最終話
――頭が、重い。
酒を浴びるほど飲んで眠った、その翌日よりもなお重い倦怠感に包まれた体。指先一つ動かす、それすらも億劫に感じる。
俺は、何をしていたんだ。一体何を……。
「――!」
その時堰を切ったようにみるみると蘇っていった記憶に、反射的に体が起き上がった。そうだ、俺は……崩落した天井の下敷きになって……!
ここは、どこなんだ。俺は、そしてシャルロットはどうなったんだ。まさか、死……?
無意識に、手が左胸に触れる。恐る恐る耳を澄ますと、微かに心音の鳴る音が聞こえた。
……どうやら、生きてはいるらしい。あの状況からすれば、信じられない事だが。
辺りを見回す。見えるのは積み重なる人骨。見覚えがある。……ここは、あの地下室だ。
逃げてこられたのか? どうやって。意識もないのに動いたとでも?
「……ん……」
「!」
訳も解らず考え込んでいると突然、小さな呻き声が聞こえた。この声は……。俺の側に今いるであろう人物と言えば、一人しかいない。
視線を落とし、近くを確認する。すると、手を伸ばせばすぐに触れられる距離に、今一番会いたかった人物の姿があった。
「シャルロット! しっかり……しっかりしろ!」
「……ロディ……目を、覚ましたの……?」
ゆっくりと開かれたシャルロットの赤い目が、ぼんやりと俺を見る。意識を失う前までは蝋のように白かった肌に、今は僅かにだが生命の温かみが戻っているのがはっきりと認識出来た。
「シャルロット……生きていた。良かった……良かった、本当に……!」
「! っ、あ……」
涙と共に溢れる感情のままに、シャルロットの細い体を抱き締める。シャルロットは微かに体を震わせたが、間もなく全身の力を抜きこちらに身を委ねた。
「シャルロット……あれから何があったんだ? 確か俺は瓦礫の下敷きに……」
「!」
だがそう問い掛けると、シャルロットの体が一瞬にして強張った。俯いた瞼から伸びる長い睫毛が細かく震え、表情から見る間に精彩が失われていく。
「……シャルロット?」
「……」
黙ってしまった、明らかに様子のおかしいシャルロットに重ねて優しく呼び掛ける。シャルロットは暫く何も言葉を発しなかったが、やがてぽつりぽつりと語り始めた。
「私……また……罪を重ねちゃった。自分の我が儘の為に……」
「罪?」
「恨まれても仕方がない……でも、それでも、どうしても……ロディを、死なせたくなかったの……」
「……俺を? 一体、どういう……」
「……あのね……」
以降はシャルロットの語った内容だ。
あの時……俺は確かに降ってきた瓦礫の下敷きになった。意識は全くなく、当たり所が悪かったのか頭部からどくどくと絶え間なく流れる血が、焼けただれた絨毯の残りに見る間に染み込んでいったのをシャルロットは今もハッキリと覚えているという。
シャルロットは残された力を振り絞り、俺の元へ這い寄った。だが瀕死のシャルロットに俺を瓦礫から救い出す力などある訳はなく、このままではただ二人、ゆるりと、だが確実に訪れる死を待つだけだった。
その時シャルロットは、ある一つの決断をした。それは、俺の命を救う、ただそれだけの為に。
―ーシャルロットは、俺の顔に唇を近付けその流れる血を飲んだのだ。
大量の血を失う前、俺と日々を過ごすよりも更に少し前からずっと血を飲まなかったシャルロットにとってその効果は僅かでも絶大で。自由に動けるだけの力を取り戻したシャルロットは、急いで俺を瓦礫の中から救い出し無我夢中で地下室まで共に避難した。
だが、ここで再びシャルロットは決断を迫られる事になる。
瓦礫からは救い出せたものの、改めて見た俺の姿は満身創痍そのものだった。
頭は言うに及ばず。両の足は在らぬ方向に曲がり、内臓も潰れたのか腹は鬱血に塗れ。
一番悲惨だったのが右手で、その様はもはや掌の形をした血袋だったとシャルロットは語る。その時の恐怖を思い出したのか怯えたように震えるシャルロットの背を、優しく宥めるように撫でながら俺は続きを促した。
……とにかく、炎からは逃れられたものの、このままでは俺は確実に死ぬという状態で。医者に見せてすら助かるか解らず、仮に助かったとしてももう満足な人生など送る術はなかっただろう。
シャルロットの記憶の中にはただ一つ、俺を助けられる可能性のある手段があった。しかしそれを使う事は……更なる苦しみに自分自身を、そして俺をも曝す事に繋がった。
生まれる葛藤。それでもなお勝るのは、俺を救いたいという想い。
だから、シャルロットは……。
自分の血を、回復力の高い吸血鬼の血を俺に与えたのだ。
「……ロディを助けたかった。どうしても助けたかった。でも……その代わりに、ロディを人間じゃなくしちゃった……」
いつしか、シャルロットの頬を涙が伝っていた。それを見ながら俺は、シャルロットの話が本当なのだと痛いほど実感していた。
話を聞いていて気が付いた。混乱していた事もあって、今まで気付かなかった事。
ここは暗闇の地下室。灯りがなければ何も見えはしない、その筈なのに俺の目には、シャルロットの流す細い涙の筋までも何の灯りもなしにはっきりと見て取れるのだ。
「……シャルロット」
自分のした事の重さに耐え切れないのだろう、震えながら啜り泣くシャルロットを俺は改めて強く抱き締めた。シャルロットは躊躇いながらも、縋るように俺の肩に顔を埋める。
……人としての人生、未練がないと言えば嘘になる。これからは今以上に、もっともっと生きにくくなるだろう。
だが、それ以上にシャルロットの気持ちが嬉しかった。彼女は更なる罪を、苦しみを……もしかすれば俺からの恨みをも、総て背負う事を覚悟で俺を救う事を決断したのだ。
俺の体は、確かに人のものでなくなったのだろう。だがこの、胸にじわりと拡がる温かい感情は……紛れもなく、元の俺と変わらないものだ。
シャルロットだってそうだ。そもそも俺の血を飲んだ時点でシャルロットは、既に自分だけでも助かる事が出来たのだ。それでもなお彼女は俺をも助ける事を躊躇わなかった……その間にも荒れ狂い続ける炎にいつ飲まれて、折角繋いだ命が消えてしまうかも解らなかったのに。
人間と同じ……いや、シャルロットを人でないというだけの理由で殺し、館ごと焼き払おうとした人間よりも、余程大きな優しさを持つ存在。俺にはシャルロットが、前よりもずっとずっと尊いものに見えた。
「お前には……二度も救われたな。一度目は俺の心を、そして今度は俺の命を」
「……恨んで、ないの?」
「恨むものか。お前が生きていてくれて、そして、これからお前と共に人生を歩んでいく事が出来る。……それに代わるものなんて、ないさ」
「ロディ……」
顔を上げたシャルロットと、視線が合う。それ以上、もう言葉などいらない気がした。
ただ、一人の命ある者としてのシャルロットが、堪らなく愛おしい。純粋に、そう思った。
そして、俺達は。自然と目を閉じ、顔を近付け。
――口付けを、交わした。
炎で焼け付き、曲がった鉄の扉を二人がかりで開く。あれからどれだけの時が経っていたのだろう、館は最早跡形もなく辺りにも誰もいなかった。
空を見上げる。厚い曇天は日暮れ時なのだろうか、灰と藍の色が混じり合って不思議な色合いを映していた。
「ん……」
隣でシャルロットが小さく身震いをする。そういえば今の彼女の格好は、既に乾いたとはいえ血に染まったワンピース一枚なのだった。
「着ろ」
俺は着ていた外套を脱ぎ、シャルロットに渡した。元々が古く汚く、更に炎に焦げてはいたがないよりはマシだろう。
「え……でも」
「俺なら大丈夫だ。それに、外でその格好は目立つだろう」
「……うん」
シャルロットは少し迷ったような素振りの後、大人しく外套を羽織った。薄着になった体に吹き付ける風はいやに冷たく、もしかしたらまた雪が降るのかもしれない。
「これからどうしよう?」
「そうだな、まずは住み込みで働けそうな所でも探して資金を稼ぐ。また旅が出来るだけの十分な資金が貯まったら……」
「私も、働きたいな。出来るかな?」
「俺が手助けする。至らないかもしれんが」
「……ううん、ロディがいてくれるなら、それだけで頑張れる」
シャルロットが微笑み、俺の目を見た。俺もそれに、力強い笑みを返す。
「ねぇ、私、色んな場所の花を見たいな。ここの景色も好きだったけど、これからはもっと色んなものを見たい。見れるかな?」
「ああ。きっと」
未来に向けて、言葉を交わす。まだまだ問題は山積みで。この世界は人が生きるには辛く、人でないものが生きるにはなお辛く。
世を恨む日も来るだろう。総てを投げ出したくなる日も来るだろう。
けれど彼女が、シャルロットがずっと側にいてくれるなら。
きっと最後まで、希望を捨てずに生きていける。そんな気がした。
「そろそろ行こうか。夜のうちに、太陽から身を守れる場所を確保しておかないとな」
「うん」
そうして俺達は。互いの手をしっかりと握り。
その感触を確めながら。広い広い世界へと、一歩を踏み出していったのだった。
――ふと気が付くと、あの日のように真っ白な雪がちらついていた――。
fin




