第十二話 地獄の王都(Ⅲ)~善政の功罪
ゼノンの用意した、ダレン=ジョスパン所有の馬車に乗せられたオファニミス。
街路を走り抜ける間、車窓から乗り出すように見た景色は――。
目を背けたい、しかし背けることができないほどの衝撃の景色。地獄そのものだった。
大陸一美しい、麗しの都ローザンヌ。エストガレス繁栄の象徴そのものであり、ありとあらゆる文化、学問、流行、物流の中心地である。高い文明水準を誇る高等建築の立ち並ぶ威容には、同じく大陸で水準の高い知識レベルの人々が集まり、王国の少々の斜陽などものともせぬ栄えぶりだった。
しかし――現在のその姿は限りない変貌を遂げていた。
青かった空を覆い尽くす、白煙と黒煙。その下に広がる紅々と燃え盛る、途方もない大きさの炎。それに焼き尽くされようとしている、幾多の文化的建築物、店舗、家屋。そしてそこから――逃げ惑う人々。
ローザンヌの人口は、約100万。この大都市で、過去全く経験したことのない戦乱が起きれば大混乱となり、膨大な避難民で覆い尽くされるのは必定だ。
現に今オファニミスの馬車が駆け抜ける中央大街路も、その広さから覆い尽くすまではいかないまでも、恐慌に陥った避難民で溢れている。
そして、生きている人間の様相も衝撃的だったが――。それを圧倒的に上回るショックをオファニミスに与えたのは、街路に無数に横たわる、死者だった。
生まれてよりこれまで大半の時を、宮殿の奥で蝶よ花よと育てられたオファニミス。
死んだ人間を見たことなど、母エレオノーラとバレンティンで遭遇した“剣帝”ソガール・ザーク、父アルテマスの3人しか前例がない。
数百人以上にもおよぶ屍が累々と横たわる、戦場そのものの光景など悪夢の中でさえ見たことはなかった。
しかもその屍は大半が老人、女、そして年端もいかない子供といった、自分で身を守るすべを持たない弱者たち。
血の池に沈む子供を前に泣き叫ぶ母親、逆に惨殺された親を前にしてしがみついて慟哭を上げる子供。
離れていても鼻を突く、酸鼻きわまる血の匂い。
しばらくして現れたのは、大橋上から見るラ=マルセル川。
その大河には、大量の死体が赤い水面の上に浮いていた。
それも、逃げ惑った上に水際で殺戮された女子供が大半だった。
もはやオファニミスの中には衝撃の中に恐怖の感情が表出し始めていた。
それらは、ローザンヌの為政者であるオファニミスが、身を粉にして働き政策を行い、守ろうとしていた弱者たちだった。
結局、自分はあまりにも無力だった。民のためを思い建造してきた福祉施設も、より実りをもたらすよう実施した灌漑工事も、弱者救済のため創設した孤児院や病院、学校や教会など――。全て破壊されたうえ、そこに集うべきだった人々の無辜の命も無残にも奪われた。
有無を云わさぬ無情なる暴力の前には、平和の努力とはここまで無力なのか。すべてが水泡、灰燼と化してしまうものなのか。
身を震わせ涙を流し続けるオファニミス。その嘆きはとどまるところを知らなかった。
「そんな……ひどい、ひどすぎる……! 善良なる民たち、それも弱い人々がこんなにも簡単に命を奪われて……。わたくしは結局、貴方がたにとって本当に大事な安全、命を守って差し上げられなかった……。わたくしのせいだわ……理想論ばかりふりかざして、何が一番大事なのかを知ってはいなかった……。本当に、本当にごめんなさい……!」
馬車の中でオファニミスと向き合うゼノンは、わざとらしい同情の表情と声で彼女に向かって云った。――その災厄をもたらした当の黒幕、張本人でありながら。
「おお、嘆くことはないよ、オファニミス。それはあくまで結果論だ。君は今まで本当によくやってきたし、間違ってはいないさ。有事にいたってしまったから君が責任を感じる事態にたまたまなったが、平和を謳歌した世界でなすべきことを、君は為政者として間違いなく実践してきた。それも、誰にもなしえないレベルで」
そして馬車の窓から、煙にまかれてよく見えなくなった空に目をやり、言葉を継ぐ。
「だがまあ、有事に備えることが一番大事なことであるのは否定しない。君は、目にしているだろう。そのような完全なる現実の非情さの中で戦い抜き生き残り、昔も今も最も有事に相対している人物、分かりやすい事例――。
レエテ・サタナエルをね」
その名を聞いて、オファニミスはハッとした表情でゼノンの貌を凝視した。
そうだ。なぜ今の今まで、ほとんどその存在を忘れていたのだろう。レエテ・サタナエル。彼女こそが、今のオファニミスにとって、エストガレスにとって最大の救世主なのではないか。
サタナエルの一員として超人的強さを持ちながら、復讐のため彼らを憎み、退治る唯一の人間。現実に数え切れぬサタナエルの強者を、地獄に落としてきた実績。それでいて、言葉を交わしたからこそ分かるその純粋で優しく正しい心。
サタナエルがもたらしたこの災禍に対し、サタナエルとの戦いに長けたレエテが助けてくれれば、きっとこの地獄の状況を打開できる。失われる故のない命を救うことができる。
その思いで頭が一杯になったオファニミスは、すがるような口調でゼノンに云った。
「レエテ・サタナエルが今どこにいるか、貴方はご存知なの? お願い……教えて。
わたくしは、何としても今一度彼女に会いたい、どうしても……! 彼女に会えるためならば、わたくし何でもいたしますから……!! どうか、どうか……お願い……!」
態度を急変させてしおらしく自分に懇願する、意中の女性を前にゼノンの興奮は高まった。
このまま襲いかかり、文字通り己のものにしたいという一段強い欲望を、全力の理性で飲み込んだ。
「……たしかに知っているが、教える訳にはいかないな。それを知れば、君はなりふりかまわずレエテに接触しようとするだろう。
しかし今のレエテの状況は、前に云ったとおり。いや、そのときよりも今は極端に悪い。
近づいただけで君の命が粉微塵になるほどに、危険な状況に身を置いている。まだ、ダレン=ジョスパンやラ=ファイエットに近づく方が安全とさえいえる。だから知らせない。君を死なせる訳にはいかないからね――」
ゼノンの言葉は、云い切る寸前で、急停止した馬車の衝撃によって止まった。
「――きゃあああ!!!」
悲鳴を上げるオファニミスに、ゼノンは穏やかに優しく声をかけた。
「どうやら、我々にも有事が訪れたようだねえ。ちょっと待っていてくれ。問題を片付けてくるから。
――アーシェム!! アシュラ!! オファニミスのことは頼んだよ!」
云うとゼノンは、馬車を降りた。恐怖心はあったが、オファニミスは窓にすがるようにして彼を目で追った。何が起きるのか、見届けなければならない気がしたのだ。自分と祖国に破壊をもたらした絶対悪の、真の姿を。
馬車の前には――街路を埋め尽くす軍勢、の姿があった。
2000、は居るだろう。雲霞の如く迫る軍勢はそのまま、馬車を取り囲むように展開する。
オファニミスが周囲を見やると、建物の屋根の上にも100人単位の弓兵が展開し、鏃を自分たちの方に向けている。
まさしく、完全なる絶体絶命の状態。生存の可能性は万に一つもない。――通常の状況ならば。
ゼノンは、軍勢に向けて声を張り上げた。
「貴軍の指揮官は、いずこか!!! 我はゼノン・イシュティナイザー!! ドミトゥス国王陛下の協力者だ!! 話がしたい!! 応えられよ!!!」
するとややあって、軍勢の中央より少し前あたりから、それに答える中年男性のものと思しき声で応えがあった。
「我らは中央師団所属、アスナベル旅団!!! 我は指揮官のホラズム大佐だ!!
王城司令部より、そなたらの沙汰については受けておらぬ!!! 現在ローザンヌは、戒厳令下の緊急事態!! 拘束させ調べさせてもらう!!!」
「我らはドミトゥス陛下の正規の命令で動いている!! 緊急だ! 見ての通り、貴人を護送中なのだ!! 旅団の大佐である貴殿が裁ける事案ではないぞ!!」
「そのような事案なのかどうかは、我が判断する! 大人しく従うが良い!!!
その馬車、逆賊ダレン=ジョスパンのものだな!! もしも乗っている貴人が――同じく逆賊、王女オファニミスなのであれば、容赦するわけにはいかぬ!!! 反乱軍どもへの合流を阻止せねばならん!!!
――ひっ捕らえよ!! 何を持っているかわからん、油断はするな!!!」
配下に命じるホラズム大佐の言葉に、頭を垂れ、目を閉じるゼノン。
その身体が震え、ややあって喉の奥からのクッ、クッという嘲笑が聞こえてきた。
「いやはやなんとも――できる軍人の鑑だね君は。それは、今のこの状況においては大変に不幸なことだ。
もう少し、柔軟に物事を見通せたらと――。大局を見て物事を考えられていたらと――。
――地獄で、存分に後悔するがいい!!!!」
瞬時に――。
ゼノンの豹変を、オファニミスはその眼に捉えた。
上げられ、顎を突き出されたゼノンの美しい貌は――目を見開き、異常に口角を上げた――禍々しい表情に変貌していた。
身体からは、膨大な闘気と、異常に研ぎ澄まされた殺気を放出している。離れた場所にいる、戦闘とは無縁な女性であるオファニミスにすら、身体に刺すように感じられた。
「この忠実なる神の下僕ゼノンは、今まさに裁定を下す。
このゼノンに相対するは、神に反逆すると同義! その罪は、彼岸への行き来を繰り返す、万死に値せり!!
よって汝ら全員を、今この場で地獄に叩き落とす!!!!」
 




