第二十八話 未来の可能性と、愛
戦場となった場所からやや離れた、木漏れ日の差す花咲き乱れる場所に――。
ホルストース・インレスピータは、埋葬された。
ハーミアの聖架を用意し、彼の魂であるドラギグニャッツオも一緒に埋葬した。その他の遺品は、ナユタが持つことになった。
そしてこれまで命を落としてきた仲間達と同様、ルーミスの見事な聖句で簡易葬儀を執り行った。
本来、ドミナトス=レガーリア連邦王国の第二王子として、国葬に付されてもおかしくない立場の彼。本国に報告をし、その運びにはなるだろう。
葬儀を終えて、聖架の前から動こうとしないナユタの側に、レエテはかがんで優しく話しかけた。
「私とシエイエスが途中で合流したクピードーがね、連邦王国へ報告に行ってくれたわ。……彼女、もちろん、私の目に触れないように大分気を使ってくれて、申し訳なかったけど」
やや口角を上げながら、レエテは続けた。
「彼女はその後で、ノスティラス皇国軍のミナァン卿や、カンヌドーリアに居るオファニミス殿下の元にも事の次第を知らせて回ってくれるわ。それら総力を結集しての戦を、シエイエスは考えているらしいの」
ナユタはフッと笑いをもらし、少しだけからかうような口調で、云った。
「あんたさ……自分で気付いてるのかなあ? 『シエイエス』って口にするときの表情と声色が、明らかにあたし達と別れる前と違ってるよ? まるで、『私のシエイエス』、いや……それよりもっと。何て云うかな、自分のものって確たる自信と誇りに満ちてるんだ。
あんた、あいつに……プロポーズされたろ? そんでそれを受けたろ? 違うかい?」
ナユタの、流石の鋭い読みに、レエテはたちまち動揺し慌てふためき、しかし喜びも表現し、言葉を返した。
「あ、あああ……あ、あの……その……そんな、突然云われると凄く、は、恥ずかしいけれど……。
さすが、あなたの目はごまかせないわね。そ、そうなの……ラペディア村跡地で合流して、すぐに……。私の寿命も、関係ない、こ、子供がほしいとまで……云ってくれて……凄く、凄く嬉しかった……。
で、でも…………。ほんとうに、ごめんなさい……今の、あなたに、こんな……」
ナユタは貌を輝かせて、レエテの肩を叩いた。
「何云ってるんだい! 変な遠慮するんじゃないよ。本当におめでとうな! あたしも自分のことのように嬉しいよ。
そうだな、確かに……あんたの寿命、そして子供の寿命、て障碍はあるかもしれない。
けど、大丈夫さ、あんたらなら。絶対にお似合いの夫婦だ。幸せになるって保証する。
絶対……生き残れよ、あんた。シエイエスも、死なせるな。
そして式を挙げてくれ。そんときはぜひともあたしも――う――ううっ!!」
突然――顔面蒼白になって、胸と口を押さえるナユタ。
レエテが血相を変えてナユタの背に手を触れる。
「ど、どうしたの!? ナユタ!! 気分が悪いの? 大丈夫?」
ナユタは――耐えられなくなったのか、レエテの手を振り払い、脇の樹の根本に走り、屈んでしたたかに嘔吐した。
「ううっ……ぐうええ……ええっ……」
胃をひっくり返して吐き続けるナユタの背中を見て――。
レエテの脳裏に、ある戦慄の可能性が、浮かび上がってきたのだった。
その可能性の重大さに、レエテは青ざめ両手で口を押さえ、震えながら云った。
「ナ……ナユタ…………あなた……あなた、まさか……そんな……」
妊娠、しているのか。
一体、誰の――?
時期からすれば、父親として可能性のある男は、二人。
ホルストースと――そして――そして、今一人は――。
遺跡で――地下で、ナユタを――力づくで――。
レエテは魂の底から怖気を振るった。もしも仮に、そんな悍ましいことが起きたとするなら――。
吐き終わって、ハア、ハアと息を荒げるナユタの貌も、衝撃に歪んでいた。
当然、同じ可能性が頭をかけめぐっていることだろう。
彼女は、立ち上がってレエテを振り向き、布で口を拭きながら、いつもの彼女らしい皮肉めいた笑顔を見せた。
だがレエテには、動揺を封じ込めた痛々しい笑顔にしか見えなかった。
「こいつは、神の思し召し、てやつなのかな!?
ホルスはあたしの前からいなくなっちまったけど――代わりに、『あいつとの子供』をあたしに授けてくれるだなんてね!
こりゃあ、あたしもおちおち死んでいられないね。生き残らないと」
「そ、そうね……。でも、もう戦いはやめたほうがいいんじゃ……」
「大丈夫だって! あたしを誰だと思ってるんだい? てめえの中のガキ一人ぐらい守って見せるし、あのホルスの子だよ? 人の三倍は頑丈にできてるさ! 心配するなって」
そして、不安を漂わせながらの笑顔でその場を後にするレエテとナユタを、密かに木陰から見ている人物があった。
ルーミスだった。
彼は、シエイエスに云われて二人を呼びに来たのだが、耳にした「プロポーズ」という単語に反応して、思わず木陰に隠れてしまったのだ。
シエイエスとレエテが婚約したことも、非常に複雑な思いだったが――。
ナユタの妊娠、という比較にならない衝撃の事実を目にし、ショックで凍りついてしまったのだ。
まさかそんな――もしやあの、滅ぼしたはずの淫魔が、死してなおさらなる猛毒をこの世に、ナユタの肚の中に遺したかもしれぬというのか。
「ナユタ……そんな、そんな…………」
*
一方その頃、カンヌドーリア公国アヴァロニア。
中心にあるアヴァロニア城は、夜半を過ぎ、夜の灯火も消えかかっていた。
最上階にある、賓客室の天蓋付きベッドの中に、非公式ながらもエストガレス女王の地位にある“陽明姫”オファニミスの姿があった。
金髪を解き、ナイトウェア一枚で布団に入る彼女だったが、内戦が終結して以来中々寝付けない夜が続いていた。
早期にエストガレスを救済しなければならぬ重圧、思うように進まぬ故郷ローザンヌの復興、あらゆるストレスがかかる身の上ゆえ致し方ない。が、彼女にはもう一つ、気がかりなことがあった。
オファニミスがこの世で最も敬愛する従兄、ダレン=ジョスパンの近況だ。
すでにシェリーディアを通じ、彼が無事生存し、現在はファルブルク城に戻っていることは耳にしている。
だがその知らせから二週間以上。何の音沙汰もないらしく、今何をしているのか揺として知れないのだ。
以前の連邦王国の同行から戻って、ファルブルクで別れてから大分長い時が経っている。
ブラザーコンプレックスともいうべき、熱烈な敬愛を抱いている従兄。彼がシェリーディアと男女の仲であると知ってからは、以前に比べて気持ちを離すように努力はしていたものの――。まだまだあまりに恋しく、日中、さらに夜になるとダレン=ジョスパンの事ばかり考えている自分がいるのだ。
その彼女の正面――バルコニーの窓が突然軋み音を立てた。
オファニミスは顔面蒼白となり、ベッドの上で上体を起こした。そして大きな枕の下に忍ばせた、鍛造オリハルコンのダガーを抜き放つ。
「だ――誰なの!!! 狼藉者、姿を見せよ!!! エストガレス女王の私室であるぞ!!!」
暗くてよく見えないが――確実に誰か、居る。
先日来、サタナエルの脅威が及ばなくなってきてはいたが、シェリーディアの命令で警備に抜かりはないはずだ。それをくぐり抜けてきた手練。おそらく、只者ではない。
狼藉者は、一歩を踏み出しながら、オファニミスに話しかけてきた。
「仲々に落ちついた、毅然たる態度。腑抜けておらぬようで安堵したぞ、オファニミス。
暗殺者ではないゆえ、安心せよ。刃を置き、燭台の火を灯せ」
その声を聞いたオファニミスは――。
涙ぐみながら、喜びに声を震わせた。
「お――従兄さま! ダレンお従兄さま!!! 来てくださったの!? 嬉しい!!!」
オファニミスが云われたとおりに燭台に火を灯すと――。
ベッドの前まで近づいていた、“狂公”ダレン=ジョスパンその人の、焦がれた姿があったのだった。
「ああ……あああ……」
「お主が年頃になってからは、このように寝室に入ることもなくなっていたゆえ、妙な感じだな」
「そう……ですわね。子供の頃は毎晩のように、わたくしが寝付くまで絵本を読んでくださったんですものね……。でもわたくしはませた子供で、あの頃から一時だけでもお従兄さまの妃になりたくて、わざと寝付けないと云って来て頂いてましたのよ」
「そうか。そのような少女であったお主が、あれだけの試練をよくぞ耐え抜いてくれた。
王都を脱出し、公国に入り、地獄の戦争に勝利した。もう子供扱いできぬなどという段階でなく、真の王者にふさわしい器になった。そして、そこまで美しい大人の女に、なった。
余は本当に嬉しく、お主のことを誇りに思うぞ」
オファニミスは、自分の苦労に理解を示してくれた従兄の言葉に、天に登りそうな心地になった。そして、美しい女、という言葉に心臓を大きく脈打たせた。
心臓が早鐘をうつ。オファニミスはかねてから――「初めての男性」はダレン=ジョスパンしかいないと心に決めていた。この絶好の機会、思わず口にしそうになった。「ここでわたくしに――お従兄さまのお情けを、いただけませんか」と。
だが――それは、できなかった。ダレン=ジョスパンの心は、自分にはないのだ。その相手は別に居るのだ。オファニミスはぐっと胸に拳を当ててこらえ、言葉を押し出した。
「……お従兄さま。この後シェリーディアのもとに、行かれるのでしょう……?
彼女は夕刻より、東部の森林に出没した賊の討伐にダフネとともに出ています。おそらくまだ、そこに居ると思いますわ」
「そうか。礼を云う。だがあやつよりも、今回はお主を訪ねるほうが余の主たる目的なのだ」
「え……?」
「オファニミス。余はこれより後、サタナエル本拠に赴く」
「――!!!!」
「そこで余は、真の強者と戦いこれを血祭りに上げる。元の余に戻ることはできぬ修羅と化すであろう。これは、もうはるか以前より余の中で決しておった宿命なのだ。
死してはもちろん、生きておったとしても、もう二度とお主と相見えることはあるまい。
つまり……。余はお主に別れを告げにきたということ」
「……!!! ……そう、ですのね……」
予感は、あった。正式に訪ねもせず、このような忍びで、急くように会いに来てくれたからには。何か、これまでにない重要な話があるのだと。それも、よくない方向の。
強い悲しみが、胸から突き上げてくる。涙が、次から次へこぼれおちた。もはや子供のように泣きべそをかくのを、止めることはできなかった。
「うっ……ううう……。……ええええ……ええええ……」
「泣くでない。余の心にはこれからもお主がいるし、お主の心にもまた、余がおる。
……すまぬな、オファニミス。白状するとな……。余は始めから、王女たるお主を己のために利用する目的で近づき、面倒を見手懐けた。成長してからも、期待どおりの女傑となったお主を、利用し尽くしてやる積りでいた。それだけの存在と思っていた。
だが知らず知らずのうちに……お主の安寧を、無事を、幸せを……心から願う自分がいることに気がついた。
その証拠に、利害が消滅した今もこうして……。最後にお主にだけは会いたいという、己の気持ちを抑えることができなんだ。
余は人の道をとうに踏み外した外道であるが……縁のないものと思うていた人の愛、というものをお主にだけは抱くことができたのかも知れぬ。
達者でな、“ニム”。女王としてお主が栄えること、心より祈っておる」
オファニミスは――。
おそらくこの世で耳にしうる中で、最高の幸せをもたらす言葉の数々を聞き――。あまりの感動に打ち震え、飛び出して、ダレン=ジョスパンに抱きついた。
そして強く、強く抱きしめた。
「お従兄さま……お従兄さまあ……ううう……」
ダレン=ジョスパンもそっと伸ばした手で、しっかりと彼女を抱きしめ返した。
オファニミスは、そのまま唇を重ね愛してもらいたいという衝動を全力でこらえ、従兄の貌を甘えたような笑顔で見上げて、云った。
「お従兄さま……最後に一つだけ、お願いが、あるの。
昔みたいに……ニムが眠れるまで、枕元で、お話を聞かせて……。
絵本は、ないけれど……お従兄さまのお話なら、ニムは何でも、楽しいから……眠れるから……。
どうか、お願い……」
ダレン=ジョスパンは、おそらく彼が人生で初めて浮かべたであろう、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、頷いた。
「わかった。今このときだけは……お主の側にいよう、ニム。いつまでもな……」
「ありがとう、お従兄さま……大好き。ほんとうに、大好き……愛してる……ダレン……お従兄さま……」
そして、それからオファニミスが夢の世界に落ちていくまでの、ひととき――。
二人は、最後の珠玉の時を過ごしたのだった。




