第三十五話 「私だって、殺したくはないんだ」
この世に有り得ない光景に、全員が肝を冷やし、恐怖に貌を凍りつかせていた。
濁った虚ろな目、奇妙極まる立ち姿――。意識はない。明らかに、死んでいる。現に死後硬直の始まっているその身体は関節も固まり、すでに通常の人間と同じようには動かすことはできないぎこちない様子だ。
にも関わらず――ソガール・ザークの死体は立っていた。
この男の肉体は、生まれついての突然変異的な超肉体だ。
あるいは、死後硬直で収縮した強大すぎる筋肉が心筋を動かし、いくらかの血液を脳髄に送り込んだことによるものなのか、はたまたあまりに狂気極まる妄執が成し遂げた人外の業なのか。
いずれにせよ、そのソガールの死体は、ぎこちなくも左腕を振り上げ、レエテに襲いかかろうとしている。
その手の大剣は折れたりとはいえ、まだ鋭く重く、十分な殺傷力を有している。防御せねば、脳天を割られる。
レエテは――青ざめた貌で驚愕していたものの、すぐに表情を変化させた。
悲しく、痛々しい、表情だった。眉間に皺を寄せて引き上げ、歪めた目の中に涙を溜め、わなわなと震わせた唇は大きく引き歪み、音が出るほどに歯噛みしている。
その表情のまま彼女は立ち上がり、そしてこの場で二度目となる構えを再びとり――。
ゆっくりと動く悍ましい死体に向けて、再び、“螺突”を放った。
回転のかかった結晶手の弾道は死体の貌の中央部を捉え――。口から後頭部までを突き抜けた後、衝撃力によりその首から上を一気に爆散させた!
再び、血液と脳漿の雨がレエテの貌と身体に降り注ぐ。
オファニミスやキャティシアは直視することができず、手で口を押さえ、目を閉じて貌をそむけた。
頭部を失ったソガールの死体はようやく――地に倒れ、完全に動かなくなった。
もはや頭から血と臓物にまみれ、殺戮の鬼神のような様相となったレエテの目からは止めどなく涙が流れ――。
肩を大きく震わせていた。がっくりと両膝と、両手を地に再びついた。
そして、一気に感情を爆発させ、叫んだのだった。
「もう、いいかげんにしろ!!!!! 私に!!! 私に二度も殺させるなああ!!!!!
できれば――私だって、殺したくはないんだ!!!!!
本当は、もうたくさんなんだ!!!!! 肉を斬り、手足を斬り、心臓を突き、首を落とす――!! 人を殺すのはもう、たくさんなんだ!!!! 苦しくって、どうしようもないんだ!!!
お前たちのせいだ、お前たちがこんな状況に私を追い込んで――!!!
苦しくても、やるしかないんだ!!!! 憎くて、憎くて気が狂いそうだから!!!! 殺したいから!!! 全部殺したいから!!!! 私から奪ったお前たちを――!!!!
これからもずっと、殺し続けるしかない私を!! 今以上――苦しめないでええ!!!!!」
魂の叫びを全て吐き出し――地に突っ伏して号泣するレエテ。
シエイエスも、駆け寄ろうとしていたナユタたち仲間も――。
彼女にかけるべき言葉が見つからないのと同時に、ただ勝利の歓喜に沸いてしまっていた自分たちの心を、深く恥じた。
本来優しく心の清らかな一人の女性にすぎないレエテに対し――あまりにも過酷に過ぎる十字として背負わされた、凄惨な復讐の運命。その実行を可能にしてしまう、人殺しのために保たれてきた呪いの血筋と超人の肉体。
それがこれまでいかにレエテを苦しめ、心を引き裂いてきたか。それでいて仲間を思いやり、決して表には出さずに抑えられてきたその思いに、まだまだ自分たちは思い至っていなかった。
恥じると同時に、改めて今、レエテという女性を知り、それを護りたいという想いを新たにしていた。
一方、レエテの魂の声は、観覧席に陣取る面々にもそれぞれ響いていた。
ネイザンは一切の笑いを表情から消し、沈痛な何かを感じていたようだった。
そして彼とともにこの国を治めるソルレオン国王も――。
両目を閉じ、深く何かをその心に感じるものがあったように見えた。
彼は、闘技場のレエテの仲間たちと同じ想いを共有し、目を閉じて貌を伏せるホルストースの肩をたたき、云った。
「ホルス……。俺あな、今までこの国のことだけを全力で考え、精一杯やってきた。
鉱脈の奪い合いが、無秩序な殺戮の地を作り出すことを危惧してこれを管理した。そしてそれを奪おうとする諸外国の手から土地を守るため、ひたすら国制と秩序の構築につとめてきた。
出来る限り配慮したつもりだが、急ごしらえの策だ。ある民には望まねえ圧政を強いてきたことも、無辜の民を多く殺してきてしまったことも重々承知してる。サタナエルと手を組んだのも、そういった事情に迫られた必要悪だ。
それで俺はいっさい後悔も間違いをしたとも思っちゃいねえし、いつか俺が犯した罪が裁かれるなら、堂々とそれを受ける覚悟もあった。
だが――あの、悲しい復讐の運命を背負い込んでんだろうレエテ・サタナエルを見て、今ようやく感じたよ。理由がどうであれサタナエルは、組んじゃいけねえ、あまりに度を越した悪だ。
以後は、見直してえと思う。サタナエルへの依頼は取り消せねえし、まだ“剣”ギルドには数人生き残ってる奴もいるが――。ソガールも副将も死んだし、俺が積極的に動かなければ、ほぼ奴らによる被害はなくなるだろう」
「親父……あんた」
目を輝かせてソルレオンを見るホルストースの背中を叩き、彼はゆっくりと、エストガレスの賓客たちのもとに歩み寄った。
ダレン=ジョスパンは――。やや貌を下げ、沈黙していた。
彼の冷酷非情な心はあくまで、レエテの魂の叫びにも何ら人としての憐れみや同情の類は持ち得なかった。
しかしながらダリム公国などで見せたように、彼はいち武人としては幾ばくかの正しい心を持っている。さすがに執念深い彼でも――。ここまで見事な闘いで強大に過ぎる敵を破ったうえに、心が傷だらけになり潰れかかっている女性に対してこれ幸いと手を出す気には、今はもはやなれなかった。
オファニミスは――両目を閉じていた。レエテの言葉に深く感じ入るのと同時に、その頭脳が猛烈な勢いで回転しているのが分かった。
まだ世間知らずで年若いとはいえ、ダレン=ジョスパンが危機感を覚えるほどの極めて優れた頭脳を有するオファニミス。今僅かな時間で見聞きしたこのコロシアム内の状況、人間たちの表情・言葉・所作、闘技場にいた禍々しい悪魔、それと対峙していたレエテの様子、その言葉の裏にあるもの――。それらの考察によって、全てではないもののかなりの深度でレエテとサタナエル、仲間との関係、従兄やこの国の関わり、この場に至った経緯などを推測、理解できたのだった。
そしてソルレオンに対し静かに口を開いた。
「陛下……。細かい経緯までは存じ上げませんけれど、おそらく貴城内のこの場が戦場になったのは、我らエストガレスにその責があるのでしょう? それについては深くおわびいたしますわ」
頭を下げるオファニミスに、驚愕に目を見開きなだめるソルレオン。
「い……いやいや、たしかに……こたびの事次第はそちらの公爵殿下が仰せられたことだが、私も進んで協力いたしたもので」
「それも、よく分かりますわ。そういった『外交上の取引』に関しましては、わたくしも交えて、後々正式な場で交渉いたしましょう」
ソルレオンは舌を巻いた。いったいどこまで見抜いているのだ。見た目はただの可憐な少女にしか見えぬのに、この女、底が知れない。
彼は頷いて返事をするのがやっとであった。
そしてオファニミスは、ダレン=ジョスパンに目を向けた。
「お従兄さま……。わたくしも、全てを見通せているわけではありませんけれど少なくとも――お従兄さまは、わたくしに幾つかの隠し事をされ、嘘をつかれておりましたでしょう?
どこまでわたくしが気づいたかは、今は敢えて申し上げません。いずれにせよ、全てをお話いただけるとのローザンヌ城での約束を反故にされたのは悲しいことです……。
ですが……。公人の判断に私情を挟むのは、あってはならないと知った上で敢えて申し上げますが……。それでもやはりわたくしは、この世で一番、お従兄さまのことが、大好き。
ですから今は何もお従兄さまを責めたり、罪に問うたりはいたしません。そのかわり、二つだけ約束していただきたいの」
「…………」
「一つ、難しいのは承知ですが今後を通じて、あの悪の権化の組織、サタナエルへの依頼および関わりを持たないよう『努力』をされること。
二つ、少なくともレエテ・サタナエルがエストガレスの領外にいる限り――手出しはしないこと。
その二つだけでも良いですから、どうか約束して、お従兄さま」
穏やかだが決然としたオファニミスの宣言に、目を完全に閉じてじっと聞き入るダレン=ジョスパン。
気づいたことを敢えて云わないと云ったものの――。その約束の内容から、少なくともダレン=ジョスパンのサタナエルとの深い関わりと、レエテの身柄を個人的に欲していることにオファニミスが気づいたことは明らかだった。おそらく以前より彼女は、あらゆる情報収集や考察を密かに行っており、この場の状況の考察で確信を得たということであろう。
しかも全面禁止ではなく、ある程度の温情まで伴った約束内容。
器の大きさまで示され、これにはダレン=ジョスパンも、苦笑しながら受け入れるしかなかった。
「承知いたしました……。オファニミス王女殿下。
このダレン=ジョスパン、これまで御身をたばかったことを深く陳謝いたしますと同時に、お示しになった戒めを固く守るよう努めますこと、ここにお誓い申し上げまする」
正式な最上の礼をとり、うやうやしく頭を下げるダレン=ジョスパン。
「ありがとう……ありがとう、お従兄さま」
目を潤ませたオファニミスは、次に観覧席の最前列まで歩みを進めた。
一般女性の身体の彼女では闘技場に飛び降りることは叶わぬゆえ、その場から――見るも無残な血塗れのレエテに声をかけた。
「レエテ……。レエテ・サタナエル。
傷心の今の貴方に、声をかける不躾をどうか許して。だけれど少しだけ、わたくしとお話していただけると幸いです。
初めてお目にかかります。わたくしはエストガレス王国王女、オファニミス・ローザンヌ・エストガレスです。お会いできて、とても光栄ですわ」
その声に――。
闘技場内の、レエテ以外の人物が一斉にひれ伏し、最上の礼の形をとった。
単に超大国の第一王女という立場だけではなく、“陽明姫”として諸外国にも敬愛を向けられるその存在は、大陸全土から尊敬の念を向けられているといってよい。
かつて、大国ノスティラスの皇帝にすらひれ伏さなかったレエテ。彼女だけは国家というものを知ることなく育った特殊なその環境ゆえ、概念は理解しても王族皇族だからと無条件に畏怖して頭を下げる習慣そのものがなく、理解もできなかったのだ。
レエテは涙でぐちゃぐちゃになった貌をようやく上げ、袖で軽く拭くと、立ち上がって返答した。
「……取り乱した見苦しいところをお見せした、オファニミス王女殿下。
私はレエテ・サタナエル 。こちらこそ、お目にかかれて光栄だ」
「よかった。ありがとう、話に応じていただいて。
レエテ。『今この場では』あなたも自由にお話できないのはわかっています。わたくしもそれは同じで、ここでは手短に。いずれまた別の機会をもうけさせて頂きたいですけれど……。
聞かせてください。あなたはなぜ、同胞であるサタナエルに、反逆したのですか?」
「私のかけがえのない親友を殺され、姉とも母親とも慕った最愛の存在を殺され、同じく家族として育った限りなく大切な存在を――皆殺しにされた、その復讐のため」
「――では、貴方が復讐を遂げたい、その相手は?」
「サタナエルの頂点にして一族の頭領、“魔人”ヴェル。六ギルドの将鬼、フレア・イリーステス、ゼノン・イシュティナイザー、ロブ=ハルス・エイブリエル、サロメ・ドマーニュ、レヴィアターク・ギャバリオン、そして今復讐を遂げた、ソガール・ザーク。さらには、サタナエルに属する者全て」
この名を一人ひとり挙げる際のレエテの殺気には――。オファニミスも身震いせざるを得なかった。
「――では復讐を遂げたそのとき、貴方はどうするおつもりですか?」
「……正直、わからない。復讐を遂げる中で多分に犯すであろう罪を償うことは、真っ先に行わなければならないと考えている。けれど、今それがどのような行動になるのかは、わからない」
「もう一つ。今貴方に付き取り囲んでいる仲間たち。彼ら彼女らは、今の貴方にとってどのような存在ですか?」
「何よりも……かけがえのない、存在。友人、いや家族として、全力で守り抜き、いつまでも共にありたいと願う存在」
その言葉に――平伏しながらもナユタ、シエイエスら仲間たちの目には、うっすらと光るものが現れた。
オファニミスは、レエテの答え一つひとつを噛みしめるように両目を閉じたあと――。再び目を見開いて、云った。
「わかりました、ありがとう……話を聞かせてくれて。よく分かりました。
これよりわたくしは、あなたのその行動理由・理念を十分理解したうえで、あらゆる自分の行動に生かしていくでしょう。
ついでにもう一つ、云わせてくださいね。わたくしは、ダリム公国での武勇譚を耳にして以来、貴方の熱烈なるファンなのです。
今も本当は、貴方とお話ができて、とても胸が高鳴っています。
何が云いたいかといえば――。貴方は、このハルメニア大陸で、孤独ではない。
貴方と行動をともにする仲間たちはもちろんですが、ノスティラスのヘンリ・ドルマン陛下もそうでしょう? わたくしも、貴方の支援者。
もちろん、敵のほうが九割九分以上なのは、承知です。これからもあらゆる場所で迫害を受け、命を狙われ、死の危機に瀕し、貴方の望まぬ殺生をしなければならない場面は無数に訪れるでしょう。
だけどそんなとき、ぜひ思い出してください。あなたは決して、孤立無援ではないのです。
微力ながら、いつか貴方の大きな助けとなれるよう、わたくしも努力いたします」
その言葉に――レエテは思わず感激に目を潤ませた。
仲間以外で、そのような言葉をかけてくれる者は、本当にごく僅かだった。いや、仲間を得るまでの10ヶ月あまりは、レエテは真の孤独だったのだ。それに比べれば、今の自分はあまりに恵まれている。
「それではとても名残惜しいですが、ごきげんよう、レエテ・サタナエル。いずれまた、必ずお会いしましょう。
わたくし、実は湯浴みの予定を放ってここにかけつけたもので……もう戻らなくては。ふふふ!
さあ、ソルレオン陛下、副宰相ネイザン・ゴグマゴグ殿、お従兄さま、ここは一度退散いたしましょう。
ありがたくもご準備いただいている晩餐ののち、また正式な会を設けましょう……」
そう云って、それとなくレエテの仲間以外の人物を促しながら、オファニミスは風のようにコロシアムを後にしていった。




