ユキと『センパイ』のコイバナ、そして第一の怪談
初バトルものを書いてみたいというだけで書いたお話です。完結していますので、定期的に続きを投下します。『センパイ』の饒舌ときまぐれを、気に入っていただけたら幸いです。
それは、気配だった。
図書室で、教室で、廊下で、学校のあちこちで。
本を読んでいる時、ぼんやりと考え事をしている時、どこかに向かって急ぎ足になっている時。
ふと、感じるのだ。
背後、斜め後ろ、隣。
ななめ後ろから読んでいる本を覗き込まれる感覚、後ろにじっと佇んでいる感覚、すぐ後ろからついてくる感覚、どこか近くに誰かがいるという感覚。
ふっとうすい影が自分に差したような気がして、目線を上げるけれど、そこには誰の姿も何の影もない。
そういう、ほんのかすかな気配だった。
誰にでもある、ちょっとした勘違いや気のせい、それにすぎないのだけれど。
この学校でここまでの噂にまで広がったのは、ひとえに、それがあまりに頻繁だったからだ。
誰かと一緒にいればそれは起きないが、一人になっていると、よく起きた。
はじめのうちは気のせいでも、繰り返し感じれば不気味になる。
不気味を振り払うために人に話す。
すると話された側が、思いがけない話題に驚く。
「それは私もだ」、と。
そうして、噂になり、噂は人から人へと繰り返され、順調に広がった。
「この学校には幽霊がいる。殺された誰かの、自殺した誰かの、事故にあった誰かの、無念の思いが幽霊になってこの学校を漂っているのだ」――だからそういう噂が立ったのは、それがきっかけだった。
ハナコさん、と名付けられたその幽霊は、一人でいるのがさみしくて、友達が欲しくて同じように一人でいる人の側に行って誘うのだそうだ。
最初は気づかれないような少し遠くから、それがだんだんに近づいていって、でも姿は見えない。
そして、最後には「友達になってね」と耳元に囁いて、それを聞いた人は連れて行かれる、のだそうだ。
※
……という話を『センパイ』から聞いたユキはたっぷり数秒考えてから、こう答えた。
「それって、本当の話ですか?」
ユキの言葉に、『センパイ』はくつくつとのどの奥で笑う。
「まさか。ただの噂だよ。「友達の友達が、実際に体験した話」ってやつさ。真相は藪の中ってね」
可笑しそうにそう言われて、ユキは少々むっとする。
この『センパイ』が唐突にどうでもいい話をするのはいつものことだが(というかどうでもいい話しかしないと言っても過言ではないが)、そして煙に巻かれてしまうのもやはりいつものことだが、根が真面目なユキとしては馬鹿にされた気がして毎回こうして唇を尖らせてしまう。
問題は、そのユキの反応を、どうやらこの『センパイ』が気にいっているらしいことだ。
「真相なんて、その聞いた友達に聞けばいいと思いますけど」
「おいおい、ずいぶんと野暮なことを言うねえ。七次の法則って知っているかい? 「昔々あるところに」は昔話の定型であるように、枕詞的に使われるだけの言葉、意味を持っているわけじゃない。『友達の友達』は都市伝説の常套句だよ」
「都市伝説……」
「ひと昔前なら口裂け女に人面犬、首なしライダーあたりがレギュラーメンバーだったが、とんと聞かないね。噂それ自体だから、それこそ流行り廃りも激しいものとはいえ、新しい流行りが出てこないのもさみしいものだ。とはいえ幸いこの学校には、伝統的に『七不思議』があることだけは救いかな」
「七不思議?」
「おや、七不思議を知らないのかい? 学校に在る七つの噂。13階段とか、歩く二宮金次郎像とか、ひとりでに鳴るピアノとか、聞いたことはないのかい?」
「そういう有名なのは知ってますよ。小さいころから聞いてますから。そうじゃなくて、この学校の七不思議です。そんなのあったんですか?」
ユキが聞くと、『センパイ』はにやにやと口の端をつり上げた。
ユキはそれを見て、猫を一瞬連想した。
新しいおもちゃをもらった、もしくは獲物を見つけた猫、だ。
「一年生の君がまだ聞いていないのは仕方ないか。ようし、では優しい優しい先輩が教えてしんぜよう。この学校の七不思議をね。さあユキちゃん、メモの用意をしたまえ」
『センパイ』のいつになく弾んだ声に、ユキは余計な疑問を口にしてしまった事を、早くも後悔し始めていた。
※
「――で、教えてもらったのが『テケテケ』『天井下がり』『背後霊』『ベッドの下の斧男』『隙間女』に『スネこすり』ってわけなんだね。ふーむ」
一通り説明を聞いたマモルは確認するようにメモを見ながら繰り返し、そしてうなった。
「なによ、何か不満?」
机に突っ伏して腕を思い切り伸ばしただらしない恰好のまま、目だけでユキはマモルを睨みあげた。
気の強い目つき。
ショートにした髪が風でも受けているかのようにふわりと散っているが、もともと巻き毛の強い髪質で、短くした結果、こんな風に跳ねることになった。
活発な彼女の性質をよくあらわしている。
結局あの後、七不思議のひとつひとつの話の詳細だけでなくその歴史的だかミンゾク学的だかしらないがわけのわからない説明まで全部聞かされて、正直なところへとへとだった。
ユキは座学よりも、外で体を動かす方がよほど性に合っている。
放課後まで勉強なんて、ユキの気力が持つはずがない。
だから帰ってきたユキはどっと疲れて、制服のまま店の机に突っ伏して、こうしてマモルに愚痴をこぼしているのだった。
「聞くだけじゃなくてメモまで取らされて、私は疲れてるんだから。メモを見せてあげただけでも感謝してよね。名前だけだけど。これ以上聞かれても結局この名前以外全然覚えてないわよ」
机にあごを乗せてむすっとした表情で機先を制すユキに、マモルはいつものへらへら笑いを浮かべて「まあまあ」となだめた。
マモルは20代の青年、に見えるが実際はそれより結構上だ。
ただ、年齢に反して遊び人じみた風貌が実際よりも大分若く見せている。
前髪を長くのばし、ゲゲゲの鬼太郎のごとく片目を隠すような髪型だ。
根蔵のオタクを漫画で書いたらたぶんこんな感じになるんじゃなかろうかという雰囲気だが、背筋は伸び、口元は常に人好きのする笑みを浮かべて、実際社交的である。
喫茶店のマスターという職業を聞けばだれもが納得するだろう。
今はその社交的で愛想の良い笑顔を、不機嫌な女子高生のご機嫌取りに使っている。
マモルはへらへら笑ったまま、続けた。
「この名前で十分だよ。むしろ、問題はこの名前じゃなくて、この並びかな」
「並びがどうしたってのよ。言っとくけど、七不思議は言われた順番で書いたわよ。センパイが順番通りに言ってるならだけど」
「ああ、順番じゃないんだ、ユキくん」
へらへら笑ったまま、顔の前で手を振るマモル。
「じゃあ、なんだって言うのよ、マモル」
ジトッと睨むユキに、マモルは「なんでもないよ」と気楽に言って、とりなすようにユキの頭をポンポンと撫でた。
「またそうやってごまかす! 私はもう子供じゃないんだから!」
ユキが怒って立ちあがると、マモルは「あはは」と笑いながらフロアを出て行った。残されたユキは、自分の頭に手をやり、ため息をつく。
(マモルってばいつもこれなんだから。昔っから、私がこうして機嫌を悪くしたらいつも……。でも、それで機嫌が直っちゃう私も私か)
※
ここは喫茶店『蒼緑堂』。
路地裏に有る、1階が店舗で2階と3階がアパートになっている古い建物だ。
ユキはこの2階に独り暮らしをしている。
両親は幼い頃から海外に行っていて、したがって、喫茶店の店長でありかつアパートの隣に住むマモルが保護者ということになっているのだが、なにしろマモルは基本的には放任主義で楽天家で……とにかくおよそ保護者に向いていない。
そして当然ながら喫茶店経営者としても向いておらず、立地の悪さを差し引いても、いつも閑古鳥が鳴いている。
被保護者であるユキとしては心配でならないのだが、マモルはどこ吹く風だ。
ユキはせめてと思って平日は決まって店の手伝いを買って出るのだが、そもそも客の来ない店でこれといった手伝いがあるわけでもなく、だから結局は暇を持て余してマモル相手にあれこれと愚痴をこぼす日々である。
マモルの方も寛容なのか暇なのか(おそらく後者だと思う)、律儀に毎回聞いてくれているのでついつい甘えるユキである。
最近は誘われて始めた部活に出ているので、手伝う時間も短くなっているのだが、その部活と言うのが、くだんの『センパイ』に勧誘されて始めた「図書部」だ。けれども、
(『図書部』っていっても、やっぱり活動があるわけでもない、し。結局は放課後適当に部室でだらだら過ごしているだけだし。というか『センパイ』の話を聞いているだけだし)
店にいても愚痴るだけだが、部活に出ても話を聞くだけで、どちらにせよ、実の有ることができているわけではない。
それを自覚している分、ユキとしても歯がゆいようなもどかしいような気持ちになる。
『センパイ』に「君が入らなくては廃部の危機なんだ。人助けだと思って入部しておくれよ」と懇願されて入ったものの、なるほど廃部の危機もやむなしの部活だった。
何もしてない。
小さいとはいえ部室があるのが奇跡の様なものである。
その実態を知ったのが入部した後だったというのが痛恨だった。
根がまじめなユキとしては今さら「やっぱり退部します」ともなかなか言えず、そして入部したからには活動に参加しなければならない、という義務感で、毎日部室に通っては、何もせず、ただ『センパイ』の、難しくてかつ意味の無い無駄話を聞いている。
(なんだかな……)
激しく無為な時間を過ごしている気がするが、それをどうしようもない現状。ユキはもう一度ため息をついた。
※
「――どうしたんだい、ユキちゃん。ため息なんかついちゃって。よく言うだろう、ため息と一緒に幸せも逃げて行くらしいぞ。幸せってのは空気のように軽いのか、それとも風のように脚がはやいのか、どちらかだね。さて、逃げてった幸せも気になるが、とりあえずは理由を聞こうじゃないか」
「……」
今さら驚くことも無いけれど、やはり『センパイ』は驚くほど口が良く回る。ユキが一言うか言わないかの間で、何十倍もの言葉が降り注がれてくる。
「ふぅむ、だんまりかね。では、推理をしてやろう。名探偵の、論理と推理の実験劇場だ。というわけで、結論から言うと、君のため息はズバリ――恋煩いだね!」
ゴン。
頭から机に突っ込んでしまった。
「どうやら図星のようだね。くっくっく。おやおや、その顔は、「どうして分かったのか」ってところかい? 簡単なことさ。実に初歩的なことだよ。君くらいの年頃の娘が、恋以外の何に悩むというのかな?」
猛然と顔を挙げたところで、『センパイ』のにやにや笑いと言葉を聞いて、完全にカマをかけられたことを知った。しかし、反応した方が負けである。
ユキはまたため息をついた。今度は、諦めのため息である。
(どうせ、『センパイ』はマモルを知らないんだから、まあ、いいか)
どこか無理やりそう納得して、ユキは重い口を開いた。誰にも黙っているのにも、限界だった。どうしたらいいのか、誰かに相談したかったというのは、本当だ。
「……『センパイ』、愚痴を聞いてくれますか?」
『相談』ではなく『愚痴』にしたのは、せめてもの矜持だ。
※
ユキがマモルへの想いを自覚したのは、ごく最近のことだった。あまりにも長い間一緒に暮らしていて、家族も同然だったので、その時まで自分がそんな想いを持っているなんて、夢にも思っていなかった。
「ユキくん、どうしたんだい、そんなふくれっ面をして。なにか悪いものでも食べたか、それとも虫歯でもできて痛いのかい」
いつも通りの無神経な言葉をかけてきたマモルを、ついいつも通り睨みつけてしまうユキ。そんな自分の反応に嫌気がさすけれど、長年の習慣はそう簡単に抜けない。
「だから、子ども扱いしないでって、いつも言ってるじゃない!」
「じゃあ、具合でも悪いのかい」
「そういうんじゃないわよっ。今日という今日は、本当に怒ってるんだから! マモルのせいで恥ずかしい目にあったんだからね!」
「おや、僕はなにかおかしなことをしたかな」
「学校に“正装”なんかで来る以上のおかしなことなんてそうそうないわよっ! そもそも授業参観なんか、小学生じゃないんだから、来なくたっていいって言ってたじゃない!」
そう。
今日は、授業参観だった。
ユキとしてはもう小学校を卒業してまで保護者(代理)に来られるほど恥ずかしいことはない。
それが、来るなと言ったのにマモルがいつも通りのへらへら顔で教室に現れた時は、顎が抜けるかと思った。しかも、“正装”で、だ。
「“仕事”以外での“正装”着用は違反なんじゃないの!?」
「しかし授業参観と言うものはみんな、『きちんとした服で来る』ものだって聞いたからね。僕の持っている服の中で一番『きちんとした服』は“正装”くらいだからさ」
「“調伏・退治・浄化用の正式装備儀式服”がどうして『授業参観で着るきちんとした服』って扱いになるのよ! マモルは本当に常識がなさすぎるし、頑張って無視しているのに、声なんかかけるから、クラスの子たちみんなの質問攻めにあったし……」
「質問?」
「そ、それは……」
マモルの問いに、ユキはぐっと言葉に詰まった。
ユキがクラスの子たちから質問攻めにあったのは本当だ。
けれどその内容は、「あのかっこいい人、ユキちゃんのお兄さんなの?!」「紹介して!」「めっちゃかっこいいんだけど! なんで秘密にしてたのよ~!」「え、でもお兄さんにしては全然似てないよね」「もしかして、いとことか? それとも、彼氏?! 彼氏なの?」といった、実に偏った物ばかりだった。
そしてなによりそういう質問を受けているうちに、ユキは、なぜか、妙にどきどきする自分を自覚した。
(マモルが、彼氏……?)
全く想像できない、けれど、何故かしっくりくるような気もする自分が信じられなかった。
そうしてもやもやした気持ちを抱えながら、思わずマモルの方に視線をやると――――
やたらモテモテなマモルの姿があった。マモルは、クラスメートの女子たちだけでなく、保護者である母親軍団にもなにやら取り囲まれて、鼻の下を伸ばしていた。
もやもやした気持ちは、一瞬でイライラに変わった。そして我を忘れて、マモル包囲網へ突進し、(鍛えた体術を存分に発揮して)マモルを引きずり出して、連行したのだ。
人目の無いところで怒りをぶつけるのが目的だったのだが、かえってあれこれとあらぬうわさを立てられる原因になってしまい、教室へ戻ってからの方がもっと大変になってしまった。
……思い出してみれば、トドメは自分でさしていた。
「と、とにかく! マモルはいい年してるくせに、女子中学生に、デレデレしすぎ! このロリコン! へんたい!」
「たはは。すごい言われようだねえ」
「しかも、私が怒ってるのに、上の空だと思ったら、知らない先輩をじーっと目で追ってたりして……本当節操無しなんだから!」
しかもその知らない先輩は腰まであるような長い黒髪で、それに気がついたユキは自分の髪が短いことをつい意識してしまって、それが余計に彼女の心にもやもやを増やしてしまったのだった。
※
「――それで結局、あの日からもやもやしっぱなしで、いつも、マモルにあんなに悪口を言いたくないのに、つい言っちゃって……」
あの日の事を思い出しながら説明していくうちに、その時の気持ちも思い出して、ユキはまた陰鬱な気持ちになっていく。あらかた説明したが、結局相談ではなく、愚痴になっていた。
「ふむう、なるほどね」
暗い表情のユキと裏腹に、『センパイ』はにやにやと、笑顔を浮かべながら言った。
「だいたいの事情はわかったよ。いやあ、若いってのはいいもんだねえ。くっくっく」
からかうような事を言う『センパイ』に、
「若いって、『センパイ』もそんなに年は変わらないですよね」
じとっとした目を向け、呟くユキ。しかし『センパイ』はにやにやと、
「さて、どうだったかな、ふふふ」
などと言ってはぐらかす。相変わらずの煙に巻く態度だ。
ユキとしては、それなりに真剣に話をした分、なんだかドッと疲れてしまった。
「また、ネンレイサショウですか?」
この『センパイ』、そもそもユキと出会った時には同級生だった。
正確にいえば、ユキと同じ学年の色のリボンを身に着けていた。
だからユキは初対面の時は同級生のつもりで接していた。
しかし、リボンの色はただの好みの問題で、本当はユキの先輩に当たるらしい、ということが後でわかった。
考えてみれば、同じ色のはずのリボンの色はもらったばかりのユキのに比べて、センパイのリボンは妙にくたびれたようなくすんだ色をしていて、不自然と言えば不自然だったが。
初対面からユキをだまそうとした『センパイ』も『センパイ』だが、そんな扱いを受けてもこうして部員として部活に来て『センパイ』の話を聞いている(あまつさえ恋愛相談までしている)ユキもユキだった。
とはいえ一番おかしいのは、
「名前など記号に過ぎない。他との識別以上の意味などない。だから、私のことは『先輩』とでも呼びたまえ、ユキちゃん」
などとのたまった『センパイ』であるのは間違いない。
「詐称だなんて、人聞きの悪い。それこそ些少なことじゃないか。気にすることはないよ、くっくっく。さてそれより本題だ。ちょいと聞くがね、ユキちゃん」
言葉遊びで流して、『センパイ』はちょいと首を傾げて、言った。
「君はその何某マモルとやらと、いったいどうなりたいんだい?」
「え……?」
その問いに、ユキは完全に虚をつかれた。考えたことも無い問いだった。
(マモルと、どうなりたいって……)
ずっと一緒にいたい? 恋人になって、一緒に暮らしたり、一緒にご飯を食べたり……?
そこまで考えて、気がついてしまう。今だって、ほとんど一緒に暮らしているのだ。
いったい、これ以上どうしたらいいんだろうか。
悩み始めたユキに、『センパイ』は苦笑のように口の端を上げ、
「どうやら、特に答えはないようだね。だったら、私からはなにも言うことはないよ。ごちそうさまとだけ言わせてもらおうかな? ふふふ、まあ、もしなにか答えを思いついたら、また言ってごらん。どんな願いであれ、手伝ってやらんこともない。『部活』に来てもらっている礼の代わりだ。ま、気が向けば、だけどね」
とやはりいつものにやにや笑いでそう言ったのだった。
※
彼女は、今さらながら激しく後悔していた。
夜の校舎。
どこまでも静まり返った廊下に、自分の足音だけがこだましている。
窓の外は黒。
真夜中で、月は出ていたはずだが、山側に位置する廊下側の窓は、その山に遮られて月どころか星空も見えない。
明かりらしい明かりと言えば、点々とともる非常出口の頼りなく不気味な緑色と、警報器の小さな赤色だけだった。
なぜ彼女がこんな時間にこんなところにいるかというと、端的に言えば忘れ物を取りに来たのだった。
連休を前に調子に乗った教師たちが示し合わせたように大量の宿題を提示してきた。
それだけでもうんざりするのに、中でも特にうるさい理科教師が出した宿題プリントをうっかり自分の席に忘れてきたことに気がついた時は頭をかきむしりたくなった。
しかも気がついたのは、自宅へ帰りつこうかというようなタイミングだった。
迷った末に、連休をほんの数時間でも潰したくない、というごく当たり前の希望によって、その場で学校へ引き返したのだった。
季節柄もあるが、今の時間は本当に真っ暗だった。
すぐに戻ったと言っても、バスも電車の便も少なく、結局夜中と言って差し支えの無いような時間になってしまっている。
帰りに関して少なからぬ不安が残るが、かといってそれで何もせずに帰ったのでは、それこそ元も子もない。
だから今はとりあえず、忘れ物を手に入れることだけを考えて、こうして校門の前に立っているのだった。
校門は閉じられていたが、田舎の学校ゆえのかなしさか、校門のわきには通り抜けるには十分すぎる隙間があることは、誰もが知っている事実だった。
こっそりと忍び込んだ彼女は昼間と違って耳が痛くなるほどの静寂が支配する異空間じみたこの校舎へと潜り込むことができた。できてしまった。――施錠されているはずの校舎への侵入もまた、先輩から聞いて覚えていた、鍵の壊れた窓から難なく成功した。
黙々と歩を進める。
脚の底から這い上る冷気は、奇妙に寒々としていて、体を芯から凍らせようとしているようだった。
最近、夜は冷えるが、今日は特に寒かった。
ひたひたと、上靴を履かないままの足がリノリウムの廊下を歩く足音が静寂の中響く。
自分の足音なのに、悪寒じみた不安が背中を這う。
自分のもののはずの足音が、むしろ追い掛けているような――
(そういえば……)
ふと、頭をよぎるものがあった。それが気になって、足も止まる。そこに、
――ひたり、
――ひたり、
全身が総毛立った。
ありえない、そういう思考が頭を占める。
自分のあとから足音が――ついてくる。自分の歩くスピードとは……断じて、違う。
そんなばかな、と強く思おうとするが、うまくいかない。むしろ、耳の痛いほどの静寂に、喉も鳴らせない。いや、そもそもその静寂のおかしさに気がついた。気がついてしまった。
(いくら夜中だって言っても、いくら田舎だって言っても……なんでこんなに静かなの?!)
見回りの教師、用務員の点検、もっと単純に不審者、色々な単語が浮かぶが、それらのどれかを確かめる勇気がどうしても湧かなかった。
振り返るだけでいい、それなのに、どうしても振り返ることができない。
振り返ってしまったら、どうなるのか。誰かがいるなら、むしろそれでいい。だが、
(だれもいなかったら。……うぅん、だれも、見えなかったら?)
本当の無音。遠くを通っているはずの電車や車の音も、風の音も虫の音も、何も聞こえない、耳鳴りの様な、頭痛の様な、静寂の中で、彼女は立ちすくんでいた。
(学校の、怪談――学校の七不思議)
―― 一ツ、廊下を夜一人で歩いてはいけない。友達が来たと思った幽霊に、懐かれてしまうから。幽霊は、はじめは、ただついてくる。幽霊の姿は、誰にも、見えない。だから誰にも気づかれない。けれどもしも万一気がついてしまったら……
考えてはいけない、そう思うことでむしろ考えがそっちへ向いてしまう悪循環に、自分がはまっていることに気がついていても、抜け出ることはできない。
ただ瞬きも忘れて、自分の目の前、無限の暗闇の先に消える廊下の向こうを、じっと見ていた。視線を動かしたら終わりだ、となぜか強く感じながら。
鼻の頭に汗がぷつぷつと吹き出しはじめる。
今すぐに逃げ出したい、一歩でも動いてはいけない。相反する本能に視界がぼやけるほどの焦燥を感じていた。
そして、そんな極限の葛藤の中、研ぎ澄まされた聴覚が、こんどこそ、それを聞いた。
――ひたり、
(―――――ッ!!!!!)
彼女は、とうとう振り返った――
――そこには、真っ白に血の気の抜けた脚が、制服のスカートを穿いた、下半身だけのナニカが――
※
そして、第二の怪談へ……。
よろしければ、続きもまたご覧ください。