第三話 弑逆の王子
エストガレス王国。500年の歴史を誇る、ハルメニア大陸最大の国家。
建国以来、数々の小規模の戦乱には見舞われてきた。
のちに衛星国となった公爵家、エグゼビアとカンヌドーリアとの小競り合いが起きた400年前。バロム・ノスティラスの手によってノスティラス皇国が建国された150年前。その皇国や、建国する以前からあったドミナトス=レガーリアとの国境を隔てた紛争。
しかし例えば、独立を主張した国家との尻尾切りのような形での争いでは、あるところまでで深追いはしなかった。しかもエグゼビアとカンヌドーリアは、結果的に独立は許したものの属国となったため、実質的な被害はなかったと云って良い。紛争にせよ、国軍の一部の激突となった「ドゥーマの反攻」が例外的に大規模だという位、国境警備軍レベルでの小競り合いがほとんどであった。
国家を揺るがすような大戦乱や、内戦の勃発にまでは至っていないのだ。直近の200年以内ではサタナエルの干渉によるところは大きかったが、それ以前の王国単独の政治運営の中でもそれなりの堅牢な国家体制が築かれていた。
それに関しては、建国王マーカス・エストガレス以来一貫した支配者である王家の威厳と力が強大であったことが大きい。
王家の強い権威があるゆえ、権謀術数にまみれる貴族たちも個々の政敵排除に明け暮れるのが殆どで、まとまりに欠けた状態であったのだ。ゆえに王家を恐れ大派閥のような勢力も形成されず、謀反や内戦を引き起こす土壌が醸成されなかったことは長期平和の最大の理由であろう。
であれば裏を返せば王家が崩壊、分断されるようなことが仮に起きれば――。いかな王国といえど内戦への突入は避けられないということである。例えば――王位継承者の一人が謀反を起こし、国王や他の継承者と敵対し正面から争う。そしてそれぞれの旗頭を担ぐために貴族達や軍属が真っ二つに分かれる。そんなことが起きたなら。
現在――その最悪の状況が、現実のものとなりつつあった。
王国の安定を守るために暗躍してきたサタナエルが、掌を返して安定を崩すために動き出したがゆえに。
ローザンヌ城、国王謁見の間。
事前に国王との謁見を申し込んでいた、王太子ドミトゥス。
彼が事前に指定していたとおり、謁見の間内は人払いされ、正面の玉座に座っていたのは父アルテマス国王と、妹オファニミス王女のみ。
ドミトゥスが現れたことで、10年前にこの世を去った慈悲深い母エレオノーラ王妃を除く、王家家族全員が久方ぶりに貌を揃えたことになった。
しかし――そこで、一家団欒の会話などが繰り広げられることなど、あるはずもなかった。
扉から入室してきたドミトゥスは、ものものしい甲冑姿に、腰に実戦用ロングソードを帯びた状態。
その姿を見て、すぐにただならぬ異変を感じ取って玉座から立ち上がるアルテマスとオファニミス。
しかし、それと同時に扉から現れたもう一人の男を見て、二人は彫像のように動きを止めた。
2mに届きそうな均整の取れた長身。赤と黒の、目に鮮やかなローブに似た衣装。後ろで結わえたくせ毛の長い金髪。そして、あまりに清涼感に満ちた魅力的な笑顔を浮かべる、絶世の美貌。
サタナエル“法力”ギルド将鬼たるその男。それはアルテマスにとっても、オファニミスにとっても、嫌悪・恐怖の極致の対象である、最凶の悪魔。
「ゼ――ゼノン・イシュティナ――」
オファニミスが、恐怖に支配された表情とともに発したその名前。自らの名を呼ばれたその男ゼノンは――。瞬時にその場から姿を消し、わずかな残像を残しながらオファニミスとアルテマスの背後にたどり着く。そして、黒い手袋をした手を彼女らの首筋に当てる。手はぼんやりと白い光を放ち、すぐさまそこに位置する血破点に法力が流し込まれる。
その途端――二人の身体は為す術なく床に崩れ落ちた。全身の力が一瞬にして抜け、全く動かすことができない。目は見え、耳も聞こえるが、声だけは、全く発することができない。
床に貌を着くという、王族に生まれついた者として一度も受けたことがない屈辱を味わったオファニミス。その視線の先にいる、自分を嫌い憎しみ続けていた実の兄の姿を、涙をにじませて見る。
「父上……。どうせ不愉快なお言葉しか発されないのは分かっていますので、口を封じさせてもらいました。ああ、誤解されませんよう。もし叫ぶことができたとしても、誰も助けには参りませんよ。
こちらのゼノンと、サタナエルの手によって完璧に護衛は消されておりますゆえ」
ドミトゥスのあまりに卑しい、相手を見下しきった侮蔑の目と、口元の嗤い。自分が一切の愛情を向けることなく、いつしか憎しみのみを返されるようになっていた息子の表情を、仰向けに硬直し凝視するアルテマス。
その貌は、絶望的な恐怖に歪んでいた。お世辞にも剛毅とも、気高いともいえぬ小心者の凡君であるアルテマスは、すでに国王としての威厳の全てを失っていた。
「まことに残念です。このドミトゥスは、王太子として自分なりに必死に努めを果たしてまいりました。力及ばぬこともあったかも知れませぬが……。しかしこれまで貴方は私を認めることなく、全てを否定してこられた。私の悲しみを、慮ることができましょうか?
貴方はオファニミスばかりを優遇し、あやつに王都のローザンヌ公、私には静養地のアライン公を賜るなどというこれ見よがしの屈辱をお与えになられた。それがゆえに国民どもも、臣どもも、私の名前が出ればああ、あのドゥミトスか。オファニミス様が王太子なら良いのに、と軽んじ――侮辱する!!!
お主のせいだ。大王国の高貴な血を継ぐ男子である予が、かような侮辱を受けるのは全て、お主のせいだあ!!!!」
突如感情が昂ぶり、狂気の表情に変貌したドミトゥス。やおら腰の剣を抜き放ち、仰向けに倒れるアルテマスの右の手の甲に剣先を突き立てる。それでもまだ気が済まぬのか、それを引き抜き、反対側の左手首に凶刃を振り下ろす。
深々と刃が入ったが、怠けてろくに稽古も鍛錬もしない未熟にすぎるドミトゥスの腕前では、きれいに切り落とすことなどできない。中途半端に半分切断し刃が入り、うまく抜けずに力任せに刃を回す。
それが恐るべき激痛を生み、声で表現できないアルテマスが、痛々しすぎる苦悶の表情で目を見開き舌を出して全身を震わせる。
オファニミスは、涙を流しながら口だけを動かし、声にならぬ声を父に向けた。
(あああ!!! お父様!!!! お父様ああああ!!!! やめて、殺さないで!!!!)
そこへ、ゼノンが歩み寄り、かがみ込んでうつ伏せのオファニミスを持ち上げ膝に抱きかかえる。
オファニミスは――抵抗できない状態で、よりにもよってこの世で最も嫌悪する対象に身体をさらしたこの状況に――。極限の生理的嫌悪感と恐怖を感じた。開閉するだけの口からは荒く息が吐き出され、白目まで引き剥かれた両眼からは涙を流し続ける。
ゼノンは、美しすぎるその貌に恍惚の表情を浮かべてオファニミスの頬を指でなぞる。
身体を震わせるオファニミスに構わず、ゼノンは言葉を続ける。
「ああ……いいよ……きれいだ、オファニミス。恐怖に震えたその貌……とてもいい。
どうだい、実の兄による、実の父殺害の現場に立ち会う、その気分は?
愚かの極みだよねえ、ドミトゥスは。愛情コンプレックスを持つ父と、才能コンプレックスを持つ妹に言葉で責め立てられたら萎縮してしまう。だから君らを黙らせろなんて命令をくだす、ネズミのケツの穴より小さい狭量なんだよ。己が欠片も王に値しないクズだから誰も相手にしないという現実から、目をそむける。あんな男が500年の大王国初の破壊者になるのは、僕も大いに不満ではあるよ」
そしてやにわに貌を近づけ、オファニミスの柔らかな頬を、舌を出して一舐めした!
オファニミスの貌が、発狂寸前に歪む。
(イヤ、イヤ、嫌ああああああ!!!!!)
「ああ……カワイイ、カワイイよ、オファニミス。もうこの場で、君を僕のものにしてしまいたい。
けど……残念ながら君には、まだ大事な役目があるんだ。まだ活躍してもらわないといけないんだ。
ドミトゥスはね、このあと君に自分の罪を押し付ける。当然捕らえて国民の前で君を貶めつくし、処刑するのが彼の狙い。だが、そうは問屋がおろさない。
彼の意志に反し、僕らサタナエルは君をうまく逃がす、オファニミス。
そのとき君が頼るべき選択肢は一つ。そうだよねえ? まず真っ先にドミトゥスの矛先が向っているであろうダレン=ジョスパンの許には、とても向かうことはできない。さりとて君の理想高い政策に、本気で賛同してくれていた力ある貴族は、殆どいなかったはずだ。ただ一人を除いて、ね」
その言葉にはっとしたオファニミスだったが、大きな鈍い音が響き渡ったのを聞いて、即座に視線をドミトゥスとアルテマスの許に戻した。
その音は――今まさに、ドミトゥスの凶刃が、アルテマスの心臓を貫いた音だった!
上げられぬ叫び声を上げた断末魔の表情のまま、天を仰ぐアルテマスの貌。
大罪人たる王位簒奪者となったことに今更怖気づいたのか、思いを遂げたはずにも関わらず顔面蒼白となって震えている、ドミトゥス。
(お父様!!! お父様っ!!!!!)
心の中で叫ぶオファニミスは、そのままゼノンの両腕に抱きかかえられる。
ゼノンはそのまま、ドミトゥスに笑顔で歩みよる。
「おめでとう。ドミトゥス『国王陛下』。これで、エストガレス王国は晴れて君のものだ」
話しかけるゼノンの存在にも気づかないように、剣の柄を両手で握ってブルブルと震え続けるドミトゥス。
それにゼノンが肩をすくめたとき、謁見の間の扉が開いて、高位の軍人らしき男が三人入室してきた。
「来たね。サムデラ大将。フリルギア西部方面師団長。アシュリーゲイ参謀本部長」
いずれも、国軍の中枢を担う英雄たちだ。とくにサムデラ大将は右腕、アシュリーゲイ参謀本部長はブレーンという形で、ラ=ファイエット元帥と極めて関係の深い重鎮たちであった。
彼らは進み出ると、ゼノンではなくドミトゥスに向かってひざまずき、深々と礼をとった。
しかし彼らに返礼すらできない体たらくのドミトゥスに代わって、ため息をつきながらゼノンが答えた。
「こたびの話を聞き、ドミトゥス殿下に忠誠を誓った貴殿らの先見の明は特筆に値するよ。
すでに段取りは、聞いているだろう。この王女殿下を利用し、我らサタナエルと協働しドミトゥス殿下の地位を不動のものにすべく動くのが、君らの最初の仕事だ。後のことは、頼んだよ」
そう云ってオファニミスの身体を名残惜しそうにサムデラ大将に引き渡し、自らは謁見の間を後にしていったのだった。
*
ローザンヌ城の廊下を移動するゼノン。
人気のない曲がり角で、背後から彼にとっては馴染みの深い、人智を超えた瘴気を感じた。
「……やっぱり来ていたんだね、フレア」
突如、廊下の石壁にオレンジの楕円が描かれたかと思うと、その図形の部分がドロドロに溶け崩れていく。
生じた2m四方の穴から姿を現したのは――。
妖艶な肢体をアルム絹のローブとレザーボンテージに包み、トレードマークの銀縁眼鏡を指で上げた――。
サタナエル将鬼長、“絶対破壊者”フレア・イリーステスの姿であった。
「あら、ご無沙汰しているのに挨拶もなしかしら? 結構大変だったのよ。大陸一の都会で私が目立たずに貴方に逢引きするのって。
ご苦労だったわね。これでさしもの王国もひとたまりもないわ。あとは自滅を待ち、鬱陶しい女男が支配する真打ちの大国を滅ぼす布石にするだけね」
「それはいいんだが――君の情報で、僕に会いに来るはずだと云われていたロブ=ハルスが一向に現れないんだけどね」
「そうなのね。私に協力する気がなくなったのかしら?
元々、私達と違い――ソガールやサロメと同じくレヴィアタークの派閥に属していた世代。節操がない男だから大丈夫かと思っていたのだけどもし賛同しないのなら、あのおじさまももう用済みということになるわね」
「なら、それはそれとして。君ほどの大物中の大物が自らここへ来るからには、用件はそれだけじゃあないよね?」
フレアは、一度大きなため息をついて、肩をすくめて両手を広げる仕草をした。
「その通りよ。“第一席次”配下、“参謀”殿からの新たな指令よ。
グラン=ティフェレト遺跡から南下しているレエテ・サタナエル一味。あれだけのことがあった割には、かなり立ち直り早く、順調に行程を進めている。奴らが内戦の勃発とともに向かうであろうリーランドで、さらなる精神的なダメージを与えよ、と。
“参謀”は前から思っているけど正直、5手先ぐらいを見通している化け物ね。相変わらず、天から全てを見ているかのようよ。本当、どんなお顔をしているのか拝見したいものだわ」
「――で? その参謀殿の指令の中で、僕が担うべき役割は?」
「レエテらがリーランドに着く前に、一度“法力”の配下を派遣し、襲わせて頂戴。
人員も指定よ。副将、シオン・ファルファレッロを向かわせなさい」
ゼノンは、半身になって貌を振り返り、横顔でフレアをにらみつける。
「おいおい。シオンは、僕がダレン=ジョスパンにぶつけようと準備していた奴だよ。勝手な横槍を入れてくれるねえ。計画練り直しじゃないか」
「でも、貴方に拒否する権限はないわ」
「――わかりましたよ! おっしゃる通りにしますとも。
けど僕はね、フレア。ちょっと焦れてきてるんだよ。まだ来ないのかい? 僕らがボルドウィンに集結すべき時は?」
「もう少しよ。私を信じて頂戴。
……さて、用も済んだことだし、貴方とは趣味が天地ほども違うから寝室にはご一緒できないし、私は失礼するわね。期待しているわ、ゼノン。水を得た魚のように、貴方がこの王国で殺戮の破壊神となることをね……」
そう云って、自らが開けた穴から退場していくフレア。
ゼノンはそれを見送ると、苦虫を潰したような貌で、サタナエルの配下が待つ己のアジトに足を向けていったのだった――。