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暗く厚い雲が、夜空に浮かんだ満月の前をゆっくりと流れていく。昼の喧騒が嘘のように静まり返った住宅街で、民家の屋根の上を歩く者がいた。
「うーさぎ、うさぎ、何見て跳ねる、十五夜お月さま見てはーねーる」
人懐っこそうな顔立ちの青年が童謡を口ずさみながら、月を背に屋根の上を歩いていく。ここを通りかかる者がいたなら咎められたかもしれないが、三月中旬の夜は出歩くにはまだ寒く、窓を閉め切った民家が立ち並んでいるばかりで、暗い夜道を歩く者はいなかった。
夜のほんのりと冷たい風が吹き、青年の柔らかな茶色の髪が一瞬、月の光を反射してか銀色に輝く。
「よっ、ほっ」
両手を広げバランスを取りながら、屋根の上で軽やかに宙返りをし、音を立てずに着地する。上出来と言わんばかりに満足げな笑みを浮かべた。
「人間の世界は明るいねー」
周りを見れば民家にはいつまでも煌々と明かりが宿り、暗い道は外灯の光が一晩中照らし出している。昔のように心もとない提灯の火を頼りに歩く者は誰一人としていない。
「俺なんか、もう必要なくなるわけだ」
目を細め、ちょっと切なく笑う。ほんの一昔前なら夜道に迷った者に、そっと声を掛けて帰り道を教えていたが、今は道を見失うほどの暗闇すらない。
ふと向けた視線の先、暗い雑木林とブロック塀に左右を挟まれた裏道に影が走る。青年が目を凝らすと、それは何かから逃げるように走る少女だった。歳は十六ぐらいだろうか、紺色のブレザーの制服を着ている。少女が後ろを振り返る度に肩口で切り揃えた髪が大きく乱れる。
青年の瞳が一瞬金色に輝き、表情が険しくなった。少女の後を追って屋根を蹴り、驚くべき跳躍力で屋根の上を飛び移っていく。
少女は、息も切れ切れに、暗い闇の先に一部分だけ照らし出す外灯を目指して、無我夢中で走っていた。
後もう少し……あの外灯の下まで行けばきっと大丈夫。
外灯の光の下に手が届いたと思った瞬間、気がほんの少し緩んだことがいけなかった。
「きゃあ」
少女が足をもつれさせ転倒する。急いで起き上がろうとした少女の足に、何かが絡みつく感覚。少女の背に言葉にならない恐怖が這う。
闇夜から這い出てきたそれが、少女を取り込もうとした瞬間、空から舞い降りてきた青年が蹴り砕く。乾いた音と共に砕けた破片が辺りに飛び散った。恐怖に身を縮めていた少女の目に、今まさに襲いかかって来たモノが何なのかはっきりと映り込む。
それは、どこにでもある木の枝だった。
残った枝がするすると闇の中に消えていく。
「君、大丈夫?」
木の枝を蹴り砕いた青年が少女を振り返り微笑む。
座り込んだまま、闇の中に消えていった枝の方向を、恐怖で見開かれた目で見つめていた少女がぎこちなく顔を上げ、頷いた。
「はい、あり……がとう……ございました」
「どういたしまして」
青ざめた顔で礼を言う少女に、青年が手を差し出す。
「俺は香月、君の名前はなんていうの?」
「……小泉洸です」
名前を聞かれた洸が香月と名乗った青年の手を借り、立ち上がりながら答える。全力で走っていた為に膝が笑って、うまく立ち上がれなかったが、香月が力強く引き上げてくれた為に何とかふらふらした足取りで立ち上がることが出来た。ほっと息をついた瞬間、先ほどの恐怖が急激に現実味を帯び始め、ガタガタと小刻みに全身が震えだす。
震える体を強く抱き締め、枝が消えた方向に目を向ける。
「今の何ですか?」
「んー? 植物みたいだね」
「それは分かります。でも普通、植物は人を襲いませんよね」
「まぁ、世の中不思議なことはいっぱいあるから」
香月が朗らかに笑う。明らかに何か知っていそうなその態度に、洸が震える体を両手で抱きしめたまま、不審そうな目を向ける。
「あの……」
「家は近く?」
何か言う前に話を逸らされてしまった。
「だめだよー、若い女の子がこんな夜中に出歩いちゃ」
「妖怪にさらわれる……ですか?」
香月が押し黙る。洸が小さな溜息を吐き、強く握りしめていた腕を緩める。震えが納まって来ていた。
「よく母に言われました。夜遅くに出歩くと妖怪にさらわれるって」
「そう」
微笑むばかりで他には何も言わない青年に、洸は肩を落とす。
「……さっきの植物について教えてくれる気はないんですね」
洸はそう小さく呟くと、申し訳程度に頭を下げて感謝の言葉を口にした。
「……助けてくださってありがとうございました」
「家、遠いいのなら送っていくよ?」
「結構です。私の家この近くなので、ここで大丈夫です」
「本当に送っていかなくていいの?」
「はい、大丈夫です」
きっぱりとした洸の言葉に、香月が苦笑いを浮かべる。
「そう……じゃあ、気をつけてね」
香月が手を振る。洸が勇気を溜めるように手を握り締める。ほんの束の間の後、踵を返して脱兎のごとく走り始めた。外灯の前を通し過ぎ、あっという間に小さくなる少女の姿。
「……あんなに急いで……やっぱり無理矢理でも送っていくべきだったかなー」
ほんの少しの後悔を噛みしめて、背後を振り返る。外灯の光が届かない雑木林の暗闇の中に、こごった闇が渦を巻くようにして身を潜めていた。
「お前、そこで何してんの」
雑木林に向かって歩みを進める。暗闇に潜むものが一瞬怯んだように身を縮ませる気配が伝わってきた。香月が立ち止まり頭を掻く。
「あのさ……」
香月が闇の方へさらに一歩近づこうと足を踏み出した瞬間、背後から刺すような殺気を感じ取った。考えるよりも先に体が動き、屋根の上に跳躍する。先ほどまで立っていた場所に呪符が貼りつき、小さな稲妻が走る。
「逃げろ!」
香月が雑木林の暗闇に潜むものに向かって叫んだが、躊躇するように闇がうごめく。
「俺なら大丈夫だ。お前より俺の方が、数倍動きが速いんだ。速く行け!」
「そうはさせるか」
若い男の声が外灯の光が届かない闇の中から聞こえたと思った瞬間、淡い光を帯びた数枚の呪符が闇を切り裂いて飛来する。香月がしまったと身を乗り出した時には、外灯の光の下を通り過ぎ、雑木林の暗闇に吸い込まれるように消える。
稲妻と共に、人では決してあり得ないような甲高い悲鳴が上がった。雑木林の中から木々をなぎ倒して暴れる音が聞こえ、香月は迷うことなく呪符を飛ばした男の元へと跳躍する。
「やめろ」
鋭い蹴りを男に向かって繰り出したが、男に当たる直前で弾かれてしまった。
「くそ、結界を張っているのか」
弾かれた反動で地面を滑りながら香月が舌打ちをする。地面に手を着き、身を低く身構えていると、闇を切り取ったような髪と瞳を持った一人の青年が、外灯の光の下に姿を現した。どこか氷のような冷たい印象の青年に香月が息を飲む。
「陰陽師か……」
「そんな所だ。お前は妖しのようだな、何の妖しだ?」
「言うと思うか?」
「いいや」
身を低く構え、戦闘態勢を崩さない香月の髪と目が色を変え始める。人の眼にも見えるほどの妖気を身にまとい、銀色の髪と黄金色の瞳を持った姿へと変化した。外灯の光の下に現れた青年 神竜が目を細める。
「どけ、お前に用はない用があるのは後ろの奴だ。大人しく下がるようなら見逃してやるぞ」
「嫌だね、お前みたいな奴は信用できない。背を向けたら最期、後ろからバッサリ殺られそうだ」
「言ってくれるじゃないか」
神竜の口元に笑みが浮かぶ、たったそれだけで青年の持つ凄味が増した。香月の全身の産毛が逆立つ。
(こいつ、やばい……)
香月が一歩、あとずさる。雑木林の中に居る闇が二つに割れる気配がした。ハッとしたように香月が振り返る。 神竜も気がついたのだろう、不審そうに香月の後ろにある雑木林に目を凝らした次の瞬間、二つに分かれた気配が二人を襲った。一つは香月を捕えると神竜から引きはがすように雑木林の中に引きずり込み、そしてもう一つは神竜に絡みつき、何重にも枝を張り巡らせてその場に縫いとめる。
「くそ!」
神竜が忌々しげに顔を歪ませる。手足に絡みついた枝が邪魔をして雑木林の中に消えていく気配を追うことが出来ない。腕に絡みつく枝を力ずくでへし折り、懐から呪符を一枚取り出す。先ほど香月に投げた呪符とは、別の文字が書かれた呪符に息を吹きかけ投げた。
「朱雀、炎で焼き尽くせ!」
呪符が炎に包まれた鳥に姿を変える。朱雀が甲高い声で一鳴きすると、辺りを昼間のごとく照らし出すほど巨大な火柱が噴き上がった。神竜に絡みついていた全ての枝を焼き尽くしていく。
赤々と燃える炎の中で人影が揺らめく。枝と共に炎に包まれた神竜が服に付いた燃えカスを払い落しながら出てきた。炎に包まれたにも関わらず、髪の一本も燃えていない。
髪についた灰を乱雑に払い落し、神竜が忌々しげに顔をしかめた。
「逃げられたか」
辺りを見渡せば何者の気配もなく、白々しい外灯の光が誰もいない道をひっそりと照らし出していた。




