第四十四話 狂信者ゼノン(Ⅴ)~潰えし狂信【★挿絵有】
跳躍し、上階エントランスに姿を現し――。
地響きを立てて石畳に着地した、レエテ。
まるで地に降り立った、巨大な黒い女豹。地を這うように低い体勢、丸めた背中に凝縮された爆発力。伏せられた貌の中で、上目遣いに前方に向けられた眼光だけが炯々と光る。犬歯をむき出しに軋ませた歯の間からは、炉からの蒸気のような激しい息が吐き出される。全身から、黒い炎のような殺気が放たれている。
それらの全てを向けられた、ゼノンは余裕の表情を、変えた。
その女、レエテ・サタナエル。“魔人”ノエルと“純戦闘種”サロメの血を、兄ヴェルとともに引く最強の血統の持ち主。幼少時の追放を生き延び、一族史上最強の女子マイエ・サタナエルに拾われ、その教育を受けた女子。マイエの件に不運にも巻き込まれて仲間全員を失い、“深淵”に飛び込むなどという前代未聞の行為を生き延び脱出。ダリム公国で決起し復讐に走ってから、無数のサタナエル兵員、副将、将鬼を葬り、成長し続ける存在。
改めてその出自と経歴を思うと、当然かも知れない。その証拠に、今この瞬間にも恐ろしい成長を遂げている。
今目前にいる怪物は、この謁見の間に足を踏み入れた時点のレエテとすら、すでに別物だ。
ゼノンも、これだけ圧倒していながらも実力を小出しにしてはいる。だが、その度にレエテは追いつき上回ろうとしてくる。際限がないかのようだ。その事実は、確実な恐怖をもたらしてくる。
ここに至りゼノンは決意した。もはや、手加減など一切するべきではない。真の全力をもって叩き潰すのだ。
「……いいだろう、レエテ。僕は決めた。今こそ、全ての力を君に向けてやろう。
これまで見せた力はまだ、師メイガンから授かった技と戦法の範疇でのものにすぎない。
これから、披露する力が――僕自身が研鑽の末身につけた、“血破点開放”の真髄。
サロメやロブ=ハルスも凌駕する、ヴェルに真の『将鬼最強』と云わしめた格闘術だ――!!」
その充血し、異様な迫力を発散させる両眼をレエテに向けたまま――。
ゼノンは両の手で手刀を作り、右手を己の喉笛に、左手を鳩尾に深々と突き刺した。
そして強力無比な法力を発生させる。すでに全身が充填された血破点打ち状態でありながら――さらなる血破点打ちを行うかのように。それでいて、通常の血破点と大きく異なる位置。
「“血破点開放”、“鬼人霊統過活性”!!!!」
すると――。
それは、驚くべき変化を、ゼノンの肉体にもたらした。
まず、これまで見た目は通常と変わることのなかった全身の筋肉が、激しくうごめいた。そして次の瞬間、急激な膨張を始め――。彼の赤い衣装の、上半身分を引き破った。
膨らみつつも均整が取れ、彫刻のような美を維持する肉体は、次にその色を変え始めた。
抜けるように白い肌は、みるみるうちに――。赤みを帯び、やがて輝く赤銅色にその姿を変えた。
もちろんそれは貌にも、首にも及ぶ。
次いで、長い金の髪が生き物のようにざわめきたち、針金のような束となり、伝説のゴルゴンの髪のようなうねる形状となる。
最後に――。その両眼の、瞳の部分が完全に色を失い、淡く光を放つ白目となった。
――その姿は、赤い地獄の鬼。人間であることを放棄したかのような異様極まる姿。ゼノンが拘った自身の美しさを放棄した容姿はただ恐ろしいが、それに相応しい、いやそれ以上の力を感じることこそが最大の脅威だった。
次の瞬間、ゼノンは動き出した――。馬鹿げた、速さで。
「――!!!」
驚愕に目を見開くレエテが動作を起こす前に――。
鬼の、拳は地から突き上げられ、見事に顎を捉えられたレエテは、垂直に上空へ打ち上げられた。
しかし、その身体が浮き上がり切る前に――。
拳と逆の左手で、足首を、掴まれた。
そして上空に突き上がった身体を、信じられないような怪力で垂直逆方向に引き戻され、背中から地に叩きつけられる。
レエテの強靭な身体はハンマーのように石畳を陥没させたが、彼女の身体も異音を上げ、ダメージを受けたようだ。
次いで身体を再び振り上げ、また地に叩きつける。ボロきれを振り回すかのような無造作さ、素早さで人間の身体を振りたくって滅茶苦茶に叩きつける行為。10度ほどそれを繰り返した後、側面に向かって一気に放った。
火山弾のように見事な水平の直線を描いて、5m四方もの巨大な鉄扉に激突した、レエテ。
受け身を取る間もなく背中から叩きつけられた彼女の身体は、まるで砲弾のごとく扉を破壊し、ひしゃげさせ、吹き飛ばした。
「――がっ!!!!」
常人ならば、一体何十回身体を粉々に粉砕されすり潰されていることであろうか。
それだけの攻撃を受け、大量の血を吐いて弾かれ、地に落下するレエテ。辛うじて倒れ伏すのを踏みとどまると、既に眼前にまで赤銅色の鬼の姿は迫っていた。
「“過活性放出”!!!!」
ゼノンが気合とともに、手に発生させた1m級の巨大光球でレエテを襲う。
――もとより、法力が得意とする活性術は、サタナエル一族には効果的とはいえない技だ。常人の数十倍以上の活性をすでに持つ一族の肉体は、常人が耐えられない活性状態がすでに日常の状態と同義であるためだ。だから他者の“定点強化”を平気で受けられる。よほどの強活性でないと効果がなく、それは最強の法力を持つゼノンをもってして漸く、それなりのダメージを及ぼすといったところ。かつて紙くずのようにエストガレス正規兵を一掃したようにはいかないが、法力使いの短いリーチを決定的に伸ばす光球は、戦法の一つとしての効果は十分だ。
しかし――これには見事、レエテは反応し行動を起こした。
死をもたらす光球に触れぬよう、電光石火の速さで地に伏せ、ゼノンの攻撃をかわすレエテ。
空をきったゼノンの右掌底と光球は、レエテの後方の壁に触れ、その恐るべきエネルギーで壁と柱を粉々に破壊する。
そこで極わずかに生じた隙を見逃すことなく、レエテは伏した時点で石畳に突き刺していた両の結晶手をリリースし、全身の筋力をもって上空へと振り上げ、十字に斬り裂く。
「黒帝流断刃術 “死十字”!!!」
物理法則の限界の斬撃を繰り出す、剣帝ソガールの神速かつ強撃の技。だがかつてサロメに当てた逆転の反撃に比べ、溜めの時間が圧倒的に足りない。かつゼノンはこれまで同様隙がなく、ぎりぎり反応できる状態にあった。
ゼノンの胴を捉え、赤銅色の肉を斬り裂くことには成功したが、反応しかわされ非常に浅い傷にとどまった。
「甘いいぃぃぃーー!!!!」
白となった目を剥く凶相で、ゼノンは死角の下段からせり上がる拳撃で応戦する。
両腕を振り上げた状態になり、隙だらけのはずのレエテ。もはや胴に喰らうしかない状況に見えたが――。
何と完全なタイミングで、反応した。振り上げたのは、右膝だった。
ゼノンの赤い豪腕を上方に向け弾いた、右膝の一撃。そしてそのまま体勢を崩さず、大腿筋のバネによって蹴りに移行する。
結晶手の埋まった右足は、ゼノンの顎に命中。血を吐き、身体を大きくのけぞらせた彼は、一旦後方に逃れ、構えを取り直す。
レエテもまた、右足の激痛に大きく貌を歪め、後方へ退き、構えを取る。
――これだけの手数と圧倒的密度の攻防を、ほぼ一瞬に近い時間の中で交差させた二体の、魔物。
しかも互いに一歩も譲らぬ、互角の勝負。拮抗する全力の魔物同士の、脅威の激突。大陸最大の堅牢な王城内でも、最も頑丈な謁見の間に隣接する構造物を、ことごとく破壊。
崩れ瓦礫を落とし、さらなる亀裂を音とともに広げる壁と柱。もはや人間の干渉も観戦も、許されるレベルの戦場ではなくなっていた。
およそ5mほどの距離をとって、対峙する両者。
互いに、超近距離格闘を戦法とする者同士。
その構えは、闘う人間同士というよりは、殺意をむき出しにした獣のものといえた。
腰を低く落とし、上体を曲げ、両手を広げ、上目遣いに相手を睨み据える。
神話に登場をする、神代の魔物同士の、生存をかけた闘争の場そのものといって良い非現実の光景であった。
ゼノンは歯の間から突風の如く息を吐き出しながら、喜悦すら感じさせる声を発した。
「何とも、素晴らしい!! ここまでの、強さ堅牢さとは!!!
僕の力の全てを受けてなお、壊れない。攻撃の度に互角の反撃を返してくる。真の全力を持って勝負でき、しかも命を奪うことが許される、敵!!!
満足だ。これだけの敵を葬り去り、その排除をもって神の王国の礎とできる――これこそ神より賜った栄誉!!!!
僕は君の屍体を抱え、王国の始まりの地となる、魔導王国ボルドウィンへ――フレアの許に赴く!!
さらばだ、安らかに眠れ。罪深き原初の怪物、一族の始祖“クリシュナル・サタナエル”の血を引き継ぐ者にして――最強の敵よ!!!!」
そして――止めを刺しにかかるゼノンの猛攻が、始まった!
全身が、淡く光り始めていた。元々、体内に損失のない膨大な法力を内包するゼノンの肌は、近距離で見ると薄っすらと光を放っているように見えていた。それが彼の美しさをさらに倍増する要素でもあった。
だが今。その光は明らかに攻撃属性を持つ明度の光となっていた。この攻撃で、全ての法力をエネルギーに変換し尽くす気だ。
その恐ろしさを肌で感じたレエテは、迎え撃つ体勢に入り、構えをとった。あの構えを。
低く落とした腰を斜に構える。左手を突き出し、右手を大きく捻って後方に引く。
そして目前に迫ったところで、右足を起点に全身の筋力をリレー、掛け算。右手先の結晶手に集約させて回転力を開放し、放った。
「“螺突”!!!!」
叫びとともに放たれた、死の小竜巻。数々の強敵を葬ってきたそれを、眼前の最大の敵の胸部へ向けて万全の体勢で放つ。
だが――。先程から放つことができなかったとおり、ゼノンの近距離での隙の無さは健在。加えて、レエテの技は敵に見られ、徐々に研究されてきている。
案の定すでに、下半身の予備動作で見抜かれていた。ゼノンはもう、レエテと対称をなす向きで斜の体勢となっており、攻撃を逃がす準備ができている。
会心の命中は無理だったが、レエテももはや以前のレエテではない。
死の突撃は、ゼノンの退避動作を僅かだが上回り、逞しい胸を5cmほどの深さで削り取り、噴血させた。
だが、ガードを捨てたゼノンも反撃を用意していた。右腕を素早くレエテの右腕に絡め、ついで下から突き出した左手の掌底をもって、レエテの右肘に下から命中させた。
大音響の鈍い音とともに、レエテの右腕を関節と反対に90度以下で折り曲げ、寸断された骨の先端を腕から突き出させ、大出血させる。
利き腕に極大の開放骨折を負ったレエテは、右足の痛みの上からさらなる激痛を得て、たまらず退避する。
ゼノンも、それを見てから胸の傷を押さえ、距離を取ることを選択する。
またしても構えを取り対峙する両者。
しかし先刻と異なり、その身体からは大量の出血だ。大技の激突とそれに伴う深手で消耗し、ぜえ、ぜえと大きく肩で息をしている。
ともに、人外の自己再生力を有する両者ではある。
レエテの右腕は、彼女の意志とは無関係にゴキッゴキッ、と音を立てて骨が一人でに動き、再生に向かって肉体がフル稼働し始めている。
ゼノンもまた、白い光が傷に集中し、柔らかく細胞を再生する力が発動している。
おそらく、5分も動きを止めていればお互い全快するであろう。
だが、それでは同じ行為の繰り返しでしかない。
両者とも、もはや相手の再生を待つ積りがないのと同時に、己の再生を諦める覚悟を決めた。
かつて行われた最強の者同士の激戦、“魔人”ヴェルと、マイエの頂上戦争。その闘いのように、なりふり構わない短期決戦に持ち込まねば決着は付けられない。
――このエントラスホールには、庭園に水を送るための中継場所である水道集合室がある。
その壁や柱に破壊が及んだことで、エントランス内は蒸し始め、その天井には多くの水滴が滲んでいた。
それが集まり集まり集合し、一つの大きな雫を形成し――。
ついに、人間の親指大の大きさとなって落下を始め――。
7m以上下の、石畳。ちょうどレエテとゼノンが立つ中間にそれが落ちた水音が――。
合図となった!
一気に飛び出し、距離を詰める両者。その身体からは止まらぬ血が軌跡を描いている。
互いの肉体がの距離が1mを切ったその時。互いのおそらく最後の技同士の激突は開始された。
ゼノンが放った技は、急停止させた右足が石畳にめり込む震脚とともに放つ、左手拳での超上段戦鎚。
長身の彼が、天から振ってくる隕石のように放つ、まさに神の天罰ででもあるかのような、絶望的重さと速さを持った必殺の弧拳。
「“神罰槌”!!!!!」
それは正確にレエテの脳天を捉え――。グシャッ、というおぞましい音とともに彼女の頭蓋と脳を破壊せんとする。
しかし――頭の一部を破壊しつつも、レエテはその動きに合わせて己の身体を、倒れ込むように「沈めて」衝撃を吸収していた。
そして、狙いすましたかのように残った左結晶手を振り、狙った先。
それは、先刻、謁見の間に残されたラ=ファイエットのメッセージが示していた、「身体の部位」。
右足の、爪先だった。
それを直前になって認識し、驚愕するゼノンだったが、遅かった。
レエテの左結晶手は、ゼノンの右足の甲を完全に貫き、石畳に突き刺さり、彼の足を地に固定したのだ。
――そう、ラ=ファイエットの超人的動体視力は、闘いの中で捉えていた。
通常の攻撃ではほぼ、“聖壁”の力で防がれてしまう、ゼノンの“血破点開放”で護られた身体。
しかしその身体の中で一点だけ、光を放っていない死角があったのだ。それが、右足の爪先。
そこならば、通常の人間と同じ、小さなナイフ程度でも傷をつけることが可能だろう。
情報をゼノンに気取られず現場に残すため――。銅像の同じ場所に得物が吹き飛ぶよう、先端が突き刺さるよう、シャルロウ・ラ=ファイエットは人生最後の一撃を放ったのだ。
それを見事受け取ったレエテの一撃により、魔物の動きは封じられた。
そして更に、レエテは自分の裡より感じていた。
今ならば。今だけかも知れないが――放てる。
自分が自分でもたらした、地獄の責め苦、地獄の鍛錬の結晶。その狙った能力の発現が。今この場ならば。それを先程蹴りを当てた時点で、感じていたのだ。
仇敵の右足を固定した左手を起点に、レエテはすでに動作を開始していた。
振り上げられた、右足。それは美麗な弧を描きながら――。
引き破れ、血を流すブーツの孔から、急激に飛び出させる――「黒い結晶」を。
それはまたたく間にブーツを四散させ、完全な姿を現した。
鋭利な、黒曜石のような結晶に全て包まれた、レエテの右足。
ついに、発現した、能力。レエテ自身の発案で生み出した、おそらくサタナエル一族でも史上初のものとなろう、武器。
それは半円の弧を描いて、ついに憎き仇敵の身体に到達した。
「――“結晶足”、“弧月断”!!!!!」
炸裂した、“結晶足”。
その先端は、ゼノンの左鎖骨部分に、斜めに入り――。
首と胸を連結する胸骨上端部分を大きく斬り裂き、深々と右胸を斬り裂き――。
右腹部、腰部の継ぎ目までを切り裂いた!
「――が――!!! レエ――テ!!!!
――き――きさ――ま――!!!!! がっ――はああああああああ!!!!!」
白く光る目を飛び出させ、恐るべき断末魔の表情と叫びを発現する、魔王。
上半身をほぼ両断され、信じられない量の血を天に噴き上げ――。
肺、肋骨、腸をその肉体から飛び出させながら――。
ゆっくり、ゆっくりと頭から地に向かっていった身体が、重い地響きを立ててついに石畳の上に横たわり……。何度か大きく痙攣を続けたのちに、完全にその動きを止め――。
肉体がややしぼみ、赤銅色だった肉体は、徐々にその色を青白い元の色に戻していき……。
白い両眼が、生命の息吹を失った元の碧眼に戻ると同時に――。
稀代の狂信者、ゼノン・イシュティナイザーは完全に、息絶えた。
レエテは、屍体の足から左手を抜き、地に四つん這いとなった。
しばらく肩で息をしていたが、突如、全身を仰け反らせ、エントランス全体が震える「声」を発動させた!
「おおおおおおおお!!!!! ううううおおおおおおおーー!!!!!」
ビリビリ、と震えた後に瓦礫を落とす天井。それらが床に落ちかかると同時に再びガックリとうなだれ、レエテはか細い声で、云った。
「やった――。やったよ、キャティシア……。私は、勝った。この悪魔を地獄に、落とした――。
マイエ、アラネア、ターニア、ビューネイ。あなたたちを含めて――仇は――とった。
魂に……報いた……!」
レエテのカタルシスの余韻を、未だ吸収しきれぬように――。
ローザンヌ城、エントランスホールは、いつまでも軋む烈音を反響させ続けるのだった。




