第九話
焦るあまりに何度も足を縺れさせ、転びそうになりながら俺は、何とか館がすぐ近くに見える場所まで辿り着いた。
館の周りには数人の若者。皆一様に不快感を感じさせる、嫌らしい下卑た笑みで今やすっかり全体に火の手が回った館を見つめている。
「おい!」
「うわっ! ……何だ、お前は?」
そのうち一人の肩に掴みかかり、こちらを向かせる。にきび面のその男は、誰かに声を掛けられるなどと思ってもみなかったのか驚いたような顔で俺を見た。
「お前達、一体何をした! 答えろ!」
胸で喧しいほどに鳴り響く心音に被せるように、大声で男に詰め寄る。すると男はまたさっきまでの嫌な笑いを顔に張り付け、吐き捨てるように言った。
「何をした? はっ……ただの化け物退治さ。この街を脅かす化け物を、俺達の手で退治してやったのさ!」
「何だと……!?」
「あんな小娘の姿で俺達を油断させようとしやがって。だがもう、生きてはいないだろうよ!」
「……!」
もう一度、炎に包まれる館を見る。シャルロット。シャルロットは今もあの中に……。
「……くっ!」
「!? お前、どこに行く!」
それ以上、男達と話す事など何もなかった。俺は男を解放すると、ただ、感情に突き動かされるままに館を取り巻く炎の中へと飛び込んでいた。
開いたままの玄関の扉から、熱気の渦巻く館内へと入る。埃の目立ったものの上等だった廊下の絨毯はすっかり黒く縮れ上がり、外の男達が暴れたのだろう、炎の中に見える壁や扉は所々破壊の痕が目立った。
「どこだ……どこにいるんだ、シャルロット!」
立ち込める煙に視界と呼吸を遮られながら、声を限りにシャルロットの名を呼ぶ。しかしその声は炎に掻き消されるばかりで、何の反応も帰ってはこない。
「闇雲に探すだけじゃ駄目だ……シャルロットのいそうな所……考えろ……!」
必死でこれまでの二週間に思いを巡らす。彼女の行動、彼女の言葉、そのどこかに彼女を探すヒントがあるなら……。
「……!」
その時、不意にある記憶が蘇った。シャルロットは確か、あの日……。
「……迷ってる暇はない……!」
心に浮かんだその場所に、俺は全速力で駆けていく。祈りにも似た想いを胸に抱き、時に荒れ狂う炎を掻い潜りながら、ひたすらに前へと進み続ける。
そして、俺は。一際炎の勢いの強いその部屋に、躊躇なく飛び込んだ。
「……! シャルロット!」
そこに、シャルロットはいた。彼女は言っていた。この館の中でこの部屋が、俺が彼女を描いて二週間を過ごしたこの部屋が一番好きなのだと。
彼女の身に纏うのは、いつも着ていた純白のワンピースによく似た真紅のワンピース。いや、それは確かにいつもの、別れの際にも身に付けていたそのワンピースで。ならば、何故色が違うのか。
その答えは彼女の胸元に在った。力なく全身を床に投げ出し横たわる彼女を貫くのは……。
――血に染まり、炎を反射しながら禍々しく光る太く無骨な木の杭。
「――っ!」
声にならない悲鳴に喉を引きつらせながら、俺は倒れるシャルロットに駆け寄る。間近に見た、白く華奢な体に突き刺さる大きな杭の痛々しさに思わず目を背けたくなる衝動に駆られる。
だが、それは許されない。これは俺がもたらした結果。もし俺がシャルロットをここから連れ出す勇気をあの時持っていたなら、こんな事にはならなかったかもしれないのだ。
震える手で、血の気を失ったシャルロットの唇に触れる。暗い紫に変色したこの唇は、あんなにも鮮やかな薔薇のような赤だったのに。
「……う……」
「!」
その時だった。唇から漏れた微かな呻き声が、俺の耳に届いたのは。
急いで耳を口元に近付ける。聞こえるのは、弱々しいが確かに響く呼吸音。
シャルロットは――まだ生きている!
「シャルロット! しっかりしろ、シャルロット!」
シャルロットの名を呼び、反応を窺いながら俺は胸の杭に手をかける。深く体に食い込んだその杭をしっかりと掴むと、力を籠めて引き抜こうと引っ張った。
途中杭に纏わりつくぬめった血で指が滑り、何度も手を離しそうになりながらも諦めずにその行為を繰り返す。すると、不意にシャルロットの瞼がうっすらと開いた。
「……ろ、でぃ?」
「シャルロット……気が付いたのか!? そうだ、俺だ、ロディだ! 解るか!?」
弾ける炎の音に消え入ってしまいそうなか細い声を聞き逃すまいと、必死に耳を澄ませる。シャルロットは口を懸命に動かしながら、何かを俺に伝えようとしているようだった。
「ごめん……なさい。え……かいて、もらったの……やぶかれ、ちゃった……」
「いいんだ! 絵ならまた描いてやるから! もう少し待ってろ、今助けて……!」
指先に杭が抜けていく確かな手応えを感じながら、俺は一層力を振り絞る。しかしそんな俺の手に、シャルロットのいつもより白く、冷たい手が触れた。
「……シャルロット?」
「いいの。……いいの、ロディ」
それは弱いながらも、ハッキリとした口調だった。微かに横に振られる顔には、うっすらと涙が滲んでいる。
「これで、いいの……。もっと、もっと早く……こうなるべきだった。私が死ねば、何もかもが良くなる。……それで、私が今まで殺してきた人達に対する償いが……出来る、訳じゃない、けど」
「シャルロット……お前……まさか」
「……ロディの、おかげ。おかげで……決心が、着いたの」
血で汚れた真っ白な顔に、酷く不釣り合いな穏やかな微笑みが浮かぶのを見て愚かな俺はやっと理解した。嗚呼……シャルロットは、もしかしたら俺を生かす事を選んだその時には……もう、己の生を終わらせる事を決心していたのだ。
さっきの別れを、俺との今生の別れとし。もう誰も襲わず、傷付けず。誰かが殺しに来たならばそれに殉じて。
野に咲いた花が、知らぬ間に枯れていくように。ただ静かに、永遠の眠りに就くつもりだったのだ。
思わず、唇を噛み締める。何故、次が、いつかなんてものがあると思った。
あと少しで、俺は……一生自分の不甲斐なさを責めながら、一番大切なものを失った空虚と共に生きる事になる所だったのだ。
「……死なせない」
「ロディ……?」
無意識に呟いた一言に、シャルロットの虚ろな目が持ち上がる。それを真っ直ぐに見返しながら、俺は改めて杭を抜く手に全力を籠めた。
「お前のした事は、許されない事だったかもしれない。罰せられて当然なのかもしれない。だがお前がいなければ、俺という人間が救われる事はなかったんだ」
そうだ。今度こそはっきりと解ったんだ。俺は確かにやりたい事を見つけた、けれどそれにはまだピースが一つ欠けていた。
何よりも手放してはならないピース。手放しかけてやっとその大切さに気付いた、俺にとってなくてはならないそれは……。
「俺はお前と生きたい。お前の側で、お前を支え、お前に支えられながら。……俺の人生には、シャルロット、他の誰でもないお前が必要なんだ!」
その腹の底からの叫びと同時に、不意に手にかかる重かった手応えが消えた。急に消えた反発に、俺は思わず尻餅を突く。
咄嗟に、指が曲がったままの手の中を見る。そこには血で真っ赤に染まった、先端の尖った杭の姿があった。
「シャルロット……杭は抜けたぞ、シャルロット!」
「ロディ……ロディ、私……生きていて、いいの……?」
「当たり前だ! お前は、これからずっと、俺の側で生きろ! 俺が一生、お前の生きる理由になる!」
「あ……ぁ……」
シャルロットの瞳から、今度こそぼろぼろと涙が珠になって零れた。俺はこれまでに大分体力を消耗した体を気合いで奮い立たせ、元々軽かったのが血が抜けたせいか更に軽くなったシャルロットの体を姫抱きにして抱き上げる。
「逃げるぞ。動くなよ!」
「……うん……!」
胸の中のシャルロットが小さく、だが確かに頷いた。その答えに自然と笑みを浮かばせながら、俺はもう殆どが煙と炎に包まれた二階を駆け抜ける。
辿り着いた崩れかけの階段を一段飛ばしに降り、玄関の前へ立つ。そこまで来て、今までシャルロットを助ける事に夢中でふつりと頭から抜けていた問題が蘇ってきた。
「……駄目だ……外にはあいつらが……!」
彼らにとっては正義を成した達成感に満たされた、俺にとってはこの上なく不愉快な笑いを浮かべて館を囲む街の人間達。シャルロットをこんな目に合わせた張本人達は、今も外でこの館が完全に焼け落ちる瞬間を待っているのだろう。
そんな中に、二人でみすみす出ていけばどうなるか。ただでさえ今俺はギリギリの体力、その上瀕死のシャルロットを抱えた状態で、恐らくは力の有り余っているだろう奴らの追跡を完全に振り切れると思えるほど俺は足に自信がある訳ではなかった。
「だが、このままじゃ焼け死ぬのを待つだけだ……くそ、どうすれば……!」
煙を吸いすぎたせいか上手く働かなくなり始めた頭を必死にフル回転させる。必ず二人とも助かる方法はある筈……!
「……そうだ!」
その時ある場所が頭に浮かび、俺は廊下の向こうを振り返る。この館の中で、唯一炎の届かないであろう場所……地下室。
もうそこしかない。シャルロットにとってけして居心地のいい場所ではないだろうが……もう俺達が助かる道は、そこにしかないのだ。
「もう少し辛抱してくれよ、シャルロット……!」
最後の力を振り絞り、俺は地下室へと向けて廊下を駆ける。炎、熱、そして煙が容赦なくその雀の涙ほどの力を全て奪い去ろうと俺を襲い、ふらつく足はその残酷さに負け立ち止まってしまいそうになる。
しかし俺は立ち止まらなかった。恐らく今までの一生で一度も出した事のないほどの力をもって、足をひたすら前へ、前へと動かし続けた。
一瞬か、それとも気が遠くなりそうなほどの時間か。諦めず走り続けた俺の前に、やがて待ち望んだ鉄の扉が現れた。
「シャルロット、少しだけ降ろすぞ」
シャルロットを扉の横に降ろし、扉に手をかける。激しい熱に曝された剥き出しの鉄は、灼熱の痛みを握る手に伝える。
だが、ここで負ける訳にはいかない。あと少しなんだ。あと少しで、シャルロットを救う事が出来る……!
「……開けええええっ!」
痛みに麻痺し始めた手に、残された力の全てを籠める。すると扉はゆっくりと、その口を開いていった。
息を切らしながら扉の向こうを覗き込み、中を確認する。予想通り、地下室の中までは火の手は侵入してはいなかった。
「よし……行くぞ、シャル……」
「ロディ、逃げて!」
微かな希望を胸に抱きながら、床に寝かせたシャルロットを振り返ったその瞬間。シャルロットが白い顔を悲痛に歪ませ叫んだ。
何から、そう問い返そうと口を開く。しかし、声を出す事は叶わなかった。
俺は気付かなかった。焦るあまり、周りが見えていなかった。
何故なら。
次の瞬間には。
崩壊した天井が。
俺に
向かい
降り注ぎ
――そこで、意識が途切れた。