第三十一話 剣帝ソガール・ザーク(Ⅰ)~「氣刃」【★挿絵有】
遂に――。命を狙う獲物のもとにたどり着いた、一匹の魔物。
目には見えぬ黒炎のごとき殺気は、この場の全ての人間が、魔物の身体から天を衝かんばかりに上がっているごとくに感じられるものだった。
これまで20年以上に亘り、自分の肉体と剣技の糧としか人間を見てこなかった魔の化身、ソガール・ザーク。その全ての始まりとなったエグゼビアの虐殺以来初めて人間に対して抱いた、「怨念」を込めた殺意。その危険度はもはや絶望的だ。
想定はしていたものの、その出現の早さに観客席上のダレン=ジョスパンは内心歯噛みした。
ソガールが間に立ち塞がったことによりもはや、自分がこの場に介入することは叶わない。すればその瞬間に自分はサタナエルの全面的な敵対者となり、同時にドミナトス・レガーリアとの交渉決裂、国交断絶をも意味することになるからだ。
今の彼にできることは、絶望的ではあるが、レエテがソガールを斃し生き残ってくれるのを祈ることのみだ。
突如出現したソガールに対し、彼を睨みすえる前にレエテはキャティシアの方を見やった。
「いや……あああ……」
キャティシアは法力の手を思わず止め、立ち上がって青ざめた貌で震え、怯えていた。
現在武器を持たぬ丸腰であることに加え、前回ソガールの次元の異なる強さ、残虐さ、異常さを目の当たりにしていたトラウマは彼女の脳裏に深く刻み込まれていたのだ。
すぐにレエテは、行動に出た。素早く駆け寄った後、キャティシアの身体をその両手に抱き上げ、数歩踏み込んでその強靭な膂力で一気に観客席に放り投げたのだ。
「きゃあああああっっ!?」
突然のことに少女のような悲鳴を上げたキャティシアの身体は、放物線を描いて高々と宙に浮き、観客席の上で尻もちを付く形になった。
駆け寄ったムウルに支えられ、呆けた表情で立ち上がるキャティシア。
「手荒なやり方でごめんなさい、キャティシア。あなたはそこに居て。
ムウルも聞いて。あなたたちも、このあと来るだろうホルストースも、ナユタも、ルーミスも――。
この闘いに、手出しは無用。
これは、10日前の続きなの。そして――ソガールへの復讐を最も望む、この私と――シエイエスの二人だけで決着をつけさせてほしいの」
決然とした表情で、レエテは云った。
その決意は揺るがぬもののように見えた。復讐、ということでいえばここにいるムウルも部族の仇として、またルーミスも母の仇として同様にソガールへの復讐の動機をもつ。が、一人は容易く命を落とすであろう子供、もう一人は利き手を失い血破点打ちという武器が使えない状態。彼らを巻き込みたくはなかった。
シエイエスについては、キャティシアと同様に観客席に避難させれば、その時点でダレン=ジョスパンの標的となり元の木阿弥となってしまうことも理由にあった。が、それ以上に――。レエテは、生きて再会できた彼に側にいて欲しかった。知恵も、勇気も、彼が付いていてくれれば心強く湧き出し、この闘いもやれる気がした。そして、もしもここで死ぬことになるのなら――。彼の許で死にたかった。それはシエイエスの復讐心に報いつつも、己も自覚したレエテの我儘なのだった。
ナユタとホルストースは――。加勢してくれれば強力な助っ人となるだろう。だがそれを望むのは、レエテのもう一つの思いが許さなかった。
「ソガール……。お前は強さへの妄執に取り憑かれた男。
仮に多勢で取り囲んでお前に勝っても、お前の狂気の魂は己の負けを認めないだろう。
せめて――前回同様、お前を骨の髄まで憎んできた私達二人の手で、お前に敗北を与える!」
ソガールは、闘技場に降り立ってから、滾りすぎる己を鎮めようとするかのように食いしばった歯の間から突風のような深呼吸を何度もしていた。そして、右手の大剣をブンッ! と上段から振ると、ようやく精神を統一できたのか、不敵な笑みを浮かべて云った。
「……たわけが。うぬが何をその心中で小賢しく考えようが、己らの力で我を討とうと宣言しようが、勝利せねば全ては意味をなさぬ。
残念だが、目の前の状況が如何にあろうが、我のなすことは一つ。
敵を叩き潰し、我が血肉とするのみ!!」
そしてもう一本の大剣をユラリ……と振り、構えに移行する。
その体勢は――もはや疑いようもない。
「氣刃」の構えに他ならない。この男には、敵を翻弄する虚言も、余計な様子見も、その辞書にない。
常にその身の全力をぶつけるのみだ。
「――シエイエス!!!」
その声は――観客席にてこの闘いを見守る、ダレン=ジョスパンからであった。
彼は素早く、己の青いコートの内側から取り出した二つの物体をシエイエスに向かって投げた。
闘技場の地に叩きつけられたそれは、シエイエスの得物、漆黒の双鞭だった。
シエイエスは目を光らせ、まだ十分な回復を遂げたとはいえない身体を素早く引き起こし、跳躍してその双鞭を手に取った。そしてダレン=ジョスパンを見上げる。
彼が反逆した相手であるかつての主君は、何も云わなかったが、表情がその心を物語っていた。『こうなった以上、お主もソガールと全力で闘い、死んでもレエテを勝利へ導け』と。
シエイエスは決然とした表情で飛び退り、すでに両手の結晶手を構えて戦闘態勢に入ったレエテの傍らに立ち、同様に構えた。そして巻き取られた漆黒の双鞭を一気に手首の動きで振り、両の手から伸ばした。
「レエテ……。俺も心は決まった。共に奴を斃し復讐を果たそう。そして……生き残ってお前達へ申し開きをさせてほしい」
「シエイエス……」
「俺はあの敗北以後奴の『氣』についてずっと考え、現時点である仮説を立てた――。
レエテ。俺はちょうど今お前と接している二の腕から、お前に魔力を送り込む。それを糧に奴の氣に合わせて放つんだ――全力の『耐魔』を」
「え――?」
シエイエスの腕から自分の腕へ、魔力が源の状態で送り込まれる熱さを感じたその時点で――。
目前の敵ソガール・ザークの両の腕は、水平方向にクロスされ、極限まで力を蓄えられていた。
そして――それは、放たれた!
「黒帝流断刃術――氣刃の参!!!!」
一気に水平に振り抜かれた二本の鉄塊の軌跡から、光り輝く巨大な――とてつもなく巨大な刃が広がり、レエテとシエイエスに迫る。
選択したのは「氣刃の参」、だ。己と同じ高度に並んで立つ二人の敵を葬るには、適切な選択だ。
しかも先ごろの訓練が物語るように、その射程範囲は距離と威力を増しているのだ。
10日前、自分の右半身をズタズタに切断したその悪魔の光刃を前に、武者震いするレエテ。
それに向かってシエイエスが叫ぶ。
「お前ならできる!! 斬れ!! レエテッ!!!!」
その声に突き動かされるように――。レエテは己の極限までの魔力を右結晶手に集中させ、全力の耐魔を形成し――。
一気に垂直に振り下ろすように氣刃に向けて斬りかかった!
すると――驚くべき、現象が起きた。
誰もが、そのまま結晶手ごと胴体をまっ二つにされるレエテの姿を思い描いたにも関わらず――。
現実には、結晶手は文字通り――巨大な光刃を「切り裂いた」のだ!
正確には、レエテの右手に集約された強力な耐魔が、光刃たる氣を「弾いた」ことにより――。扇状に欠けた氣刃が、レエテと、そのすぐ傍らにいたシエイエスの身体を避けたのだ。残った氣刃はそのまま闘技場の壁に到達し、大きく切り裂いた。
その様子を、ネイザンは驚愕の表情で見やり、ダレン=ジョスパンに云った。
「殿下……! こりゃあ、間違いなく……」
「うむ……。この世で唯一の不倒の力と思っていたあの『氣』の正体――。
通常の習得方法ではない上、特異に過ぎる特性上破れる者はこの世でもごくわずかだろうが――あれは紛れもなく『魔導』だ」
彼らの視線の先にいる、必殺の技を破られた当人、ソガール・ザーク。
彼の黒曜の岩石のような巨大な肩は――。大きく打ち震えていた。
しかし――それは決して衝撃を受けているわけでも、痛恨の思いに歯噛みしているわけでもなかった。
ソガールは――。嗤っていた。
そして悪魔のようなその笑みを、頬まで避けんばかりの大口での狂喜の嗤いに変える。
「……ハハハ、ハッハッハッハッハッハッハッアアアアアア――――!!!!
素晴らしい、素晴らしいぞ!!! うぬらはこの地上で初めて、我が氣刃を破った!!
何と愉快な、何と楽しませてくれる!!!
この闘い、もはや退屈なる鍛錬などではない!!! 我が永きにわたり待ち望んだ、全力で激突せし命のやりとり!!! そのものだ!!!!
嬉し楽し、堪らぬぞ!! 我をもっと愉しませよ、レエテ・サタナエル!!!」