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還らずの館  作者: 由希
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第六話

 パレットの上に出した、色とりどりの絵の具に筆を付ける。そのまま今度はカンバスに筆を滑らせると、まだまだ白い部分の多いそこに新しい色彩が増えた。


「んー……」


 目の前のシャルロットは、小さく唸りながら体を動かしたいのを我慢しているようだ。絵を描いている間だけとは言え、流石に同じ態勢が三日も続けばいかに我慢強いシャルロットと言えど堪えるのだろう。


「……そろそろ、少し休むか」


 筆を置き、シャルロットにそう告げる。するとシャルロットは大きく息を吐きながら体を弛緩させた。


「つ、疲れる……絵のモデルってこんなに大変なんだぁ……」

「疲れたなら、そう思った時に正直に言っていいんだぞ? 初日にも言っただろう」

「うん……でも、早く完成した絵が見たいから」


 気遣いの言葉をかける俺に、シャルロットは眉を下げ笑う。そして立ち上がると、大きく背を伸ばした。


「ついでにお昼にしよっか。パン、焼いてくるね」

「手伝うか?」

「駄ぁー目。ロディのお世話は私の役目!」


 そう言って、シャルロットは部屋を出ていった。その言葉に苦笑しながら、俺は描きかけの肖像画に視線を移す。


「……早く完成した絵が見たい、か……」


 そんな期待を寄せられたのは、一体どれぐらいぶりだろう。何だか、とてもとても遠い過去の事のような気がする。

 この館でシャルロットと寝食を共にするようになって、今日で四日目になろうとしている。こんなに一つの場所に留まったのは、旅に出てから実に初めての事だ。

 ふと、ここに初めて泊まった夜以来酒を飲みたい衝動が湧かない事に気付く。ここに酒がないからかと考えもしたが、思い返せば酒を我慢した記憶すらなかった。

 ……そういえば、俺はいつから定期的に酒を欲するようになっていたのだろう。俺はどちらかと言えば、あまり酒を飲まない方だった筈だ。酒がなければ駄目だったのは、寧ろあいつの……。


「逃げて……いたのか。俺も。あいつも」


 酷い金貸しに借金までして、毎日のように賭け事をしては飲んだくれていた死んだ親友の姿を思い出す。あの頃は共に描いた夢も忘れろくに絵も描かなくなり、ただただ酒と博打に溺れていったあいつを軽く軽蔑すらしていたが……今ならあいつの気持ちも、少し解るような気がする。

 あいつは俺よりも早く、とっくに絶望していたのだ。自分の才能に。自分の人生に。自分の、総てに。

 だから、それから逃げたくて、手っ取り早く忘れられる手段を探して……辿り着いたのが、酒と博打だった。

 俺は博打にこそ手は出さなかったが、あの頃のあいつは四日前までの俺と同じ心境で生きていたのだろうか。誰にも理解されない、孤独と絶望の中で。

 もしも、あいつにも誰かがいれば。純粋に俺の絵を楽しみにしてくれるシャルロットのような存在がいれば。結末は、少しは違ったのだろうか。


「あいつを殺したのは、酒でも博打でもましてや借金でもない。……俺達、周りの人間だったのかもしれないな」


 あいつの一番近くにいたのは、同じ夢を持っていた俺だった筈なのに。俺はあいつを、あいつの孤独を全く理解しようとはしなかった。

 ……お笑いだ。何が……親友だ。

 今更、気が付くなんて。同じ所まで堕ちてそこから這い上がる機会を得て、そこまでしなければ気付けなかったなんて。

 あいつには……誰にも出会えなかったあいつには、這い上がる機会などなかったと言うのに。


「……ロディ?」


 不意に聞こえた声に、ゆっくりと意識を現実に戻す。前方に視線を向けると、シャルロットが心配そうな表情で俺の顔を覗き込んでいた。


「あ……ああ。シャルロット、いつからそこに?」

「パンが焼けたから呼びに来たの。でもノックして声をかけても返事がなくて……ロディ、凄く難しい顔してた」


 真っ直ぐに俺を見るシャルロットに、申し訳ない気分になる。……彼女に心配をかけたい訳じゃないのに。


「少し……昔の事を思い出していた。それだけだ」

「本当に?」

「ああ」


 小さく笑みを作って頷くと、シャルロットは何かを考えるように俯いてしまった。そして、少し経った後に顔を上げ口を開く。


「……絵、描くの、辛い?」

「!」


 思いがけないその言葉に、思わず顔が強張る。辛い? ……絵を、描くのが?


「い、いや、そんな事は……」

「私が無理に絵を描かせているから、ロディが昔の辛い事を思い出すのかなって。もしそうなら……私……」

「違う!」


 自分の方こそ辛そうに顔を歪めるシャルロットを見て、気が付くと俺は大声を張り上げていた。自分で上げた声に驚く俺に、シャルロットもまた驚いた表情を向ける。


「……確かに、昔の事を思い出せば胸は痛む。けれど、この痛みはきっと、俺が前に進む為に必要なものだ」

「必要な、痛み?」

「ああ。……きっと、向かい合う時が来たんだ。ずっと目を逸らし続けていたものに」


 無意識に、胸に手を当てる。そうだ。これは、これからを生きるのにきっと必要な事。

 シャルロットとの出会いが与えてくれた、多分最初で最後のチャンス。もし今この時が在る事が運命だと言うのなら……俺はまさに、人生の分岐点に立っているのだ。

 今まで通り、見たくないものから目を背け屍のような一生を送るか。それとも……。


「ありがとう、シャルロット」

「え?」


 自然と口を突いて出た言葉に、シャルロットが目を丸くする。その頭を俺はそっと、優しく撫でた。


「まだ、死にたい気持ちが完全に消えた訳じゃない。けど、シャルロットがあの時俺を生かしてくれたおかげで……気付けそうな気がするんだ。今まで気付かなかった、忘れていた、色々な事に」

「それは……ロディにとって、良い事?」

「多分な」


 小さく息を吐き口の端を吊り上げると、シャルロットは軽く目を瞬かせた。そしてその顔に、花の咲くような可愛らしい微笑みを浮かべた。


「うん……なら、嬉しいな」

「パンが焼けたんだったな。待たせて悪かった、行こうか」

「あ、うん!」


 ずっと手に持ったままだったパレットと絵筆を床に置き肩を回すと、俺はシャルロットを促し部屋を出た。その前方に……まだ形のはっきりしない、進むべき未来を見据えながら。



「明日、外に出るね」


 焼きたての黒パンにかじりついていると、シャルロットがそんな事を言った。


「外に?」

「うん。買い置きの食料がそろそろなくなるから」


 いつものように肘をテーブルに乗せ、頬杖を着きながら答えるシャルロット。確かにこうして毎日俺に食事を振る舞っているのだ、いつまでも食料が続く筈がない。


「大丈夫なのか? 昼間に出歩いて」

「曇りが一番いいけど、晴れでも、夕方ぐらいの日差しの強さならフードを被って出れば何とか。でなきゃ旅の人が来る度に、ご飯を食べさせてあげられてないよ」

「それもそうか……」


 言われて納得し、小さく頷く。火傷するまで陽を浴びた事があると言っていたほどだ、平気な程度はきちんと心得ているのだろう。


「……なら、今日でもいいんじゃないか? 今日は丁度……」


 しかしふと今日の天気に気付いて俺はそう問い掛ける。そう。今日は外は、静かに降り注ぐ雨に覆われている。

 これでしつこく残った雪も溶けるだろうと、朝外を見た時に思った事を覚えている。今ならばただの曇りより雲は厚い筈、と俺は考えたが。


「雨は……駄目なんだ」


 だがシャルロットは、ゆっくりと首を横に振った。そしてあの、悲しげな儚い笑いを浮かべる。


「私……水の上を歩けないの。濡れたり湿ってるぐらいなら平気。だけど……地面に水が少しでも溜まってると力が抜けて動けなくなるんだ。例え小さな水溜まり程度でも」

「……そう、なのか」


 その答えに気まずい気持ちになり、食事の手が止まる。……シャルロットの生きてきた世界は何と狭く、不自由なのだろう。

 俺に何か、してやれる事はないか。本来なら殺さなければいけなかった俺に、こんなにも良くしてくれる彼女に。

 絵を描いてやる以外にも、何か……。


「……そうだ。代わりに俺が買いに行く、というのはどうだ?」

「え?」

「その……お前を手伝えたらと、思ってな……」


 瞬間、交差する視線。垂れ目気味の赤い瞳が、俺の目をジッと見つめる。その目が妙に気恥ずかしく、俺は小さく頬を掻いた。


「……ふふ」

「?」


 やがて、可笑しそうに吹き出したシャルロットに、訳が解らず目が丸くなる。そんな俺の様子がなお可笑しいのか、シャルロットが更に笑みを深め言った。


「ロディ、自分の立場忘れてる」

「……立場?」

「私がもっと疑り深い性格だったら……今の、もっともらしい事言って逃げようとしてるって取ってるよ?」

「…………!」


 確かに、シャルロットの言う通りだ。この暮らしの穏やかさにすっかり忘れていたが……俺はこの館に、軟禁されている立場なのだ。

 それが一人で外を出歩くなど、許可される筈がない。外に出てしまえば、いくらでも逃げる機会はあるのだから。


「その……そんなつもりはなかった。俺は、ただ……」

「……解ってるよ」


 己の失言への弁解をしようとする俺に、しかしシャルロットは優しい眼差しを向けた。その目からは、暗い感情は読み取れない。


「ロディはそんな人じゃない。純粋に私を助けたくて言ってくれたんだって、解ってる。ただ、ちょっと意地悪を言ってみたくなっただけ」


 ごめんね、と締め括られたシャルロットの言葉に、胸が熱くなるのを感じる。……こんなに他人に信頼を寄せられた事など、もしかして生きてきて初めての事ではないだろうか。

 俺はけして、善良な人間ではない。さっきの提案だって、もしかしたら無意識の中にここから逃げたいという思いがあったのかもしれない。

 だが、そんな俺を、出会ったばかりの俺を……シャルロットはこんなに信じてくれている。その純粋さは、これまで人と深く関わってこなかったせいなのだろうか。


「シャルロット、俺は……」

「一緒なら、いいよ」


 胸が熱くて、同時に苦しくて、それを吐き出すように口を開いた俺に言葉を被せるようにシャルロットが言った。曇りのない目で俺を見つめながら。


「ロディだけじゃ、お店、どこにあるか解らないでしょ? それにこの街は過剰に余所者を嫌う。こんな私にでも物を売ってくれるとこ、知ってるのは私だけだよ」

「……確かに……」

「一緒に行くんなら監視にもなるし。都合の悪い事、何もなくなるよ?」

「……だな」


 首を傾げて笑うシャルロットに、小さく息を吐き笑い返す。結局また、シャルロットに解決策を出させる事になってしまった。

 それを情けなくも思うが、同時に出来る限りこちらの意を汲んでくれようとする彼女を好ましくも思う。

 恋……とは違うように思う。かといって、この感情にどんな言葉が相応しいのか今の俺には当て嵌める事は出来ない。

 彼女の力になりたい。守りたい。この想いは、一体何なのか……。


「じゃあ、明日。荷物持ちだけでもさせてくれるか?」

「うん、いいよ」


 そんな思考は心の底に押し隠し、そう告げるとシャルロットは嬉しそうに目を細めた。……この笑顔をずっと見ていたい、そんな風にすら思う。

 黒パンの最後の一塊を口に放り込みながら、俺はやって来る明日に想いを馳せた。

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