第三十九話 眼殺の魔弓サロメ(Ⅵ)~象と、蟻
――悪魔、魔神とは、神話の中のみに登場する、架空の存在。無神論者はそう云う。
ハーミア教や、シュメール・マーナを信仰する信者であっても、実際にその存在を目の当たりにしたものなど、ただの一人もいない。
しかし――。悪魔、魔神が実在するのならば、紛れもなく、目の前のこの女怪こそがそうだ。
瘴気ともいうべき膨大な、邪悪極まりない気をまとい、迫り来る将鬼サロメ。
ついに、サロメにとって身体の一部ともいうべき万能なる兵器、チャクラムが本格使用された。
神弓を操り、超怪力による接近戦も制するこの女の死角をさらに無きものにするのが、チャクラムだ。
レエテに考える間も、心を構える余裕も与えず、すでに眼前に立ちふさがっていたサロメ。
「――!!!」
恐怖に駆られ、右の結晶手を繰り出そうとしたレエテの右腕は、すでに肩口を左手で押さえられていた。ばかな。動かせない。そんなはずは、ない。力点、か――?
レエテが動作を起こそうとした次の瞬間、悪魔の容赦ない大鎌は振り下ろされていた。
後ろ手に引かれていた右手のチャクラムが、馬鹿げたスピードと重量を伴って――レエテの腹に深々と突き刺さっていた。
「レ――レエテええええ!!!!」
ルーミスが叫び、聖照光を構えて決死の攻撃に出ようとする。
「動くな!! ルーミス・サリナス!! 貴様が邪魔をすれば、この刃を即座に小娘の心臓に食い込ませるぞ!!!」
その言葉を聞いて、怒りに震えながらもルーミスは動きを止めざるを得なかった。悪魔は、宣言した以上躊躇なくそれを実行することを、何の理屈もなく肌で感じたからだ。
サロメは、レエテの腹に食い込ませたチャクラムを、容赦なく捻ったり、抜き差ししたりしていたぶった。
レエテの身体を激痛が支配し、白目を剥いて口から血の泡を吹かせる。
「この辺りか、貴様の子宮は!!?? あの男とも、もう何度も交わったのだろう!? すでに、ここに子を宿したりしてはおらぬだろうな!!??
許さぬぞ……貴様のような出来損ないが、私へ与えた精神的苦痛を精算もせず、家畜の分際で人並みの幸せなどを得ようなどとは!!!
貴様の存在自体をここで精算し、私は、真の満足を得る生を送るのだ!!!!」
そしてレエテを仰向けに組み伏せのし掛かると、チャクラムを突き立てたまま放し、空いた右手で何度も彼女の貌に往復の張り手を見舞った。
レエテの美しい貌に傷を付けることが目的の、加減された手。その分厚い打撃は、見る見るレエテの貌の肉に内出血を起こさせ、醜く膨れ上がらせていった。
その図は、地獄で行われる、母から娘への血も凍る虐待だった。
「貴様の貌の皮をいくら剥いでも、忌々しい血の再生力ですぐ元に戻る。これなら多少は治りにくかろう。――いい貌になったな、多少は私も気が晴れた。
かつて貴様の育ての親マイエ・サタナエルには、私も完膚なきまでにしてやられた。あのバケモノに対する溜飲を下げる意味でも気分がスッとしたわ。
もう十分だな――さらばだ」
そう云うと、レエテの首を掴んで立ち上がらせ、そのまま持ち上げて高々と掲げる。
レエテのその背後には――。一度遠方まで飛び再び持ち主の元まで戻ってきた、チャクラムが迫っていた。
その軌道は、まっすぐにレエテの首を、狙っていた。
もはやこの期に及んでは、ルーミスも黙っている訳にはいかない。
手を出さねばレエテが死ぬ。同じことだ。
意を決して、チャクラムの軌道に聖照光をかざして塞ごうとした、その瞬間。
斜め後方から突如飛来した一本のボルトがチャクラムに命中し、その軌道を大きく反らせた。
チャクラムはそのままサロメの傍らの地面に激突したが、それと寸分違わず同時に――。
ボルトが飛来した方角から、サロメに飛びかかる一つの影!
それを瞬時に見定めたサロメは迷いなく、失神していたレエテを放り出す。
そして己に迫る白刃を、冷静に見定めて左手で掴み白刃取った。
「――!!!」
負傷し、右腕一本であることは大いに不利だが、それにしても――。
驚愕の表情を貌に貼り付けた襲撃者、シェリーディアはどうにか距離を取って次撃に転じようとするが――。
その暇を与えず、サロメの右手が容赦なくシェリーディアの首を掴んだ。
「ぐ!!!! うううううう!!!」
苦しそうに呻き声を発するシェリーディア。その身体はすでに高々と持ち上げられ、足は地から浮いていた。
サロメはねめつけるようにシェリーディアを見上げ、云った。
「シェリーディア、貴様……!! よもやセリオスに勝利しおるとはな。
少々見くびっておったようだ。貴様の底力を」
遠くで胴体を両断されて地に転がるセリオス――いや、セーレの遺体をちらりと横目で見やったサロメ。
まずはシェリーディアの右手を制していた左手に力を込め、強引に“魔熱風”を取り落とさせる。そして、シェリーディアの折れた左腕に、したたかに手刀を打ち込む。
「ぐ――ああああああ!!!!」
痛覚を蹂躙する容赦ない一撃に、さしものシェリーディアの口からも苦痛の叫びが漏れる。
「ふう、やはり惜しいな、貴様のその能力。どうだ、シェリーディア。貴様が心の全てを入れ替え、私に魂から屈服するのであれば、これまでの全てを水に流そう。再び配下として統括副将に取り立ててやってもいい。決して皮肉や冗談ではない、私は本気だぞ?」
分かってはいたが、愛弟子にあたるセリオスの死にも、欠片の感情をも示さず――。殺した自分に勧誘をかける厚かましさ、非人間性。
シェリーディアは、吊り上げられた苦しげな状態ながら、笑みを浮かべて極めて明確な言葉をサロメに発した。
「アタシも……冗談じゃ、ねえ……よ。『テメエ』ごとき吐き気のするクズの中のクズ、にゃあ……頼まれたって……軍門に降りゃあ……しねえ……。アタシのケツでも……舐めやがれ……。地獄へ、落ちやがれ……」
それまでやや卑屈な口調が抜けきらなかったシェリーディアが、心からの不快感と卑下とともに、かつての親代わりの主に初めて本当の啖呵を切った。
サロメは額の血管の一つから血を噴出させ、右手に力を込めた。
「……う……」
一瞬にして失神し、地面に無造作に投げ出されるシェリーディアに、サロメは云い放った。
「そこで、しばらく伸びていろ。レエテを殺してから、後でじっくりと貴様をいたぶってやる、シェリーディア!!!」
レエテに再び歩み寄るサロメを目前にして、ルーミスの頭は真っ白になっていた。
何という――。これほどまでに圧倒的な強さというものが、この世に存在するとは。
まるで、相手にならない。二将鬼を仕留めてきたあのレエテも、それと同等以上の強者であるはずのシェリーディアも。まるで赤子の手を撚るがごとくにあしらわれ、手も足も出ない。
いや、まだ表現が生ぬるい。まるで象と、蟻だ。神が定めた、絶対的力関係の壁であるかのような、遠い感覚。動きを止めている場合ではないのだが――ルーミスは虚無感と無力感に囚われ、しばし己の筋肉に指令を発することができなかった。
レエテは膝をつき、身体を丸めて両手も大地についていた。おそらく内出血で膨れ、美貌の見る影もなくなっている貌は、下を向いてうなだれており良く見えない。
先程は失神していたが、それから覚醒したのか、それとも意識を失ったまま辛うじて倒れ伏すのをこらえているのか。それすらも良くは分からない。
サロメはその様子を見て満足し、レエテに近づくと胸をそびやかしながら左足を上げ、彼女の右肩を踏みにじった。
そして背中の“神鳥”を取り出し、弓をつがえることなく柄を右手で掴み、打撃武器であるかのように頭上に振りかぶった。
最硬金属アダマンタインで構成された、その赤銅色に輝く美しい柄が、はるか高い石壁の間から覗く青空からの太陽光を受けて眩く輝く。
「いいザマだ。全くもってな。私は満足だぞ、レエテ。ようやく貴様に止めを刺し、21年にわたる忌まわしい因縁に終止符を打てることがな。
一つ教えておくと、貴様が殺したレヴィアタークは、私やソガール、ロブ=ハルスがひよっ子だった時期に実の子のように接し、闘いのあらゆる要素を教えてくれた恩人だ。ゆえに一応、貴様は恩人を殺した仇ではある。
この“神鳥”も、レヴィアタークがレガーリアの神の祠から接収し、私に贈り物としてくれた物なのだ。
彼が死んだと聞いても、別段何も感じなかったが、過去の恩にまあ感謝だけはしていた。よって餞として彼の遺品で貴様の頭骨を砕き、頚椎を破壊してくれようぞ。この硬度なら、さぞかし気持ち良く粉々にできることだろう……。
さらばだ、我が幻の娘。私はこれを境に貴様の記憶を全て葬り、これからも栄華を謳歌する。
この世の頂点を生み出した偉大な存在である私の足下に、世界はある。これほどの満足はない……ハハハハッ!!!」
サロメは漏れ出る嗤いをこらえきれぬかのように、裂けた口から不気味な嬌声を発すると――。
“竜壊者”から継承された死の鉄槌を、一気にレエテの頭上に振り下ろした!