エピローグ 地獄を統べる魔皇【★挿絵有】
その場所は、大陸のいずれの場所とも異なっていた。
いや、異なる、とは生易しい。別次元の世界、と形容すべき――秘境であろうか。
大陸とその場所を大きく隔てる、標高3000mにもなろうかという山脈には、一切の緑が無かった。
特別、何か特徴的な地層があるという訳ではない。ただ――その山は死んでいた。植物も、動物も、一切の生命の息吹を拒否する――静かでありながら絶対的な死の力がそこにあった。
そして隔てられた、数十万平方kmにおよぶ広大な土地。
ほぼ全てが禍々しい、植物、というもはばかられる緑の魔境で覆われていた。
中央に走る川を始め、縦横無尽に走る支流による豊富な水量。
しかし、その川はほぼ一つにまとめられ、底の見えない――。比喩ではない。暗黒の、何kmあるかも定かでない超々落差の巨大穴の底へ通じている。
海に接する場所は、大きく内側へ湾曲した形状の、標高1500mにも及ぼうかという山脈の形成する断崖によって――。一切の接岸・侵入を許さぬ、入り込む想像すらできない状況を作り出している。
踏み入ることができない事実は、すなわち――。この土地に一旦閉じ込められたなら、空を自由に飛行できる生物でもない限り、外部へ脱出することは完全に不可能といえる状況が形成されているのだった。
これこそがハルメニア大陸最果ての地、アトモフィス・クレーター――。
この土地の中心をなす緑の魔境――ジャングルに、一つの人影が、あった。
人影、ではある。人の姿は取っている。
しかし間近でこの姿を目にした人間が、すぐにこれを人間と認識できる保証はない、と思わせた。
それだけ超常力としか云いようのない、見えないが確実に感じられる暗黒の気流をまとい、およそ通常の人間が備える要素を、ことごとく放棄しているとしかいえぬ雰囲気を備えた存在であったのだ。
その身長は2m、を優に超えていた。天地に長いだけではない。幅に関しても、1mに届こうかというサイズ。あまりにも巨大な男性の体躯だ。
禍々しいレリーフの施された黒いボディスーツをまとうその肉体は筋骨隆々、などという平易な表現では到底言い表せない。
言うなれば、そう――外から見ると岩、の集合体でありながら、その中身は全てが何千本もの針金の束で引き絞られた状態、とでもなろうか。手で触れただけで反発力で手が吹き飛ぶのではないかと思わんばかりの超々剛力の塊、といえた。
頭髪は短く清潔に刈り揃えられていた、が、通常と大きく異なるのはその色だった。
人間の頭髪とは思えぬほどにまばゆい光沢を放つ、白銀一色の色であった。
そしてその下の貌――肌の色は小麦色の褐色。細く長い白銀色の流麗な眉、切れ長ながらサイズは大きく、黄金色の瞳をもつ美しい目、高い鼻、凛々しい唇と、かなりの美男子の部類といえた。おそらく、年齢は極めて若い、20歳そこそこであろうとは見て取れた。
しかしながらそれらの要素を全て色褪せさせる、眉間の激しいシワ、硬い頬骨、引き結ばれた極端に強い意志を感じさせる唇の表情、射抜かれただけで通常の人間は心臓が停止するであろう凶器に近い眼光が、この男を「化物」たらしめているのだった。
この男は、両の拳を握りしめたまま、直立不動の姿勢のまま微動だにしなかった。
しかし、耳は――、何かに向けて澄ましているのがはっきりと見て取れた。
やがて数分の間を置き――遂に男が動いた!
その巨体からは想像もつかぬスピードで跳躍し、まず付近の大木の幹を蹴りつける。
そして跳躍したその勢いで今度は向かいの大木の幹を蹴りつける。
大木は、この男の200kgに届こうかという超重量体重の衝撃を受け、ギシリ!と悲鳴を上げる。
この動作を十数回繰り返していくうち、男の身体は、100mもの高さの大木の――上まで達し、ジャングルの上空110m付近まで飛び上がった。
そこに姿を現していたのは――とてつもなく――とてつもなく巨大な鳥の怪物だった!
全長15m、翼幅40m以上におよぶ巨鳥――ロック鳥だ。
男は、このロック鳥の発する羽音を数km先から聞き分け、まさに鉢合せするタイミングを狙ってジャングル上空へ飛び上がったのだ。
「クエェェェェェーーーーー!!!!!」
大音量の鳴き声を発するロック鳥の目前で、男は両の手を――黒曜石のように黒光りする結晶状に指先と小指側の手の部分を硬化させた。
そして覆いかぶさるようにロック鳥の頭部の上を取り、交差させた両の手を一気に振り払う!
男の手で寸断されたロック鳥の首は、切断された頸動脈から噴水のような血を吹き出させたあと、ぐらり、と地に落ちていき――同時に首を失ったその巨体も落下していった。
おそらく数トンに及ぶであろうその重量物の落下に耐えきれず、バキバキバキッ――と轟音を立てて木々がなぎ倒されていく。
男は、ロック鳥の胴体部分に直立に立ちながら、地に落下していく。
存分に木々のクッションによって落下衝撃を吸収させたところで、男は、寸分違わない元の地上に降り立ったのだった。
その男の背後に、一つの気配が近づく。
「お見事。お見事としか云いようがありませんわ。流石はサタナエルを統べる 『一族』 頂点に立たれる尊き御方――ヴェールント・サタナエル、いいえ、“魔人”ヴェル――!」
恍惚とした表情で両手を口の前で合わせながら男――、いや“魔人”ヴェルに近づいたのは、一人の女性だった。
齢の頃は20代半ばと見え、栗色の長い髪と銀の縁の眼鏡が特徴的な、美しい女性だ。160cmほどの極めて胸と尻のふっくらした魅惑的な肢体を持っている。
その身体は、一部にアルム絹の使用される黒と白で構成されたローブとマントで覆われている。どうやら魔導士であろうと見えた。
「フレア……何しに来た」
“魔人”ヴェルが言葉を発した。
極めて低く小声に近い声量であったが、その迫力は、腹の底に響き、聞く者の背筋を張らせるに十分だった。
「貴方の神聖なる鍛錬を中断させるに充分な用件ですことよ、ヴェル」
その女、フレア・イリーステスがヴェルの凄みにも引かず言葉を継ぐ。
「レエテ・サタナエルが見つかったようですわ」
「……!」
「ダリム公国コロシアムの剣闘大会に突如罪人に身をやつして現れ、英雄ラディーンと、“狂公”ダレン=ジョスパン公爵子飼いのアシッド・ドラゴンを一刀のもとに屠ったと。
そして、その後“狂公”を挑発したそうです。自分はここにいる、全世界にこれを知らしめよ、と」
「……」
「ダリムやエストガレスの追手はなかったようですが、その後ならず者の追手を振り切り――コルヌー大森林に迷い出ました。これをダリムにいた“剣”副将トム・ジオットと配下の一名が捕捉したのですが――。どうやら、返り討ちにあったようで、トム・ジオットの遺体が森林で発見されたとの報告がありました。その配下の者が生き残り、報告を上げたことで判明したと」
「副将を、奴が討ったと?」
「ええ、どうやら彼女には協力者が居るようで、そのアシストの効果もあったようですが。
“七長老”たちはすぐに追手を差し向けるよう命じていますが、いかがいたしましょうか?」
しばしの沈黙の後、ヴェルは言葉を発した。
「追手を差し向けるのは構わぬ。が、奴は、俺が、俺自身の手で殺す……。長老どもには再度、よく念を押しておけ」
云い置くと、ヴェルは再びジャングルの奥へと去っていった。
主と充分に距離が離れたと見たフレアは、ため息混じりのどこか嘲笑をおびた口調で云った。
「やれやれ……世界最強の至宝も、『私怨』に囚われては……。
今度の騒動で我々の存在も数百年の時を経て世に明るみに出る上、反逆者の存在。
私も、『いろいろと』考えた方が良さそうね……」
第二章 逃避行、そして追いすがる刺客
完
次回 第三章 王都と聖都 を開始します。