第七話
迎えた朝の空は、雲がまだ多いものの雨は既に止み、雨上がりの湿った空気に覆われていた。シャルロットは頭をすっぽりと覆う飾り気のない皮製の厚いフードを被り、同じく厚い皮で出来たローブを身に纏うと俺の方を振り返る。
「私の後ろにちゃんと着いてきてね。行き着けのお店、少し入り組んだ場所にあるから」
「ああ。……何なら、迷子にならないように手でも繋ぐか?」
「なっ……か、からかわないでっ!」
冗談のつもりでそう提案すると、シャルロットは顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。いけないとは思いつつ、その素直な反応に笑みが零れるのを隠せない。
シャルロットへの接し方も、最初よりは随分慣れたような気がする。まだ意図しない失言をしてしまう事はあるが、こう言えばこう返ってくるのだろう、という事は何となく想像出来るようになってきた。
「悪かった。だが、手は繋がないまでも歩くのは後ろよりも隣の方がいいと思うんだが。その方が監視にもなるだろう」
「それは……そうだけど」
しかし俺がそう言うと、シャルロットは言葉を切り口ごもった。俺は黙って、シャルロットの次の言葉を待つ。
「……あんまり私の近くにいると、ロディまで変な目で見られるよ? 私……ただでさえ目立つし」
やがて躊躇いがちに、少しだけ視線を戻し口を開くシャルロット。そんな彼女に、俺は小さく苦笑しながら答えた。
「そんな事か。俺は元々余所者だ、いくら見た目が前より小綺麗になった所で色眼鏡で見られるのは変わらないさ。今更気になどなるものか」
「でも……」
「それに、俺がシャルロットの隣を歩きたいと、そう思った。嫌か?」
降りる沈黙。俺はシャルロットを見つめ、ただジッとその反応を窺う。
「……嫌、じゃ、ない」
「決まりだな」
僅かに見える顔を赤く染めながら首を小さく横に振ったシャルロットの、その隣に並ぶ。そして玄関の扉に手をかけ、ゆっくりと開いた。
湿気を含んだ冷たい空気が、途端に体にまとわりつく。俺達はそれを振り払うように、外へと足を踏み出した。
久しぶりに歩いた街はまだ朝早いせいか人通りも少なく、寂しさが目に付く。その中ですれ違う何人かが俺達にジロジロと好意的とは取れない視線を向けたが、なるべく気にしないように努めた。
大通りを歩き、いつか寝床にしようとした橋を渡った所でシャルロットが路地へと足を向けた。それに着いて、俺も細く入り組んだ道を進んでいく。
そうして、何度角を曲がっていっただろうか。やがて目の前に、軒下に木彫りの看板を吊るした小さな店が現れた。
「ここだよ」
シャルロットがそう言って閉じた木の扉を開ける。続いて中に入ると禿頭に長い白髭を蓄え、腰の曲がった店の主人らしき老人がこちらを見た。
「おや嬢ちゃん、久しぶりだね。今日は一人じゃあないのかい?」
「うん、その……都会に出稼ぎに出てたお兄ちゃんが、帰ってきたの」
「そうかい。それは良かった」
いかにも好好爺、という笑顔を皺だらけの顔に浮かべて大きく頷く老人。それはこの街で初めて目にする、敵意の全くない反応だった。
「今日はお兄ちゃんがいるから、いつもよりいっぱい食料買ってくね?」
「ほほ、ありがとうよ。こんな辛気臭い爺の店を贔屓にしてくれるのは嬢ちゃんくらいのもんじゃて」
朗らかに会話を交わし、店内の物色を始めるシャルロット。その様子を微笑ましく眺めていると、老人が俺の隣へとやってきた。
「あんた……この街のもんじゃないの」
「!」
放たれた言葉に、俺の顔が強張る。しかしそんな俺に、老人は変わらぬ柔和な笑みを返した。
「警戒せんでええ。儂は他の街のもんのように、余所者だからと差別する事はせんよ。儂はもうろくに目も見えんが、雰囲気であんたが悪人でない事も、あの子があんたに本当に心を許している事も解る」
「…………」
言われて老人の目をよく見ると、黒目はもう元の色が解らないほど白く濁り視線も定まってはいなかった。しかしそれを見て不気味だとは、不思議と思わなかった。
「……あの子が誰かを連れて店に来るなど、初めての事じゃ。儂はいつも知らぬふりを通しているが、あの子が日の当たる場所で生きているもんじゃないっちゅうのはな、何となく解るんよ。それでも儂の前ではいつも明るく振る舞っとる。暗い部分を決して見せまいとな」
気が付くと俺は、老人の話に聞き入っていた。初めて人から聞くシャルロットの話は、俺の興味を強く惹いた。
「じゃが、今日のあの子は本当に、心から楽しそうじゃ。きっと、あんたといるのが嬉しいんじゃろうて。あんたとあの子の関係を、儂は聞かん。ただ、これだけは言わせておくれ」
そこまで言うと、老人の濁った白い目が俺を射抜いた……気がした。そして、真剣な面持ちで告げた。
「あの子を傷付けるような事だけは、どうかしないでおくれ。あの子は、娘を早くに亡くした儂にとって、娘の生まれ変わりのような子なんじゃ」
「……ああ。尽力する」
老人の言葉に、俺は頷く。心からの言葉だった。せめて側にいる間だけでも、シャルロットの心を守りたかった。
自分が吸血鬼だという事を例え、ほんの僅かな間でも忘れていられる、そんな日々を過ごさせてやりたかった。
「ロ……お兄ちゃん、おじいちゃんと何のお話してるの?」
そんな事を思っていると、シャルロットがこちらに気付き顔を向けた。俺はシャルロットに視線を移し、小さく笑う。
「シャルロットの事をな、色々聞いていた」
「え、どんな?」
「……秘密だ」
「ちょ、変な事じゃないよね!?」
「大した事じゃない、気にするな」
「気にするよ!」
焦るシャルロットの声を背にしながら、素知らぬふりで俺は店内をうろつきだす。……そんな些細なやり取りが楽しいと、心底思った。
ずっと、こうしていられたら……そんな事すら頭に浮かぶ。こんな気持ちになったのは、果たしてどれくらいぶりの事だろうか。
「そういえば、菓子もあるんだな。買わないのか?」
不意に、棚の隅に置かれているクッキーに気付いてシャルロットを振り返る。するとシャルロットは一瞬びくりと方を震わせ、大きく首を横に振った。
「あ、甘い物、あんまり好きじゃないからっ」
確かに、シャルロットが菓子の類を口にしている所は一度も見た事がない。が、彼女がこういう反応を取る時は何かを誤魔化している時だ。
「……金か?」
近付いて、シャルロットにだけ聞こえるように耳元で囁く。シャルロットは少し迷った素振りを見せたが、やがて小さく頷いた。
「主人、このクッキーはいくらだ?」
「それかい? 三枚で銅貨二枚だの」
「銅貨二枚か。よし、六枚くれ」
「ロディ!?」
シャルロットが、びっくりした顔で俺を見る。そんなシャルロットの頭を優しく撫で、俺は言った。
「大丈夫だ。代金は俺が払う。……買って、やりたいんだ」
「……でも」
「日頃世話になっている、ささやかなお礼だ。受け取ってくれ」
「…………」
老人がクッキーを布で包み、俺に差し出す。俺は持ってきていた財布から銅貨四枚を取り出し、代わりに老人に渡した。
「良かったの、嬢ちゃん」
「……うん」
俯いた、フードに隠れた顔からはシャルロットの表情は解らない。ただ微かに震えた声が、彼女の揺れる感情を現している気がした。
「さ、早く残りの買い物を済ませるとしようか」
「……ロディ」
そう促すと、不意にシャルロットがそわそわとした様子で俺の名を呼んだ。俺はシャルロットから目を離さずに、次の言葉を待つ。
一瞬とも、永遠とも取れる時間が流れる。そしてシャルロットが顔を上げようとした、その時。
「邪魔するよ、ベン爺さん」
突然入口の扉が開いたかと思うと、体格のいい、焦茶の髪を短く刈り上げた大柄の男が店内に入ってきた。男は無遠慮な様子で大股に店を歩き回ると、冷たい印象を与える三白眼をジロリとこちらの方に向ける。
「……見ない顔だな。俺はこれから、この爺さんと大事な話をするんだ。さっさと買うモン買って出ていきな」
「待て。お前さんの都合で、儂の商売の邪魔はして欲しくないものだの。それにどうせ、お前さんの話とはあの例の話じゃろう。人に聞かれた所で何の害にもなるまいて」
「…………」
先程までとは一転、緊迫した空気が辺りを包む。男は苛々した様子で俺達と老人を見比べていたが、やがて渋々と話を始めた。
「……街の年寄衆で、あと賛成していないのは爺さん、あんただけなんだ。反対する理由なんて、何もない筈だろう?」
「…………」
「このしけた辺境の街に、活気を呼ぶチャンスなんだ。いつまでつまらない過去に拘り続けるつもりだ」
「……あの館には、手出しをするな」
「!」
老人の言葉に、シャルロットの肩が微かに震える。館……この街でそれは、シャルロットの館を置いて他にない。
「年寄衆は皆そう言う。だがあんた以外は、最後には皆俺達に賛成してくれたんだ。あの館を潰して、空いた土地に新しく工場を立てる計画に」
「…………!」
思わず、目を見開いた。館を、潰す? もしそうなれば、シャルロットはどうなる?
他の住処を探す? どうやって? 都合良く住み着けるような場所が、そんなに簡単にあると言うのか?
「墓……なんじゃよ」
やがて老人が、弱い調子でぽつりと呟いた。皺だらけの顔に、より一層深い皺が刻まれる。
「娘はあの館に連れ去られ、そして、二度と帰ってこなかった。じゃから、儂にとってあの館は娘の墓標なんじゃ。裕福になど、ならんでええ。細々とでも、穏やかに暮らしていければ儂は十分なんじゃ」
「あんたの感傷で、街の人間に貧しい暮らしを強いるのか。この街には売りに出来るものは何もない。麦や豆の収穫高も年々減ってきている。このままではやっていけなくなるぞ」
男の目が、ますます苛立たしそうにつり上がる。言い方こそ突き放すようだが、男の言い分はある意味で正しい。俺がもしこの街の人間なら、迷う事なく男に賛同を示すだろう。
しかし、シャルロット……あの館に暮らす彼女の事を思えば、それがいい話なのだとは思えなかった。……そんな事を、彼らが知る訳もないのだが。
「……時間をくれ」
少しの沈黙の後、悲しげに老人が呟く。男はその言葉にふん、と鼻を鳴らすと、腕組みをして言った。
「なるべく早く頼むぜ。こんなへんぴな土地に目を付けてくれた、お優しい工場主様の気が変わらないうちにな」
「……………………」
言葉を返さない老人を最後に一瞥し、男は店を出ていった。気まずい空気と共に、辺りに沈黙が流れる。
「……すまなんだの。変な話を聞かせて」
「いや……構わない」
「儂は少し奥で休む。他に買う物が決まったら、呼んでおくれ」
力なくそう言い、背を向ける老人。その背にかける言葉を、俺は持たなかった。
そしてシャルロットもまた、それから店を出るまで、一言も俺に話し掛ける事はなかった。
「……初めてロディと会った日、盗賊の話をしたよね」
店を出て、人通りの増え始めた大通りを館に向けてあるいていると不意にシャルロットが口を開いた。
「ああ。そんな話をしたな」
「あれは半分本当で、半分嘘。盗賊は確かにいて、この街を荒らした。けど、それをやらせていたのは……」
そこでシャルロットが言葉を切る。……その先は、言わずとも想像が付いた。
「あのお爺さんの娘は……私の餌になって、死んだ。それだけじゃない。この街に住んでいた沢山の人達を、私は犠牲にした。その盗賊達も、私の存在が明るみになる前に口封じに殺した。……私は、間違いなく、身も心も魔物そのもの」
足を止める事なく、顔を見せる事なくシャルロットが言葉を紡ぐ。俺はただ、黙ってそれを聞いていた。
「それも、ただ殺すだけで終わりじゃないの。今までうちに迎えた旅の人やロディに出してた食事代……どこから出てると思う?」
俺は答えなかった。答えが解らなかった訳ではない。解っていて、あえて口にしなかった。
今は、シャルロットが話すのに任せよう……そんな事を、思った。
「……私は、最低。自分の殺した人の持っていたお金を使って、また人を呼んで、殺して……。ロディに食べさせているのは……そんな汚いお金で買った、食事なの」
次第に遅くなる足。隣にあったシャルロットの体は今は半歩後ろに下がり、今にも止まってしまいそうだ。
「ごめんなさい……ロディ、皆、ごめんなさい……」
「……」
遂には涙声になったシャルロットの手を、俺は黙ったまま握った。そして、その手を強引に引っ張るようにして大股に歩き出す。
「……ロディ?」
「……」
不安げな声を上げながらも、シャルロットは大人しく俺に着いてくる。そして大通りを抜け、街の入り口を抜け……館の中まで戻ってきた所で、俺はやっと足を止めた。
「怒った? 失望した? ……ロディ……」
ゆっくりとシャルロットに向き直れば、その顔は怯えたように歪んでいた。そんな彼女を……俺はいつかのように、強く胸元に抱き寄せた。
「!?」
「……自分のした事に苦しむのは、お前に心があるからだ」
シャルロットの小柄な体が、腕の中で震える。俺はその震えすら包み込むよう、抱き締める力を強めた。
「お前が本当に心無き魔物なら、俺は今こうして生きていない。こんな風に、お前を抱き締める事なんてなかった」
「……」
「お前は……お前は俺達と同じだよ。ただ、体の作りが普通と少しだけ違う、それだけだ」
俺がそう言った時、シャルロットは果たしてどんな顔をしただろう。胸元に抱き寄せている今の態勢では、窺い知る事は出来ない。
シャルロットは暫くの間、腕の中で微動だにしなかった。どのくらいそうしていただろうか、やがてシャルロットのか細い声が聞こえた。
「……もし、ロディの大切な人……家族や、友達が私に殺されていても、同じ事が言えた?」
「……シャル……」
「ごめん……今日は……一人にして。……クッキー、嬉しかった……」
そう言うとシャルロットは俺の体を押し退け、そのまま走っていってしまった。俺はその背に反射的に手を伸ばしたが、寸での所で彼女を掴まえる事は出来なかった。
「俺は……誰も救えないのか。あいつも……シャルロットも……」
虚空に思わず呟いたその言葉に、辺りの空気が更に冷えた気がした。