第二話 新天地を目指して
そこは、地底を広く深く覆う、地底湖だった。
豊かな自然を湛えるものの、標高1200mという高さに比して裾野の狭小な山岳、ディべト山。
蓄えた雨水の多くを表面に沸出し急流となり、ダリム公国水源としての川を供給しているが、この水は海へ流れ出ることなくレナウス瀑布に還元されていた。
またその沸出することなく残った雨水は、いったんこの地底湖に蓄積、レナウス瀑布と合流して地下水へ姿を変えていくのだ。
もう何万年もの間、地殻変動を除けば瀑布が流れ落ちる爆音以外の音が存在しなかったはずの場所に――異彩を放つ音が追加された。
ガッ、ガッ! 何かが岩に激突する衝突音。
それに続いて、落石か何かが落ちるかのような巨大な水音。
続いて――ガラス? いや氷の塊が衝撃で飛散する高周波の破壊音。
この3つが響きわたった後、まずは一匹の魔導リス――ランスロットが浮上し湖面に貌を出した。
最後に響いた氷の衝撃音は、このランスロットのものだった。
彼は数百mという高さを落下する間に、魔導により瀑布が発生する水蒸気を利用し集約。低圧を作り出して急蒸発させ、巨大な氷の塊の中に自らを閉じ込め、衝撃を吸収したのだ。
「はあ、はあ……。生きてる、僕は生きてるのか。……ナユタ!! どこなんだい、ナユタ!! おーい、レエテ・サタナエル! 返事をしてくれ!!」
地底湖の岸壁に広がる陸地に向かって泳ぎながら、ランスロットは叫んだ。
ややあって――ごぽごぽ、と大きな水泡がたったかと思うと、2人の人影が水面に浮かびあがった。
「ナユタ!!」
すでに陸地に上がったランスロットが、もみ手をしながら叫ぶ。
人影――ナユタ・フェレーインを抱えたレエテ・サタナエルはゆっくりと泳ぎ、やがて陸地に上がった。
「う……わ」
ナユタの心配をするべきランスロットだったが、それを抱えるレエテの無残極まる姿に、思わず驚愕の声をもらした。
それは、もはや生きている事が有り得ないほどの、致命傷だった。
先ほどの衝突音は、レエテがナユタを抱きかかえながら庇い、自分の身を挺して体を岸壁や瀑布から突き出る巨大な岩に繰り返し打ち付けられる音だった。
数百mの高さからの落下による衝撃は、絶大なダメージを彼女にもたらしていた。
まずその頭は、裂傷もしくは陥没ができているのだろう、変形した上とめどなく流れ出る血で貌左半分が覆われている。
次いで左腕の二の腕、右足の脛は重度の複雑開放骨折と見え、大量出血とともにあらぬ方向に曲がってぶらりと垂れ下がっている。
そしてその背中は、2箇所、いや3箇所、数十cmにわたって内臓と骨までが露出するほど深い、深い裂傷が刻まれていた。滝のように血が流れ落ち、湖を、上がった陸地を染めていく。出血の量からしても、少なくとも大動脈が断裂していることに疑いはなかった。
立って動いていること、そもそも意識があること自体が驚異的な重体だったのだ。
対してナユタは、気を失ってはいるが身体には傷一つ付いていない様子だった――もっともレエテの返り血によってはっきりと分からない状態ではあったが。
「う、君……大丈夫、なのか?」
ランスロットがうめくように問う。
レエテは、その問いに答える余裕はないと思われるほどの苦痛に貌を歪めてはいるものの、残った左足をスムーズに使い歩き、右手一本でナユタを抱え、そっと陸地に下ろした。
そして、仰向けに寝転がったナユタの左側に膝をつく。折れた右足が地につき、さらに苦痛に貌をゆがめるレエテ。
すぐに、ナユタの首を持ち上げ石を挟んで気道を確保。その口を開いて自分の口をつけて息を吹き込み、胸部を押さえる動作を始める。
「が……は!!」
ややあって、ナユタが咳き込み、大量の水を吐き出す。
呼吸が回復し、胸が上下しているのが分かる。目は閉じており意識もないが、もう心配は無用であろう。
「ナユタ!! よかった、よかった……。ありがとう、レエテ・サタナエル!」
「もう……大丈夫、だ……。……申し訳、ないけど……私、今から少し、休ませてもらう……ね」
ぜえ、ぜえ、と息も絶え絶えのレエテを見て、すぐにランスロットは、むしろ無事を喜んだナユタより、この女のほうが数段命が危ない状態であることを思い出した。
「そうだ! 君、どうするつもりだよ! ここには人を呼んでくることもできやしないし、僕もナユタも、回復ができる『法力』使い、でもない。このままじゃどう見ても君は、あと2分も命がもつ状態じゃないよ!」
「大、丈夫……このまま少し休めば……動ける。脱出、させてあげる、から…………」
云い終わらぬうちに、レエテは前のめりに倒れ、うつぶせのまま意識を失ってしまった。
すぐに多量の出血で、地面に血だまりが形成されていく。
呆然とするランスロットだったが、ナユタが目覚めるまでどの道ここを動くことはできない。
ナユタの脇に座り、しばらく待つことにした――。
*
それから、約1時間ほどの、後。
「う……」
おそらく酸欠によるであろう、頭がぐらつく不快感に襲われつつ、ナユタは目を覚ました。
「ナユタ! 気が付いたかい!?」
彼女の忠実なる下僕の聞きなれた声が耳に入った。
「ランスロット、ここは何処なの?」
「レナウス瀑布の地底湖、その岸壁の陸地、さ」
ナユタは貌を上げ、周囲を見渡し、その言葉を裏付ける状況を確認した。
そしてその視線を落とすと――うつぶせに寝転がる一人の女性の姿を発見した。
「レエテ・サタナエル!?」
「そう、彼女さ。このレエテは、あのとき君を背後から襲って意識を失わせたあと、体を抱きかかえ、僕も道連れにして瀑布へ飛び込んだんだ。
僕は氷結魔導を使ってこの地の底まで落下する衝撃を打ち消せたけど――彼女はあろうことか君をかばって自分の体を少しずつ岸壁に打ち付けることで落下の衝撃を吸収し、湖に落ちた。
結果、どう見ても即死だろうという状態になったのに――痛みはあったみたいだけど普通に動いて君の救命をした」
「なんだって…….?」
驚き入ってレエテを見やるナユタ。
その身体の下には、土に吸収されたと思しきおびただしい血だまりのあと、身体にもやや乾き始めた大量の血痕があり――。よくよく見ると、怪我をしている自覚のない自分の白いカーディガンも、血で真っ赤である。返り血の証拠だ。
「だけど……ごらんよ。今のあのレエテの身体、今僕が云ったほどひどい怪我に見えるかい?」
急にランスロットの声のトーンが沈む。若干の震えも伴っていた。
「さっき僕が云ったのは、だいたい一時間くらい前の状況だ。すぐに彼女はあのとおり意識を失ったけど……、その後僕が見ている前で、とんでもないことが起きた。
まず5分くらいまでの間に、頭と背中の出血が完全に止まった。死んだか? と思ったら、すぐにその傷が、音をたてて再生し始めたんだ」
「そんな、法力をかけたわけでもないのに?」
「たとえ法力でもここまでの再生スピードを発揮できるやつは、司教クラスでもいないだろうね……。
なんにせよあのとおり傷はだいだいふさがってしまった。その次には普通には元にもどらないレベルだった片手、片足のひどい骨折も、自然治癒し始めたんだよ! 変な方向に曲がった足がゴキゴキと自然に動いて、シューシューと骨が音をたててくっついて――すごく、怖かったんだ。
それで今は外からはほとんど傷なんて見えない状況さ。たぶん今は、損傷した内蔵とか脳とかを再生してる最中じゃないかな」
ゴクリ、と生唾を飲み込んで、しばらくナユタはレエテの姿を凝視するしかなかった。
単純な身体能力だけではない、どこまでも計り知れない怪物ぶりを発揮するこの女に関わったことが正しかったのか、一瞬自問自答したそのとき。
パッ、と、横たわるレエテの両眼が、開かれた!
「ひゃあああ! ごめんなさいごめんなさい! 君を化け物よばわりするつもりなんてなかったんだ、君は命の恩人だ! 感謝してるんだよ! お願い、助けて、命だけはー!!」
動転して情けない叫びをあげるランスロット。
それが聞こえたのか聞こえていないのか、身体の状態を確かめるように無言でゆっくりと上体を起こすレエテ。
一回深呼吸をして、ナユタとランスロットの方に向き直って、云った。
「ふう、何とか保ったみたい。まだ身体の中やあちこちが痛むけれど……もう動くことはできそうだ。ナユタ、だっけ? あなたはもう大丈夫なのか?」
「あ、ああ、もう動けるよ。……ランスロットに聞いたけど、ありがとう。あたしを助けてくれて」
「いや……、あなたが私に加勢をしてならず者たちに危害を加えてしまったから、きっと無事ではすまないと思って勝手なことをした。こちらこそ危ない目にあわせてごめんなさい。
私の血でだいぶ汚れてしまっただろうから、湖で洗ったらすぐ、出発しよう。
すでに調べてあるけどこの地底湖は、この先の洞穴に抜け穴がある。そこから脱出するんだ」
さきほどの瀕死の重傷が、まるでほんのかすり傷だったかのようなこともなげな物言いに、ナユタは違和感、というか不快感のようなものを覚えていた。
「あんた……、下手をしたら死ぬところだったんだよ? どうしてそんな平然としてんのよ?
自分の命を何だと思ってんの?」
レエテは、ナユタの問いかけにやや表情を曇らせた。
「命……かい? 私には、この先成し遂げなければならない目的がある。そのためには全く惜しいとは思ってない。それに、あなたがいなかったとしても、私は元々こうやって逃げるつもりだった」
「嘘だね。あんたならあたしを抱えてなければ、少しずつ岩場に足から落ちつつ衝撃を和らげ、最小限のダメージで落ちることができたはずよ。あたしのために命の危険をおかした。
感謝はしてるけど――たとえ死なない目算があったとしても、そんな傷を進んで自分から負うなんてあまりに無頓着というか、自分を粗末にしすぎだよ」
「それなら、他に何か方法があったとでも? あなたにそこまで言われる筋合いがあるとは思えない」
冷静に返すレエテに、今それ以上ナユタは何も云い返すことができなかった。
険悪になった空気に、ランスロットがおずおずと口を出す。
「と、とにかくレエテが云うように、まず湖で身体を洗って、脱出口に向かおうよ。早くしないとそちら側に追っ手が廻る可能性だってゼロじゃないだろ?」