第八話
それから暫くは、実に穏やかな日々が続いた。
絵を描き、話をし、食事を摂り、眠る。故郷を出てからは味わった事のなかったような、充実した生活。
もしかしたら、俺はずっとこんな生活を夢見ていたのではないかと思う。成功したいという欲で、それが叶わなかった失望で、目に入らずにいたもの。
かつて、故郷にいた頃のように。描きたい絵を、自由気ままにただ描いて暮らす。
たったそれだけの事がどんなに尊いか、今なら解る。何年も何年も回り道をして、やっと辿り着いた答え。
そうだ、俺は――。
「随分、待たせてしまったな」
この館で日々を過ごし始めて二週間が経った頃。いつものようにモデルになりに部屋に来たシャルロットに、俺は笑みを浮かべて言った。
「え? それじゃあ……」
「ああ、完成だ。今日までお疲れ様」
シャルロットの宝石のような赤い瞳が、みるみる輝いていくのが解る。そんな姿が堪らなく可愛らしいと、俺は思った。
「み、見てもいい?」
「勿論だ。今日すぐにでも見せられるよう、一晩絵の具を乾かす時間を置いたんだからな」
シャルロットが三脚に掛かったままのカンバスへと、ゆっくりと歩を進める。そして恐る恐る、カンバスを手に取り表を自分に向けた。
「……これが、私……」
カンバスに描かれているのは、少女らしいフリルの付いた白いワンピースを着て優しく微笑むシャルロットの姿。絵を描いている間シャルロットは様々な表情を見せたが、その中でこの微笑みこそが最も彼女の内面を表している気がしてデッサンの時からずっと、この表情だけは変える事はなかった。
シャルロットはそんな自分の姿を、まじまじと食い入るように見つめている。鏡に姿を映せない彼女が、初めて目にした自分の姿。
「人から見たら……私、こんな風に映るんだ……そっか……これが、私の顔……私の、姿……」
やがてシャルロットが、愛おしむように指先で絵の表面をなぞった。その目は泣きそうに潤んでいるが、声色からは悲愴感は感じられない。
「ありがとう。……ありがとう、ロディ。嬉しい。本当に、嬉しい……」
「いや。……俺なんかの絵で、本当に良かったのかとは思うが」
「ううん。私はロディにだから、描いて欲しかったの。他の誰でもない、ロディに……」
「……そうか」
何度も、何度も、輪郭を確かめるように絵の中の自分をなぞる指。そこに籠められた眼差しは暖かく、見ている俺の心にも温もりを伝える。
――その姿に、俺は、やっと自分が本当に求めていた事を見つけられたような、そんな気がした。
「ねぇ……まだ、死にたい?」
不意にシャルロットが、そんな問い掛けを口にする。絵をなぞる指はそのままに、その視線はゆっくりと俺の方に移された。
俺の答えなど既に見透かしているような、静かに俺を見つめる透明な視線。それを真っ直ぐに受け止めながら、俺は首を小さく横に振った。
「いや。生きてやりたいと思える事を、見つけた」
「……そっか。それでいいと思うよ」
俺の出した答えに、花の綻ぶような嬉しそうな笑顔を浮かべるシャルロット。その表情に、この答えを彼女は本当に喜んでくれているのだと感じ取れた。
否、彼女は最初からこうなる事を望んでいたのだ。その為に俺に、猶予を与えたのだろうから。
「お前こそ、俺を殺さなくていいのか?」
そう意地悪く逆に問い掛けてやると、シャルロットが軽く唇尖らせ俺を睨んだ。そんな様子に、思わず笑みが漏れるのを隠せない。
「……ロディが信頼出来る人だって、もう十分解ってるもんっ」
「そうか。光栄だ」
軽く答えはしたが、これは本心だ。俺などをここまで信用してくれるのだ、自然とそれに応えようという気になれる。
……もっとも、元よりシャルロットの事を誰かに明かす気など毛頭なかったのではあるが。
「いつ、発つの?」
「明日の明朝。一旦大きな街まで戻って、まずはまた画材一式を買い揃えないとな」
「どんな絵を描くの?」
「色々、だな。描きたい絵を、描きたいように」
「……そっか」
次々と重ねられていく言葉。けれど一番言いたい言葉を、俺はけして口には出さなかった。
――この館を捨て、俺と共に来ないかという、その言葉を。
……血を吸わなければ生きていけない、太陽の光にも当たれない。そんなシャルロットが、ここを出て人の世界で暮らしていくなど厳しいだろう。
ましてや俺が選んだ道は、絵を描き続けるという安定した生活とは程遠いもの。シャルロットはおろか、自分一人ですら養えるかどうか怪しい。
彼女を孤独の牢獄から解放したい思いは確かにある。だが、その先にあるものが更なる不幸だったとしたら……。
……その言葉を口にする事は、どうしても、どうしても出来なかった。
「ずっと絵を描き通しで疲れたでしょ。今日はゆっくりと羽を伸ばして、明日の出発に備えて」
「……そう、だな」
俺の葛藤に、気付いているのかいないのか。シャルロットはそう言うと、肖像画と同じ、いつも通りの優しい笑みを浮かべた。
今は考えるまい。けれどいつか、誰かを養い暮らしていける目処が立てばその時は……。
そんな想いを内に秘めながら。俺はただ、シャルロットの姿を目に焼き付けるようにジッと彼女を見つめ続けた。
いつものように食事を摂り、いつものように眠り……出発の朝は、あまりにもあっという間にやってきた。
夜のうちに済ませておいた身支度に、たった二週間身に付けなかっただけなのにとても懐かしく感じる外套を纏い部屋を出る。まだ陽の昇りきっていない、薄暗い廊下に敷かれた絨毯を、俺は踏み締めるように歩いていった。
階段を降り、玄関の前まで来るとそこには人影があった。……一番会いたくて、そして、一番会いたくなかった人物。
「……シャルロット」
「見送り……しに来た」
「……ああ」
自然と少なくなる言葉。俺はシャルロットの顔をなるべく見ないようにして、早朝の空気に冷えた扉に手をかけた。
「また……来るから」
「うん」
「街の人間が何かしに来ても、負けるなよ」
「大丈夫。この瞳があるから」
「……」
「さよなら。ロディ」
俺の背中を押すような、シャルロットの声。俺は後ろ髪を強く引かれながらも、振り返らずに……扉を、開けた。
朝焼けの澄んだ空が、俺を出迎える。遠くの山にはまだ雪が残り、陽の光を反射して仄かにオレンジ色に光っていた。
これが、俺の世界。今まで、そしてこれからも……俺が生きていく、世界。
乾いた地面に一歩を踏み出す。薄い靴底の裏に感じる固い感触が、今は酷く冷たいものに思えた。
「……さよなら」
もう一度、重ねるように耳に響くシャルロットの声。離れたくない。抱き締めたい。しかし……。
結局その別れの言葉に、何か言葉を返す事は出来なかった。そして、迷いを振り切るように、俺は足をひたすらに前へと動かしたのだった。
どれくらい無言で足を進めたろうか。俺はふと、その場に立ち止まった。
完全に顔を出した太陽の照らす空は透明感のある薄水色で。その中を、白く早い雲が流れていく。
……振り返ってしまおうか。考えないようにしていた、そんな思考が頭をよぎる。
これだけ離れてしまえばもう、簡単に後戻りなど出来ないのだから。最後に一目あの館の、シャルロットがこれからも暮らしていく場所の姿を目に焼き付けておこうか。
女々しいのは解っている。だが、理性では割り切れても感情まで割り切る事は出来ない。
振り返らない事は、俺自身の為でもあるのだろう。このまままた歩き出すのが、きっと正しいのだろう。
しかし俺は、誘惑に、未練に勝てるような高潔な人物ではなく。弱くて脆い、ただの人間で。
だから、振り返ってしまった。今来た方向を。躊躇いながら。そして――。
直後、俺はこの選択に、自分の弱さに生涯感謝する事になる。
薄水色の空に、どす黒い煙が立ち上っていた。それが何であるのか理解するのに、暫くの時間を有した。
眼前に広がるのは今、後にしたばかりの街の全景。そして、そこから少し離れた場所にある館。
煙は、その館から立ち上っていた。もくもくと量を増していく黒煙の隙間から覗くのは、オレンジ色の揺らぎ……。
弾かれるように俺は駆け出し、来た道を引き返していた。頭を巡るのは、いつか聞いた街の人間達の会話。
まさかあいつらが。しかしシャルロットには人の動きを封じる力がある筈。だから大丈夫だとさっきも言っていたのに。
とりとめのない考えが、ぐるぐると脳裏に渦巻く。纏まらない思考。その中で確かなのは、早くシャルロットの元へ戻らなければという焦燥感だけだった。
そうして俺は、燃え盛る館目指して丘をがむしゃらに、全速力で駆け下りていった。