第三話 会戦前夜
エスカリオテ王国首都、ヴァーレンハイト王城内。
現在サタナエルとエスカリオテ王国軍の出陣準備が着々と整う中、慌ただしい城内の廊下を一人歩く、将鬼長フレア・イリーステス。
レエテを遠ざけてしまった上、その汚れた陰謀の内容と卑劣極まる共謀者の存在により、ヴェルの怒りを買い身体を刺される仕置を受けた彼女。治癒はしてもらったが、いまだ疼くように痛む肩をさすりながら足早に歩く。
組織の要職として多忙な彼女だが、そんな合間をぬってどうしても行かねばならない場所があるのだ。
すれ違う幾多のエスカリオテ兵・将校に混じって――。
異様なまでの闘気、次元の違う格を有しながら悠々歩くスキンヘッドの大男が、その厭らしげな笑みを絶やさずにフレアに話しかけてきた。
「おやおや……また『あの男』の所ですかな、フレア? 流石はお若い、全くもってお盛んなことで。
一度でいいですから、私も貴方ほどの麗しき女性のお相手に選ばれたいものですなあ」
ロブ=ハルスだった。フレアは彼女にしては珍しい、嫌悪感を顕にした表情で、冷たく彼に言い返した。
「お盛んなのは、歳に似合わずの貴方のほうでしょう、ロブ=ハルス。申し訳ないけれど、私にも『好き嫌いと、選ぶ権利』というものはあってよ。何度云われてもムダだからやめておきなさい。
それよりも……ゼノンなき今現在でも貴方は、私に与する用意、はあると思っていいのかしら?」
ロブ=ハルスは含み笑いを漏らしつつ、フレアに近づいて彼女を見下ろし、云った。
「どう、でしょうかなあ? ゼノンと“法力”ギルドが居らぬことは、正直相当な痛手でしょう? 状況が、大きく変わったということです。
私が貴方の問いに是と応えるには、その魅力的なお身体を頂けないのであれば……。この後の会戦の結果が影響すると云わざるをえません」
「……まあ、そうくるとは思ったわ。すなわち、この会戦にサタナエルが敗北するか、一定の戦力が失われれば是、サタナエルが圧勝すれば……否、ということね」
「そお! そのとおりです。敗北でない場合に私が是と判断する基準も、貴方ほどの才媛なら云わずとも分かるでしょう。そのときこそ、会戦を境にしてボルドウィンにご一緒することを誓いましょう」
「結構。それでいいわ、お願いね。頼りにしているわ」
それだけで一方的に話を切り上げたフレアは、早歩きに近い足早で廊下を歩き去っていった。
これ以上、話したくはなかった。本来なら策略にかけてでも葬ってやりたい――自分のような大悪女から見てさえ、下卑で卑劣で無節操な見下げ果てた男。
ではあるが――ただ一点、組織でもズバ抜けた圧倒的な実力だけは認めるしかない。一人で数万の戦力に匹敵する将鬼“耐魔匠”としての強さは魔物級であり、味方に付けねばならない重要戦力なのだ。好き嫌いなどという些細なことは隅に追いやらざるを得ない。
そのように考えながら、廊下の最奥部に達し、暗く長い階段を降りたフレア。その先にある、特別囚人房の前に立つ。
ドアを勢いよく開けたその場所で、まず目に入ったのは――。髪の乱れた気怠そうな様子で着衣を身につける“参謀”ドミノ・サタナエルの姿であった。
そしてその後ろに――。
燭台で赤々と照らされる下に鎮座する、巨大な鉄製の拷問台。
その台の上にあったのは、痛々しく横たえられていた――囚人、シエイエス・フォルズの姿であった。
彼は解かれた長い白髪を台の上に広げながら、眼鏡も、軍服も全て剥ぎ取られた全裸で横たわっていた。その鍛え上げられ引き締まった身体は――見るも無残な無数の傷跡、真新しい切り傷や刺し傷で覆われ、血まみれであった。
その表情は苦悶に満ち、両眼は天井の一点を見つめ続けていた。拷問台にはもちろん拘束具が備え付けられているが、変異魔導を操るシエイエスには毛ほども効果を発揮しないものだ。よって彼は拘束されていなかった。しかしその身は、貌の向きすら変えることができないほどの絶対的な魔導の力で拘束されているのだ。とはいえシエイエスも、今や超一流の魔導戦士。フレアは日に一度、魔導をかけ直すために毎日ここを訪れていた。
しかし、今はそれとは別の目的が、フレアの中に芽生えていた――。
彼女は鋭い目線をドミノに投げかけ、云った。
「もう、終わったのでしょう? さっさと出ていってくださらない、ドミノ?」
ドミノは頭を掻き欠伸を吐きながら、その眠たげな目をフレアに向けて云った。
「ああ、終わったよ。ヤって刻んでスッキリはしたケド……。まだこの不快な忌々しいムカつきは消えないネエ!!
ヴェールントの野郎……! 嘗めたマネしてくれて……今に見ていやがれ。いずれお前の素っ首、あたしが刻んでやるからネエ……!!」
ヴェルが“墓に入ってから”か? と内心蔑みの言葉を浮かべるフレア。
「まあでも、貴方の天才的な頭脳と戦術の素晴らしさ自体は、ヴェルも絶賛し今回の策として採用したではありませんか、ドミノ。あの方は行き過ぎなまでの実力主義ですから、いずれ貴方が日の目を見ることもあるでしょう。さ……話が終わったなら、早く」
ドミノはふん、と鼻を鳴らしながら、ドアに向っていった。
そして去り際に一言云った。
「一分一秒でも、『一緒にいたい』ワケ? 将鬼長フレアともあろう者が、焼きが回ったねえ。
まあ悪いとは云わないケド、程々にしときなよ? ギルドの長と、ヴェルの愛人てあんたの立場を考えたらネエ」
そしてドアを閉じ、その足音は遠のき聞こえなくなった。
それを合図に、フレアは途端に目を潤ませ貌を上気させ、我慢の限界を迎えたようにシエイエスのもとに近づき、即座に唇を重ねた。
そして口を放すと、シエイエスの状態をゆっくりと起こさせ、手にとった水差しを彼の口に持ってくる。
「さあお水よ、飲んで。ずっと同じ姿勢だから大変ね。この辺り辛いんじゃないかしら?」
水を飲ませると、肩や腰を丹念にもみ始める、フレア。
その目を輝かせた甲斐甲斐しい様子は、まるで初恋に溺れる10代の少女のようだ。
そう、フレアは――。何とこの1週間世話廻りの看守たちを完全に遠ざけ、自らの手でシエイエスの身の回りの世話をも行っていたのだ。
身体の清拭など一通りの世話を終えシエイエスの身をそっと横たえると、自らも身体を密着させながら横たわった。
白魚のような指を彼の熱い胸板の上で滑らせながら、吐息交じりの熱い言葉を吐く。
「何度も、云うようだけど……私、貴方と結ばれてからというもの……本当に貴方のことが……好きになったみたい。『シエル』」
レエテですらまだ呼んだことのない、シエイエスの愛称。それを馴れ馴れしく呼ばれ、殺気のこもった目だけをフレアに向けるシエイエス。
「そんな……目で見ないでよ……悲しい。こんなに、好きなのに……」
そしてシエイエスの上に乗り、貌を両手で優しく包むフレア。その貌がさらに緩み、目が潤み、口元から涎を垂らし始める。
「ああ……ああ……でもキレイ……カッコいい……逞しい……最高! 全部がこんなに、イイなんて……信じられない!
私、絶対貴方を夫にする……貴方のものになる。あんな獣の女なんかに、渡さない……。一度は返したとしても、必ず貴方を迎えに行く。私の……私だけの『ボルドウィン魔導王国』を建てた、その暁にね……!」
そして――驚くべき行動に、フレアは出た。
拷問台に置いてあった血まみれのダガーを手に取り、両手で持って自らの豊満な胸を横一文字に切り裂いた!
次いで、同じくシエイエスの胸を横一文字に切り裂いたのである。
傷は深くはないが、血管を切り裂いた傷からは見る見る鮮血が溢れ出す。
シエイエスは無言のまま、苦痛に大きく貌を歪める。
フレアは自分の傷とシエイエスの傷を重ね合わせるように抱きつくと、もう一度口づけし、放した。
「ハア……ハア……どう……ねえ……!? 私と、貴方の血が混ざり合っている……! 痛い……痛くて、最高じゃない!?
今度は時間をたっぷり作ってきたわ。じっくりと……楽しみましょう? 愛してる……『シエル』!!」
そして――尽きぬ欲望を吐き出さんとする魔女との、地獄の快楽と苦痛の時間は続いていったのだった――。
*
同時刻、カンヌドーリア公国国境付近の、広大な平野部。
普段は人一人いない大草原であるその場所は、どこまで行っても尽きることのない膨大な兵士達と野営テントで埋め尽くされていた。
エスカリオテ王国への侵攻準備を着々と進める、ノスティラス皇国「サタナエル討伐軍」20万の広がる光景であった。
レエテ一行と別れ、カンヌドーリア公国国境にまで到達。
予め使者を送っていたエストガレス王女――いや、今や実質「女王陛下」となったオファニミスより快諾を受け、今後アトモフィス・クレーター侵攻まで必要になる兵站などの物資の購入・輸送を受けているところであったのだ。
中央のひときわ巨大な、紫一色の天幕。
総大将、皇帝ヘンリ=ドルマンの滞在する場所だ。
彼は天幕の中央の簡易玉座に腰掛けながら、じっと目を閉じ精神統一を続けている。
傍らには、彼の巨大すぎる魔力が移ろう状態に目を配らせチェックする――。一番弟子たるデネブ統候ミナァンの姿。
その更に脇には、ヘンリ=ドルマンのために用意した幾つかの魔工具を整備する、魔工匠イセベルグが地にあぐらをかいている。
やがて――。
天幕の入り口の外から、野太い声がかかった。
「陛下! ヘンリ=ドルマン陛下! “三角江”の四騎士、罷り越しましてござりまする!」
ヘンリ=ドルマンは即座に両眼を開け、男性にしては澄んだ高い声で応えを返した。
「……待っていたわ。お入りなさい」
その声に応じて天幕内に入って来たのは――。
こわい口ひげを蓄え、年齢の割に黒々とした豊かな髪を蓄えた、知的で威厳ある武人然とした男。四騎士の長。
レオン・ブリュンヒルド。
2mを超える筋骨隆々の巨体、逆立った剛毛の頭髪と、岩のような険を刻む貌が威圧的な男。
ランドルフ・シュツットガルト。
赤い髪を逆立て『赤髪鬼』の異名を持つ男。現在四騎士最年少の、向うっ気の強そうな整った貌立ちの逞しい男。
サッド・エンゲルス。
一度軽く息を吐き、一同を見渡したヘンリ=ドルマンはゆっくりと口を開いた。
「レオン、ランドルフ、サッド……。貴殿ら四騎士に率直に聞く。此度のサタナエルとの大戦において、貴男たちが最も望むことは?」
それを聞いた瞬間、三人の男たちの貌が歪み、物騒な殺気が放たれ始める。
ややあって、長であるレオンが重い口を開く。
「……有り体に申し上げてよろしければ、仇討ち、ですな。
我らが魂の義兄弟、エティエンヌ・ローゼンクランツを無残に殺害せし悪魔の女。
サタナエル将鬼長、フレア・イリーステスなる女を地獄に送り込むこと。これに尽きまする」
ヘンリ=ドルマンは両眼を閉じ、それに答えた。
「そうね、当然……それは果たしてもらいたいわ。けれど――分かっていると思うけれど、その思いは一旦、できるだけ捨てるようお願いしたいの。
あの女は、妾にとっても師を殺した憎き仇敵。けれど、今回に限り忘れることにしている。
なぜなら我々ノスティラスの勝利条件はただ一つ、“魔人”ヴェルを殺す、この一点に尽きるからよ」
「……」
「それを成しうる手段は、客観的に見てこの妾の雷撃魔導、ただ一つ。
対して敵の勝利条件である、このヘンリ=ドルマン殺害の手段は、敵には二つある。
フレアの絶対破壊魔導、もしくはヴェル自身の特攻、この二つ。
こやつらは、間違いなく二人同時に――妾に襲いかかって来るはず。
妾も不覚を取る気は毛頭ないけれど――白兵戦をサポートする強力無比な人員は必要。
これにはレオン、ランドルフ、そしてカール。この3名にお願いしたいと考えている」
これを聞いたサッドの貌が無念に歪む。
「許してちょうだい、サッド。貴男には他の誰にもできない、『糸』という強力な攻撃手段がある。これを用い、一人でも多くのサタナエル幹部を闇討ちして。それが此度の貴男の使命よ」
「承知……。このサッド必ずや、陛下の期待にお応えしますぜ」
「妾の魔導を防ぐことができるのは件の二人の他に、耐魔匠ロブ=ハルスが居る。けれど浅からぬ因縁をもつこのイセベルグが云うには、奴はそのような明らかなリスクを犯す性格ではないとのこと。この淫乱極まりないと聞く化け物は、必ずミナァン、貴女のもとにやってくるわ。惹きつけて。魔導では通用はしない。そこはイセベルグ、貴男が奴をしとめるのよ」
「承知」
「妾の偉大なる師、大導師アリストルはね……。生前、よく云っていた。
『人間には役割がある、ドルマン。ワシの役割は、魔導を広め、お主らのような弟子を育てること。今ひとつは――サタナエルの誘いを断固拒否し、あやつらの戦力とならぬことなのじゃよ』と。
妾はそれを心に刻み、過去数度のサタナエルからの将鬼への勧誘を断り続けてきた。人質を取られることも防いできた。それが役割と信じてね。
それは、今まさにこの機会のために、天が妾に思し召してくれたことのように感じる。
皆も――妾とこのミナァンの知恵を信じ、役割を全うしてほしい。期待しているわ。そして願わくばどうか、無事祖国に還ることができるよう――生きて」
万感の思いがこもったヘンリ=ドルマンの言葉を聞き――。
ミナァンが、さらさらのショートカットの髪をしなやかに撫でながら、艶やかな声で云う。
「陛下――ひとこと、発言をお赦し頂けるのならば」
「なに? ミナァン」
「役割、の重要性は皆理解しております。ですがそれ以上に――。我らにとって重要なことがあるのです。
私達は、この歴史上類を見ぬ大戦に参加し、手柄を立てること。もっといえば、ヘンリ=ドルマンという歴史に確実に名を残す偉大なる英雄の手足となれることを、今生最大の悦びと捉えているのです。
そのためならば、たとえ、命を落とそうとも一切の後悔はございません。
ご慈愛感謝いたしますが――どうか構わず、全力を発揮くだされますよう。この一戦の趨勢は、陛下のお力に文字通りかかっておりますゆえ」
「……ありがとう。そうね、ミナァン。その言葉、ありがたく受け取るわ。
では諸将!! 覚悟は良いか? 作戦を理解できたのなら、実戦に向けて準備・鍛錬に邁進せよ!!!」
ヘンリ=ドルマンの宣言後、天幕を出たミナァンを、最愛の夫である男が出迎えていた。
「……カール!!」
ミナァンは全力で駆け寄り、夫カール・バルトロメウスの逞しい胸に飛び込んだ。そして貌を上げ、周囲の目も気にせず貪るようにキスを交わす。
「……陛下の下知は終わったようだな。軍師の役目、ご苦労だった。本当にお前はいつも、最高だよ。この国にとっても、俺にとってもな」
「カール……カール。そう云ってくれて嬉しいよ……」
ミナァンは貌を赤らめ、目を潤ませる。普段お互いに数え切れぬ公認の不倫を繰り返しているこの二人を知る者から見れば、まことに奇妙な光景だ。しかし二人は確かに、お互いを最も大事な相手と認識し深く愛し合っていたのだ。
「私達……必ず生き残るつもりだが……。この戦いは、違う。本当に生き残れるか分からない。
だから……分かっているだろう?」
「ああ、もちろんだ。これから放してやらないから、覚悟しろよ!!」
そう云うとカールは、ミナァンを軽々と姫抱きし、大股に歩き――。己の元帥用巨大天幕の中に、入っていった。
*
ハルメニア大陸の歴史に、永久に刻まれる史上最大の戦。
エスカリオテの会戦と呼ばれることになる、その大戦。
その火蓋が斬って落とされる運命の日――それが神か、悪魔によるものなのかは分からないが――確実に、間近に迫ってきていたのであった。




