第四話 公爵の計略
エストガレス王国建国以来、初の王太子による――表向きは王女による、とされるのだが――国王弑逆という大陸を揺るがす一大事。それがまさに行われていた頃。
舞台となった王都ローザンヌから東へ500km。
ドミナトス=レガーリアに隣接するファルブルク領。その領主の居城たる、ファルブルク城。
ファルブルク公爵直属部隊“夜鴉”と、その指揮官たるシェリーディア・ラウンデンフィルは、すでにグラン=ティフェレト遺跡から帰還を遂げていた。
今シェリーディアは、すでにファルブルク公爵、ダレン=ジョスパンの居室の大扉の前に立っていた。
その表情は伏し目がちで、数分ドアのノックをためらったまま立ち尽くしていた。
ひとまずは、ひとしきり釈明をせねばならない責務が待っている。レエテ・サタナエル捕縛を約束しながら、個人的な復讐を優先、さらには標的に感情移入して意図的に取り逃がすという失態を犯したこと。
しかしながら、それより何よりもシェリーディアの心を重くしていたのは――。おそらく部屋に入った瞬間、報告よりも何よりも、相手の男から獣のように自分の身体を求められるというその事実だった。
そこから逃れたくて今回の遠征を志願したのもあるし、レエテと行動をともにできればどんなに良いか、とも思う気持ちはある。だが相手は自分を絶望の死の淵から救ってくれた恩人。それを正当な理由なく裏切ることはできないし、どのような形でも自分をこよなく必要としてくれる人間を、無碍にすることはシェリーディアにはできない。
意を決してドアをノックすると、返事はすぐに返ってきた。
「入れ――!」
待ちきれず、興奮に上ずった声だ。シェリーディアは目を瞑ってドアを開けた。
生唾を飲み込んで貌をようやく上げるやいなや――相手の男、ダレン=ジョスパンはシェリーディアのすぐ眼前に迫っていた。
そしてシェリーディアに一言も発させることなく、その身体を抱きしめ、強引に唇を奪った。
(あ……)
次いで“魔熱風”と帽子を床に落とされ、身体を抱きかかえられた。そして豪華で大きなソファの上に投げ出される。
寝かされたシェリーディアの豊満な胸の上に馬乗りになり、慌ただしく服のボタンを緩め、ベルトを外し始めるダレン=ジョスパン。
「……分かっているだろう、いつも通りに、せよ……」
シェリーディアは目を閉じた。涙が出てきた。仕方ない。自分が選んだこの道だ。
すぐに命令された通りに、した。
*
それから半日の間、ダレン=ジョスパンからの要求は苛烈を極めた。
長期留守にしていた間の欲求不満が爆発したのだろう。一分一秒でさえ放しては貰えなかった。
ようやく満足したダレン=ジョスパンがベッドから起き上がり、服を身に着け始めたとき、シェリーディアはぐったりと精魂尽き果てて横たわっていた。
一体、この男は何者なのだろう。
シェリーディアは思わずにはいられなかった。この男の側に仕えてそれなりの日数が経つが、驚かされることばかりだ。
自分は、サタナエルでおそらく10指にまでは入る強者まで上り詰めた。パワーも、スピードも、スタミナもテクニックも。大陸で超人中の超人の域のハズだ。
なのにこの男には、パワー以外では足元にも及ばないのが正直なところだ。
まずスタミナが度外れている。無限とも思える精力がみなぎり、僅かでも疲れているのを見たことがない。睡眠時間は、いかなるときもおそらく2時間以下だ。一ヶ月眠らないことも容易いのではないか。
次いでテクニックも、宮廷で英才教育を受けた、などというレベルではない。体捌きも剣捌きも、将鬼をも凌駕するのではないかと思われた。
何よりも――スピードだ。いや、スピードという問題なのかも疑わしいが。この男の何気ない動作でも、シェリーディアの目ですら捉えきれないことが頻繁にある。以前、一度たまらずベッドから逃げようとしたときも、瞬時に捕らえれてしまった。幾度か実戦の手合せもしたが――相手にもしてもらえなかった。何しろ、シェリーディアがどのような攻撃動作に及ぼうが、開始する前にダレン=ジョスパンの剣がシェリーディアの喉元を捉えているのだから。
この男が超大国エストガレスを思うままに動かしてきたのは、もちろんその高貴な生まれや、ずば抜けた知略とカリスマの力も大きかろう。
しかし今のシェリーディアの目から見て最大の要因は、その個人としての魔の戦闘能力だ。これだけの力があれば国の英雄であろうと、一国の軍隊であろうと、敵にしようが恐るるには足らない。いかようにでも好きに振る舞えるだろう。――いかなる邪魔者も、誰にも覚られることなく速やかに消すことが可能だろう。
だが、それらの超常的力は、この男の心には少なからず――。
「何を見ている? 以前と少し様子が変わったな、お主。遠征先で何か大事でもあったのか?」
振り返って怪訝そうに問いかけるダレン=ジョスパンに、シェリーディアはハッとし表情を輝かせて問い返した。
「い、いや大丈夫だけど……。アンタ、アタシのこと心配……してくれるの……?」
自分を、一人の女性として見てくれている……? 淡い期待をこめておずおずと聞いたが――。冷たい双眸をそむけながら、素っ気なくダレン=ジョスパンは云った。
「大丈夫ならよい。余の所有物として使い物にならなくなっては困るゆえ、聞いただけだ。
その遠征のことだが、報告せずとも良い。レエテ捕縛に失敗した。その事実が分かっていれば十分だ。
お主は余のものであるゆえ処罰は特段与えぬが、次に失敗すれば“夜鴉”の指揮権は剥奪させてもらう」
報告事項としては――レエテの驚くべき出生の秘密、血筋に関する衝撃の事実、がある。本来は第一に報告すべきだろうが、それによって彼のレエテへの執着が増すことを考えると云い出せなかった。レエテへの友情と――シェリーディアも気づいてはいないが、僅かながら芽生えた彼女への嫉妬心によって。
「ゆえにまずは、次の任務にて手柄を立てることに邁進せよ。
実はこのところな……王国内のサタナエルの動きが緊迫度合いを増している。余が事前に得た情報からすると、今日、にでも早馬の知らせがある筈。お主には、重要な任務を任せたいと考え――」
そのダレン=ジョスパンの言葉を遮るように、部屋の外から彼の近衛兵長ドレークの緊迫した大声が響き渡った。
「公爵殿下!!! お休みのところ、非礼ご容赦のほど!!! ドレークにございまする!!
火急中の火急の用件にて、このまま上奏たてまつりまする!!!」
女と二人、部屋でどのような格好でいるか分からぬゆえ、ドアを開けぬのは最低限の礼儀。しかし主人の返答を待たずに一方的に報告を入れるという、本来なら無礼にあたる行為を行うからには――。
ダレン=ジョスパンはシェリーディアに目配せして肩をすくめた。ほら、噂をすれば来たぞ、と。
「ローザンヌからの早馬の報せ!! 我がエストガレス王国国王、アルテマスⅡ世陛下、本日早朝、ご崩御っ!!!!!」
「なっ――!!!」
シェリーディアはドレークの驚くべき報せを聞いて、ベッドから飛び起きた。しかし彼女の視線の先のダレン=ジョスパンはこれを完全に予測していたと見え、眉一つ動かすことはなかった。
「死因は、ガラルド准将の弑逆による、凶刃による暗殺!! これを指示したのは、下手人が近衛兵長としても仕える――オファニミス王女殿下!!!! 現在、二名ともに身柄を拘束、ローザンヌ城地下に幽閉中とのこと!!!
そしてあろうことか、王女殿下は己の意志薄弱により、公爵殿下に操られ事を行ったと断罪。ファルブルク領の即時取り潰しも決定されましてございます!!!」
「――!!」
またしても驚愕に貌を青ざめさせたシェリーディアは、ベッドから降り、下着とブーツを身に着け始めていた。
ダレン=ジョスパンは立ち上がり、ドア越しに極めて冷静に的確に、指示を下した。
「成る程、大義であった、ドレーク。状況相分かった。それでは余も火急にて動く。心して聞け。
まずは、我がファルブルク軍の近衛兵を除く全軍を西、ローザンヌとの領境に集結させよ」
「はっ!! 念のため確認を申し上げますが、『全軍』ですな!?」
「さすが飲み込みが早くて助かる、ドレーク。左様。『全軍』だ。
東の連邦王国のソルレオンは、今頃ノスティラスとの板挟みになっていようし、今中立の立場を崩すとは考えられぬ。南のエスカリオテも、サタナエルの傀儡である奴らが今の時点で我らをどうこうなどせぬ。
従って、今脇目もふらず我が領内を犯そうとするのは、ドミトゥスの阿呆の息がかかった――そうだな、アシュリーゲイあたりが任される西からの師団ただ一つだけだろうゆえな。
ドミトゥスだけが本気で、サタナエルは本気でファルブルクを取ろうとなどしては来ぬ。一時的に耐えきれば良いだけだ。できるな?」
「はっ!! 万事障害なく。事前の御身のお備えのもとに動くのみにございます」
「よかろう。そして今ひとつの指令。それは使者に書状を携えさせ、遣わすことだ。
相手は3人。いずれも保管庫の金庫の中に書状が用意してあり、宛先もしたためてある。
いずれも早急に走らせよ。中でも特に――カンヌドーリア公爵宛の書状は、特急だ。最も速い馬に、最も優秀な騎手を乗せて事にあたれ」
「はっ!!」
「最後に、申し伝える。今この時点より、余は力を解放し、領内外での単独での動きを主とする。一切、余の消息を探すな。これは、国内の騒動が鎮火するまで、継続するものとする。
それまではファルブルク城を死守することのみを考え、余の名を騙るいかなる命令も受けることを禁ずる。良いな?」
「は、ははっ!!!」
ドレークの声が大きく震え、感じている動揺が伝わった。彼は、恐れているのだ。ついに主人が悪魔の力を解放し、王国に血の雨を降らせることを。今のシェリーディアにはそれがひしひしと感じられたのだった。
ドレークが命令を携え去って行った後ダレン=ジョスパンは、装備を整え終わったシェリーディアに向かって指令を与えていた。
「まず念のため申し伝えておくとな、シェリーディア」
「ああ、分かっている。アルテマス国王を暗殺したのは、王太子ドミトゥス。オファニミス王女殿下はドミトゥスにはめられ、君主たる父親殺しの汚名を着せられた。そしてそれらは全面的に、ゼノン・イシュティナイザーが糸を引いた上での事。
たぶん、追い詰められてきたサタナエルが、大幅に秩序の破壊へ舵を切ったことによってね。
そうだろう?」
「素晴らしい。そこまで分かっておるなら話は早い。シェリーディア。余がお主に望むことは、いたってシンプルだ。
お主は“夜鴉”を率い、オファニミスを保護。その先は常にあやつの望む場所へ行き、あやつの望む行為ができるよう、全面的にサポートしてやって欲しいのだ」
「――なんとなく、予想はついていたよ。けど、王女は厳重すぎる場所に幽閉されてる。その脱獄に関しては?」
「心配いらん。ゼノンは決して、ドミトゥスが望むようにオファニミスを処刑させたりなどせぬ。奴が勝手に、オファニミスを逃してくれる。お主はそれを保護すれば良いだけだ」
「もう一つ。ラ=ファイエットじゃあなく、アタシに王女のことを託す理由は?」
「ラ=ファイエットには、当然軍を率いてもらいたいからだ。これはお主にはできぬこと。逆に、お主に任せたい隠密行動は、貌を知られすぎているあやつにはできぬこと。適材適所、それ以外にない」
「最後に――。アンタ、この事態を以前から予測し、これだけの計略と準備を重ねてきたってことなのかい?」
「左様。正確には、大まかに5パターンほど事態を想定し、それに関する計略を詳細に用意しておった。今回起きた事態は、その中でも最悪に近い事態ではあるが――まだ今のところ、完全に想定内だ。
お主には、必要に応じ指令を与えることもあるゆえ、それを受け取れるよう心していよ。まあそのあたりは、ダフネが心得ているゆえ、あやつに詳しく訊くが良い」
シェリーディアは笑みを浮かべ、完全に参った、という表情で両手を広げた。
「――わかった。恐れ入りました、公爵殿下。アタシはこれからもアンタを心から信頼して付いていくよ。
早速、行動に移る。アンタに云う必要は、たぶん無いんだろうけど――気をつけて」
「フッ。言葉だけは受け取っておこう。そして、そっくり言葉を返そう。余にしてみれば、お主には何があっても傷ついたり、死んだりして貰っては困るゆえな」
そのダレン=ジョスパンの言葉は――単なる所有物に対しての域を出ないのは分かっているが――。
「お主には傷ついたり、死んだりして貰ってほしくない」という言葉に身体の奥から嬉しさがこみ上げ、帽子で隠した貌を赤らめて踵を返し、退出していくシェリーディア。
彼女の持つ、「相手に必要とされたい」という強すぎる依存心が満たされたことによるものか。
それとも、芽生え始めていた別の、彼への「強い感情」が満たされたことによるものか。
その真実を、このときのシェリーディアには、知る由もなかったのだった。