を振った。
「駄目に決まっとるだろう。ドルマンは心はともかく男だし歳が離れとるし、性格に難がありすぎる。他でもないお主に頼みたいのだ、ナユタ。お主にしか、頼めぬことなのだ」
畳みかけられる、嬉しすぎる賛辞の言葉。遂にナユタは、湯気が出そうな真っ赤な貌のまま震え、口をパクパクさせて固まってしまった。
そしてしばらくして、勢いよく立ち上がってドアに向かった。
「わわ、分かったよお!!! フレアに話しかけてやるようにするよ、それでいいんだろ!!! お師匠!!!」
そしてドアを開け、走って出て行ってしまった。
おそらく自室に戻ってベッドに潜り込み、一人丸くなって嬉しさに身悶えするつもりだろう。
アリストルは、それを見送った後、深い憂慮に沈むように遠くに視線を向けたのだった――。
それ以来、ナユタは不憫な出自への同情もあって、フレアに積極的に話しかけるようになった。
結局口数の少ないフレアとは、親友とまではならなかったが、数多くの友人の一人にはなった。
やがて自分を追い越し、門下の第二位になったときでも、ナユタはフレアに心からの賛辞を送った。
だが、ナユタのその心が――大導師の憐憫の情が――。
生来の悪魔に届き、暴走を止めるという結果には――至らなかったのだ。
*
ボルドウィン魔導王国、ラーヴァ=キャスム山頂。
かつての妹弟子フレアの、死の攻撃を間近に受ける絶対絶命のナユタ。
光陰のごとくの極々僅かな瞬間の、ナユタの想念は続いていた。
(お師匠――。あんたのことは心から尊敬してたけど、あたし多分、小娘なりにあんたに恋してもいたと思う――)
そう、師弟を超えた感情を、大人の今になって思うのだ。
(そしてお師匠。あんたは、自分と同じ境遇のフレアへの憐憫に始まり――。師弟関係が深まるうちに、フレアを深く愛しちまっていた。そうなんだろう?
でなきゃ如何なあんたでも、フレアの籠絡にみすみす引っかかる訳がない。
抱きたかったんだ、フレアを。その一度きりのチャンスのためなら、死んでも良いとまで思った。
恐ろしさゆえに封印した絶対破壊魔導でさえ、むしろ与えてあげたいと思った。そうなんだろう?
――あたしがフレアを深く恨んだのは、勿論父代わり、師匠としてのあんたの死に対する怒りゆえだ。
けれど――好きなお師匠の心をそこまで奪い、究極の選択をさせたフレアへの、強い嫉妬もあったんだ。
それがあたしが持つ、フレアへの強い強い執着の、正体だったんだ――)
そしてナユタは、一度ぐっと歯を食いしばると、渾身の耐魔の体勢に入った。
両手を握りしめ、腕を胸の前に組み、腰を落とす。
「ぬううああああああ!!!!」
絶叫とともに、両腕を一気に広げ――。
二つの原子壊灼烈弾を、弾き飛ばす!
ナユタの両脇に、放射状に拡散していく赤い魔導の光は、余波の力をもって周囲の岩石に突き当たり消滅させ、マグマに放射されてほんの僅かその存在を消した。
最悪の難を逃れたものの――。
その代償は、凄まじい消耗だった。ナユタは未だ残る自魔導による氷床の上にがっくりと膝を付き、肩で息をした。
フレアはまだ十分に余裕を残しているというのに、ナユタはその状態で火口の脅威から逃れ得ていない絶体絶命の状況。追い詰められている状況。
しかしナユタは――。強烈な意志を込めた視線でフレアを上目遣いに睨むと、言葉を発した。
「フレア……てめえが殺した、アリストルお師匠はな……。
自分と似た過去の境遇から、てめえに本当に目をかけてくれてたはずだ」
「……」
「てめえが薄汚え野望に邁進し、自分を利用してることも――。そのために他の弟子を罠にかけるような卑劣なマネをしていることも――。全部気付いた上で、てめえに技を伝授し、第二位になるまで引き上げた。それほどまでに、だ。
そして、きっと――。最後は、自ら望んでてめえの手にかかったはずだ。殺されることを知った上で、てめえを自分の意志で抱いたんだ。
そう、思ってた貌じゃなかったか? そう、最後に、告げられたんじゃ、ねえのか……? お師匠に」
フレアは、ナユタのその言葉に目を見開いた。
その脳裏に、師匠の今際の際の様子が、鮮やかに甦ってきた。
自らが馬乗りになった状態で、眼下に全裸で横たわる、師の姿。
思い残すことはない、といった表情で、その目は深い深い慈愛に満ち――。
自らの愛情の全てを、自分に向けて――。一言、こう云ったのだ。
(フレア……お主のこと、愛しておる……。願わくばいつまでも、いつまでも達者にな……)
直後、フレアが振り下ろす凶刃が、胸を貫くその瞬間まで、アリストルが女としての自分に向ける表情は、変わることはなかったのだ。
その情景が脳を貫き、フレアの表情は一瞬、苦悶に歪んだ。
そして唇を噛み、貌を伏せる。
だが――数秒の後、貌を上げたフレアの貌は、魔女としての冷酷非情な笑みに支配されていた。
顎を突き出し、嬌声を上げながらフレアは応えた。
「アハハハハ!!! そうよ。その通りよ。ナユタ。
あの爺いは、私を抱いている間、本当に心から満足していた。そして死の間際まで、私に慈しみの目を向け、『愛している』と云って果てた。貴方が見抜いた通りにね。
想像と違ったから戸惑いはしたけど――。それ以上完全に、何の感情も湧いてこなかったわ。むしろ、5年の間ずっと、孫のように歳の離れた私をそんな目で見詰めてたんだと思って、気持ち悪さに身震いしたぐらい。死んでくれてせいせいしたし――。絶対破壊魔導が手に入った事で頭がいっぱいだった……それだけ。フフフ」
ナユタは――。
自分でも不思議だったが、大切な師を冒涜する仇敵の台詞にも、怒りは全く湧いてこなかった。
湧き上がったのは、意外にも強い憐憫の感情だった。
この女は――憐れな自己矛盾の塊だ。
他人からの絶対の愛情を望みながら、いざそれを向けられると、常に己の欲望を優先させ、相手に不幸だけをもたらす最悪の結果でもって報い、愛情を遠ざけているのだ。
ナユタしかり――。アリストル、しかり――。
愛情を得て、人並みの幸せを得る機会は、不幸な生い立ちを拭い去る機会は、フレアに十分に与えられていた。
ナユタが親しくしてくれたとき、積極的に友情を深めていたら。
アリストルの愛を受け入れぬまでも、向けてくれる相手に感謝し、別の愛情を探し求める道を選んでいたら。
誰も不幸にならずに済み、何よりフレアも幸せな道を歩めていたはずだとナユタは思う。
だが結局は、迷うことなくその度に――己の肥大したドス黒い欲望を最優先させてきたのだ。その結果が、これだ。
憐憫は感じるが、同情とは全く異なる。むしろ、正反対の感情だ。
情けや手心は、かけてやるだけの価値は塵ほどもない。そう、思いを新たにしたナユタ。
それにフレアは、さらに嘲笑とともに言葉をかける。
「ナユタ。私が貴方を、このラーヴァ=キャスム山頂に招き寄せた理由は、何故か分かって?
もちろん、貴方を存分に消耗させるためよ。
貴方は薄い酸素を補い、高温から身を冷やし続けることも、魔力を大量に消費しながら行い続けなければならない。
対して私は、絶対破壊魔導の原子操作の力で、酸素の供給も身体の冷却もほんの僅かな魔力で可能。
時間が経てば経つほど、貴方は不利になっていくのよ、ナユタ」
そしてフレアは――。手前に交差させた腕の先の手を使って、円を描くような構えをとった。
「私の物にならないのならば――今ここで、死になさい!!!
“絶対無負極爆波”!!!!」
叫びとともに放たれた――。
“絶対破壊者”フレア・イリーステス最大の、奥義。
前方30m以上の範囲の物質を、完全にこの世から無き物にする――消滅させる、虚無の衝撃波。
空気も、それが発する熱も、宇宙空間のごとき「無」の状態に強制変化させながら迫ってくる。この世の全ての力に勝る、絶対の破壊攻撃。
しかし――ナユタの目は、死んでいなかった。
凄まじい眼光で前方を睨むと、ナユタの全身から――「緑色」の魔導の波が5m以上の範囲に急激に噴き上がった!
そしてそれに呼応するように、ナユタの崩壊寸前の氷床が接続する火口の淵の岩石が――。
直径2mほど削りとられ、猛烈な速さで上空に浮揚していったのだ!
身動きをとれず死を迎えるばかりだったナユタの身体は――。虚無の衝撃波の脅威から、完全に上方へ逃れ得た。
衝撃波は、火口上部で炸裂し、そこに飲み込まれるマグマも、火口を形成する岩石も、瞬時にこの世から消え去るように消滅していった。
そのさらに上方――火口より30mは上空にて、浮遊する岩石の上で真っ直ぐに立ち上がる、ナユタ。
彼女の身体から相変わらず放たれる、全身からの緑色の光は、自らの足場とする岩石を覆いつくし――。完全に支配下に置いているかのように見えた。
それを目にした、フレアの貌は――。
先程までとはうって変わって、衝撃と驚愕と動揺に引き歪んだ。目は剥かれ、震える唇を広げ、冷や汗を幾条も流し、身体は激しく、震えていた。
そしてようやく声を、絞り出す。
「そ――そ、そん――な!!! そんな!!!! バカな!!!!
貴方――ごときに――!!! 貴方が何故!!!
『絶対破壊魔導を』!!!!
しかも、しかもそれは――! それは私ですら、どのようにしても――」
はるか上空から仇敵を見下ろす、ナユタ。
その様子は、天上から下界を見下ろす、神の姿に似ていた。
「どのようにしても――? 習得できなかった、技。そう云いたいのか?
あたしとしても、人生最大の、賭けだった。
拘束魔導で絶対破壊魔導の原理を掴みモノにし、あとは応用に至るだけだった。
この先を学ぶ方法は、使い手のあんたと戦い、実際に技を受けながら感じ取っていく以外にない。
捨て身の戦法ながら、肌で感じ続けた甲斐があった。
あたしもその名を耳にしただけだが――。これに、間違いないね。原子を操り、物質に影響を与える絶対破壊魔導。その究極の到達点。
“念動力”だ。
覚悟しな、フレア……。てめえと対等以上の力に到達した今、あたしは勝負を、決める。
全てを消し去る力を持つてめえを!!! あたしの力で、この世から消し去ってやる!!!!」




