第十一話 仄暗い、歪んだ嫉妬
セルシェ山小屋での最後の夜から一夜が明けた――。その日の昼下がり。
レエテは荷袋を肩に、一人森林の中を駆けていた。
常人の全力疾走に倍する速度だ。巨木が林立し、地面は根が張り苔むし湿り、見通しの良い草原とは訳がちがう険しい状態にも関わらずだ。
レエテにとって、森林は生まれてから最も過ごしてきた期間の長い、庭のようなものだ。
身体に、馴染んでいる場所。むしろ草原よりも走りやすく、心が安らぐほどなのだ。
しかし――現在のレエテの心の中は、安らぎ落ち着くのとは対極的なまでにざわついていた。
ここは、エストガレス王国とエスカリオテ王国の国境線上にあたる、森林地帯。
現在よりわずかに数時間前、大陸創生以来最大となる規模の大戦、“エスカリオテの会戦”が行われた国境線。その平野部にほど近い西側に広がる地域である。
エスカリオテの会戦に加わることを禁じられたレエテ一行。今レエテが一心不乱に駆け抜け、目指している場所は、その原因となった人質の返還のために指定された場所だったのだ。
人質は、シエイエス・フォルズ。そしてその返還場所は、彼にとって過ちの始まりの場所であった、ラペディア村、その跡地――。
前日のナユタの指令どおりに、レエテは彼女ら3人と別れ単独行動をとっていた。すでにほぼ半日、全力疾走に近い速度で走りっぱなしだ。一族としての無限のごとき体力をもってしても疲労は免れないが、そんなものを感じている余裕は今のレエテにはない。
今日までの半月間、シエイエスがどのような目にあっていたのか、心配で胸が張り裂けそうなのだ。いやそもそもナユタの云うとおり、フレアが正直にシエイエスを生きて自分の元に返すのかどうか、100%の保証は何もないのだ。
もしも、万が一にもシエイエスを殺していたのなら――あの魔女は家族に加えて現在最愛の恋人をも奪った大仇となる。そうなったらレエテは――細切れの肉片にまで潰してやるという、地獄の底の怨念を抑えることは到底できないだろう。
同時に、シエイエスが自分の元に帰ってくるという、期待感もレエテの足を早めさせていた。一刻も早くシエイエスを取り戻し胸に飛び込み、抱きしめて口づけし触れ合いたかった。その為ならば、どんな困難にも打ち勝てる気がしていた。
しばらくすると、100mほど先に樹々が開けて光がまばゆく差し込んでいるのが見えてきた。レエテは走る勢いを早め、樹々の間から一気に跳躍した。
青空の元に飛び出したレエテは、そこからなだらかに下がった地面に着地し膝をついた後、ゆっくりと立ち上がり周囲を見回した。
そこは――。何もない、草が生い茂る盆地だった。
直径1kmほどだろうか。円形に広がるその自然の地こそが、地図が示す目的地に違いなかった。
“ラペディア村跡地”。カルカブリーナ・サタナエルとシオン・ファルファレッロ率いるサタナエル勢力によって、一夜にして全住民が虐殺された悲劇の地。
おそらく事件のあと、組織がエスカリオテ軍に命じて遺体も建物も畑も、村があった痕跡そのものを隠滅させたのであろう。
その盆地には、人っ子一人居なかった。周囲を見回してみても、隠れている気配はない。
やはり――。あの約束はその場しのぎの嘘だったのか。まさかもう、二度とシエイエスと会うことは叶わないのか――。レエテの中で失望と哀しみが湧き上がる。貌をゆがめながら、盆地の中央付近まで歩みを進めた、そのとき。
彼女の鋭敏な聴覚が、かすかではあるが「羽音」のようなものを捉えた。
方角は、東――。エスカリオテ王国首都、ヴァーレンハイトの方角だ。
徐々に大きくなってくる羽音とともに、すでに視覚でも捉えることができている。
もう、間違いはない。
フレアの魔導生物、ベルフレイムだ。
レエテの中で、緊張と怨念と、安堵と喜びが交錯した。
それら感情を極力抑えながら、ひたすら到着を待ち続ける。
ややあって、ベルフレイムのグリフォンとしての堂々たる巨体がレエテの上空10mほどまで接近してきた。
その背に設置した鞍の上には、不敵に微笑む魔女――フレアの姿があった。
「……フレア……!」
レエテの奥歯と拳に、必然と極限の力がこもる。改めて立ち上る、強烈な怨念。
そうしているうちに、ベルフレイムの背から、鋼線に吊り下げれた何かが降りてくる。
それは――。麻痺硬直させられた状態の、シエイエスその人だった。
「シエイエス!!! ――あああ、シエイエス……!」
レエテは両手をもみ絞り、叫んだ。
シエイエスは元の衣服を着せられた状態であったが、露出する首と貌を見ただけでも無数の傷跡と生傷があり、全身に虐待の痕があることは明らかであった。
やがてシエイエスの身体が地に降ろされると同時に、魔導操作でフックの外された鋼線が巻き上げられていった。それと同時に、レエテは彼のもとに走り出していた。
「シエイエス! シエイエス!! なんて――なんてひどい……。こんな傷だらけに……」
レエテはすぐにシエイエスの頭を膝に乗せ、一度強く強く抱きしめた後、貌の傷を指でさわって涙ぐんだ。
「でも良かった……生きていて。本当に良かった……!」
そして唇を近づけ、キスを交わした。身体を動かせず、言葉も発することができないシエイエスだったが、レエテの姿を見て限りなく優しい喜びの表情を浮かべた。
上空で、食い入るようにその様子を見ていたフレアの表情は――。先刻の余裕ある冷笑はどこへやら、鬼のような憤怒の形相へと変貌していた。
彼女は少なくとも他人の前では、感情をむき出しになどしたことはない。だが今は、貌が大きく歪むほどに歯を食いしばり、眼鏡の奥の秀麗な眉目も引き歪んで、見るものの心臓を凍らせるほどの邪悪さに満ちていたのだ。
すると次の瞬間、フレアは鞍を降り、設置された鋼線のフックに足をかけ、下へと降りはじめたのだ。
「――フレア様!! おやめください、フレア様!!!」
ベルフレイムが、野太い声で主人に警告を発する。だがフレアの耳には全く届いていないようだった。彼女は地面まで1mほどの高さになったところで飛び降り、即座に魔導を発動した。
「――離れろ、穢らわしい人間もどきが!!! “斥力磁場”!!!」
突如、レエテの眼前に30cmほどの黒い球が発生したかと思うと――。信じがたいほどの力が彼女の全身にかかり、シエイエスをその場に残しつつ一瞬にして10mほども後方に吹き飛ばされたのだ。
「ぐうっ……!」
恐るべき背後からの引力――いや、前方からの斥力によって吹き飛ばされはしたものの、ダメージはなかった。レエテは結晶手を出現させ、身を低くし構えをとる。
そのにらみ据える先で、シエイエスの側に仁王立ちするフレア。変わらず恐ろしいまでの殺気をレエテに向け続け、全身から膨大な魔力が放出されている。
ナユタとの鍛錬によって一流魔導士の域まで耐魔を鍛えたレエテは、その魔力の全てを肌で感じることができた。まるで生皮をはがされるように強烈な魔力だ。この地上にここまでの力の持ち主が存在することが信じられぬほど、地獄の蓋が開いたかのような魔王の業。
この女とはかつて何度も相対してきたが、ここまで感情をむき出しにされるのは、当然初めてだった。
やがてフレアは上ずった震え声で、足元に倒れるシエイエスに云った。
「ハア、ハア……なによ……なにが、違うというの……! あの女は確かに貌は美しい。身体だって……そうかもしれない。けど気持ちは……絶対に私のほうが勝っている。なのにどうして……どうして貴方は、あの女だけをそんな優しい目で見るの、“シエル”!!!」
「シ……シエ……ル……?」
レエテは驚愕した。女の感情をむき出しにするフレアが、発した呼び名。自分ですらまだ呼ぶのをためらっていたシエイエスの、愛称。それをなぜこの女が……?
そのレエテの様子を見たフレアは、憤怒の表情からやや嗜虐的ないつもの表情に戻り、残虐な厭らしい目つきで云った。
「そうよ、驚いた……? 私とシエルはね、この半月の間昼も夜も、ずっと愛し合っていたの……。きっと、貴方とのそれの何倍もの時間ね……」
それを聞いたレエテは目を見開き、身体を震わせ始めた。
「……!!! ぐっ……うううううう……!!!!」
「彼は麻痺させていて喋れない状態だったけれど、とてもとても満足していた……。きっともう、私なしではいられない気持ちになっているはずよ。そして私も……彼のこと、心から愛している。身も心も彼のもの。彼は私のもの。もう結ばれるものと、決まっているのよ」
「……なっ……!! ううう……うう……!!」
「今こうしてあの時の約束に応じ……シエルを返してあげるのはね、貴方に今だけは気力を取り戻して全力で戦ってもらわないと困るからよ。
先程、国境での会戦は終結し、サタナエルの勝利に終わったわ。けれど組織も壊滅的打撃を受け、ヴェルも勝利はしたものの、ヘンリ=ドルマンの雷撃を受けて少しの間動けない状態になった。その機を逃さず私とロブ=ハルスはサタナエルを裏切ったの。かねてからの計画に従ってね」
「……!!!」
「だから貴方には、貴方のお兄様であるヴェルを足止めするための囮になってもらいたいの。私たちが新たな聖地を築く、ボルドウィン魔導王国に逃げ切るまでの間ね。
シエルを返すのは、そのための一時的な処置。いずれ必ず――必ず取り戻しに来るから、覚悟しておきなさい。それまで、シエルの身もしっかりと守りきりなさい。いいわね」
それだけ云いおくと、フレアはシエイエスをじっと見つめたまま、鋼線のフックに足をかけて再びベルフレイムの背に戻っていった。
仇敵が、初めて自分と同じ大地に降り立ってきた、千載一遇のチャンス。しかしレエテは飛び出し襲撃したい気持ちを全力で抑えた。
事前のナユタの忠告もそうだが、今の自分の力では一人でこの魔女に勝つことは絶対にできない。それを先程から肌で感じていたからだ。いたずらに自分が命を失い、シエイエスを再びフレアの手に落とすことだけは避けなければならない。
鞍に乗ったフレアは、冷たく鋭い眼光をベルフレイムに向け、この従僕の首の後ろの羽を手で思い切り掴んで引っ張った。
「……ベルフレイム。さきほどは従僕の身分でよくも、このフレアに余計な口出しをしてくれたわね……? 偉大なる魔導王となる私が、この程度のことで己を失うとでも思ったの……?
覚悟なさい。ボルドウィンについたら然るべき苦痛の仕置を施してあげるから」
主人の身を思っての警告に対し、仇で返されたベルフレイムは無念の様子で首をうなだれ、応えた。
「……はっ。申し訳ございません、フレア様……」
そしてベルフレイムは強くはばたいた後、瞬く間に飛翔し――西の方角に向けて飛び去っていったのだった。




