第五話 旧き友の記憶【★挿絵有】
そこは、深い、深い緑の只中だった。
禍々しくねじ曲がった巨木群。
この世でこの場所でしか聞くことのできない、恐るべき巨獣・怪物共の叫び声。
それらの存在が作り出す、地響きと血の匂い。
ハルメニア大陸の最果て、アトモフィス・クレーター ――。
そんな地獄の世界のジャングル内部で――。
小さいながらも安全な空間を確保し、かつ絶対無敵の守護神に護られる、この世界で唯一心安らげる空間、『家』――。
樹々の間に撒いたカルバネラの樹が縱橫無尽に成長し、それを長い時間をかけて刈り取りながら建造物の形にしていったもの。先人たちの、知恵――。
レエテは、その中で、目を覚ました自分を自覚した。
そこは、樹を削り取って造った、ベッドの上だ。
上半身を起こして見やった、自分の褐色の両手と両足は――。
とても、小さかった。
「ここは――。そうか、わたし――マイエに助けてもらって、ここにきたんだっけ――」
キーの高い、幼い声。
「だれか――? だれか、いないの?」
樹の幹のような床に足を下ろして、レエテは歩き出し、すぐそこにあった削りだしの樹の階段をゆっくりと降りる。
「ねえ。だれか、だれかでてきて。マイエは、どこ?」
そうして階段を降りた先の床を踏みしめ歩き出そうとした、そのとき――。
レエテは、その小さな足を何かに引っ掛け、思い切りつまづいた。
そしてそのまま、一直線に貌を床に打ち付ける。額と鼻に襲う激痛で、涙が滲む。
「う、うえええ――。い、いたい――」
そのレエテに向かって――頭上から一つの声が降り掛かってきた。
「なんだ? オメー。マヌケにもほどがあるぜ。ちょっと足ひっかけてやっただけで、かんたんにころびやがってよー。しかもメソメソしやがって、バカじゃねえ? まー前からそんなふうだとおもってはいたけど、オメーみてーなウスノロが、よく生きてここまでこれたよなー」
レエテと同じ年頃と思われる、甲高い女子の声。
しかし喋り方はかなり粗野で言葉も荒く、歳のわりに口達者だ。
レエテが涙目で見上げると、そこには一人の女児が腕組みをして胸をそびやかしながら立っていた。
レエテと同じ全身褐色の肌に、ぼろぼろの麻布の服。違いはその極端に短く刈った頭髪と、おそろしく気の強そうな獰猛な表情だ。
昨日、マイエにこの家の中に案内されたときに、自分と同じく追放から保護したと伝えられた3人の子供の一人だ。同じ環境で育った女児たちゆえ、仲が良いいわけではないものの貌と名前は知っていた。
この子は――。ビューネイ。ビューネイ・サタナエル、といった。
この家の女性の一人、ドミノに保護されてここへ来た、と聞いた。
かつて施設の中で、アリアに次いで優秀な身体能力を持ち、常に訓練でもトップクラスの成績だった子供。
しかし性格は凶暴で、周囲のおとなしい子供を虐めたり、時折教官のレイドに歯向かっては折檻を受けるような問題児だった。アリアのおかげで虐めの標的になることもなく、レエテも出来る限り近づかないようにしていたため、これまでほとんど口をきいたこともなかった相手だ。
今は、そのときと違い、間近で一対一。守ってくれるアリアも、いない。
ビューネイはかがみこみ、倒れたレエテの銀の髪を荒々しく掴み、思いっきり引っ張り上げた。
「ああ! いたい、やめてー!」
「いらつくんだよ……オメーみてえなよわっちいやつをみてると。
もうじゅうぶん、おそわっただろ? この世は、つよさがすべてなんだ!
あたしももっとつよけりゃあ、あんなレイドのにやけやろうなんかに、かんたんにつきおとされたりはしなかった。生きのこったからには、あのやろう、ぜったいに生かしちゃおかねえ。あたしは、ここでだれよりも、つよくなる。
そのために……オメー、あたしのどれいになれ」
「え……ど、どれい……?」
「ああそーだ。あたしのいうことをなんでもきいて、あたしのやくに立つためだけにいる、どれいだ。
これから先いっしょう、あたしのよけいなしごとをなんでもやってくれて、あぶなくなったらあたしのかわりに死ぬんだ。
なんでもあたしのいうことをきく、どれいになるって、いまここでちかえ」
そう云って、頭皮が剥げそうなほど強く掴んでいたレエテの髪を、放り投げるように放すビューネイ。
「さあ、ひざをついて、あたしにむかってあたまを下げていえ。『あなたのどれいになります』ってな」
気の優しすぎるレエテは、逆らうことができなかった。
そのきわめて高圧的な態度と言葉にすっかり萎縮したこともあるが――伝わったのだ。言葉とは相反してこの子も、自分と同じくトラウマを受け怯え、思いがけず生き延びてしまったことでどうしていいかわからないんだ、ということが。
云われたとおりに土下座し、震え声で命じられた言葉を発した。
「あ、あ、あ……なたの……どれいに……なります」
ビューネイはそれを見て、満足と同時にそれ以上の――侮蔑の表情を浮かべて、足元のレエテに云った。
「そう、それでいい。――それにしても、ほんとうにオメー、ゴミだな。かんたんに人のいうことをきいて、かんたんにあたま下げて――よわっちいにもほどがあらあ。
あのアリアも、オメーをまもるために死んじまったらしいけど――。あれだけすごかったやつが、ともだちをみる目だけはなかったみてえだな。しょせんあいつもそのていどだった、てことだ」
ビューネイのその侮辱の言葉を聞いて――。
地面を向いていたレエテの身体が一度ビクッと震え、表情が、一変した。
弱々しくべそをかいていた表情が、一転して鬼のごとき怒りの形相に変わった。
目を極限まで見開き、歯をバリバリと噛み鳴らし、身体を震わせた。
「……もういっかい……いってみろ……」
「……え……?」
ビューネイも、只ならぬ猛烈な怒気を肌で感じ、表情を一気にこわばらせた。
レエテは貌を下げながらも、地に伏していた身体を立ち上がらせる。
「アリアが……なんだって……? おまえ……!
わたしのことは、いくらばかにしてもいい……。だけどアリアのことを、わたしのだいじなだいじなともだちを!! ばかにするのは!! ぜったいにゆるさない!!!!」
「ひっ……」
あまりの怒気の激しさに、思わずビューネイが怯えた声を上げるのと――。
レエテが獣のような動きで一気にビューネイに襲いかかるのは、ほぼ同時だった。
思い切り体当たりし、大きな音をたててビューネイの背中を壁に激突させ――。
レエテはガックリと崩れ落ちたその身体に間髪入れず馬乗りになり、ビューネイの貌に両手をあてて、思い切り床に打ち付けた。
「ぐっ!! うううううう……!」
思わぬ激烈な反撃に、涙目になりながら抵抗するビューネイだったが、とてつもないレエテの腕力によるその手はびくともしなかった。
怒りに我を忘れ、手を緩めないレエテの身体は――。
突然、両脇にかかった恐るべき強大な力で、強引に持ち上げられビューネイから引き離された。
「そこまでよ……。レエテ。あなた、何をしているの……!?
そんなことをして他の子を虐めるような、乱暴な子だとは思わなかった」
レエテは、静かな怒りをたたえたその声にはっとして、頭上を見上げた。
そこには、トロール・ロード相手にすら見せなかった厳しい表情を貌に刻んだ、この家族の長マイエ・サタナエルの姿があった。
床に降ろされたレエテは、優しかったマイエのその怒りの表情に怯え、がっくりとうなだれた。
「よく聞きなさい。私達の家族の一員になるからには、どんな形であれ同じ家族に対する暴力は絶対にゆるさない。
私達はお互い助け合い、思いやりあいながら生きていかなきゃいけないの。
今回は許してあげるけれど、次に同じことをしたら、とっても厳しい罰を与えるよ。
さあ、今すぐに、ビューネイに謝りなさい、レエテ」
レエテは涙目になり、ビューネイに向かって頭を下げた。
「ご、ごめん……なさい……わたし、やりすぎた。いたかったでしょ? だいじょうぶ……?」
それは、マイエに強制されたからではない。冷静になって、本心から出た詫びの言葉だった。
ビューネイはそれを見て、胸を押さえて唇を噛んだ。
レエテも多少過剰な反撃となったのは事実だが、今回の件の原因はビューネイにあり、自分が悪い。なのに目の前のこの子は、一切云い訳をせず、自分をかばっている。しかもあれだけ酷い言葉でせめ立て、土下座まで強要した自分のことを、本気で心配している。
心が痛んだのだ。ビューネイはいたたまれなくなって、下を向きながらマイエに向かって云った。
「あ……あの、さ。
わるいのは……そいつじゃない。あたし、なんだ……。
あたしがはじめにそいつのこといじめて……どれいになれってめいれいして……。アリアのことをばかにしたから、とつぜんこわくなってすげえ力でおそわれて……やられたんだ。
だから、そいつのこと……おこらないでほしいんだ……おねがいだ」
マイエはそれを聞いて、一瞬貌をしかめたが、すぐに普段の穏やかな表情に戻り笑顔を見せた。
「そう……よくわかった、ビューネイ。あなたのしたことはとても悪いことだけど、すぐに正直に話してくれたのは、とても偉いわ。もうこれであなたもこの先、同じような過ちはしないでしょう。
レエテ。事情を知らないで怒ってしまったのは謝る。けれどあなたもやり過ぎたのは自分でよくわかってるね。
これからはあなた達二人とも、友達として家族として、仲良くできるよね?」
二人はゆっくりと同時に、頷いた。そして少し恥ずかしそうにしながら、お互いの目を見た。
「ご……ごめんな、レ……レエテ。あんなことして。あたしがわるかったよ。
オメー、じつはすげえやつだったんだな。……ちょっとこわいけど。
それにほんとうに、すげえいいやつだ。あたしとともだちになって、くれるかい……?」
「……もちろんだよ、ビュ、ビューネイ……。あなたも、ほんとうはすごくいい子だったんだね。
いたいことして、ほんとうにごめんね。これからはわたしたち、ともだち、だよ……」
*
と、突然、情景が切り替わる。
そこは緑の豊かな、小高い丘だった。
鬱蒼としたジャングルの中に、ぽつんと出現する、標高100mほどの丘。
禍々しい植物のるつぼであるこの地獄の世界の中で、異例である芝の生い茂る奇跡の丘。
相性が悪いのか、何らかの力が働いているのかはわからないが、獣や怪物どももこの丘にはなぜか近づいてこなかった。
もちろん「組織」の暗殺者には警戒せねばならないが――マイエ・サタナエルの「家族」の間では、「あの丘」と呼称される憩いの場となっていた。
その芝の上で大の字に寝転がる、二人のサタナエル一族の女性。
その姿は――。成長したレエテと、ビューネイのものに違いなかった。
そう――。たしか、10歳で家族になって5年、15歳だ。
まだ幼さは残るもののすっかり大人の体型になり、歴戦を経た筋肉と凄みが加算されていた。
レエテの髪はとても長く、地面に大きく模様を描き、ビューネイの髪は昔から頑固に短く刈り揃えられたままだ。
彼女ら二人は、どんなときでもいつも一緒だった。笑い合っているときもあれば喧嘩しているときもあった。しかし正反対の性格ながら仲の良いこの二人を、マイエをはじめとした家族は暖かく見守っていた。
ビューネイが両手を自分の後頭部に回しながら、レエテに話しかける。
「なあ、レエテ……」
「なあに、ビューネイ?」
「あたしたちってさ、明日にでも……いやいつ死んでもおかしくねえ立場じゃんか?」
「そうねえ、当たり前のことになってるけど、よく考えたら凄いことよね」
「そういうことじゃなくってよ……。あたしが聞きたいのは、どうせ死ぬならどういう状況で死にたいかって、考えたことがあるのか、てことだよ」
「それは……『寿命』のことは抜きにしての話し?」
「そういうことになるな」
「人に聞く前に、あなたはどうなのよ、ビューネイ?」
「あたし、か? あたしはもちろん、家族を守って、最強の敵を討ち果たし、相討って死ぬ、てのが理想だね。
できれば、将鬼、いや“魔人”がいいな。
家族を救い、しかもこのサタナエルの真っ黒な歴史に終止符を打つ。最高にカッコイイじゃあねえか?」
「はあ~。すごくあなたらしい答えね、ビューネイ。
私は、家族に見守られて、静かに死んでいきたいわ。
そうね、例えば何か未知の生物に噛まれて病気になったりとか、ありえないけど凄い寒さで凍え死んだりとか……。とにかくそういう風に、家族皆の居るその場所で、静かに命を終えられるほうが、私にとっては理想ね。あくまで『どうせ死ぬなら』って条件でだけど」
「それも、凄えオメーらしい答えだな、レエテ。
そんだけ強えのに、できるだけ闘いを避けようとする、優しいオメーらしいっていうか。
まあ、それが現実のものになるとは思ってねえけどな。あたしのこの迅雷のような速さと、オメーの腕力、爆発力。二人揃えば、どんな敵だって倒せる。
……けど、できたらこれ以上犠牲がでねえよう、マイエとドミノのように家族を守れるぐれえにまで、強くなりてえよな……」
「……そうね……。本当に、そう思うわ……。一人でも死んでいく家族を減らしたい」
ビューネイはおもむろに腰の袋に手をやり、中から小さな木枠を取り出した。
それを開けると、中には―― 一輪の可憐な花が入っていた。
白い数枚の花弁の先端が鮮やかな白紫に染まった、デンドロビュウムの花であった。
それを指で持ち、手を伸ばしてレエテに差し出した。貌は照れくさそうに横を向いている。
「オメーにやるよ、レエテ。ウチで一番の別嬪のオメーだったら、きっと似合うだろうぜ」
「……ありがとう! 凄くきれい! どうしたの、こんな珍しい花?」
「いいから、差してみろよ」
レエテは上体を起こし、云われたとおり右耳の上のあたりの髪にデンドロビュウムの花を差した。
褐色の眩しいほど美しい貌に、長いストレートの銀髪、その上に映える可憐な花。
衣装こそ粗末な麻布だが、どのような大国の姫君も遠くおよばない、絶世の美姫がそこにいた。
ビューネイは横目でそれをみやり、云った。
「思ったとおり、凄え似合ってんぜ。
昨日、皆でちょっと南まで出たろ。そのとき見つけた。それ見て、昔オメーが本で読んで、付けてみてえって云ってたのを思い出したんだ。で、日頃の礼に、て思ってよ……。
まあ何にせよ、これからもよろしくな、てことだ……レエテ」
レエテは感激に目を潤ませながら、大きく頷いて、云った。
「ありがとう! 本当にありがとう、ビューネイ! 大好きよ……。
私のほうこそ、これからもよろしくね。いつまでも、いつまでも一緒よ、ビューネイ…………」
*
「テ!! ………エテ!! レエテ………!!」
レエテは、突如として自分を揺さぶる力を感じ、目を開いた。
そこは――。
禍々しいジャングルではない、広葉樹の森林の中。
視線を落とすと――。自分の衣装は白と黒のボディスーツ、キャメル色のブーツであり――。
何よりも、自分の肩を揺さぶって起こした張本人である、女性の存在。
紅く長い髪と聡明な美しい貌、アルム絹の白い魔導士衣を身にまとった、その女性。
彼女を見て、また自分が昔の情景を写す長い夢を見ていたことを、自覚した。
「……ナユタ。私、どれくらい眠ってしまってた?」
ナユタは少し心配そうに眉を上げながら、答えた。
「3時間、てところかねえ。もう少しでラウドゥス統候領を抜けようってこの場所で、ちょっと休憩のつもりが、あんたがなかなか目を覚まさないんで長引いてたんだ。
まあ日没までは2時間くらいあるし、目的地のノルン統候領ハッシュザフト廃城までは十分間に合うと思うけど」
「あなたの云ってた、ヘンリ=ドルマン陛下の使いの騎士との待ち合わせ場所、ね……。
私また昔の夢を見てしまって……。皆を待たせてしまって、ごめんなさい」
「それはいいんだよ……。けど、あんた最近そうやって泥のように眠り込んで、うなされたりしてることが多くなった。それが心配なんだ。
今も、悪夢じゃなかったみたいだけど、寝言云ってたよ。
そう……あんたの家族のこと、とかね……。ビューネイ、って……。
心のほうは、大丈夫なのかい? 辛くなったら、シエイエスの代わりにあたしがいつでも話聞いたげるからね?」
ナユタの心配そうな貌を見て、レエテは胸が熱くなった。
今の彼女にとって一番の親友――。この女性に初めて会ったときから惹かれるものを感じていたのは、ビューネイと共通するもの――。気が強く、大胆で行動力があり、それでいて内面はとても優しい、そんな要素を感じていたからかもしれないと、レエテは改めて思った。
「ありがとう、ナユタ……心配してくれて。私は、大丈夫よ。
時間も限られていることだし――。皆が大丈夫なら、すぐにでも出発しましょう。
目的地のハッシュザフト廃城まで、ね……」
そう云ってレエテは、しっかりとした足取りで立ち上がったのだった。