第三十六話 眼殺の魔弓サロメ(Ⅲ)~憤怒の激突
サロメからの実の娘レエテに対する、悪魔の所業というべき血も涙もない行為の告白、言葉。
ようやく事実を受け入れたのに、あまりに深く傷付き哀しみに崩れてしまったレエテに代わり、怒りを爆発させた、シエイエス。
彼はレエテらが再登場する少し前にここに到着し、機を見て不意を打つために隠れていた。だが、どうしても我慢することができなかった。
「話は、聞いた! 人間の皮をかぶった、悪魔め……!!!
貴様のような外道、いくら血の繋がりがあろうが、レエテの母親などと名乗る資格はない……!!! サロメ・ドマーニュ!!!!
自己中心的な名誉欲を満足させるためだけに子をなし、リスクを承知で妊娠中に麻薬に手を染め!!! あまつさえ女児が不名誉だという理由だけで実の子を殺すだと!!!!
しかも……何よりも、なぜそれらの事実をレエテに告げた……!!!
知らなければ……貴様が秘密を漏らさなければ、レエテが傷付くことはなかったというのに!!!!」
そう、シエイエスの怒りはサロメの非人道的所業に対してではなく、愛するレエテが傷付いたことに対してだった。
これまでに辿った凄絶なる弑虐と喪失と孤独の過去。すぐにも死ぬかも知れない、あまりに短い寿命。常人の到底及ばぬ不幸を背負ってきたレエテが不憫でたまらなかった。
なのに、無情にもこれまででも最大級の絶大な追い打ちをかける事実の公表。できるものならば、時を巻き戻してサロメの口を永久に塞ぎたかった。
サロメはシエイエスを見上げた。そしてその迫力の怒気を歯牙にもかけないかのごとく、胸をそびやかし冷笑を含んで言葉を返した。
「貴様は、もう少し利口な男かと思っていたのだがな。シエイエス・フォルズ。
なぜ事実を告げたか、だと? この女に、知らずに楽に死なれては、私の気が済まぬからに決まっているだろう。
私の方こそこの女から迷惑を被り、苦しんだのだ。私が愛するのは、ヴェールントただ一人だけ。理想の全てを期待以上に受け継ぎ、私の誇りそのものである、愛しい息子。あの子と限られた時をともに生きるのが、このサロメの望みの全て。だからこそ、シェリーディア、お前を消すためにフェビアンを唆すなど手段を選ばず地位を守ってきた。
その努力を、忌まわしい失敗の産物であるゴミ以下の存在などに、水の泡にされてたまるものか。そう思い事実を調べ抹殺の機会を伺った。この女さえ生まれてこなければ、発生しなかった面倒なのだぞ」
もはや、何を云っても無駄であった。一欠片でも人間性を求めるのが間違っている。
言葉の暴力は、蓄積する。サロメが喋れば喋るほどレエテをさらに傷付けていく。
だがそれでもシエイエスは、サロメをなじるのを止めることができなかった。仇ソガールと相対した時以上に、怒りに我を忘れていた。
「笑わせて、くれる――!!! 貴様は勘違いしているようだが、ヴェルに対して貴様が抱いているのは、断じて愛などではない!!
己の詰まらん名誉欲と異常なプライドを満たす相手への所有欲を、錯覚しているだけだ。それはな、『自己愛』というのだ!
誤った感情は、向けられた相手には正確に伝わるもの。ヴェルはおそらく、貴様の歪んだ情などとうに見抜き、調子を合せていいように利用しているだけだ。哀れなものだな!!」
それを聞いたサロメは――。
一瞬にして貌をこわばらせた。そして表情を変貌させた。
冷酷非情な女がただ一つ持つ人間的感情、「怒り」に支配された表情に。
レエテとよく似た絶世の美女の面差しは、瞬時に身も凍る悪鬼羅刹のものへと姿を変えた。
「――この、青二才が――!!! 貴様ごときに何が――私とヴェルの、何が分かる!!!
貴様は、私の宝を、生き甲斐を、愚弄した! 即刻、報いを受けてもらう!!!!」
叫び、チャクラムを構えたサロメだったが、それを投擲しようとする直前、あるかすかな殺気を感じてその速度を緩めた。
彼女の部下、副将ゼグルスの、殺気だ。どこかから、弓を番えて狙っている。
おそらく、当初はレエテかシェリーディアに狙いを定めていたのだろうが、主サロメへの愚弄を見た彼はシエイエスに狙いを変更したのだ。
それに瞬時に気づいたサロメは、内心笑みを浮かべてわざと投擲を遅らせた。こちらに意識が向いている間に、確実に生意気な小僧の息の根を止められることを期待して。
そして、その死の矢は、放たれた。
放った射手ゼグルスの位置は、シエイエスのいる窓よりさらに高い、城壁の上だった。シエイエスの目と意識は完全に下に向いており、己の頭蓋骨を貫通しようとする死神の魔手に気づくことはありえない。
落下の重力も得て加速する矢が、彼に到達しようとした、その時。
「シエイエス!!!!!」
叫び声があがり、同時に何か小さな、それでいて重量のある物体が恐るべき速度で上昇し――。
見事矢に命中すると、それを粉々に砕いた!
物体は――金属の錠前、であり――。
云うまでもなく、それを神懸かったスピードとコントロールで投げつけたのは、レエテであった。
達人シェリーディアですら必ず成功するわけではない、飛翔物への飛翔物による撃墜。
それを命中させたのは、レエテのシエイエスへの必死の強い愛情の為せる業か。
「――助かった、レエテ!!! クピードー、援護しろ! このままでは狙撃され続ける。俺は奴を斃す!!!」
見えない相棒にそう云うと、シエイエスの姿は窓から消えた。ゼグルスを追って建物の中を移動し始めたのだ。ゼグルスも、仕損じたことで狙われることを悟り、狙撃位置から逃亡していた。
「器用な真似を!! 愛しい男を守り通した、健気な女のつもりか、レエテ?」
サロメが忌々しそうにレエテを睨みつけ、毒づく。
レエテは、頬の涙のあとが痛々しくも、その表情に強烈な意志を取り戻させ、サロメを睨み返した。
「……そのとおりだ、サロメ。私は、シエイエスを愛している。お前の、偽物の愛情とは……違う。
シエイエスも、私のために……危険を冒してお前に立ち向かってくれた」
そう云って、腕で自分の胸を抱きしめるレエテ。とても、嬉しかった。胸が、熱くなった。
あまりにも、愛おしい。そう、今自分には、シエイエスという存在がいる。
サロメが、ヴェルの残された時間をともに過ごしたいというなら、自分とてそうだ。こんなところで、人とも呼べない詰まらぬ女のために、シエイエスとの貴重な時間を失ってはならない。
自分は、生きねばならない。シエイエスと。ナユタ、ルーミス、ホルストース、キャティシアら仲間と。
――仲間を生かすために、尊い命を投げ出したランスロットの魂に、報いねばならない。
今度こそ揺るがぬ、強靭な決意とともに――。レエテは再び両の手の結晶手を発現させた。
「セリオス!!! もう良いぞ、殺せ!!!!」
主が敵への口上に満足するまで、シェリーディアと膠着状態をつくり待機していたセリオス。
そのサロメの言葉とともに、堰をきったように攻撃へと移る。
「承知!!! 待たせましたねえ、シェリーディアああああ!!!! 今度こそあんたを殺しますよお!!! そしてあの取り澄ました黒牛女を蜂の巣にしてやりますねええええ!!!」
そう云って――足の装甲から突如、脛に並行に研がれた巨大な刃を出現させ、シェリーディアに蹴り技をもって斬りかかる。
シェリーディアは即座に刃で防御するが、先程よりもさらに解放したのか、桁違いのパワーに大きく後方に押されていく。
真の闘争状態に入った女2人の闘いを横目に、サロメも動き出した。
突然、直立に立って、2枚のチャクラムを腰に装備すると――。
まるで巨大な壁が迫るかのようなプレッシャーとともに、一気に前に踏み出す!
レエテが自分に迫りくる、何らかの巨大な危機を必死で結晶手で防御すると、全身を駆け巡る巨大な衝撃。
彼女の身体は斜め上後方に一直線に吹き飛ばされ、石壁に激突した。
「ぐっ――!!!」
数m先にあるサロメの姿を見る、レエテ。
低く腰を落とし、前に倒した上体の下から突き上げるように出した、右の掌。
サロメが白兵戦において得意とする技、掌底だった。
しかし、一瞬の後すぐにその姿は消え――。
石壁の下に落下したレエテの眼の前に、その凶悪な姿はすでにあった。
「死ね!! 死ね死ね死ねええ!!!!」
目を剥き、恐るべき拳撃の嵐を降らせる。
必死の形相で、両腕を上げて捌きと防御を試みるレエテだったが――。
その一撃一撃は、信じがたいパワーに満ちていた。速度も、対応しきれない。
アッパーカットを肘付近で受けると、ヒビの入る鈍い音が上がる。ストレートを捌こうとすると、腕が弾かれそうになる。反応が間に合わず食らったフックは、一撃で肋骨を砕く。
「ぐうっ!! うああああああ!!!!」
死ぬ。本当に、殺される。これまでに相対したいかなる敵よりも、それを身近に感じさせる圧倒的な強さ。ソガールの大剣を間近で受けても冷静さを失わなかったレエテが、死の恐怖に我を忘れた。
覚悟ができているかどうかの問題ではない。まるで心の奥底に眠っている根源的な恐怖心を、手を伸ばして鷲掴みにされて引きずりだされているような強制的暴力。
無我夢中で、頭を突き出すレエテ。胸筋と頸筋の全力で繰り出される敵の頭突きを見極め、即座に飛び退り、距離をとるサロメ。
「ハアッ……ハアッハアッ……ハアッ……!!」
目を見開いたまま、汗だくで息を荒げるレエテ。痛みを抱える肋骨部分を、ひっつかむように押さえる。見苦しくも膝は震え、腰が引けていた。
恐ろしい。先程“螺突”をたやすく止められたときも絶望したが、攻撃を受けるのとは次元が違う。
云い放った言葉に、嘘偽りはない。パワーもスピードもテクニックも、自分は圧倒的に劣っている。
この女の本分は射手であるはずなのに、白兵戦の強さはソガールもレヴィアタークも大きく上回っている。死角が、ない。攻め込みようがない。勝てる気が、しない。
まだ戦端を開いたばかりだというのに、恐怖に支配されてしまっている。
どうしたらいいのか、わからない。誰か、シエイエス、助けて――。
「どうした……。始まったばかりだぞ。もう腑抜けたのか?
身に、染みただろう。これこそが、真の“純戦闘種”の力だ。私は人目を忍び、これを全て解放するために地獄の鍛錬を積んできた。一方で『枷』をはめ、力を小出しにし、最弱の将鬼を演じてきたのだ。
さっさと反撃してこい、レエテ。最初で最後の、母娘喧嘩の機会だ。私もそれなりに楽しみたいからな」
呪われた母親の呪われた言葉と暴力を秘めた歩みに、萎縮し後退する、か弱い娘。あたかも、家庭で繰り広げられる一方的虐待の現場であるかのようだ。
レエテは彼女らしくなく、時間を稼ぎたいがためにサロメとの会話に持ち込もうとする。
そこで気にかかってもいた、一つの事実について、尋ねた。
「ま、待て……! サロメ、お前はなぜ殺意を持ちながら、生まれてきた私を殺すことができなかったんだ?
お前がヴェルと私を産んだその場で、一体何が、あったというんだ!?」
それを聞いて、ピタリとサロメの歩みが止まった。
そして嫌な思い出に貌をしかめながらも、話しだしたのだ。
「知りたいか? まあ、冥土の土産だ、教えておいてやろう。
生母はな、皆妊娠すると“産前棟”という、専用の施設に入れられて隔離される。ただし大層な名前とは裏腹に、赤子が生きて産まれるまで特に組織は管理も関与もせぬ。生母同士の相互の助け合いで、生活も出産も自助努力のもとに行うのだ。
私が出産のときも、助産してくれたのは同じ生母の女だ。“屍鬼”の子を身ごもり、ほぼ私と同時期に“産前棟”に入ってきていた、“法力”ギルドの兵員の女だった」
「……」
「私が、生まれた貴様を殺そうと手を上げた瞬間、奴は私の邪魔をした。
『何をするのサロメ、あなた正気?』と云って私から貴様を取り上げてな。私が貴様を渡すよう要求すると、奴は云った。
『そんなことは、できない。この子は、私の子の姉として申請するわ』と。そして連れ去った。
さすがの私も、出産直後の状態では起き上がるのがやっとで、逃げられてしまった。
奴の居室は分かっていたが、大ぴらに行動しては私が女児を産んだことがバレてしまう。
攻めあぐんでいるうちに、用が済んだ私は施設を退去させられ、その後すぐに奴が出産したことを知った。
そして秘密を守るため、私は施設を出てきた奴を襲撃し、暗殺したのだ」
「な、何――そん、な!!!!」
レエテはショックを受けた。自分にそんな命の恩人が居た。そして――何もしなければ生きて人生を送れたのに、自分の命を助けたがためにサロメに殺されてしまった。その衝撃の事実に。
もう、耐えきれる状態でないため、一度感覚のスイッチをきった罪の意識。それを感じそうになり、めまいを覚えた頭を抱えながら、レエテはサロメに問うた。
「……教えろ。お前の魔手から私の命を守り、そしてお前に殺されてしまった、その女性の名前を……」
サロメは笑みを浮かべ、これに応える。
「いいとも。“法力”ギルド、ロイス・ヘルゲンマイヤー。
それが、忌々しいあの女の、名だ」
「わかった……。ならば私は、ロイスの仇のためにも、貴様に立ち向かう!!!」
力強く言葉を発したレエテを改めて見て、ようやくサロメは気がついた。
自分が喋っている間に、レエテの背後3mほどまで迫ってきていた、ある人影を。
右腕に装着した魔導義手から、指を長く伸ばしてレエテの脚の血破点に突き刺し――。
猛然と法力を送り込んでいた、その少年。
“背教者”ルーミス・サリナスの存在に、ようやく、気がついたのだ。
「レエテ!!! オレにとっても、サタナエル一族の身体を信じての賭けだったが、気分はどうだ!
悪くないなら成功だ! 今、オマエの右半身は“定点強化”によって確実に強化されている!
信じて、攻めてくれ! そしてあの吐き気のする外道の息の根を、その手で止めるんだ!!!」
その声に、先程とは別人のような力強い眼光を放ちながら、レエテが叫ぶ。
「悪くないわ、ありがとう。ルーミス!!!
サロメ、お前はこの世に生きていてはならない、真の外道!!!
今、この手でその忌まわしい命を、終わらせてやる!!!!」
そう云うと、レエテは恐るべき勢いで右脚を躍動させ、地面を蹴り抜き――。
サロメの踏み込みに、全く劣らぬ砲弾のごとき勢いで飛び出し――。
腰から上半身にかけて充填した力で、右の結晶手で一気にサロメに打ちかかった!
「ぬうううううう!!!! お――のれ、レエテっ!!!!」
そして叫び鮮血を噴き上がらせつつ、サロメはこの闘いが開始して初めて、大きく吹き飛ばされていったのだった――。