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青い桜  作者: 桃樹
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後編

 「それから、本当にその事は忘れたわ。そして、元から抱いていた夢に向かって再び歩き出し、その出来事は心の闇に沈んでいった。もう永遠に浮かんで来ることは無いだろうと思っていた。だけど、それは偶然なのか必然なのか、私はあなたに出会ってしまったの。別にその時は、もう既に彼の事などなんとも思わなかったと言えば嘘になるかもしれないけど、それでもあなたを一人の

人間として、アーチストとして見たわ。だから、この事を話すつもりは無かったし、たとえ彼の子供だからと言って特別何か仕掛けるつもりも無い。これだけは信じて欲しいの‥」

僕は何も考える力が無くなってしまった。自分は一体誰なのだろうか?何の為にここにいるのだろうか?どこかでこの話は嘘じゃないかと思いたかった。しかし、どこにもそんな気力は無く、ただただ呆然と彼女の話を聞いていた。

「この話を本来ならあなたにするべきでは無いと思うわ。けど、話しておかなければいずれ問題にもなる。それでも私は、たとえあなたに憎まれても、あなたの才能を買うわ。我が子として見ている所があるのかもしれないけど、最大限の冷静さを持って、あなたの才能を見ているつもりよ」

僕には今絵を描くことよりも、今までこの事実を知らなかった事で頭が一杯になっていた。どうすればいいのか?これから先、どう家族と接していけばいいのか。そして、父親が憎くて憎くて仕方なかった。

「南さん‥僕は今、あなたの話を聞いてそれが本当だと信じる気持ちはありません。むしろ信じたくは無い。けれども、それが事実だとしたら、僕にはとても今前に進む気力がありません。少し考えさせてください‥」

「そうね‥でも、何度でも言うわ。これは事実であるけれども、私はあなたを必要としている。それだけは間違いない。忘れないで」

僕は無言で席を立ち、扉の向こうへ消えた。


 玄関で綾子が待っていた。

「どうしたの?えらく顔色悪いよ?何か言われたの?」僕をえらく心配そうな顔で見つめている。しかし、僕はその声に答える事なく外へ出ていった。

それからしばらく、宛ても無く歩き続けた。歩いても歩いても、彼女の話が頭に焼きついていて、その考えから逃れる事が出来ずにいた。

 どれくらい歩いただろうか。いつしか見たこともない公園に着いていた。綾子が僕の手を引き

「とりあえず座って落ち着こう」

そう言って、僕をベンチに座らせ隣に座った。

「何があったのかは分からないけど‥。晃‥」

彼女が言葉に詰まり、悲しそうな目を僕に向けていた。

「ごめんな‥こんなはずじゃなかったんだけど‥」

そう言うのが精一杯で、また黙ってしまった。

綾子はそっと僕の肩に手を回し抱き寄せて、肩を貸してくれた。

 あまりにショックを受けて、何をどうすればいいのか検討もつかない。あるのは父に対する怒りと、とてつもなく自分が空しく思えるのと‥。そのまま、僕は綾子の肩の上で気を失っていた。


 僕が母と思っていた人は、それは母の友人であって、僕の本当の母は、僕の両親を憎んでいた人で、そんな複雑な関係にしてしまったのが、父なのだ。そしてそんな人たちによって、僕は生み出された。僕は憎しみや、復讐心の塊でしかない‥。

「ねぇ愛しの君、僕はこれからどうすればいいの?」

彼女は何も答えてはくれない。ただただ僕の頭を撫でながら、悲しい瞳をこちらに向けているだけだった。


 気が付くと僕と綾子は、オレンジ色の暖かい光に照らされていた。僕は体を動かさず、そのまま綾子に話しかけた。

「ごめん‥綾子」

「いいよ、大丈夫。私はずっと晃のそばにいたいから‥。うん、大丈夫」

綾子のショートカットの毛先が、夕暮れの春の風に吹かれながら、僕の顔をやさしく撫でていた。

「ねぇ綾子、普通にこうやって生きて行くのって難しいね‥」

綾子は黙ったまま、僕の頭を撫でていた。だんだんと気持ちが溢れ出し、夕日が滲んで見えた。

なんて美しい夕日なんだろう。なんて暖かい光なんだろう。


辺りが徐々に、闇に包まれていった。すると、急に僕は綾子に対して申し訳ない気持ちになり、立ち上がった。

「ごめん、もう大丈夫だから。帰ろう」

そう言って、僕は綾子の手を引いた。

 重い気持ちを引きずりながら、僕たちはなんとか駅まで戻り、そのまま綾子の家の方へ歩き出した。

「晃、いいよ。私は大丈夫だから」

そういって綾子は僕の手を離し、悲しい顔をしながら「明日、また会おうね」

僕は、今ありったけの力を振り絞り

「うん」

力強く答えると、彼女はそのまま振り返る事なく、家路についた。そんな、彼女の背中を見つめていると、全ての力を使い果たしてしまったのだろう。とたんに脱力してゆき、立っている事も辛くなり駅前のベンチに腰を下ろした。

 

家路を急ぐ人たちが目の前を次々に流れてゆく。ぼんやりとそれを眺めていると、何もかもに疲れてしまい、心の中も、自分の周りも、全てが闇に包まれた。それはもう、光がどんなものかさえ忘れてしまったかのように真っ暗闇に僕は沈んでいった。


 無駄に時は流れてゆき、いつしか駅前には人影すら見えなくなり、時計は深夜1時を指していた。僕は深いため息をつきながら、また思いふけっていた。どうしても帰れない。帰ってしまえば、この疑問が解決してしまいそうだ。それも、最悪な方へ。そんな事を考えていても、時は残酷にも刻まれてゆく。この現実を受け入れなければ‥。最悪な展開でも、僕には全てを知り、全てを受け入れる事が必要だ。いくしかない‥。

僕は意を決して、立ち上がり家路についた。

 

家の玄関までやってくると、まだ明かりが灯っていた。このぎりぎりの所で何度か、やはり止めておこうと足が歩みを止めてしまいそうになる。しかし、なんとか弱い自分を振り切り、僕は家のドアノブに手をかけ、玄関を開けるとすぐに母が走ってやってきた。

「晃!どうしたの?連絡も無しに、こんな時間に帰ってくるなんて!」

とても慌てた様子で、心配そうな顔を向けていた。

「ごめん‥母さん」

そう呟くと、母は察したように黙ってしまった。

 僕は家に上がるなり、そのまま父の寝室へ歩いて行った。そして寝室のドアを開けると、暗闇の中で父は眠っていた。

呑気なもんだ。とことん僕に興味が無いらしい。僕は込み上げる怒りを抑えつつ、部屋の明かりをつけた。

「父さん!」

大きな声で呼びかけると、父はゆっくりと目を開け、怪訝そうな顔をしながら体を起こした。

「なんだ‥こんな時間に。一体、今何時だと思っているんだ」

次第に声が大きくなっていた。そんな父の声を聞いたのか、兄が部屋から飛び出して寝室にやってきた。そして、僕の背後で母と並んで何も言わずに心配そうにこちらを見ていた。

「父さんに聞きたい事があるんだ。僕はこの家族の人間じゃないの?」

父は目を擦りながら

「何を訳の分からない事を言っているんだ」

そう言いながら布団を蹴り飛ばし、僕の目の前に立った。

「今日、僕は南由香里に会ってきた。彼女の言っている事は本当なの?僕は、母さんから生まれてきた子じゃないの?」

そう言い放つと、部屋はしんと静まり返った。父の顔は全くの無表情になり、母が後ろで膝から崩れ落ちた音がした。

「僕は、父さんと母さんの子ではなくて、父さんと南由香里の子供なの?」

長い、長い沈黙が訪れた。僕と父は見つめ合ったまま、茫然と立ち尽くし、時計の針の音が聞こえる程に、辺りは静かだった。

父は僕を見つめながら、ゆっくりと重たい口を開いた。

「そうだ」

予想通り最悪の結果だ‥。この瞬間、僕は我を忘れた。父の胸倉を掴み、殴り倒していた。倒れた父の上に乗りかかり、何度も殴り続け、それを見ていた兄が我に返り僕を必死に止めに入った。

「晃!落ち着け!落ち着くんだ!」

僕は兄の手を払い、立ち上がり兄に向き直った。

「じゃあ兄さんもこの事を知っていたの?」

そう兄を睨み付けると、兄は黙ったまま俯いてしまった。その俯いた兄を見ると、僕の中の何かが壊れた。皆知っていたんだ‥知らなかったのは僕だけ‥僕だけ家族じゃなかったんだ。僕は寝室を出て、自分の部屋へ走り込んだ。鍵を掛け、暗闇の中ベットに倒れこんだ。止め処なく涙が溢れ、ドアの向こうで兄が必死にドアを叩いている音が聞こえたが、僕は心も体もすべてに鍵を掛けた。



 昇は必死になって晃を呼び続けた。

「晃!おい!開けてくれ!頼むから‥」

何度呼びかけても晃の反応は無かった。母が階段を上ってきて、そっと後ろから悲しそうな顔を向けている。「母さん‥」

掛ける言葉が見つからなかった。

しばらくして、お互いに黙ったままリビングへ降りていくと、ソファーには父が黙って座り、タバコに火をつけていた。

「父さん‥やはり晃には、父さんから言っておくべきじゃなかったの?」

父は黙ったまま、見向きもしなかった。

「流石にこの事は、きちんと父さんから話すべきだったはずだろ‥。晃はもう子供じゃないんだ。もっと早い段階で、きちんと父さんが話していれば、こんな事にはならなかったはずだ!」

「昇!落ち着いて‥もう止めてちょうだい‥」

弱々しい母の声が間に入ってきて、何も言えなくなってしまった。

「分かっているさ‥あぁ、俺がすべて悪い、俺の責任だ。いくらでも責めるがいい」

父は完全に開き直り、晃に殴られた後を摩りながら、タバコを吸っている。最低な父親だ‥昇は込み上げる怒りを無理やり呑み込み、黙って部屋に戻っていった。


 翌朝、食卓に晃の姿は無かった。部屋に閉じこもったままらしい。しかしそれでも、父も母も普段通りの朝を送ろうとしていた。出来るだけ、自分も平静を保とうとしていたが心の中では、自分自身を責めていた。

兄として、血の繋がりはなくても兄弟以上の存在に想っていた晃の為に、自分が犠牲になってでも話すべきだんじゃないだろうかと。そうしてやる事が本当の兄弟ではないのだろうかと‥。

父は新聞をたたみ「さぁ行くぞ」そう言って立ち上がった。だが、立ち上がる気力が沸かなかった。流石に今日ばかりは無理だ。どうがんばっても、晃の事で頭の中は一杯だ。そんな昇を見ながら、父は黙ったまま玄関へ向かい出て行った。

「母さん‥僕はどうすればいいんだろうか。どうすれば晃に許して貰えるだろうか。晃の事は誰よりも大事に思っているのに、あんな風に傷つけてしまって、どうすればいいんだろう‥」

「そうね‥私にも分からないわ」

お互いに座ったまま黙り込んでしまった。なんて自分は弱い人間なんだろうか。とても大切な弟を傷つけておいて、どうする事も出来ないなんて。自分を責めるばかりで、一向に光は見えそうになかった。どうすればいいのだろうか‥。あの父が晃に謝って済む話でも無い。母や自分が謝っても済まないだろう。

「昇、本当にごめんなさい‥」

「母さんが謝る事じゃないよ。悪いのは全部父さんだ。父さんがきちんと話して晃の理解を得ようとしてくれたら、こうはなってなかったんだから」

「でも‥あまりお父さんを責めないで。表には出さないけれども、あれでも相当ショックは受けているのだから」

「どうだろ‥」

母が父をそこまで守るのは、夫婦としての愛情なのだろうか。それでも家族が崩壊してしまっては意味が無い。やり場のない気持ちが、宙を舞い続けていた。悩んでいても仕方ない、行動を起こさなくては。そう思い再び晃の部屋へ向かっていった。


「晃!起きてるか?」

やはり返事は無い。ドアの僅かな隙間から光が漏れていた。流石に覗いた所で見えるわけでもないのだが‥。なんとかしてあげたい。そんな気持ちだけが溢れ、ドアノブに手をかけてドアをまた叩いた。

すると、突然「ガチャ」という音と共に扉が開いた。「鍵がかかっていない」慌ててドアを開くと、そこには晃の姿が無かった。窓が開かれ、机の上には置手紙が

あった。

「母さん!すぐに来て!」

そう慌てて呼びながら、手紙を見た。

『ごめんなさい、しばらく家を出ることにしました。どこまでも迷惑ばかりかけますが、しばらく考える時間を下さい』

それを読み上げると、横に来ていた母が、顔を青ざめてそのまま倒れてしまった。



 晃は大学へ来て、いつものようにサークルの部屋で、自分の絵を手に取っていた。窓を開けていると、天気が良く暖かい春風が吹き込んできて、とても気持ちが良い。 

しかし僕の心は依然、闇に包まれている。絵に向き合い、なんとか普段の自分を取り戻そうと必死になってみたが、全くと言っていい程に集中を欠いた。

「おはよう!」

元気よく綾子がやって来た。

「綾子、昨日は本当にごめんな‥せっかく一緒に過ごせたのに、悪い事をした」

「何言ってんのよ。そんな気にするような程の事じゃないじゃない。私はいつも晃の味方よ!なんでも言って頂戴」

そう言って笑顔を見せてくれた。

「じゃあ綾子、早速お願いしてもいいかな?」

そう言うと綾子は怪訝そうな顔をした。

「え?うん‥いいわよ?」

「しばらく俺、この町を離れる事にしたんだ。だから戻って来るまでの間さ、この絵を預かっておいてくれないか?」

「え?どうして?何かあったの?」

綾子は急に心配そうな顔をした。

「ううん、ちょっとした用事でね。まぁすぐに戻るさ。昨日の事はもう大丈夫だから、何も気にしないで」

そう言うと綾子は、小さく「分かった」と言い、僕の絵を渡した。

やはり今の僕には、これは描けない。こんな複雑な気持ちではとても絵に向かえる事など出来そうにない。

 僕は綾子に絵を託すと、そのまま部屋を後にしようとした。

「晃!私、待ってるからね。必ず早く戻ってきてよ!」

「あぁ、そんなに心配するなよ。大丈夫だって。じゃあね」

僕は綾子に笑顔を見せ、その場を去った。大学を出て駅に向かい、ロッカーから持ってきた荷物を取り出し、僕は電車に乗り込んだ。

この町には不安と怒りと悲しみしか無い。そんな町にはしばらく居たくなかった。心の整理が出来るまでは、僕はこの町を離れておこう。それが今一番正しいと思える選択だった。誰にも迷惑をかけない所で、じっくり考えてみよう‥。



 電車に乗って、ひたすらに西の方角を目指していた。昇る太陽から逃げるようにして。これといって理由は無いのだが、どこまでも続く道がありそうに思えただけであって、宛てが無い。ひたすらに電車に揺られ、外の景色を漠然と眺めていた。徐々に都会の風景が、山や海へと変わってゆき、本当に遠くまで来たんだろうなと思えるほどに、到着する駅は聞いた事もないような名前ばかりになっていた。

海沿いの駅で、ふいに海を眺めたくなり、降りてみた。なんだか、青春映画でも見ているようだと自分で思ってしまう程に海を眺めていると、とてもセンチメンタルな気持ちにさせてくれる。僕は駅から砂浜へ出てゆき、荷物を放り出し砂浜に腰を下ろした。

 なんて今日は天気が良いのだろう。この所、本当に暖かくて毎日良い天気が続き、普段であればもっと爽快に感じれたであろうが、波の音が切なく響いて僕の心は永遠に晴れそうにはなかった。何をやっているんだろう‥。こうしていても、知らされた事実が突然変わる事も無い。そして、僕の存在に疑問が沸くばかりだ。兄はとても優しいから、今頃落ち込んでいるだろうか‥。母もあれだけ僕に心配そうな顔を見せていたから、おそらく相当参っているかもしれない。罪悪感が押し寄せてきた。

しかし、父は‥何も感じていないのだろうか‥。あれ程の事を今までやってきたのに、僕に明かさず黙っていたのだ。何も感じていなくったって可笑しくは無い。いや、きっとそうゆう人だ。思い返せば本当に可笑しな事は沢山あった。僕には幼少期からの写真が一枚も無い。家族で撮った写真すら無いのだ。兄の幼い時代の写真は今でも、母の寝室には飾られているというのに。母は僕の事をどう見ていたのだろうか?愛人の子供を育てている気持ちというのは、あまりに複雑すぎて想像が出来ない。それでも、僕が南由香里に会った時の事を話したときに、もう会わないで欲しいと言ったのは、僕に少しでも愛情を持ってくれていたのだろうか?分からない‥。そもそも家族の愛情という物が、自分の中で漠然としてきた。

 もし、あのまま僕はこの事実を知ること無く生きていたら、どれだけ幸せだったろうか。母の言う通りに聞かなきゃ良かった。もし南由香里に会わずにいれば、今も変わらず普段の生活を送れていたに違いないだろうに。 

しかしこれからは、もう母は母として見る自信が持てなかった。今まで育ててくれた事に感謝の気持ちは持っても、次会ったときに「お母さん」と呼べるだろうか?兄の事を「兄さん」と呼べるだろうか?僕は、そんな事を思いながら仰向けに倒れた。目の前には、雲ひとつない青い空。どこまでも果てしなく先まで。

 

 「秋山君は絵を描いている時、本当に絵の世界に入り込んでいるようね」そう言って彼女が笑った。

「ええ。何故か描いていると、だんだんと頭の中のイメージが周りの音とか映像を遮ってすごく鮮明に、僕の周りを囲むんです。そうしたら、だんだんと気持ちが良くなってきて、ずっとここに居たいって思うようになって、たまに抜け出せなくなるんです」

「そうなんだ。きっとその世界は素敵なんだろうなぁ。でも私もね、絵を描いている時は、君と同じように絵の世界に入り込んでしまうの。とても居心地が良くて、とても幸せな気持ちで満たされて。もしかすると、君と私の世界はどこかで繋がっているのかもしれないわね」

そう言って彼女は幸せそうな顔をした。

「じゃあいつか、この世界のどこかで会える日が来るかもしれないですね」

「そうだね。だから秋山君。それまでは絵を描き続けてね。どこかで会えるかもしれないからね?」

「もちろん!僕はいつまでもあなたを探し続けます」

「そうね、あなたは絵の中でしか生きられないから。無理に現実に存在したところで生きていけないものね」

「え?何を言ってるんですか?」

「だってあなたは愛人の子よ。家族と思っていた人達は、あなたをずっと他人の子としてしか見てなかったじゃない」

「そんな‥確かにそうかもしれないけど‥でも‥」

「本当の母親が今更、愛してくれると思ってるの?他人の家族が、あなたを愛してくれると思うの?あなたは永遠に孤独。そして、この世に存在しても仕方の無い人なのよ」

「やめてくれ!僕の夢を壊さないでくれ!」

「だから絵の世界に永遠にいればいいのよ。私はそこで待っているからね?」

そう言って、彼女は漆黒の闇へ消えてゆく。慌てて後を追いかけるが、突如目の前にあの「桜の樹」が生えてきて、行く手を阻んだ。その樹は、暗闇の中で突如ピンクの花びらを散らせ、一気にすべての花びらが落ち、そしてどんどんと枯れてゆく。

「待ってくれ!春子先生!」


 僕は叫びながら目を覚ました。全身が汗まみれになっていて、喉の奥が枯れて痛みが走る。変わらずに太陽は僕を照らし続け、波の音が徐々に大きく聞こえるようになった。いつしか眠っていたようだ。なんて夢だったんだろうか。彼女の口から信じられないような言葉を聞かされて、とても嫌な気分で満ちていた。

「永遠に孤独」なんて言葉だ。二度と聞きたく無い‥。


 重い腰を上げ、なんとか立ち上がって荷物を持ち再び駅へ戻った。僕は列車に乗り、また宛ても無い旅を続けてゆく。列車の窓から海を眺め、出来るだけ悪い夢を忘れようとしていた。彼女はあんな事を言う人じゃない、きっと今の僕はちょっと可笑しくなっているだけだ。必ず彼女は、この現実の世界のどこかで今日も絵を描き続けて、僕との再会を待っているはずだ。今の僕には、絵を描くことが出来そうに無いが、必ずいつか探し出してみせる。


 そんな時、突然携帯電話が鳴った。兄や母が使いそうな電話の番号は全て拒否するように設定しておいたので、一体誰だろうと思い携帯電話を見ると、そこには「啓吾」の文字があった。僕は迷わず電話に出た。

「もしもし?」

「お、晃?今どこにいるんだ?」

「いや、別に‥。何か用事か?」

「‥すまん。事情を聞いてしまったんだ。お前のお兄さんが、俺を訪ねてきてな。それで全て聞いてしまったんだ」

「そうか‥」

「綾子もお前の様子が可笑しかったと言って、すごく心配してるぞ。今どこにいるんだ?」

「ごめん、啓吾。たとえ啓吾でも、教える事は出来ないよ‥ほんとごめん」

「いや‥俺がお前になんて声をかけてやればいいのか正直分からない。でも、思いつめるなよ。俺はお前が一番の親友だし、とても大切に思ってるんだ。だから‥」

「啓吾、大丈夫だって、俺はバカじゃない。自棄なんて起こさないさ。ただ今は考える時間が欲しいんだ。自分の中でちゃんと整理したいんだ」

「そうか‥分かった。でも、必ず帰って来いよ!俺も綾子もお前の家族もみんな心配してるんだから。それだけは忘れるなよ!」

「ああ、分かってる。皆にも謝っておいてくれ。それじゃあまたな」

「がんばれよ!」

そう言って電話を切った。何故か啓吾の声が懐かしく響いた。そうだ、僕には啓吾がいる、綾子だっている、僕は孤独なんかじゃないんだ。例え家族に愛されなくても、僕にはかけがえの無い親友がいるんだ。そう思うと、さっき見た夢の重い気持ちが少し軽くなっていくようだった。


 列車はどこまでも走り続けていた。また海が見えなくなり山の中を走りぬけトンネルを潜ると、そこはまた都会と言える程ではなかったが、少し拓けた町へやってきた。そこで列車は終点を迎えたようで、僕はその町に降り立った。


 行き交う人達に紛れ、僕は町を歩いた。町を見て回っていると、なんだか久々の旅行のせいだろうか、少し気分が紛れほんの僅かな間でも、家族や母について考える事が無くなった。

しばらく歩いてゆくと、気が抜けたのかお腹が空いてくる。ふと目の前にあった定食屋に呼ばれたように入っていった。店内は閑散としていて、少し寂れたような雰囲気を持った店だった。カウンターに案内され座っていると、少し離れた所で工事現場の帰りの人達だろうか?作業着を着たおじさんたちが並んで座っていた。

「いや〜今年は暖かすぎるな」

「ああ、そうだな。こないだそこの川沿いは、もう桜が咲きそうな感じだったしな」

「ほ〜早いな!あの川沿いが桜満開になったら、また酒を呑むいい充てになりそうだハハハ」

桜か‥。もうしばらく花見なんてしていないな。毎年春休みの間は、ここぞとばかりに絵を描くことばかりで、春休みはいつも休む事無く家に篭っていた。後で見に行ってみるか‥そう思いながら、僕は夕食を取った。

 食べていると、突然にその作業着を着たおじさん達に声をかけられた。

「おい、そこの若いの。学生さんかい?」

「ええ、まあ‥」

「こんなとこで晩飯なんて、地方から出てきたのかい?」

「いえ‥まぁそんな所です」

突然の会話に戸惑い、適当に答えてた。

「地方から出てきて、一人でやってるなんて偉いねぇ。うちの息子にも見習わせてやりたいよ‥。よし!大将!この子に一杯おごるから出してやってくれ!」

そう言うと、お店の人が日本酒を僕に運んできた。

「すみません。ありがとうございます」

意外な展開に驚きながらもどこか暖かさに触れた気がして、気持ちが安らいだ。

 滅多とお酒は口にしないのだが、呑めなくは無い。しかし、久々に口にしたせいか食事を終える頃には軽く足元がふら付くような気がした。

おじさん達にお礼を言い僕は店を後にし、外に出ると辺りはもう暗闇に包まれ、冷たい風が吹き付ける。まだ少し寒さは感じるな‥それでも、少しの酒で軽い酔いを感じた体には、丁度いいぐらいだ。僕はそのまま、川沿いに咲くという桜を探しに歩いた。

 しばらく歩くと、すぐに川の流れる音が聞こえてきた。街頭がとても少ない為か、桜の樹は僅かに色づいているようにも見えたが、暗がりでよく見ることが出来ない。それでも心地良い風に吹かれながら、僕はその川に跨る橋の上で立ち止まり、その両岸の桜並木を眺めていた。

 

本当に久々に、何もかもを忘れる事が出来た。絵の事も家族の事も、すべての事を忘れて僕はただ無心で川の流れる音と、吹きつける風でざわめく桜並木を感じていた。あぁ‥落ち着く、なんて楽なんだ。重たい気持ちも体も、どこかへ飛んでいってしまったようだ。こんな風に、日常を忘れてしまうのも良いもんだ。ほっとしてしまったのか、目から涙が零れていた。長い長い緊張から開放された僕は、無心で涙を流し続けていた。

 

しばらく、月夜に照らされた川沿いの道を眺めていると、こんなに涙が流れるなんて、僕の日常は苦痛でしかないんだろうか?ふとそんな考えが過ぎる。

毎日ひたすらに絵を描く事で、本当に春子先生に会える訳でも無いし、やはりあれは叶わぬ恋のまま終わらせるべきなんだろうか。僕がどんなに彼女を想った所で再会出来たとしても、そこから僕の願いが叶うわけでも無い。もしかするともう彼女は新しい人達と、新しい場所で幸せな日々を送っているのかもしれない。もうこんな事を考えているのは、僕の方だけかもしれないな‥。虚しさは無かった、ただ漠然とそう思えた。何が正しいのかは分からないが、そうやって生きてゆく事も大事なのかもしれない。

しかし、家族はどうだろう‥。ここで僕が家に帰った所で、家族は受け入れてくれるだろうか?どこか、よそよそしくなるのではないだろうか?ぎこちない生活を送るくらいなら、いっそこのまま家に帰らずに遠くへ行ってしまって、適当な仕事に就いて、今の僕に合った人を探して、その人と幸せな家庭を築いていくのも悪くはないだろう‥。この世界の皆が皆、夢を叶えられる事が出来る訳では無いんだ。むしろ、諦めてしまう方が多いだろう。僕もきっとそうなのかもしれないな‥。夢ばかり追いかけるのに疲れたのかもしれない。自分の考えが、どんどんマイナスな方向へ流れていっているのは、心のどこかで分かってはいたが、想いは膨れ上がるばかりで、それがまた涙へと変わっていった。

 

 そんな想いに支配されだした僕は、ただ川の流れてくる先をただ見つめていた。すると突然、遠くで水しぶきが見えた。

「ドボーン!」

と大きな音が響いてくると、僕は目を凝らして遠くを見た。なんだろう?何か大きな物が落ちた‥?僕は気になって橋から川沿いの道に出て、音のした上流へ走っていった。だんだんと近づいてくると、白い布のような物が川の中で動いている。慌てて、川岸まで降りてゆき近くにいくと‥それは人だ!長い髪が水に浮かんでいるのが見え、何が起きたのかは分からなかったが、とにかく助けなくては!

 迷わず僕は川へ入ってゆき、流されてゆく人に飛び掛った。流されそうになりながらも、なんとかその体を捕まえたのはいいのだが、川底に足が届かずパニックを起こしそうになった。まずい!このままでは、どんどん流されてゆく。捕まえた体は反応が無く、なんとか顔を上に向けながら、ラッコが貝を持ったような体制で少しづつ川岸を目指した。慌てて入ったので気付かなかったが、今頃になって川の水の冷たさを感じ、思うように体が動いてくれない。

「まずいぞ!なんとかしなくちゃ!」

必死になって足をばたつかせ、じわりじわりと近づいてきた岸を必死に見つめながら、僕は反応の無い体を必死に捕まえていた。

 どれ程か流され、ようやく足が川底に着いた。よし!と気合を入れなんとか川の流れに逆らい、ずるずると水の染み込んだ重たい体を引きずり岸へ上がった。

「助かった!」

思わず体がよろけ、僕はそのまま地面に倒れこんだ。激しく呼吸が乱れしばらく動けそうになかったが、なんとか体を起こし、落ちた人の側へ寄った。

 顔は青ざめていて、息をしていない‥?と次の瞬間に口から大量の水を吐き出し咳き込みだした。

「生きてた!良かった‥」

長い髪が顔の周りにへばり付いていたので僕は手で払ってあげると、美しい女性の顔が出てきた。その顔には見覚えがあった‥。しばらく記憶を必死に辿っていくと、僕は驚き、反射的に体を逸らした。まさかそんな‥。呆然と彼女を見つめ、僕は目を見開いたまま動けなくなってしまった。

 その彼女は、あの夢の中でいつも出てくる愛しい人そっくりに見える。いや、彼女本人だ。そこまで確信出来る程に、僕は驚きを隠せなかった。すると突然、彼女の意識が戻ったのか目を開け荒い呼吸をしながら僕の方を見つめた。

「あなたは‥私を助けたの‥?」

「ああ‥当たり前だろ‥自殺を図ったのか?‥まあそれでも助けるけどね‥」

なんとか声を押し出し答えたが、彼女は疲れた顔で僕の事を睨んでいた。僕は、彼女にかける言葉が見当たらず、どうしていいのか分からず固まっていた。

少しずつ彼女は体を起こし、突然声を殺して泣き出した。悲痛な声を上げながら、彼女は何度も細い腕を振り上げ、地面に叩きつけていた。

「もう少しだったのに‥もう少し‥」

「なんで‥なんでそんな自殺なんて。そりゃ、あなたの気持ちは俺には微塵も分からないけど、命を落とす事が正しい事なんて絶対に無いはずだ。あってはならないはずだろ?」

「あなたには、私の気持ちなんて分からないのよ‥。どれだけ辛い思いをしているかも知らないくせに、余計な真似しないでよ!」

さっきまで、本当に衰弱していたはずの彼女から大きな声が出て、僕は驚きと同時に、罵声を浴びせられた事に怒りを覚えた。

「余計な真似って。簡単に命は落とせても、二度と拾う事なんて出来ないんだぞ!それに、あなたが死ぬ事で悲しむ人の事を考えてんのか?辛い思いしてるからって、死んで解決する訳がないだろう!」

「私には悲しむ人なんていないわ!私は‥」と言いかけて、彼女は突如そのまま気を失った。僕は慌てて彼女に近づき、体を起こした。大丈夫息はしている、死んではいないや‥。

 とにかく、どこか病院へ運ばないと。今にも力尽きそうな僕もなんとか立ち上がり、彼女の体を抱きかかえて歩道へ上がった。寒さが余計に体力を奪い足元をふらつかせたが、絶対に彼女を落とさないように、歯を食いしばり公衆電話を目指した。震える手を抑えながら必死の思いで救急車を呼び、担いでいた彼女をそっと地面に横たわらせ、僕もその横に座ると、ふっと力が抜け意識が飛んでいった。


 気がついたのは、病院のベットの上だった。体中に激痛が走ったが、なんとか体を起こして辺りを見回した。「彼女は?どこだ?」

どうやら僕がいるのは、診察室のベットの上のようで、周りは白いつい立で囲まれ分からない。ベットから立ち上がろうとするが、足元がかなりふらついた。なんとか白いつい立に手をかけ、少しずつ手で押し開けてゆくと、隣にもう一つベットが見え、彼女が眠っていた。点滴を受けていたので、とりあえず安心できた。僕はそのまま自分のベットに腰掛、深いため息が漏れる。

 一体、彼女はなんで自殺なんて図ったんだ。理由は分からないにしても、あの場に居合わせて、しかも助ける事が出来て良かった。しかし、この人は本当にあの夢の中に出てくる女性そっくりだ‥。本人だろうと言った所で、誰も共感してくれる訳では無いし、なんとも言い難いのだが。こうやって引き合わされた事が、自分の中では未知なる世界に引き込まれたようで、なんとも言えない違和感を覚えた。いつも涙を浮かべていた彼女‥。きっと今のこの状況を暗示していたのだろうか?だとしたら、僕は彼女に対して何かしてやれる事でもあるのだろうか?未知意識に囚われ、僕は思いふけっていた。しばらくすると突然、看護婦さんが入ってきた。

「あら、起きたのね。体の調子はどう?痛むところは無い?」

「ええ、なんとか。それよりも彼女の方は?」

「だいぶ衰弱しきっていたけど、もう大丈夫よ。こんな寒い夜に川に飛び込むなんて‥。あなたが助けなかったら本当に危なかったでしょうね」

「そうですか‥。そうだ、彼女の家族とかには連絡とかは?」

「それが彼女の物が何もなくて、連絡先が分からないままなのよ。何も持っていないし、あの後辺りを探してくれたみたいなんだけど、それらしい荷物も無くてね」

「そうですか‥」

「あなたの方はまだ連絡していないけど、大丈夫かしら?もしなんだったら、連絡してきますけど?」

「いえ‥大丈夫です。僕は大丈夫ですから。でも、彼女が目を覚ますまでここにいてもいいですか?」

「ええ、もちろんよ。それに、もう少し休んでいった方がいいわ」

そう言って看護婦さんは彼女の横に立ち、経過を見ると笑顔でこちらに顔を向けながら、部屋を出て行った。

「はぁ‥」突然彼女から深いため息が聞こえた。

「気がついたのか?」

「最悪だわ‥。もう私はこの世にいないはずだったのに」

僕は少し呆れて何も言えなくなっていた。

「何も思い通りにいかない‥」

そう彼女は呟いた。とても寂しい顔をして、今にも泣き出しそうになりながら、彼女は僕を黙って見つめていた。

「何もかもが思い通りにいってくれれば、どれだけ楽だろうな。でも、それが現実なんじゃない?それを乗り越えていくのが人生っていうか、人間じゃないの?」

自分自身に問いかけているように言った。受け入れられない現実なんていくらでもある。何度も投げ出してしまいたい、なんて思う事など沢山ある。でもそれを受け止めていかないと、永遠に前には進めない‥。分かっている答でも、受け入れられない自分がいる。僕も彼女と大して変わらないのかもしれないな‥。

「乗り越える事なんて出来ないわ‥私にはとても出来ない」

彼女の声がどんどん弱々しくなっていった。

「今は出来なくても、ゆっくり時間をかけでても、とにかく生きることが大事だと俺は思うよ。確かにあなたの苦しみは分からなけど、でも間違ってはいないと信じれる」

そう言うと、深い溜息をつき彼女は目に涙を貯めながら僕を見つめた。

「ごめんなさい‥私、あなたに酷い事を言ったと思うわ。本当にごめんなさい。それと‥助けてくれてありがとう」

「いや‥良いんだ、大丈夫。君が生きてたなら何とも思わないさ」

 

それからしばらく、お互いに沈黙していた。僕は心の中で、だんだんと彼女の事がとても心配になってきて、何故このような事になったのか、聞いてもいいものか悩んでいた。下手に首を突っ込んで不快にさせるのは嫌だったし、かといってこのまま放っておいてまた自殺を図るのではないだろうか?等と繰り返し頭の中で考えを巡らせていた。そうしていると、彼女は体を起こしなんとか立ち上がろうとしていた。

「まだ動かないほうがいいよ、今はゆっくり休んだ方がいい。それに、君の家族に知らせる方法が無くてまだ連絡出来ていないから、看護婦さんに頼んで迎えを頼むといい」

「私には家族がいないの」

そう彼女は呟いて、僕はまずい事を言ってしまったと少し後悔した。

「じゃあ、家まで俺が送るよ。とても今の状態で動いていては、またどこかで倒れてしまうよ」

そう声を掛けても、彼女は無言で部屋を出ようとしていたので、僕はそれから何も言わずに彼女の腕を肩にかけ、一緒に歩き出した。

 

病院を出ると、外は薄っすらと明るくなっていた。もう朝か‥。ずいぶん僕も意識を失っていたようだ、時計は朝の5時を指していた。彼女に肩を貸しながら、彼女の家へ向かっているのかは分からないが、無言のまま僕達は歩き続け、しばらくして知らないバスに乗りどこかへ向かった。

 彼女の隣に座って、外を眺めながら彼女の横顔を見ていると、僕はだんだんと夢と現実が交錯したかのように心の中では、彼女がとても愛しく思えてきて、そんな思いが体に伝わったのか、気づけば僕は彼女の手をしっかりと握っていた。今まで女性の手を自ら握るなど、あまり経験が無かったし、突然の行動に自分で驚いていた。気づいてから、少し恥ずかしさが込み上げてきたが、彼女は嫌がる事も無く、ただ寂しい目をしたまま外を眺めている。

僕は今までに、こんなにも疲れ果てた人を見たのは初めてだった。こういった時、どうしてあげればいいのか全く見当が付かない。ただただ無言で彼女の後を付いていくばかりで、励ましの言葉をかけるべきなのか、それともこのまま黙っていた方がいいのか?彼女に対する勝手な愛しさが余計に、僕の心配を増幅させていくようだ。

 いくつか駅を過ぎ、僕が最初にこの町にやってきた駅前の広場まで来てバスを降りた。この町の中心地を彼女に肩を貸しながらゆっくり歩き続けていると、彼女は突然立ち止まった。

「ここ。ここが私の家」

そこは新築の高層マンションの前だった。田舎と言うほど寂れた町では無かったが、それでもこの町では一番新しく大きいのではないだろうか。

僕はそのまま、彼女と一緒にそのマンションへ入ってゆきエレベーターに乗り込むと10階まで上がっていった。今まで僕は、実家しか住んだ事がなく、しかも一軒屋だったので妙に高層マンションには憧れがあり、エレベーターを降りた窓から見える景色に、非常識と思いながらも少し胸が躍っていた。そのフロアーには部屋が10個程並んでいたのだが、その一番奥まで連れてこられ、彼女はポストから鍵を出しドアを開けると、無言で僕に中に入るように手を差し伸べていた。僕も無言のまま、彼女の家に入ってゆくと、そこはまだ新品同様のような家具が立ち並び、まだ生活を始めたばかりと言っていいような雰囲気だった。足元のスリッパが何故か二つ青と赤が並び、誰かと住んでいるのだろうか?と思ったが詮索するのは止めた。そのまま奥へ案内されると、広いリビングに綺麗に片付けられた本棚や戸棚が並ぶ。そして大きな窓から駅前の景色が一望出来た。僕は思わず彼女に向かって「いい所だね」そう言ったが、彼女は何も答えずソファーを指さし、僕は黙って座った。

「ちょっと着替え持ってくるから待ってて」

そう言って奥の部屋へ消えて行った。

 

僕はソファーに座ったまま、部屋を見渡していた。壁には何も掛かってなく本棚・戸棚・TV・テーブル・ソファーそれだけだ。妙に殺風景な部屋で、どの家具も白か黒で統一されていてシンプルと言えばいいのか、寂しい部屋と言えばいいのか。人間自殺を考える時は、部屋を綺麗に掃除したりしてゆく物だ等と、どこかで聞いた事のあるようなセリフが頭の中で聞こえた。

「良かったらこれを着て」

そう言って、彼女が白いジャージを渡してくれた。彼女は既に黒いジャージを着ていて、この部屋では白と黒しか無いなと思うと少し笑いそうになり、僕は必死になって笑いを噛み殺した。

 部屋の端で着替えたのだが、彼女は僕が目の前で着替えようとしてもその場を動かず、どこか遠くを見ていた。心のどこかで恥かしく思えた自分が情けなく感じる。

 着替えを終わり、再びソファーに座る彼女の横に座った。

「あの‥なんか悪いな。家まで送るだけだったのに、上がらせてもらって着替えまで‥」

なんと言っていいのか分からず、僕は彼女がどう思っているのか不安で仕方なかった。

「うん、いいのよ。きっと、今誰かが側にいてくれないと私‥自信ないから」

首筋に何かが走ったようにゾクっとした。どこかで「死」という恐怖心が走ったのかもしれない。しかし、それが僕にとっては彼女を救う使命を帯びたようで、頭の中では焦ってきた。

「あのさ‥俺が聞いてもいいのか分からない。でも、すごく気になって。気を悪くしないでくれ」

「自殺の理由?聞きたいの?」

淡々と返す彼女に、恐怖心が強まった。聞くべきなんだろうが、僕はその理由を聞いた所で彼女に自殺を思い留まらせるような一言を言えるのだろうか。しかし、聞かずにはいられない‥。

「ああ‥どうして自殺なんて図ったんだ‥」

彼女は遠くを見つめたまま、まだ薄い紫色になったままの唇をゆっくりと動かしだした。

「私はね。まだ結婚して1ヶ月も経ってないの。でも、もう‥」

なんとなく家に上がった時に、どこかで察していた。

「主人が交通事故に遭って、亡くなってしまったの‥まだ新しい生活が始まって間もない、これから、これからだったのに。全てが終わってしまったの、だから私はもう何もかも失ってしまったようで‥」

言葉に詰まった。彼女はまた涙を流し、俯いたまま黙っていた。

「そうだったのか‥」

そこから僕は、返す言葉が見当たらなかった。

 ひたすらに沈黙が訪れ、何も言わずにただ僕は彼女を見つめる事しか出来なかった。がんばれ!とか、まだこれからがあるじゃないか!等と簡単に言えることでは無い。最愛の人を亡くしてしまった気持ち‥僕にはまだ想像が出来そうにない。どれ程の苦しみなのか‥それはきっと僕の想像が出来たとしても、それよりも遥か上にあるだろうし、同情なんて事は不可能だ。ただ、僕は彼女が自ら命を落とす事だけは、なんとしてでも阻止しなくてはならない。そう思いが溢れるだけで結局何も言えずに、ただ時間が流れていった。

しばらくして、彼女は涙を拭きながら僕を見つめた。「私はもう、これから先に希望なんて物はなくて、それだけに彼を愛していたし、彼との将来に全てを賭けていたから‥もう生きていてもしょうがないと思ったの‥」

僕は、頭の中で沢山の言葉を選んでいた。どれが正解なんて言葉は無いが、せめて僕の思ったままを伝えてみよう。必死に頭を回転させていた。

「うん‥僕には、とても気の利いた事なんて言えないけど。そうやって、彼の死を受け止めずに自ら命を絶てば忘れてしまう事が出来るのかもしれないけど‥けど、それじゃあ彼との良い思い出も無かった事になってしまう。それでもいいの?彼を本当に愛してたと言えるなら、あなたがどれ程長く生きて行っても、彼の思い出や意思やそういった物全てを、先の将来まであなたが連れていってあげるのが、本当の愛じゃないのかな?まだ、僕には本当の答えなんて分らないけど今思う事は、たとえ愛する人がこの世にいなくなってしまっても、この世に存在した事を忘れる事なんて絶対に出来ない‥」

僕の気持ちはうまく伝わっているのだろうか?言い切った後には、自分でも疑問符が付くような言葉になってしまった。彼女を見ると、微動だにせず俯いたままだった。しかし、僕はとにかく彼女と話すしかない。話し終えてしまえば、そこで彼女との時間が終わりを告げそうな気がしていた。

「僕にも、大好きな人はいる。けど、ずっとずっと長い間離れ離れで、それも僕の片思いのまま。想いは伝えたけど、それがどう相手に受け止められているのかは分からない。いつかきっと、どこかで会えるかもしれないと、思うだけで一向に叶う気配も無ければ、もしかすると彼女はもう新しい人と新しい生活を送っているかもしれないし‥。あなたとは全く違うかもしれないけど、僕はそれでも彼女を想い続けているし、本当に彼女を愛しているから、どんなに厳しい現実でも、僕は彼女との思い出はとても大切で、永遠に忘れる事は無い。そう思える。だから、こんな所で命を落としていったって、叶うはずが無いのだから僕は永遠に夢を見続けているんだ‥」

初めて自分の気持ちを言葉にして振り返った。心の中は切なさで埋め尽くされてゆく。本当に苦しい‥。

「君は強いね‥本当に強いと思うわ。私にはそこまで強く自分を持って、生きる事が出来そうにない‥どれだけ愛しても、もう二度と会えることが出来ない事が、受け止められないの‥」

彼女は俯き、沈黙に落ちた。僕自身も、彼女を心配しながら思い悩み、言葉が出てこなくなっていた。


 それからどれ程経っただろうか。お互いに黙ったまま座り続けて、無駄に時が流れていくようだった。それなのに、突然僕のお腹は、気持ちとは裏腹に「グー」と鳴り、冷や汗をかく程に恥ずかしさが込み上げてきた。なんて情けないんだ。そっと僕は彼女の方を見ると、少し驚いた顔をして僅かに微笑んだ。

「お腹減った?何か用意しようか」

そう言って立ち上がった。恥ずかしいきっかけではあるが、ようやく彼女が微笑んでくれた事が嬉しかった。

 

彼女は台所へ行き、冷蔵庫を漁り何か仕度を始めていた。そんな後姿を見ながら、僕も立ち上がり部屋を見て回ろうと思い席を立ち、玄関の方へ歩いていった。

 広い家の中は、やはり生活感が無くどこか寂しさを感じる。玄関横の部屋へ入っていくと、ダンボールが積み上げられ、その周りには空けた状態のダンボールが散乱しており、まさに引っ越して来たばかりと言ったような雰囲気だった。

沢山の服や鞄やら靴が見える中、一つの箱だけどこか異国の雰囲気を漂わせるお面や置物が見えた。そっと開けてみると、彼女の思い出が詰まっているようだ。英字で書かれた本が沢山あったり、民族衣装の様な物まで入っていたり。そんな中、フォトアルバムらしき物が見え、見ていい物か少し躊躇したが開いて見た。

 やはりそこには、彼女と旦那さんであろう人が写る写真が大量に貼ってあった。日本には無いような風景をバックにして、二人とも幸せそうな笑顔をこぼし、寄り添って写っている。写真の日付を見ると、まだ1ヶ月前だ。ほんの一ヶ月前までは、彼女はこんなにも笑顔だったのに‥。やり切れない思いが込み上げてきた。

「新婚旅行の思い出、捨てれなくてね」

背後から彼女の声がした。僕は驚き、慌てながら振り返った。

「ごめん、勝手に見てしまった」

「ううん、いいよ。ご飯出来たから食べよう」

そう言って彼女はリビングへ戻って行った。僕は手に持ったアルバムをもう一度見直した。幸せそうな二人‥これがもう二度と見ることが出来ない。これをどうすれば乗り切れるのだろうか。僕の心は今までに無い、どうにも出来ない痛みが走っていた。

 

 彼女とそのまま無言の食事を取り、食べ終えると黙って食器を僕は片付けた。

しかし、これからどうしよう?いつまでもここに居座る訳にも行かないし、かと言って今この家を出ていけば彼女が何をするか分からない。いや、むしろ彼女がする事は分かっていたから、動けずにいた。そんな事を考えながらソファーに座り、彼女を見つめていると、ふいに彼女が話し出した。

「ごめんね、私に気を使わせてるね」

「いや‥そんな。大丈夫だよ」

「もし、何か大事な用があるなら構わず出ていってよ。そうで無いのなら自由にしていいけど」

「うん‥僕は帰るところが今は無いから‥」

「そうなの‥」

自分の事を話せば少しは彼女の思いに変化が起きるだろうか?そんな考えがよぎり、今までの出来事を話そうとした。というよりは、どこかで自分も助かりたい気持ちがあったのかもしれない。


 母親が実は別の人だった事、それを家族がずっと隠していた事。そして、夢を見続ける事に疲れてきた自分‥。話している間、彼女は黙って頷きながら僕の話を聞いていた。

「今のあなたと、比べ物にならないぐらいの悩みかもしれないけど、それでも今の僕にとっては重要な悩みなんだ‥」

「そう‥難しい問題ね」

「今は少し立ち止まって、今までを見つめ直したくて。それでも、いつまでも立ち止まっている訳にもいかないからね‥近いうちに、また立ち向かっていかなくちゃいけないのは分かっているつもり‥」

言い切れる事は出来なかった。純粋に、未だどうすればいいのか分からないのだ。

「少し散歩でもしない?」

突然に彼女はそう言って立ち上がったので、僕も黙って続いた。


 マンションを出て、彼女に連れられどこかへ向かって行く。時計は昼前を指していただろうか?日差しが少しずつ強くなり、体が日の光で包み込まれるようでとても暖かい。

「あなたには、きっと明るい未来があるわ。明確な事は言えないけど漠然とそう思えるの。だって、自分の未来に不安を抱きながらも、前に進むことを忘れていないから」

彼女は僕に少し微笑みながら話してくれた。

「そうかな‥そうあればいいな」

「私は今、どうしても未来なんて見ることが出来ないわ。一番大切に思っていた人がいない未来なんて‥まだ見れない」

「僕は、あなたになんて言えばいいのか正直な所分からない。でも生きていて欲しい気持ちがあるんだ。それは漠然とした気持ちとか、ただ単に死に対する恐怖とかでもない。特別な愛情も無ければ、同情してる訳でもない。それでも、こうして今一緒にいるあなたが、いつか失われてしまう事が僕にとっては辛いんだ‥」

「ありがとう‥」

「僕は、あなたの為に出来ることがあるのか分からない。でも変な話、信じて貰えないだろうが、僕は前からあなたに出会う夢を何度も見ていたんだ。その時は、とても愛しい気持ちで溢れていて、すごく自分が安らいでいくようで、それが何を示していたのかは分からないけど今こうして一緒にいることが、僕にとってとても大事な事のようにも思えてならないんだ」

彼女は黙って聞いていた。

「だから、僕はあなたが立ち直るまで一緒にいてもいいかな?立ち直らずとも、僅かな光が見えるまででもいいさ。あなたの側に居たい」

僕は、ありのままの気持ちを口にした。彼女と僕は何の繋がりも無いが、純粋に彼女を支えてあげたいという気持ちが溢れてならなかった。

 彼女は無言のまま僕の隣をゆっくり歩いていた。すぐに返事を聞かせて欲しいという訳では無かったのだが、心の底では彼女がどう思っているのか気になって仕方なくなってくる。必死に前を向こうと出来るだけ彼女を気にせず歩いていると、突然彼女は僕の手を握ってきた。

「ごめんね‥私はすごく弱い。旦那が亡くなってからずっと、誰にも相談できずに一人で抱え込む事しか出来なくて、吐き出す事さえも怖かった‥何も出来なくて、何も出来ない自分が嫌になってきて‥ごめん」

僕は彼女の手を少し強く握り返した。

「大丈夫、今は弱くても、いつか前に向けるようになるはず。ゆっくり歩いていけばいいよ」

そう言って、彼女の手を強く握り歩き続けていた。


 しばらくすると、昨夜の川が見えてきた。さすがに彼女が自殺を図った所なので回避しようとしたのだが、繋いだ手を引かれその川へ向かっていっていた。

 昨夜では見えなかった桜並木が、少し色づいているのを見ることが出来た。遠くの方の山の麓までそれは続いているようで、橋の真ん中に立ち止まり二人で並んで眺めた。

「綺麗だな‥」

そう僕が呟くと、彼女はそっと僕の肩にもたれかかってきた。

 行き交う人はまばらで、日の光は強くなる一方。暖かい日差しに包まれた桜並木を見ていると、町は至って平和だ。そんな中で、生きる事に、前に進む事に疲れた僕たちは少し浮いているようにも思える。

時が止まってしまったのではないかと思う程に、その場を動かず無心になって遠くを眺めた。ただその風景の中に、溶けていくかのように。


 時が経ち、頭を上げた彼女は僕の手を再び握った。

「もう少し歩こうか」

そう言って、二人並んで川沿いを歩いて行った。ふと彼女の方を見ると、長い髪が春風に乗り桜の香りを乗せてなびいている。美しい‥そんな言葉が似合う。今ここに居ない彼女の旦那さんを思うと、申し訳ない気持ちになった。

突如、彼女は立ち止まった。

「あれを見て!」

突然何かに驚いたように、強く僕に呼びかけた。言われた方向を見ると、遠くに一本だけ綺麗に咲き誇っている桜があった。この暖かさで、完全に早まってしまったのだろうか。歩き近づいてゆくと、次第に美しい花びらが目に飛び込んできた。

「綺麗だな‥」

「うん。こんな早い時期に見れるなんて思ってもなかった。すごく綺麗」

彼女の声が弾んで聞こえた。

 その桜の樹の下までやってくると、奇麗な花びらが春風に吹かれ小さく舞っていて、僕たちはその桜の樹に魅せられていた。


 ふと目を閉じて、桜の香りと温もりを感じていると、彼女は小さく話し出した。

「ちょうど一年前、同じように彼とこうして桜を眺めていたな‥。当時はまだ付き合いだして間もない頃で、初めてのデートだったかもしれない。ずっと私が、片思いしていた分、あの時は本当に緊張していて。今でもあの時の胸の高鳴りは忘れていないわ。手に彼の体温を感じながら、奇麗な桜色に包まれながら、本当に幸せだった」

僕は彼女の話に溶け込むように、頭の中で強くイメージしていた。

「それから、しばらくお互いに忙しい日々を過ごしていて、仕事や夢やそして彼との恋愛の調和がだんだんと取れなくなっていって。何度も喧嘩したし、何度も別れの時が訪れようともしていた。けど、最後の最後になって、私は彼との恋愛を選んだの。それは、全て私の夢や希望を捨てた訳ではなくて、沢山の私の想いを全て彼に託して、同じ道を歩んで行くことで、私も夢を見続けていられると思ったから。そう決心して、私は彼との永遠を誓って結婚したの‥」

彼女の声は次第に寂しい音へと変わっていった。

「だから、彼を失ってしまった事で、今の私にはもう何も残っていないの。心には大きな穴が空いてしまっていて、埋めてくれる物が何もなくて‥」

「そうだったのか‥」

全てを失って埋めようの無い穴‥。

「本当に生きる事って難しいね」

そんな言葉を聞くと、目の前で咲いている桜が僕に優しく何かを語りかけているようだった。それは僕の記憶には無い、春子の声で聞こえてきた。僕はそんな声に聞き入り、目を閉じたままその声が、僕の溢れる思いを通して口から言葉となって落ちてきた。

「ただ毎日を普通に過ごす事が、これ程に難しいと思ってもみなかった。沢山の否定の言葉や、信じられない言葉が押し寄せてきて、ただ立っているだけでも足元がふらついて苦しくなってくる。僕は夢を見続ける事が辛くなってきて、何気ない普通という言葉の中に紛れてしまえば、どれ程気が楽になるだろう、何もかも捨てて逃げてしまえば、どれ程幸せだろうと思ったよ。それでも、いつも最後に諦められない自分がいて、そんな自分がいたから今の自分があるんだと思う。長い将来で願いが叶う事があるのかは分らないけど。いつまでも、たとえ形が変わっていっても、そんな自分を持ち続ける事が大事で、それが幸せなんだと思う。強く生きていかなきゃいけない訳じゃない、弱くても良い。それでもそうやって生きていく、今生きている事が大事だと思う」

 僕はそっと目を開け、彼女の目を見た。

「そうすればきっと、きっといつかそんな想いは通じる」

彼女の目からは大粒の涙が零れ落ちていた。僕はそれ以上何も言わずに、そっと彼女を抱きしめた。

僕の肩に桜の花びらが落ち、彼女から零れ落ちた雫と重なるとそれは、どこか寂しくて、切なくて、悲しい。それでも心の底を癒してくれるような、青い桜になった。

 なぜ、そんな言葉が出てきたのかは分らない。でも、それは彼女に贈られた言葉だけでなく、自分の心の中にも強く響いた。

 目の前の桜は、黙ったまま美しく咲き誇り、そんな美しいはずの桜は、僕の目には滲んで見えた。


 

日が沈む頃、僕たちは彼女の家に戻っていた。桜の樹を後にしてから、彼女とは一言も言葉を交わしていない。でも、そんな彼女の表情はどこか吹っ切れたような、優しい顔になっていた。

 また、黙ったままソファーに並んで座っていると、突然僕の携帯の着信音が部屋に鳴り響いた。慌てて、荷物から携帯を取り出し、画面を見るとそこには「綾子」の文字があった。電話を手にしたまま、出るべきか切るべきなのか躊躇していると、彼女の視線を感じ自分と目が合うと、僕にそっと近づき手を握りしめ、黙ったまま目で励まされているような視線を送られた。

 僕は大きく深呼吸をし、電話に出た。

「もしもし‥晃?」

「うん、綾子‥ごめんな」

何を言っていいのか分らず、ただ申し訳ない気持ちで一杯になっていた。

「ううん、今の晃はとても大切な時を送っているって、私は分かっているから‥でも、どうしても晃の事が心配で、ごめん‥」

返す言葉が見当たらず、携帯を耳に付けたまま、しばらく沈黙が続いた。

「晃‥私ね、ずっとずっと言えなかった事があって。晃がいなくなってしまった後に晃の事情を耳にして、もう二度と会えないんじゃないかって思うようになってきて、ずっと胸に秘めた事を口に出来なかった事にすごく後悔して‥。でも今なら言えそうな気がするの」

受話器の向こうで、綾子が小さく深呼吸をする音が聞こえた。

「私は、晃の事が大好きなの。ずっと側にいたのに、ずっと言えなくて。晃は私にとってすごく大切な存在で、想いを口にして、もし失ってしまったらどうしようと、ずっとずっと思い悩んでいて。晃には憧れの人がいるって知ってから、余計に言えなくなってしまって‥」

僕は無言のまま綾子の声に聞き入った。

「私が何か思い悩んだり、落ち込んだりしている時に、晃はいつも側で私の気持ちを誰よりも理解してくれて、ちょっとした言葉やしぐさで、すごく暖かい気持ちにしてくれて。それが次第に、晃を想うようになっていって。今、晃が落ち込んでいる時に、私がなんとかして助けてあげたい気持ちがあるのだけど、どうして良いのか分らなくて‥こんな時に、自分の想いを伝える事しか出来なくて‥晃、ごめん‥」

「何も謝ることは無いよ。綾子の気持はちゃんと伝わったよ。ありがとう‥本当にありがとう‥何て言えばいいのか分らないけど‥街を離れてから、ずっとずっと考えてはみるけど、何も答えが見えてこなくて、もしかすると答えなんて始めから無いのかもしれないけどさ。それでも、少しずつ何かを掴んでいるような気もするんだ」

そう言って僕は、手を握り締めている彼女を見つめた。

「だから、もう少し考えさせて。必ず僕は綾子の前に帰るから。必ず‥約束するよ」

「うん、分かった‥」

綾子の声が少し震えているようだった。そんな声を聞くと、急に胸が締め付けられそうな思いがして、僕はそれ以上話す事はなく、そのまま電話を切ってしまった。

 深いため息が漏れ、次第に体中から力が抜けていくようで、目を閉じれば出口の見えない深い闇の底へ、僕の心は落ちていくようだった。手を握り絞めていた彼女は、その手を放し、そっと僕を抱き寄せた。

「あなたは私に沢山のパワーをくれたじゃない。大丈夫、あなたはきっと乗り越えれるわ」 

 彼女の体温が次第に僕の冷え切った体を温め、瞼の裏には夢の中にいつも現れる彼女がいて、重なりあっていた。彼女の目にはもう涙は無く、強くてどこか優しい瞳。心の中の彼女が僕にそっと話かけてきた。

「あなたはもう分かっているはずよ‥答えはもう手にしているはず‥踏み出す勇気を持って。何かに迷ったり、押しつぶされそうになったら、心の中で私を感じて、私に問いかけて。いつも私はあなたの心の中で生き続けているから‥」

そっと目を開けると、彼女は優しく微笑んでいた。

「今すぐに全てを受け入れられなくても、前に進んで行く事が大事‥あなたにそう教わった。私は少しずつ前を向けそうな気がしているわ。だからあなたも前を見て、歩いていって。それが私の力にもなるから」

僕は黙ったまま、暗闇に包まれた部屋の中で彼女を見つめていた。



翌朝、僕はソファーの上で目を覚ました。いつしか眠っていたようだ。辺りを見回すと彼女の姿は無く、どこかの部屋から大きな音が聞こえた。

まだ目が覚めて間もない重たい体を起こしながら、僕は音のした方へ近づいていった。そこでは、彼女が沢山のダンボールの口を閉じて積み上げていっているようだ。

「あ、起こしてしまったかな。ごめんね」

「ううん、大丈夫。それよりも‥どうしたの?」

「うん‥荷物をまとめて実家に帰ろうかと思ってね。ようやく少しずつだけど、決心出来たっていうか‥思い立った内にすぐ行動しておこうと思ってね」

「そっか‥手伝うよ」

そう言って、僕はシャツの袖をまくり荷物を運ぶのを手伝った。

 彼女は一つ一つの荷物を手に取り、何か思い出しているのだろうか、ふと手を止めて黙ったまま、荷物を何度も見つめたりしていた。

「なんだか‥気持ちが晴れたせいか、彼との大切な思い出の品が今までとは違って見える‥なんだか不思議な気持ちだな‥」

「そう思えるようになったのなら良かった。なんだろう‥すごく安心した」

「うん」

そう言って彼女は笑顔を見せた。

 外は今日も相変わらずの良い天気で、それでもいつも以上にどこかすっきりとした気持の良い晴れ渡った空に見える。

 しばらくして、荷物が全て閉じられ玄関に運ばれると、彼女はそっと僕の荷物を持ち、玄関に並べた。

「僕も帰るべき場所へ向かう時が来たかな‥」

「‥じゃあ駅まで送るよ」


 玄関を出てマンションを後にすると、突然彼女が「もう一度、あの桜を見に行こう」そう言って僕の手を引いた。

 初めて彼女に会った川。あの川に架かる橋へやってきて、僕たちは橋の真ん中から両岸に立ち並ぶ桜並木を眺めた。ほんの2日前までは、お互いに今とは全く違う気持ちでこの川を眺めていただろう。あの時から、今のこの変わりようは想像出来なかっただろうな‥。

「なんだか不思議だね‥ついこないだ会ったばかりなのに、とても長く一緒にいたようにも思えて、もっと昔から知りあっていたようにも思える」

「そうだね‥僕がこの町にやってきたのも、あなたに出会ったのも、本当に奇跡なのか運命なのか分らないけど、今こうして桜を眺めている事が出来て良かった。本当にあなたに会えて良かったよ」

「私も、会う事出来て良かった。ありがとう」

彼女は僕に笑顔を見せながら、僕の隣に立ち駅の方角を向いた。

「この橋の先には、きっと君にとって素晴らしい道が続いていると思うわ。これから先沢山のいろんな事が待っている。それがあなたにとって辛い物かもしれない、幸せになれる物があるかもしれない。でも、この橋からはどんな希望も見える気がする。夢を持ち続けて!」

そう言って背中を押された。

 僕は前を見据えたまま、彼女に話した。

「ありがとう、あなたの事は忘れないよ。そして、僕は夢を追い続ける。何があっても絶対にね」

そう言って僕は振り返る事無く、前に進み出した。

 暖かい日差しを受けながら、桜の花びらが埋め尽くす道を真っすぐに歩いていった。



 そうして久々に僕は、実家の前に立っていた。ほんの2日空けただけで、とても懐かしく感じてしまう。そして、玄関までが非常に遠く感じたあの夜が嘘のように、僕は迷わず扉を開けた。

「ただいま!」

大きな声を張り上げると、リビングから兄と母が走り寄ってきた。

「晃‥おかえり」

涙を目に貯めながら母がそう呟くと、兄は黙って僕を抱きしめた。

「晃‥ごめんな、本当にごめん‥。俺はお前の兄貴として最低な事をした‥でも、俺はお前が生涯でただ一人の大切な弟だと思っているから‥」

涙を零しながら兄は強く、強く抱き締めた。

「兄さん‥僕も兄さんは兄さんでしかない。本当の兄弟だって思ってる」

少し離れた所で、母がそれを見つめていた。沢山の涙を零しながら。

「晃‥」兄が僕に何かを言いかけたが、僕はそれを遮り

「母さん、ただいま」

そう言うと、母は声を上げて涙を流した。

今は、兄や母と話したい事は山のようにあったが、僕の頭は至って冷静だった。

「兄さん、父さんは?」

兄の表情は少し恐怖に染まったように見えたが、小さく深呼吸をし、リビングの方を指差した。

 僕は、そっとリビングに入って行くと、ソファーには父が小さくなって座っていた。

 あの日の強気な父の姿はどこにも無く、疲れ切ったようで、この2日見ない間にえらく老けこんだ様にも見えた。

「父さん‥ただいま」

僕が声をかけても、俯いたまま暗い表情をしていた。僕は黙って、隣に座り父の方を向いた。

「父さん‥ごめんなさい‥本当にごめんなさい」

そう言うと、父の表情は驚いたように目を見開き僕を見た。

「この2日間ずっとずっと考えて、その間、何度も父さんが憎いと思った。でも、それは間違っていたよ‥。本当は父さんが憎い訳じゃない。ずっとどこかで逃げ出したい気持ちがあって、弱い自分がいつもいて。そんな自分がきっと父さんを憎む事で、救われるなんて勘違いしていた。僕は僕でしかなくて、今ここにいる理由なんて家族じゃないとダメとかそんな浅い物ではなくて、一緒に今まで過ごしてきた日々を全て無かった事に出来る訳も無くて‥。僕はあなたの息子で、ここにいる母さんと兄さんと血の繋がりがなくても、かけがえの無い家族に変わりは無い。確かに父さんのしてきた事は許せない部分が沢山ある。でも、僕はそれでもこの家族の一員でありたいんだ。夢ばかり見て、ちっとも父さんの思い通りにいかない息子だけど‥これからも一緒にいてもいいかな?」

父は涙を流しながら僕を抱き締めた。

「晃‥本当にすまなかった‥」

いつも強い父の姿が壊れていった。

「本当に俺は、情けない父親だ。お前を苦しめてばかりいた。憎まれていても仕方ないと思っていた。だから余計にお前には強く当たっていたのかもしれない。本当にすまない‥」

「父さん‥」

僕の目からも涙が止め処なく溢れた。


暖かい‥僕は家族の元へ帰ってこれた。僕の帰る場所はここしかない。永遠に僕の帰る場所は、この家族でしかない‥。



それからは、毎日が少しずつだけど変わっていった。

毎朝の光景は同じ様でも、父との会話も少しずつ増え、毎日がどこか幸せで、心の底が暖かくて、今生きている事に、そして僕が今存在している事に、限りなく実感が湧いた。

 変わらずに大学に通う日々も、絵を描き続ける毎日も、希望という光に照らされているようで。僕は再び夢を追い続ける毎日の中へ、永遠に抜け出せる事が出来ないかもしれない葛藤の中へ、強く踏み出していった。


「晃!遅れるよ〜早く早く!」

そう綾子に急かされ、僕は慌てて空港のロビーを走っていた。

「もう!今日でしばらく啓吾と会えなくなるって言うのに、なんで寝坊するかなぁ」

「悪い、悪い。まぁいつもの事じゃん」

僕は、笑いながら綾子の後を追っていた。

 ついに啓吾が旅立つ日が来たのだ。空港の出発ロビーに集まっていた啓吾や、啓吾の彼女の友人たちが囲む輪の中へ慌てて入っていった。

「晃‥お前最後の最後までやってくれるな」

そう言って笑顔で肩を叩かれた。息の上がった僕は、膝に手を当て、とても体を起こせそうにないまま

「ハハハ‥まぁ俺らしい見送り方だろ?」

そう言うと啓吾は僕の体を起こし、抱き締めてきた。

「晃!がんばれよ!遠く離れていても、俺たちはずっと友達だ!」

「ああ、もちろん!お前もがんばれ!幸せになれよ!」

心の奥底で抑え込んでいた気持ちがグっと溢れ出そうになり、目頭が熱くなりかけたが必死に堪えた。

「おい、晃〜お前泣いてんのか?」

そう言う啓吾の目は真っ赤になっていた。

「お前が泣いてるのかよ!ハハハ」

一緒になって笑う綾子は、もうボロボロと涙を零していた。

「いつか、いつか必ずまた会おう!その時までには、俺は絶対に夢を叶えて、最高の絵描きになってるからな!」

「ああ、当たり前だ!俺は、最高に幸せな家族を持って、お前に自慢してやるよ!」

お互いに涙を零しながら肩を叩き合い、僕は啓吾の肩をそっと押しだした。

「いってこい!」

「ああ、またな!みんなありがとう!それと綾子。晃の事頼んだ!幸せになれよ、じゃあな」

そう言うと啓吾は彼女と手を繋ぎ、何度も振り返り手を振りながら、ロビーの奥へと消えていった。

「いっちゃったね」

綾子は涙を流し続けながら僕を見ていた。

「ああ、なんだか寂しい気持ちもあるけど、なんだろう‥俺も負けてられない!がんばらなくちゃな」

僕は綾子の手を握り、歩きだした。

 僕と綾子は、僕があの一人旅を終えて戻って来た後、しばらくギクシャクした関係にあったのだが、卒業旅行を境に今まで以上に近づいていた。決して恋という名の下に関係があるのでは無く、いい加減と言われても仕方ないのだが、それが今僕と綾子にとってはいい距離感なのかもしれない。


 啓吾が旅立ち、それを境に僕たちは忙しい日々を送っていた。綾子は就職活動に追われ、僕はこれまで以上に絵に専念する日々。そうして月日は矢のように過ぎ、僕たちは大学を卒業し、それぞれの道を歩み出した。


 僕は、最後の最後まで本当の母である南由香里の元で働く事を悩んだが、一人で描き続けていた。それは自分の家族の事を思っての事では無い。それは、僕の夢が姿を変えたからだ。姿を変えても、変わらない物。もちろん絵を描き続ける事、そして僕の様々な経験を、そうして手にした想いを、多くの人に届ける事。そして、誰よりも愛する彼女の様になりたい気持ち。

 そんな気持ちは、何年経っても永遠に色あせる事を知らないかのように、僕はあの日の約束通り夢を見続けていた。

 

 数年経ったある日の事。僕は部屋の窓から外の景色を眺めていた。もう桜が満開になろうかという桜並木が遠くに見え、そっと昔を思い返していた。この時期になるといつも思い出す:。

すると突然電話が鳴り、すぐに現実に引き戻されてしまった。

「やれやれ‥、ゆっくりさせてくれよ」

受話器を取り耳に当てると、甲高い女の人の声で

「秋山先生、お電話ですよ」

「誰から?」

「斉藤さんという女性の方です」

「おお、そうか。ありがとう」

そう言って回線を変えると懐かしい声が響いた。

「秋山先生、お元気?」

「先生って呼ぶのは止めてくれよ」

「今度、先生の絵を拝見させて頂こうと思ってね」

「はいはい‥って綾子、こっち帰ってくるのか?」

「うん、もうすぐ春休みだしね。家族でそっちに行こうかと」

「あーそうだな。子供は元気にしてる?」

「もちろん、元気がありすぎて晃や啓吾みたいに育ってしまわないかドキドキしてるわ」

「失礼な‥でも、旦那さんがしっかりしてるから大丈夫か」

「それってどうゆう意味よ!私が頼りないとか?」

「どうだろ?ハハハ」

「そうだ晃、最近南さんはどうしてるの?」

「たまに会ってるよ。やっぱりもう一人の母さんだし、少しだけど親孝行してあげたいとも思っててね:それでも、未だにうちの会社に来いってうるさいけどね」

「そうなんだ。晃は偉いな。あれだけの事があっても、ちゃんと親孝行してるんだね」

「当たり前だ。でもなんでうちの母親の事?」

「いやこないだね、絵の展覧会のお知らせの葉書が来てて、啓吾の所にも届いたらしくて、晃の絵を久々にみんなで見に行こうって話してたのよ」

「そうなんだ。というか母さんそんな事までしてるのか:」

「南さんも晃の事を大事な息子に思ってくれてる証拠じゃないの?」

「そうだな:啓吾も帰ってくるって?」

「うん、来週イギリスから家族連れて戻ってくるらしいよ」

「そっか。じゃあ本当に久々に集まれそうだな」

「でも晃にとっては寂しいんじゃないの?晃だけだよ、結婚してないの:余計なお世話だったかな?フフ」

「十分に余計なお世話だ」

「まあまあ、楽しみしてて。それじゃあね」

「ああ、気をつけておいでよ。じゃあね」

そう言って受話器を置くと、僕の心は学生時代に戻ったかのようで、少し胸が高鳴った。懐かしいな:。そう思うと、また絵が描きたくなってきて、僕は自分の絵の前に立った。

大学時代の最後に描き出した絵、それは未だに描き上げられずにいた。どこか何かが足りない気がしてならないのだ。一体何が引っかかるんだろう:。そう思いながら絵の前で腕組みをして眺めていると、部屋に誰かが入ってきて、僕の隣に並んだ。

それに気が付いた僕は、振り向こうとすると突然肩に手がかかってきた。

「奇麗な桜だね。やっぱり私が見込んだ通り素敵な画家さんになれたようね」

僕は振り向く事を止め、絵を眺めたまま答えた。

「そう言ってもらえると照れるな。でも、あの時見せて貰った君の桜には、まだまだ遠く及ばないよ」

「フフフ:どうかな。それでも君はずいぶん大人になってしまったね。それでも変わらない君で良かった」

「もちろん、だってあの時君は僕にお願いをしていったろ?この世界で一番大切なあなたの願いなら、僕はなんだって聞いていたさ。途中何度も投げ出しそうにはなったけど、今日がやってくる事を何度も夢見ていたから」

「うん:ありがとう」

「そうだ、今度は僕からお願いをしてもいいかな?」

「もちろんよ」

「この絵は何かが足り無いんだ。どうしてもそれが分らなくて、ずっと悩んでいるんだ」

彼女はそっと僕の手を握り絞め、耳元で呟いた。

「世界で一番大切な君のお願いを聞いてあげよう」

そう言うと、僕の絵は命を得た。

 

 キャンパス一杯に広がった桜は、突然枝を伸ばし教室中に広がり、桜の花びらを散らした。それはとても美しい、この世に2本しか咲かない桜となった。辺りは青い桜色に染まり、僕たちはその世界の中でキスをしていた。

 その世界はずっと前から、目を閉じれば瞼の裏に何度も描いていた世界。

ずっと足りなかった物、それは君だった。ずっと夢を見続け、ずっと追い続けていた。それは君だった。

 それでも、この時はきっと永遠では無い。だからこそ、僕はまた夢を見続けてゆく。

 これから先どんなに辛い事があっても、どんな困難が押し寄せてきても、僕はこの気持を忘れない。

 この桜も、あの時の桜も、永遠に忘れない。


 こんな詩が彼女にも届いてくれたらな。

 こんな詩があいつらにも届いてくれたらな。

 そしてこんな詩が世界中に届いてくれたらな。


 青い桜は、永遠に咲き続け、永遠に花びらを散らし、世界を青く染め続けて行く。


                        完

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