プロローグ
くらま先生のご指摘に感謝いたします。これを機にリサーチ能力の向上を心がけます
1944年8月15日。大日本帝国とアメリカ合衆国は2年半に渡る太平洋戦争を一時的な停戦をする事を決定した。むろん、日米両陣営ともに多大な犠牲を払っている事もあって軍や国民の一部からは反発があったもののスウェーデンの仲介で何とか停戦に至ったのである。
「一体、俺は何の為に俺は戦ったんだろう…………」
陸奥の後部甲板に設置された臨時の喫煙所で向こう側に停泊する陸奥の姉妹艦である長門を見詰めつつ砲術長と副長を兼務し、もうすぐ大佐に進級予定の中佐である俺、川南雄一は呟いた。すると5期下で、滞米時代からの付き合いである機関長で、中佐への進級が迫っている山北洋一少佐が「それは私にもわかりません」と続く。
横須賀の港内では長門や鞍馬をはじめとした何隻もの鋼鉄の巨龍たちが停泊し、傷付いたその体をドックで癒す時をまっていた。無論、それは横須賀だけではなく一大鎮守府で横須賀同様に優れた修理施設を有する佐世保、呉、そして国策企業である帝国重工の長崎造船所の前でも見られる光景であった。
俺はたばこを吸い終えると、すぐに艦橋最上部の砲術指揮所へ向かう。
停泊中でもいつも行う観測訓練の指揮をする為だ。
とは言え来週にはもう俺は陸奥にいない。日米和平交渉の為にシドニーへ向かう軍・政府高官からなる交渉団を乗せた帝国商船の貨客船鹿島丸を護衛する特別護衛艦隊の旗艦(司令 三好輝義少将)として指定された重巡洋艦鳥海の艦長に栄転する事になったからだ。
それはそうと俺は軍縮が唱えられている1923年に兵学校を主席卒業してから神通、伊勢、青葉などで勤務し、1936年に海軍大学を甲種で卒業してから赤レンガ出向、同年夏から半年に渡る米国出張、翌年1月に帰国してからレポートをまとめ、様々な艦での勤務で実戦の感覚を取り戻す為に副砲術長や砲術長として勤務し、砲術長の一人として陸奥に着任したあの日のことを思い出した。
そして陸奥の副砲術長として勤務してから5年後、1941年の11月、思いもしない形で俺はこの船に戻ってきたのである。そう、それこそ砲術長兼副長であった…………
川南大佐の経歴
1900年北海道函館市出身、1921年江田島卒(先行 砲術)、練習巡出雲乗組→1923年戦艦比叡乗組→1924年山城乗組→1925年1月軽巡鬼怒乗組→1926年海軍省出向、1927年横須賀鎮守府付→1928年空母赤城乗組→1930年駆逐艦吹雪乗組、1931年重巡那智乗組、1932年呉鎮守府付→1933年海軍省政務局→1934年海大入→1936年海大卒→1937年渡米(日本大使館付武官補)→1938年2月に帰国後、砲術学校教官兼戦艦”陸奥”第1砲塔砲台長→9月駆逐艦”吹雪”副砲術長、11月演習中に砲術長事故死に伴い同代理→1938年6月駆逐艦”時雨”砲術長→1939年5月”鬼怒”砲術長・”夕張”にて横浜への入港時に発生した短艇事故で砲術長(1期先輩)事故死した事により同艦砲術長も兼任→7月”鬼怒”砲術長解任、正式に夕張に移動→11月駆逐艦”霞”副長→1939年5月駆逐艦”若葉”艦長→1940年5月重巡”愛宕”副長兼砲術長→1941年4月戦艦山城副長兼砲術長→8月諸事情により陸奥副長及び砲術長兼務へ→11月陸奥へ移動→1944年8月鳥海艦長兼シドニー和平交渉団輸送船団護衛艦隊(通称 三好艦隊)参謀長→1944年11月帝国海軍第一遣欧艦隊旗艦・戦艦紀伊艦長(2代目)→4月欧州着。7月独海軍との最初で最後の海戦に参加。翌年1月に帰国→終戦に伴い予備役編入
皇紀2600年記念観艦式には愛宕副長として参加している