第一話 雌龍と雌虎【★挿絵有】
そこは、薄暗い牢獄であった。
苔むし、湿った石の壁から滴り落ちる、断続的な水滴の音が聞こえる。
血の多く混じった腐臭、糞便、それにつられてやってくるラットなどの小動物の獣臭。それらが混じった耐え難い悪臭が鼻をつく。
5m四方の部屋の、天井にほど近い高い位置には辛うじて設置された小さな窓がある。
そこから差し込む光は極めて小さく、淡い。
時間が夜であることと、月も隠すほどの曇天であることを示している。
牢獄の中央で、過剰なまでの厳重な拘束を施された、この場所の住人である囚人。
天井から吊り下げられたオリハルコン製の太い鎖が二本、両腕の重厚な枷にはまっている。
地上からも同じく二本の枷が、両脚を固く固定している。
それらが最大限に引かれ、拘束された人物の両手両脚を広げ、強引に直立させている。
何日、何週も休むこと、眠ることも許さない苦痛を与えるものだ。
拘束されているのは、女性であった。
身長は170cmほど、手足は長く、貌も小さな極めて高い頭身。
その肉体は一糸もまとっていない全裸だった。
細く引き締まった筋肉が全身を覆い、それでいて女性として最大限の艶めかしいラインを失わない美しい肉体。
程よく豊満な乳房と、筋肉の上に薄く脂肪がのった形の良い尻が身体の線を浮き立たせる。
その抜けるように白い肌には幾つものミミズ腫れ、斬り傷、刺し傷が刻まれ、出血の跡が生々しかった。
頭部の頂から伸びる髪は、鮮やかな黒髪。額の真ん中あたりで分けたくせのない美しいストレートで、肩のあたりで綺麗に切りそろえられている。
その髪の間から覗く貌は――。息を呑むほど、美しかった。
細くまっすぐな形の良い眉、極めて長い睫毛の流麗な目、高く形の良い鼻、肉厚で形の良い唇――。
醸し出す王侯貴族のごとき上品な気品は、決して昨日今日子供であった若い女性ではなく、年齢を重ねた女性であることを漂わせた。が、それを全く感じさせない若々しく美しい肉体と容姿であった。
そこへ――。
赤く淡い光源と、硬い足音が近づいてくる。
光源はその存在自らが身体にまとう魔導の炎であり、足音は高いハイヒール靴が石畳を叩く音だ。
その音を聞いただけで――囚人の女性は近づいてくる存在が何者であるかを認識したらしく、苦虫を噛み潰したような深い険を額に刻む。
そして、ついに牢の前に立ったその存在は、赤あかと光るその炎を、女性に強く向けた。
暗闇に慣れきった目は、それだけの光源で白く眩み、視界が奪われる。
「……このお部屋があてがわれて長いですけど……ご気分は、いかがかしら?
サタナエル“投擲”ギルド将鬼、『眼殺の魔弓』サロメ・ドマーニュ殿……?」
妖艶な、吐息混じりの女性の声を放った、牢の前にたつ存在の問いかけに対し、囚人の女性――サタナエル将鬼、サロメ・ドマーニュは、怒りを圧し殺し、低く押し出すように、女性としては低音の声で言葉を返した。
「……ああ、お陰さまで……最悪の中の最悪、といったところだ。
貴様が現われなければ、『最悪』で済んでいたのだがな。
サタナエル“魔導”ギルド将鬼にして“将鬼長”、『絶対破壊者』フレア・イリーステス……!」
その出来うる限りに圧し殺した敵意を向けられても、銀縁の眼鏡の奥の、そのまとう炎と対極にある氷のごとき冷酷な眼は微動だにしない。
栗色の柔らかな長い髪、鋭い知性を感じさせる際立った美貌、魔導士の象徴である白いアルム絹で織ったチュニックとマント、レザーのコルセットとガーターベルト、ロングブーツ。
はだけた胸元とあらわになった太腿が性的な魅力を最大限に感じさせる、サタナエル頂点の存在“魔人”の右腕にしてその最大の愛人である地位をほしいままにする女。
将鬼長フレア・イリーステスその人に、他ならなかった。
そう、この場所は――。
ハルメニア大陸の最果て、人間の立ち入りを拒絶する禁断の地、アトモフィス・クレーター。
そこに位置する、サタナエル『本拠』内、『宮殿』。
その最下層に位置する、重犯罪者収容区画の牢であった。
「まあ……。私が御目に入ったことでご気分を害されたのであれば、すぐに退散しますわ。
貴方の罪の裁定を行った私に、思うところがお有りなのは承知していますし。
せっかく私が持ってきた、この牢の鍵を持って帰ってもよろしければ、ですけど」
それを聞いた、サロメの両眼に強烈な殺気が宿った。
フレアはそれを見て満足したように、さらに言葉を続けた。
「そうでしょう? 私を追い返さない方が身のためですわ、サロメ。
いかに将鬼として化物のような身体能力を誇る貴方でも――。鍛造オリハルコンの特注の鎖、何重もの鋼板で固められた床と天井と壁、魔導を流し込まれた柵をもつこの特別牢では、この世で唯一この鍵しか外へ出る手段はありませんものね」
すぐに、サロメが努めて感情を殺した冷たく乾いた口調で返す。
「なんとも、楽しそうだな、フレア……。さぞかし、満足だろうな。
私としても仲々に、楽しめたぞ。
貴様のような小娘の足下で、私自身の裁定した罪人を逃した罪、を裁かれる屈辱に始まり――。
その気分で下した裁定により、貴様が募った変態共にこの肌を露わにされ、叩かれ斬られ突かれ――。あげくの果てには、いいように犯しつくされた。
素性が知れないよう、仮面で貌を隠していようが――。私は覚えている。その声、息遣い、身体、醜い一物。必ずあの男どもを探し出し、一人残らず皆殺しにしてやる。
云うまでもないが、フレア。貴様も近い将来、必ずな……」
「まあ、物騒な。聞かなかったことにして差し上げますわ。
あの男共も可哀想に。将鬼として手出しできなかったものの、常日頃貴方に憧れ、理想の女として懸想をしていた男たちを集めましたのよ。 せっかく、貴方を欲しいままにできる夢のような機会を得て有頂天でしたのに。まあ、無防備に声まで出してしまうようでは地獄に落とされて当然ですわね。
……まあそれはともかく、貴方がここにいた半月ほどの間の出来事を、ざっとお知らせしておきますわ」
「……」
「まず、貴方が死罪裁定後にむざむざ逃した愛弟子、元統括副将シェリーディア・ラウンデンフィルは、未だ逃亡中。
流石は、貴方の地位を大いに脅かした逸材にして天才。すでに、その生命を狙った2名の副将、12名の兵員を無傷で返り討ちにし、捕獲のめどは立たずといったところですわ。
ドミナトス=レガーリアの首都バレンティンで存在が確認された後、現在はエストガレスに向かっているという情報が流れてきています」
「……」
「そして、レエテ・サタナエル。こちらは、とても大きな動きがありましたわ……。
アンドロマリウス連峰からドミナトス=レガーリアを北上し、バレンティンに到達。
そこで標的である『剣帝』ソガール・ザークと闘いこれに勝利、息の根を止めたとのこと」
それまで黙ってフレアの話を聞いていたサロメの両眼が大きく見開かれ、激しい動揺を見せた。
「――なっ……!!! 何……!?
あのソガールが……、殺られた、だと!?」
「そう……闘えば私達でも手を焼く、あの剣の魔物を、ねじふせ斃したらしいですわ。
もちろん、レエテが以前より引き連れている仲間の助力はあったものの、最後はレエテ自身がこれまで見せたことのない強力極まりない技で身体を破壊し、殺したと。
どうやらその足でノスティラス皇国に進路を取っているらしく、ということは……奴の次の標的は、北ハルメニア自治領に棲む“斧槌”ギルド将鬼『竜壊者』レヴィアターク・ギャバリオンであることは明白……」
話しながら、レエテの仲間である一人の旧知の女魔導士に思いが至ったか、複雑な表情で遠く見るような視線となるフレア。
「まあ、あの男色家で女嫌いのソガールにしては珍しく、貴方とは気が合ったようですし。お伝えするべきと思ってお教えしましたわ、サロメ」
「……同じ戦闘者として、相通ずるところがあった、というだけだ。あれだけの化物、殺られることはないと思っていたが……剣士としては惜しい男をなくしたな。
それで、貴様はどうするつもりだ、フレア。すでに危険な力を有するにいたったレエテに対して、何か手を打つのか? ノスティラスに奴が向かったなら尚更」
「フッ……すでに幾つか、手は打っておりますわ。
おっしゃるとおり、ノスティラスは私の故郷でもありますし、地の利を活かした罠をしかけるべく、これより赴くつもりではおります。
さあ、お喋りはこれくらいにしておきましょう」
云うとフレアは、手にした鍵で柵の巨大な錠を開け、次いで壁から突き出た巨大なレバーを下に押し下げた。
轟音と、地響きが伝わり、サロメの両手両足を拘束していた枷が外れ、戒めの鎖が天井に収納されていった。
解放されたサロメは力が抜けたようにぐったりと牢獄の床に横たわる。
「これで、貴方は自由の身です。サロメ・ドマーニュ。
牢を出て廊下を行ったところに、貴方の衣装と鎧、武器、神弓“神鳥”が用意してあります。これまでどおりの執務に励むように、との“魔人”ヴェルからのお言葉を預かっておりますわ」
「……」
「……そうそう。それで思い出しましたけれど、貴方は――知ってらっしゃるのかしら?
“魔人”ヴェルの出生に絡む、『あの事実』のことを。
私はつい先ごろの、配下に命じた調査報告で知りましたけれど、『特別な貴方の立場であれば』もっと早くにこの事実に気づいていたのではなくて?
いかがかしら……?」
「……」
「……その眼。おそらく、気づいていた、ということね。分かりました。
まあいずれにせよ、先代“魔人”ノエルの寵愛を受けたとはいえ、貴方の時代は、終わったのよ、サロメ。
現在は、どう足掻こうが、このフレアに傅く立場を変えることはできない――。私の許可がなければ“魔人”ヴェルとの目通りも叶わないと、改めて肝に命じておくことね……フフフ……」
不敵な笑みを響かせながら、フレアは牢獄の前を去った。
同時に炎の明かりが去り、牢獄内は再び淡い光のみの闇に包まれた。
その闇の中で――。
全裸のサロメの、背中の筋肉が激しく収縮する。
そして右拳を高々と振り上げると、勢い良く床に打ち付ける!
轟音が響き、床を形成していた石が直径2mに渡ってクレーターを形成したあと粉々に崩れさる。
そして、その下にある鋼板が大きくひしゃげた状態で姿を現す。
そこに到達したサロメの鉄拳は、潰れて大量に流血しながらも、辛うじて原型を留めていた。
「おのれ……おのれ……あの淫売の小娘があああああ!!!!
なおも私の自由を奪うか!!! 私の生き甲斐を奪うか!!!
殺してやる!!! 必ず!!!! せいぜい背後に気をつけるがいい……!!
私の矢を、その恥知らずの脳に、深々と突き立ててやるわ!!!!」
深き怨恨の込められた叫びは、冷たい牢獄内に幾重にも木霊していったのだった。




