第十八話 最悪の邂逅
ホルストースは、ゆっくりと、振り返った。
まるで時間の流れが自分の周りだけ、変化したように。振り返った瞬間、後戻りはできないことを、魂で感じ取っていたから。
そしてその視線の先に――。
立っていた。一人の、巨大な男が。
ナユタ同様、ホルストースも目にするのは初めてであったが――。分からぬはずはない。間違えようはずはない。
(こいつが、“魔人”ヴェル――)
自分でも信じられないことだが、全身の血の気が引き、恐怖に震えた。全力で、逃げ出したかった。
これまで、幾人もの将鬼を目にしてきた。どいつも、この世のものとは思えない化け物だった。
そのときも戦慄はしたが――。超一流の戦士であるホルストースを真に恐怖させるには至らなかった。
だが目の前のそれは――将鬼をも遥かにしのぐ、まさに魔皇。
その前にただ立っただけで、象に対する蟻のごとき無力感、絶望にさいなまれる。
ヴェルは――。その巨体を一歩、前方に踏み出してきた。
それだけで――魔の圧力の急激な膨張を感じた。ホルストースは全身から脂汗を流しながら、歯を食いしばって絶望的恐怖に耐えた。
そして一度、背後を振り返って仲間の状況を確認する。
ルーミスは――自分同様ヴェルへの恐怖に打ち震えているが意識は明瞭なようだ。ロブ=ハルスに切断された両足を、自ら這いつくばって回収に向かっている。彼の現在の法力ならその足を治療し立ち上がるまでにかかる時間は――10分といったところか。
ナユタは――凄絶な拘束魔導などによる闘いのダメージと、最期にロブ=ハルスに受けた重傷からの出血多量で虫の息だ。意識は完全に失い、地面に仰向けに倒れている。すぐに治療しなければ危険な危篤状態で、ルーミスはおそらく自らの両足と、ナユタの治療を同時に行わなければならなくなる。自分だけなら10分で済む治療時間は、倍に伸びるだろう。
作戦では、彼女ら二人が負傷したとしてもホルストースが抱えて逃走する予定だった。そして先程まで、それは十分に可能な状況だった。
しかし――ロブ=ハルスの思わぬ最期のあがきにより、生存条件を上回る致命傷を負ってしまった。現在の二人、とくにナユタの方はとてもではないが抱えて走れる状態ではない。逃走を遂げ、治療しようとしたときには完全に手遅れになるだろう。
ロブ=ハルスが最期に意図した邪悪な「道連れ」は、見事に成功してしまったのだ。
上空に居たクピードーは、おそらくすでに主人シエイエスのもとに危機を知らせに向かっているだろう。だが、レエテが彼をおぶって走っている状態だったとしても、数十kmもの距離。あまりにも、遠すぎる。
自分ひとりで、やるしかない。
決死の、覚悟で。
蒼白になった顔面の中で、ホルストースは笑った。あえて、不敵に。
そして、ヴェルに対し言葉を発した。
「よお……。あんたが、サタナエルの“魔人”ヴェルか。
光栄だぜ。大陸の支配者の頂点――最強の男にお目にかかれてよお」
「……ホルストース・インレスピータ。“神槍の王子”か。俺の、目的は分かっていよう」
ホルストースの言葉にすぐに応えを返したヴェルだったが――。
何という、威圧感か。ホルストースは一瞬、怯えた子供のように目をつぶってしまった。
低く決して大きくはない声、冷徹そのものの口調であるのに――。聞くものを屈服させる圧倒的威圧感に満ち満ちている。
「本来は、そこで無様に死んでいる男に懲罰を下すことが目的であったが、それは今変わった。
貴様らに出会った以上――。俺は問いたださねばならぬ。
貴様らの主、レエテ・サタナエルは、今何処に、居る?」
「それを聞かれて――俺たちが答える、とでも?」
「俺はあの女を殺す。それだけが目的だ。貴様らに興味はかけらもないゆえ、素直に答えれば命は獲らぬ。もう一度、聞く。
レエテ・サタナエルは、今何処に、居る?」
「教えてやるよ。こいつが、答えだ!!!!」
叫ぶが早いか――。
ホルストースは迅雷のごとき速度で、動き始めていた!
地面に立てていたドラギグニャッツオを突き出し、瞬時に低く溜めた足腰の全力をもって行う奇襲。
2週間の鍛錬を経て強化され、現在万全の体調をもって放たれるその攻撃は、これまでのホルストースの攻撃の中でも最速・最強撃といえる完成度。
ドラギグニャッツオが持つ絶対硬度も考慮すれば、将鬼をも仕留められるであろう必殺の攻撃だ。
仁王立ちしたまま動かぬヴェル。
剛槍の切っ先が眼前にまで迫った瞬間――。
それは急激に停止した。
激烈な慣性を受け、身体を前につんのめらせるホルストース。
「な――!!!!」
その己の得物を視界に捉えた先で――信じられないものを彼は見た。
槍の刀身の根本、柄の部分を掴む、巨大な褐色の手。
何とヴェルは――この必殺の攻撃を、いともたやすく無造作に、「片手」で掴んで止めたのだ。
さらに驚愕の表情を貼り付けるホルストースの、次の動作を待つような愚は、この魔皇の辞書にはなかった。
恐るべき膂力で強引に、剛槍を横にはねのけ、自らは火山弾のごとくにホルストースに向けて進撃した。
そしてホルストースの直前で停止し、放ったのは――結晶手ではなく「拳」による一撃だった。
「ぐっ!!」
ホルストースは必死に反応し、槍を放して両手を胸の前でクロスさせて防御する。そして全力で後方に跳躍する。
しかし、ヴェルの左拳による正拳は――。
重装手甲の二重の盾に正面からヒットした後、ホルストースの跳躍のスピードを優に超え――。
ガードした、その腕ごと胸部にめり込ませた!
「ぐがあっ!!!! がはあああああ!!!!」
重装鎧の胸部プレートがクレーター状に陥没し、ホルストースの胸骨・肋骨を割り、内臓にダメージを与えつつ――。
彼の身体を遥か後方の大樹の幹まで一直線に吹き飛ばしていった。
「ホルストース!!!!」
ルーミスの悲痛な声が耳に入る。
幹に激突し、崩れ落ちそうになる身体をどうにか堪える、ホルストース。
すぐに、口から大量の血が吐き出される。
そしてやってくる、胴体の内部からの絶望的な激痛と、力を失いそうなダメージ。
そして胴体だけでなく――ガードに使用した左腕も、折れていた。
すでに通常なら、戦闘続行は不可能なダメージを、負ってしまった。
ブルブルと震える全身を極限の気合で奮い立たせ、一歩を踏み出したホルストースの前に――。
投げつけられ、地面に突き刺さった――。彼の得物、ドラギグニャッツオ。
その先に虚ろな目を向けたホルストースの視線の先で、槍を放った姿勢のヴェルの黒い巨体があった。
すぐにホルストースの脳内は、再びの絶望で染め抜かれた。
何という、強さ。そして自らの、何という無力感。
取り落とした敵の得物を、渡してやる情けまで見せる、魔皇の天の高みの余裕。
違い、すぎる。次元が。
取り戻した戦意はたちまち彼方に消え失せた。
(親父――兄貴――みんな――)
現実を逃避し、ホルストースの視線ははるか遠くに注がれたのだった。




