レメゲトン第三話 禿鬢長屋
レメゲトン 大東岳
第3話 禿鬢長屋
次の日、朝早く六間堀りの揚羽に見送られて太助と清太たちは焼け跡に向かった。
清太はどうしても焼け落ちた自分達の長屋跡に寄らなければならなかった。父親が子供等の為に必死で稼ぎ貯めたであろう銭を入れた壺を探す為だ。それは裏店から表店へ移る為の資金であった。それを清太は思い出したのだ。焼け場が片付けられる前に探し出さないと取り返しのつかない事になる。幸いなことに差配は逃げ延びていて無事だった。清太たちの姿を見つけると我が事の様に涙を溢れさせて喜んだ。
「あぁ、お前たち無事だったか、親父さんは・・・気の毒だったな。」
清太たちはその差配の了承を得て父の残した銭の壺を探し求めた。
「後でお救い小屋へ行けよ。米と銭が貰えるからな。」
太助の手を借りて、油紙で蓋をされた漬物を入れる位の小さな壺を掘り出したときに、清太は両の手にしっかりと抱きしめて涙を流した。
(先ずは一安心だな・・)それより太助は親父の小言が心配だ。いや、小言で済む筈がない、でっかいカミナリが落ちるはずだ。
(ま、しょうがねぇか、拳骨一発ぐらいは覚悟しねぇと・・・)
扨て、太助の長屋、大伝馬町二丁目の徳八長屋------表二階建て長屋三棟、裏長屋二階建て四棟、どぶ板を挟んで平屋割長屋八棟、奥に小さな稲荷が設けられている。
ここの差配の徳八、四十を過ぎたばかりで頭は見事に禿げ上がりそれを隠すため付け鬢を付けているが周りにはバレバレ、店子も面と向かってハゲという始末、その為、誰も徳八長屋と呼ばず周りから禿鬢長屋、ハゲ長屋と揶揄されている。
そこへ太助が清太たち三兄妹を連れて帰ってきた。帰った早々、平助のカミナリが落ちると同時に拳骨一発・・・そのド頭に炸裂・・・と思いきや・・・
「痛てぇ、・・・!」と叫んだのは平助の方だ。
「あ、お父っつぁん、大丈夫か?・・・俺の頭固ぇから。ごめんね、心配かけちゃって。」
「ホントにしょうがない子だよ。お前は・・・友達思いなのはいいけどね・・・おや、・・・後ろにいるその子たちは・・・?」
とおつたは清太たち兄妹を見つけて太助に尋ねた。
「コイツは俺の友達、まぁ弟分みたいなモンさ。昨日の火事で災難に遭っちまってさ、ここへ連れて来た。当分面倒みるぜ。」
「あ、あぁぁん?・・・おめぇ勝手にそんなこと・・・」
平助が息子に説教しようとする矢先にその隙も与えず長屋の住人が清太たちを取り囲んだ。
「初音の馬場で火の見櫓がぶっ倒れたって、ホントか?」
「あれが倒れるなんて、馬喰町で鬼が出て暴れ回ったって話はやっぱりホントか。お前らよく無事だったな。」「鬼の姿を見たのかい?」
と矢継ぎ早に昨日の様子を聞き出そうとした。
「その子等の親はどうした?」
「あぁ、櫓が倒れてさ、下敷きになっちまった。・・・それでさ・・」
いつになく真剣な顔つきで太助は二人に頼み込んだ。
「お父っつぁん、お母っさん、頼みがあるんだ。こいつ等をここへ置いてやりてぇんだ、頼むよ。」太助は拝み倒す様に懇願する。
「一つ空いてるところがあったんじゃないか。」
「子供だけで住めるわけねぇだろ。」
「あの禿がまたやいのやいの言うに決まってるよ。」
長屋の住人たちが太助が連れて来た子供等を囲んで、扨てどうするかを相談した。
此処の住人は太助親子の他に居職の畳屋、豆腐屋、大工の甚五郎、左官の長吉、辻講釈師、桶屋、浪人者の儒学者、屋台引きの蕎麦屋、油問屋、味噌やの通い番頭が一人ずつ、後家さんでお針の師匠、それと、もう一人・・・
「いくら空いてても子供だけに貸せるか!」
この時そう怒鳴ったのは差配の徳八だ。
「そこをナントカさぁ・・・融通利かせてくんねぇかな。」
「ダメだ、ダメ、向こう(馬喰町)の町役人に頼め。籾蔵の所にお救い小屋が出てるはずだ。」
籾蔵は向柳原通りに寛政四年に二棟、同五年、七年、八年と次々作られ、計十二棟
更に深川新大橋向に享和三年まで十一棟が作られ合計二十三となった。ここで大火による類焼御救いが施され、類焼窮民御救米銭相渡候儀申上候書付によると、町会所から被災者に米銭が渡されていた。その額は平均、白米三升、銭二百文であったという。(この他に平時の困窮者に対する定式御救というものもあった。)
「そこはもう行ってきたよ。でも幾ら米と銭を貰っても住むところが無ぇんじゃしょうがねぇだろ。とりあえず住むところが見つかるまでさ・・・」
「見つかるまでって、いつまでだ?そういって居衝かれたら困るんだ。だいいち、まだ手習いも終わってない十、十一の子供に店賃払えるか。」
「あ~~らま、ひでぇ言い方。」
「そこまで言うなら・・・平助、お前ンとこで引き取れ。お前の倅が連れて来たんだ。この際三人増えても文句ないだろう。」
「えっ、え・・・?俺ンとこで・・・」平助の目が点になった。この長屋で他に子供たちを引き取れそうなところは、・・・平助が豆腐屋と畳屋へ目を向けると二人とも・・・
「俺のとこは五人もいるし・・・」
「俺ンとこも嬶の他に子供が三人、それに婆さんもいるから。」
と二の足を踏んでいる。これに徳八は憤懣を顕わにした。
「だいたい俺はもう我慢の限界にきているんだ。これ以上お前さんたちに引っかき回されるのは御免だ。まともに店賃払っているのは半分もおらんじゃないか。俺が毎度毎度地主に責められてこのザマだぁ!」
と怒りに任せて頭の付け鬢を取ってしまった。俺がこうなったのはお前らの所為だ、と言わんばかりに禿げ上がった頭をみせた。
------あぁ気の毒になぁ、と誰かが言った。店賃ぐらいチャンと払ってやれや、俺は無理だけど------他人事の様に言う者もいる。
「何だよ相変わらずここの店子の連中、まともに店賃払ってねぇのか。」
太助も呆れた様に周りの大人たちを見回した。だがその言葉にふんぞり返って応えたのは大工の甚五郎だ。
「そんなことはねぇ、チャンと払った。」 「いつ?」
「半年前だ。」「そりゃ褒められたもんじゃねぇな、半年前に一回払ったきりじゃ、俺なんか三月前にチャンと納めたぜ。」こう言ったのは左官の長吉だ。
甚五郎は払った、と胸を張り、長吉は俺はお前よりましな方だと嘯く、だが二人ともその前の払いがかなり滞っているのだが・・・
「威張るな馬鹿ども!お前らが店賃払うのは博打に勝った時だけだろうが、ホントに店立てするぞ。」
「「日銭は生活費だ。(あと博打の元手に決まってンだろうが)」
「江戸っ子は宵越しの銭は持ってはいかん、というお上のお達しが・・・無かったっけ・・・?」
「あぁ、呆れるぜ、これだから二人とも嫁の来てがないんだ。まともに払ってンのはうちぐらいだろ。なぁ大家さん。毎月キチンと・・・」
「太助・・・お前のとこも三月分溜まっとる。」
「は・・・?ンな馬鹿な。」「店賃溜まってるなんてあたしも聞いてないよ。」
女房のおつたも耳を疑った。太助とおつたが平助の方を見ると、ドギマギした表情を見せている。------だいたい読めた、・・・コイツ等(甚五郎と長吉)か、太助は二人に向き直り物凄い剣幕で怒鳴り散らした。
「甚の字、長の字、てめぇ等またお父っつぁんを博打に誘いやがったな!」
おつたも平助を責めている。
「この表六、倅が一生懸命働いているのに、博打に現を抜かすなんて、この罰当たりが!お前が息子に説教出来る立場か。」
「無理やり誘ったわけじゃねぇ。」二人は責任逃れで言い訳するが、とうとう取っ組み合いの大騒動になった。豆腐屋と桶屋が間に入って収め様とするが収集がつかない。
「おつたさん、まぁ抑えて、岡場所の女に入れ込んだわけじゃないから・・・ここは一つ穏便に・・・」と取り静めようとしたが・・・
「ふざけんな!どっちもダメだ。」
今度はその二人にとばっちりが行った。振り回された汁杓子がどっちの頭に当たったのか・・「痛ってぇ―!」という声が上がった。「うちの亭主に何すんのさ!」
他のお内儀さんの怒鳴り声が飛ぶ、辺りはごちゃごちゃになった。
清太たち兄妹も?然とするしかない。どうも自分たちの事で揉め事が起きている、というのを感じ取ることはできた。だが、この子達は何も悪くないのだ。
騒動の大元は甚五郎と長吉が平助を博打に誘った事にある。それが思いのほかのめり込んでしまって抜けられなくなった、店賃に払う分まで手を付けた、という訳だ。徳八は今こそ大家の威厳を示すとき、とばかりに一括しようとしたが聞く耳を持つ連中ではない。放っておけばいいのだが長屋を壊されたら、それこそ地主に何を言われるか・・・(修繕費は地主持ちだ) とばっちりは自分に跳ね返ってくる。
「こらぁ!お前ら、いい加減この俺の言う事を聞かんヤツは・・ホントに店立てするぞ。出て行ってもらうからな、今度はお前らみたいなやつらじゃなくて、身元宜町人で店賃も毎月キチンとびた一文削らず払う者を・・・」
-------そんなのいるなら連れて来てみろってんだ------という声が飛んだが誰が言ったか分からない。遂に徳八までその騒ぎに巻き込まれ、叩かれ、蹴られ、負けてなるかと、応戦しなければ、・・良かったのだが、その為徳八の付け鬢が宙を飛んで、
おみつの顔に引っ付いた。それを手に取り、臭いを嗅いで・・
「ン~~、ばっちい、」と放り投げた・・・便所へ・・・
我に返った徳八が騒ぎ出す、
「あ、あーーッ、俺の付け鬢何処いった?」
「知るか、バカ。」「見苦しいのが嫌ならいっそのこと最初から全部剃っちまえばいいんだ。十徳羽織って角頭巾被りゃ医者か学者に見えるぜ。それこそ身元宜しき町人ってのが住まわせてくれって寄って来るかもな。」
「うわ~~ん、バカヤロー、お前ら覚えてろ~~~」徳八は泣きながら自宅へ引き戻った。
「あ~~ぁ、酷ぇことすんなぁ、お前ら、大家泣いちまったじゃねぇか。」
「俺はなんにもしてねぇぞ。」「いやどさくさに紛て蹴っ飛ばしたろ。」
その姿を見て周りの騒ぎが少し収まった。清太は不安な気持ちで太助に向っている。
「あの、・・・たー兄ィ、おいらたちここへきてよかったのかな?」
「あぁ、構わねぇ、心配すんな。」
「あのおおやさん、おいらたちに、たなちんはらえるかって、しんぱいしてたけど、父ちゃんがのこしてくれたぜにがあるからだいじょぶだよ。はらえるよ。」
そう言って十助の残した銭の壺を太助に渡そうとしたが・・
「いいからそいつはしまっとけ。人に見せるな。」
しかしこういう事に鼻が効く奴がいる。清太に声をかけたのは甚五郎だ。
「銭持ってんのか・・」
「うん、さっきここへくるまえにおすくいごやでぜにとこめをもらってきたよ。」
「よし、次の寝床が決まるまで、とは言わねぇ、ずっと俺ンとこで寝かせてやろう、その代わりその米と銭はおっちゃんが責任もって預かろう。」
その途端、太助とおつたの怒号が飛んだ。
「すっこんでろ、この竹ッぺら!お前の目当てはこの子が持ってる銭だろうが。」
「ひでぇ言い方するなぁ、このおばちゃんは・・・」
おつたの気勢に押されて甚五郎は首を引っ込めた。
「しょうがねぇな、太助、もう一回大家を呼んでこい。いつまでも泣いてないで後始末をつけろ、ってな。」平助に促されてまた太助が大家を呼びにいく。
また大家が呼ばれ清太が銭壺を見せた。四文銭が多いが二朱銀、壱分銀も何枚か混じっている。
「全部で三両近くあるか・・・真面目に、必死に貯めたんだろうな・・・この子等の為に・・・」
「大家さん、こいつは成りは小さいが一丁前に天棒担ぐぜ、俺が保証人だ、いいだろう?」
「何を生意気に、たいして歳も変わらないお前がいっぱしの口を叩くわい。子供が
一体どんだけ稼げるんだ。だいいち手習いもまだ終わらない歳だろう。」
「おいらたー兄ィといっしょにあさからしょうばいにでるよ。かえってきたらそのあとでてならいにもちゃんといくよ。」
「まぁいいだろう、・・・(太助のほうを向いて)お前がこの子たちをチャンと面倒みるならそれもいいさ。この金はこの子たちの為にお前がキチンと管理しろ。」
大家はそう言って自宅に戻った。
「ありがとさん、さすが大家さんだ、話が分かるぜ。(伊達に禿げてねぇな)」
すったもんだの末、清太たち兄妹を甚五郎の家に寝かせることにした。平助を博打に誘った罰だ、と言われたが何で俺ンとこで、と憤懣やるかたない。
「あぁぁ、嫁も貰ってねぇのによ、いきなり三人の子持かよ。布団は俺の分しかねぇぞ。」
「ぶつくさ言うない、後で道具屋から借りてくりゃいい。」
甚五郎に対して清太たち兄妹は姿勢を正し三人揃って挨拶わした。
「おじちゃん、これからおせわになります。」
「おぅ、こっちもよろしくな、これからお世話してやるぜ。」
と観念してため息をついた。間口九尺奥行二間半の割長屋、畳などという上等な物はない。板の間に花筵を敷いただけ、土間に鍋、釜はあるが自分で煮炊きをしている様子はない。大工道具と布団の他は小箪笥ぐらい、殺風景な部屋だ。菜助とおみつが部屋を見渡して・・・
「なんにもないね、ここかみだなはないの?」
「そんなご大層なもんはねぇな、神様に願掛けしても博打に勝たせてくれた試しがねぇ、拝むだけ無駄ってもんだ。」
そう言う甚五郎におみつが手に持っていた菩薩像を見せた。
「あのね、これをおきたいの。」「なんだ、そりゃあ?」
「それ、ずっとまえに父ちゃんがおおかわでひろってきたかんのんさまだよ。だいじなものだからそれもってにげてきた。」
「大事なものは他にもあるだろうが、・・・こんな薄汚れた観音様なんかそれこそご利益なんか無さそうだ。」
「でもこれだいじなものだから、すてちゃいけないきがするんだ。」
「そんならそこの小箪笥の上にでも置いとけ。」
そう言われて清太が箪笥の上に母親の位牌と並べて菩薩像を置くと兄妹たちは揃って手を合わせて拝み始めた。これを見た甚五郎も神妙な表情を浮かべた。
(俺もガキの頃はこんな純な気持ちを持って気がするが・・・どこかへ置いてきちまった気がするな・・・どうせ神様拝んでも助けちゃくれねぇって、のは後から、大人になってから分かるモンだけどよ。博打に勝たせてくれた試しが一回もねぇモンな・・・)
その清太たち兄妹が神妙な面持ちで拝んでいる最中に、長屋の奥から奇声の様な途轍もない笑い声、叫び、唸り声が届いた。これには清太たちも驚いたが甚五郎には聞きなれた声だ。
「えッ、なにこのこえ、・・・けものがいるの・・・?」
「あ、また始めやがった。毎度毎度薄気味悪い、ったらありゃしねぇ。」
「ひとなの・・・?」
「当たり前だ。獣がいるわけねぇだろ。チャンとした人間だ。ただ時々素っ頓狂な声を上げるんでな、長屋の住人も迷惑してるんだ。」
「かわったひとがいるんだね、ここ・・・」
チョット覗いてみたい気がしたが、甚五郎に------やめとけ、そこにいるのは鬼婆だ、取って食われるぞ、と脅された。それを聞いた三人は肝を冷やしてガタガタ震えて互いにしがみついた。
「え~~~このながや、おにばばがいるの?」「よるにおそってこないの?」
「襲ってきたらお前が弟と妹を守るんだな、怖いか?・・・ま、俺もいるから安心しな。」
「う、・・うん、おいらが菜助とおみつをまもるよ。おにばばなんかこ、こわくないよ。」
勿論冗談だがあまり脅かし過ぎて夜に寝小便をされてもこっちが困る。
その夜拾ってきた猫が寄り添う様に寝入った兄妹たちを見て甚五郎にも心に帰するものが芽生えた。子供たちのすすり泣く声が甚五郎に聞こえている。
(昨日の今日だからな、しょうがねぇか・・・気の済むまで此処にいりゃいいさ、
朝晩の飯は太助のところで何とかするだろう)
「さて、蕎麦でも手繰って来るかい。」そう言って夜の町中へ出て行った。
翌日、明け六つ半、この禿げ長屋・・・ではなくて、徳八店にも朝の物売りがやって来る。シジミ売り、納豆売り、豆腐屋に魚屋はここにもいるし、新たに青物屋も加わったから(清太のことだ)、飯のおかずには困らない。その納豆売りの少年がおつたの所へ顔を出したとき、見慣れない幼子を見つけた。
「おや、見たことない子たちだな、この長屋の新入りか?」
二人とも菜助とおみつだと自分たちの名を言った。
「一昨日の馬喰町の火事でね、焼け出されて太助が此処へ連れて来たのさ。太助はその子たちの兄さんを連れてもう河岸へ行ったばかりだよ。」
「相変わらず早いねぇ、おいらまた、お内儀さんと親父さんが頑張って太―ちゃんの弟妹を拵えたのかと思ったよ。」
「このバカ何言ってんだ、相変わらず減らず口ばかり叩くんだから、そういう所は太助に似てるよ。先が思いやられるね、全く・・・」
この太助と同年の留吉は二人に向き直り事情を聞いた。
「そうか・・・お前らのお父っつあん、あの火事で・・・でも何も心配いらねぇ、
お前たちはいい所へ来たぜ。ここの長屋の人達はみんないい人だし、それに太―ちゃんがいるからな、必ずお前たちの力になってくれるぜ。」
「あんまり持ち上げるのは止めとくれ、あのバカおだてられるとその気になって木の上にまで登っちまうからね。」
「う~ん、たしかになぁ、登ったまんま下りてこねぇ時があるからなぁ・・・豚もおだてりゃ、って言うけど、太―ちゃんは豚じゃねぇやな、喧嘩ッ早くて聞かん坊の猿だよな。」
「真顔で言うな!」身内が遜って愚妻、愚息という事は多々あるが他人に言われたらカチンとくるものだ。口が滑った、コイツはいけねぇ、とばかりに留吉はそそくさとその場を後にした。
太助は日本橋で自分の仕入れを先に済ませてその足で清太を連れて十間店町、乗物町を越えて真っ直ぐに八辻ヶ原の八っ茶場へ向かう、次は清太の青物の仕入れだ。
実は昨日のあの騒ぎの後、太助は八っ茶場へ向かい、生前の十助が懇意にしていた仲買人を探し出して清太の仕入れの分を確保してくれるよう頼んでおいたのだ。
その道すがら・・・
「ウチの長屋に鬼婆がいるって・・・?」
「うん、まっかなかおして、口がさけててへんなこえだしてながやのひとたちをおそうんだって。」甚五郎はそこまで言ってない。
「ハッハッハ、甚五郎ちゃんに担がれたな。変な姉ちゃんはいるけどな、ま、お前も近づかねぇ方が無難だな。」
「そんなにへんなひとなの?。」
「物書きの姉ちゃんらしい。戯作者ってやつなんだと。」
「あ、しってるよ、ももたろうとか、さるかにかっせんとか・・・」
「赤本じゃねぇ、その姉ちゃんが書いてるのは悪書だ。」
「あくしょ・・・?」
「お上に目を付けられそうな読み本だよ。周りの人たちが言うにはかなりヤバい内容だって・・・誰かありゃこんにゃく本だ、って言ってたな。確か一度とっ捕まったって聞いたけど。」
「こんにゃく本・・・って、コンニャクのつくりかた・・・?」
「う~ん、そういうのとは違うかもしれねぇ、ま、読み本は漢字が多くてな、読んだことはねぇ。」
君たち子供が読むべき内容は書いてない。桃太郎や一寸法師の話しではない。子供は読まなくてもいいのだ。
この時世は老中水野越前の改革の真っ最中、享保、寛政の趣旨に添うべしと華美な衣類、帯の追放(これにより生活難から自殺した織物職人も出たほどだ。)奢?禁止令、女義太夫三十六人を投獄、女髪結い、女師匠、茶汲み女も禁止、人情本の取り締まり、有無を言わさぬ人返し令、芝居、寄席の弾圧(忠邦は本気で潰す気でいたらしい)これは遠山左衛門の尽力により数を減らして移転させることで決着を見たが、見せしめの矛先は役者に向けられた。生活が贅沢過ぎる、と海老蔵は江戸十里四方の追放、中村歌右衛門は相撲見物をしただけで手鎖五十日------これは罪人を作るための改革じゃねぇか、生活を失った者はどぅすりゃいいんだ。そんな怨嗟の聲が市中に充満した。
町人文化が活況を呈すると武士を軽んずる風潮が起きて来る。武威は既に地に落ちている。手本となるべき武士そのものが毒に侵され上から下まで奢?にまみれていたのでは上を敬う気持ちなど起きよう筈もない。為政者から見ればこれ程腹立だたしいものもないだろう。改革の本丸である幕府財政の立て直しを頑強に推し進めるには世の中の退廃を一掃せねばならぬ、それは自分にしか出来ない------
老中首座の忠邦は一徹なまでの思いを胸に秘めて改革を邁進させている。
「そのおねえちゃん、どんなはなし書いているんだろ?ももたろうとか、いっすんぼうしみたいなものなら、おいら弟や妹にもきかせてやりたいな。」
「そういう子供に優しい内容じゃないんだな。さっきも言ったろ、その姉ちゃんが書いているのはお上に目をつけられる人情本だ。その取り締まりが今やかましいからな、あっちこっち逃げ回って、ウチの長屋に流れて来たのが三月前になるかな・
・・おかげで皆迷惑してるんだ。夜の夜中に奇声をあげてケタケタ笑い出したり、
苦しんでいる様な唸り声あげたりな・・・」
「こわッ(怖)・・・」
「物書き、ってのはああいうのが多いのかな、・・・頭の中どうなってんのか見てみたいモンだ。」
そんな話をするうちに八辻の原の広場に着いた。先の火事で多町、連雀町にも被害が出たが此処は変わらず魚河岸にも匹敵する数千の人の出入がある。
寛永三年の四月に筋違見付けの河岸に十二店の問屋が開業、千住の市場から野菜類を受け売りしていたが同年十月に河岸の営業を禁じられそれぞれ永冨町、多町、連雀町、佐柄木町に分かれたが徐々にその数を増やしその総計は八十一人、しかし明暦の大火で佐柄木町、連雀町の諸問屋は多町に合併、正徳四年二月、幕府は青物御用を多町の問屋に命じた。最後まで残っていた永冨町の問屋も多町へ合併し享保年間には問屋の総数は九十四人となった。八辻ヶ原は主要八街道が集まる要所である。そこへ諸国青物問屋が店を並べ、仕入れ商人、買出し人、その手代たち、青物を納めに来る近在の農家、坂の多い江戸の町で大八車を押す立ん坊の車力屋など、当然人が集まれば休憩所の茶屋が出来る、その八辻の原の茶屋が短く訛って八ッ茶場と呼ばれるようになった、という説が有力であるが、------千住市場の方ではその前から野菜のことを------やっちゃい、やっちゃい、と呼んでいた様で、野菜売り場、やっちゃい場、やっちゃ場、それがそのまま受け継がれた、という説もある。
清太は生前の十助が懇意にしていた仲買人の貞助から確保してもらっていた青物を受け取ると嬉しそうな顔を見せた。貞助は十助の仕入れに付いて来たことがある清太を二三度見かけて言葉を交わした事もある。
「随分と面倒見がいい事だな。太助、お前自身の仕入れもあるだろうに・・・」
「ずっと付いててやれるわけじゃねぇし・・・いずれ一人でやらなきゃならねぇ時が来る。それに・・・あいつのお父っつぁんが死んだのは、俺のせいなんだ。」
「お前の所為だと・・・?」
「うん、・・・まぁ・・・」太助は言葉を濁した。その様子を見て、貞助は・・・
「何があった、とは聞かずにおこう、子供のお前が気に病むことじゃない。それよりこれからどうするかだ。まだ年端も行かない幼い子供が人でごった返すこの八ッ茶場へ仕入れに来るのも危なっかしい、暫くはお前が付いててやればいい。お前も大変だろうが・・・」
「ありがとう、さださん------(清太の方へ向き直り)------よし、清太、籠は重くねぇか。」
「へいきだい。おいらがかせがないと菜助とおみつがうえじにしちゃうもんね。」
清太の言葉で貞助も太助の負担が増えるのではないかと心配したが・・・
「俺はそんなにヤワじゃねぇ、心配すんな。魚屋と八百屋が一緒に廻りゃ売り上げ倍増だぜ。それより清太、俺が教えた口上、まだ覚えてるよな。」
「チャンとおぼえてる。------なかごかついでしんちょうに(辰朝、時刻で午前八時頃、またその前後二時間を言う)、ぜに七百をたずさえて、大根、れんこん、芋をかい、われちからのあるかぎり、かたのいたむをかす(屑)とせず、足にまかせてちまたにこえをふりあげてかぶらなめせ、大根いかに、芋や、芋や、はすもそうろう。」 ( 三田村鳶魚、江戸生活辞典、青蛙房)
「よく教えたな。覚えた方も大したモンだ。ま、しっかりやってこい。」
太助と清太がその場を去ろうとしたとき、問屋のお内儀さんらしい女性が貞助に声をかけた。
「貞さん、これをあの子等にやっとくれ。」
「つるさん・・・それは?」
つると呼ばれたその女性が佐平次に差し出したのは茄子の束十本ばかり・・・
「走りものだけどね、ご注進前だから、御納屋の役人(賄い方)も買い上げていかなかったんだよ。」(歳時記では茄子の出始めは六月になっている)
神田新銀町に幕府青物役所が設けられていて、そこに江戸城賄い方の役人が詰めている。ご注進前の初物、走りものは売買が禁止されている(表向きは、だ)
初物がお上の御膳に上った時、------「昨日はありましたが、今日は御座いません。」というのは許されないのだ。その為、初物から継続的に入荷される確約が取れなければ役人は品物を買い上げる事はしない。
「これをあの子等に・・・勿体ないな、走りものなら料理屋が高く買うじゃないですか。」
「いいんだよ。あの子等みたいに一生懸命に生きていく子等を見てるとこっちも応援してやりたいじゃないか。・・・それより太助っていうのはあの子だね。巷の噂とはチョット違う感じだけど・・・」
「つるさんの耳にも届いていたか・・・噂が先走りしてあいつの事を悪く言うヤツもいるけれど、世間が言うほど悪ガキじゃないですよ。大人に向かっても横柄な口をきくから毛嫌いするモンも多いけど、そこいらのだらしない大人に比べれば、責任感ってやつをしっかりと持っている。まぁ、根が真っ直ぐ過ぎるのが玉に瑕かな。」
「真っ直ぐなのはいい事さ。歳を重ねりゃ脇道への誘いが増える。脇目ふらずに真っ直ぐ商売に精を出せば小さな芽がいずれ大木になるだろうさ。」
芽吹いたばかりの小さな芽だ、今から枯れぬよう大事に見守らねばならない。それが若木になった時、脇道への誘いに乗っかれば大きな嵐でへし折られる事は多分にある。
貞助は子供等の後を追いかけ------お~い!お前ら、伊勢長のお内儀さんから差し入れだ、持ってけってよ------その茄子を受け取ると太助と清太は大きな声で、ありがとう、と何度も礼を言いながら天秤棒を肩に担いで走り出して行った。
どうか真っ直ぐ伸びて大きな枝を張れる様になっておくれ。未来に向かって走り始めた少年たちに向けたお内儀さんの眼差しは優しさに溢れていた。
日を置かず二度の大火災に見舞われた江戸の町、二度目の火事の中心地となった馬喰町二丁目とその周りは瓦礫の山である。災害跡地では復旧の為に片付けが始まっているが、初音の馬場の火の見櫓はまだ倒れたままだ。清太親子が暮らしていた長屋も取壊されて残材処理の片付けを待つばかりになっていた。
夕暮れ時、そこを人の形をした影がふわりふわけと漂っていた。影本体は歩いているつもりなのだがどうも浮いている様にしか見えない。人が近づいてきたので避けようとしたが向こうはそれに気づかない・・・すり抜けて行った。・・・
(どうなってんだ、周りにいる人間たちは誰も自分に気づかない。自分の家はどうなった・・・?子供たちは何処へ、無事なのか・・・?)
影は死んだ筈の十助であった。
絶命した十助の体は闇の中をそのまま奈落の底へ、冥界の入口まで落ちていくか、と思われたその時、遥か上から落ちてきた何かが十助の体に絡みついた。------
綱だ。十助はその綱を掴むと必死で上によじ登っていった。僅かでも力を抜くとそのまま奈落まで落ちていく。だがその恐怖より脳裏に浮かぶのは子供たちの顔だった。落ちてたまるか、戻らなければ・・・子供たちの所へ帰るのだ、その思いが必死で綱を握らせていた。終わりが見えない長い時間を過ぎて、やがて微かな光を見つけて這い出した所は火事の焼け場の跡だった。そこは自分たちが暮らしていた長屋跡地だ。
(なんだよ、確かにここは俺がいた長屋だが、残ってんのは残骸だけじゃねぇか、
辺り一面火の海になったようだな。・・・そうだ、あの時、子供たちを連れて馬場の方へ避難した。その時火の見櫓が倒れてきて俺の体にぶつかって・・・子供たちはどうなったんだ、まさか、一緒に潰されたんじゃ・・・)
十助は子供たちの名前を呼びながら辺りを漂い必死に探し歩いた。初音の馬場から柳原土手のお救い小屋が出ている籾蔵の前も探し回ったが子供たちの姿は見つけられなかった。------落胆してまた元の長屋跡に戻ってきた時・・・十助の目の前にのそりと現れたのは、あの日、清太が拾ってきた銀の毛色のキジトラだ。千里である。周りの人間たちは十助の存在を感知出来ないが猫は確実に十助の姿を捉えている。それが人の言葉で話しかけてきたから十助は仰天した。
「済まなかったな、親父・・・とんだ目に合わせちまって、お前ら家族をこんな災難事に巻き込むことになるとは思ってもいなかったよ。」
「お前は、清太が拾ってきた猫・・・このとんでもない騒ぎはお前が引き起こしたのか!、何でこんな事に、・・・ちきしょう、俺は一体どうなったんだ。路を行く人間たちが誰も俺に気づきもしねぇ、俺の子供たちは何処に行った?こうなったのは全部お前の所為だな!」
「・・・・否定はしねぇよ。俺と妖術使いの揉め事に巻き込んでしまったのは本当に済まないと思っている。」
「何がすまねぇだ、ふざけやがって、人間みてぇな口を聞きやがる。それより俺は一体どうなったんだ。なんか心なし影が薄くなったような・・・」
「もう自分じゃ気がついているだろ、今のお前は幽霊だよ。」
「やっぱりそうか・・・もしかしたらと思ったが、やっぱり俺は死んじまったのか。」
「死にきれず戻ってきたか。」
「当たり前だ。子供たちの無事を確認しねぇと、このままじゃ成仏できねぇ。」
「多分無事だぜ。あの夜、二十くらいの女がお前の子供たちを連れて(両国)橋を渡って深川へ避難するのを見たからな。」
「じゃぁ無事なのか、助けてくれた女ってのはどこの誰だ?」
「そこまでは知らねえ。本所、深川辺りも探してみたが居なかったな。もう、この辺りには居ないかもしれねぇ。」
「無事なのはいいが、子供たちだけで何処へ行ったんだ。清太は粋がって太助なんて悪ガキの後にくっついて菜籠担いでいるが、自分一人じゃ何も出来ねぇのに・・
菜助はまだ手習いにも行ってねぇ、おみつはまだ三つだ。もし悪いやつらに拐わかされていたら、助けようがねぇじゃねぇか。おい化け猫、猫なら鼻が効くだろ、お前の蒔いた種だ。責任持って探せ。」
この時代、大火事の後で親を亡くした親類縁者のいない子供を浚い、拐わかし、それが男の子であれば陰間茶屋へ幼女は遊女屋へ売り飛ばす。災害に会った子供たちへの対応は幕府も町名主、町役人、家守に対して保護するように通達を出しているが、いつの世でも法の網を潜り抜け悪を働く人間はいる。十助はそれを恐れた。
「わかってるよ、そうせっつくな。如何やら次の日此処へ戻ってきたらしい、まだ匂いが残っているな。」
「そんで、此処から何処へ・・・?」
千里は鼻をひくひくさせ辺りの匂いを嗅いだ。
「お前の倅の他にもう一人いたみたいだな。もしかしたら・・・あいつかな?」
千里は自分に向かって石礫を投げた少年を思い出していた。
「清太と一緒にいた子供・・・?もしかして太助っていう、清太をいつも引っ張り廻していたガキか。」
千里は精神を集中させて虎の妖力の一つである八方睨みを放った。耳、鼻、体毛、尻尾の先まで震わせ四方八方からの情報をレーダーの様に集める。
「微かだが・・・浜町堀の向こうの方から匂いが流れて来ている。」
「伝馬町の方か・・・そういやあのガキ(太助)も伝馬町の方だと聞いたが・・」
千里は少し離れた新道の通りに焼け残った商家の土蔵の屋根にふわりと飛び上がった。「おめぇも登って来い。」
十助に声をかけたが十助は自分がそこまで登っていけるとは思ってなかったようだ。------馬鹿言うな登れるわけがない、と答えたが、・・・
「今のお前なら浮くことが出来るはずだ。精神を集中して地面を蹴ってみろ。」
半信半疑で言われるままに上に飛ぶ様な意識を持つと・・・宙に浮くことが出来た。------浮いた、という驚きの声を挙げると同時に、やっぱり俺は幽霊になっちまったようだな、という諦めの気持ちが湧き上がってきた。だが今は子供たちを捜すことが先決だ。十助は宙を漂いながら千里の後をついて行った。
もうすぐ日が落ちる、辺りは夕餉の支度に取り掛かる時刻となった。
禿鬢長屋の住人たちも夕餉の支度に勤しんでいる。清太たち兄妹は太助の家族が朝昼晩の飯の世話をしてくれている。寝るところは大工の甚五郎の家だ。この男が世話をしているわけではない。幼い兄妹たちに寝床を提供しているだけだが、このところは乗っ取られた、というほうが正しいかもしれない。今日も帰りが遅くなる。
寄る所は岡場所か博打場だ。
------なんでこうなっちまったかなぁ、ツキが全然回ってこねぇや、こん畜生。
博打場からの、今日もオケラの帰り道、蕎麦食う銭しか残ってねぇやぃ、トホホのホ、と来たもんだ・・・ボヤキながらの帰り道。
八っ茶場も魚河岸も夜が明けきらぬ内から人が動き出す。明け六つのセリが始まる
頃には其処は数千の人でごった返す。その中に入っていくためには早寝早起きが肝心だ。太助も清太も既に寝床に付いている。真面目に商売に精を出す者たちは夜寐蚕作の心掛けを怠らず、宵っ張りの朝寝坊などしている暇はない。
「ところでお前は何で娑婆に戻ってこれたんだ?・・死にきれずに化けて出てきたというわけじゃなさそうだ。」 千里が道行に十助に尋ねた。
「綱だ・・・。」
「綱、・・・?」
「たぶん、あれが奈落の底ってやつなんだろう。その底へ落ちていく途中で上から綱が下りて来てな、俺の腕に絡まったから、思わず掴んだんだ。離したら一巻の終わりだと思ったからな、必死になって登ったぜ。途中で何度も腕が痺れて、もうこのまま下へ落ちるんじゃないかと思ったが、落ちたらもう子供たちに会えない、って直感したんだ。」
「・・・・・・・命綱を垂らしてくれたお節介な奴がいたわけか。」
「そういう言い方はねぇだろう、バチがあたるぞ、・・・あ、化け猫には関係ないか。ま、幽霊にはなっちまったけど現に俺はこうして娑婆に戻ってこれたから、感謝してるぜ。」
「相手によってはお節介になる場合もあるって事さ・・・そのままあの世に送ってくれりゃあいいのによ・・・誰も救ってくれなんて頼んでねぇのによ。」
「ハァ・・?何言ってんだ、上から命綱が垂れてくりゃ誰でも掴むだろ。」
「そうだよな・・・誰だって掴むよな。」
千里の遥か昔の遠い記憶が甦ってきた。
悪の限りを尽くした男が死んで奈落に落ちる。そのまま地獄に落ちる覚悟は出来ていた、筈だった。という時に上から落ちてきた一本の綱が男の腕に絡みつき、地獄の入り口から引っ張り上げた。男はその綱を思わず掴んだのだ。そして現世に引き戻された。---------それから永い年月が過ぎた。
(いや、そいつの所為じゃねぇ、結局俺の覚悟なんざその程度の薄っぺらいものだったんだ、執着して、しがみついて、のたうち回ってこの世に戻ったらこのザマよ、情けねぇ話しだ。・・・なんで俺なんか助けた、誰も助けてくれなんて言ってねぇのによ・・・・・・いや、言ったんだろうな、・・・たぶん・・・)
千里は地獄の入り口から現世に引き戻された時から遥かに永い年月を生きてきたようだ。
「それよりこの辺り、大分匂いが強くなってきたな。近くにいるぞ。」
伝馬町牢屋敷の南、大伝馬町二丁目、そこの長屋の一角からの匂いを千里は嗅ぎ付けた。清太と太助はそこにいる。
「あそこだ。」「よし、清太、菜助、おみつ、待ってろ、父ちゃんが今行くぞ。」
二人は一直線にそこを目指した。
清太たち兄妹は今夢の中にいる。清太の記憶の中には父と母の姿はハッキリと刻まれているが、菜助は母の姿は微かな記憶の中だけだし、おみつはは母の顔は知らない。しかし、この夜三人とも同じ様な夢を見た。
両親が揃い子供たちを連れて隅田堤みの花見、大川の花火見物、洲崎に足を延ばしての潮干狩り、現実で体験出来なかった楽しいことがその夢の中にあった。
清太の閉じた瞼の間から薄っすらと涙がこぼれていった。父ちゃん、母ちゃんと呼ぶ清太の声に応える様に・・・子供たちの名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「清太、菜助、おみつ・・・みんな無事か?」
夢の中の声じゃない、現実に聞こえてくる声だ。------目を開けるとそこに居たのは蒼白く薄っすら光る影だ。それが段々と人の形に整っていった。
「あぁ、・・・父ちゃん!」
清太はその影が父の姿だとハッキリと見て取れた。寝ぼけまなこの菜助とおみつも父の姿に気づいた。
「とうちゃん、とうちゃん、いままでどこにいってたんだよぅ。」
子供たちが十助に抱きつこうとしたが・・・・つん抜けて土間に落ちていった。
「あ、あれ?」「い、いったァい」
「父ちゃん、そのすがたは・・・なに・・・?」
「あぁ、どうやら父ちゃん死んじまったみたいでな。幽霊になってお前たちの所へ戻ってきた。」
「え、・・・・ええ~~~ッ!」
つい先日、目の前で火の見櫓に潰されて死んだ父親を目の当たりにした清太はビックリ仰天、まさか父親が幽霊になって戻って来るなど思ってもいなかった。土間に落ちた菜助とおみつはまだ寝ぼけて十助に尋ねた。
「とうちゃん・・・かあちゃんは・・どこ・・?いま、いっしょにいたのに、みんなでいっしょに、おはなみにいってはしのうえからはなびみてたのに・・・かあちゃんいない・・・」
「夢を見てたか・・・楽しい夢だったか?」
「おいらもおなじゆめ見てた。母ちゃんとっくに死んでたのに、みんなそろって、母ちゃんはおみつをせおって、はなみにいって、はなび見て・・すざきでしおひがりもしたよ。」
「そうか、、楽しい夢見たのか・・・良かったな、良かった・・・」
家族の再会にそれぞれの感情が高まり、十助の体が更に光を強めた。明かりのない真っ暗な部屋の中で十助の体が蒼白く、更に強く輝いた。それに呼応する様に子供たちの体も光りだした。波長が同調した。十助が広げた腕の中、先程すり抜けた体が今度はしっかりと子供たちを包み込んだ。九尺奥行二間半の長屋の片隅が柔らかな青い光に包まれていった。子供たちと父親の波長を同調させたものがこの部屋にあった・・・
そこへ、事情を知らぬこの屋の主が脳天気に、ふて腐れ気味に戻ってきた。甚五郎だ。
「今日もオケラだ、コンチクショーときたもんだ。・・・さてあのガキども、もう寝ただろうな。」
そう言いながら家に戻ると入り口の腰高障子から明かりが漏れている。
「あぁ、あいつらまだ起きてやがんのか?・・・まさか明かりつけっぱなしじゃねぇだろな?あぶねぇな」甚五郎が中に入って見たものは・・・
子供たちが蒼く光る人の形の影に抱えられている光景だった。
「え、えぇっ・・・?な、なにこれ、・・・っていうか、あんた、誰・・・?」
恐る恐る声をかけると影が振り返った。幽霊姿の十助に睨まれた甚五郎は悲鳴を挙げた。
「ふんぎゃーーーぁぁぁ! で、出たぁ~~~、お化けぇー」
そのまま隣りの長吉の家に飛び込んだ。
「でた、出た、出た出た、出やがった~~~~。」
「なんだ甚の字、いきなり飛び込んで来やがって・・・何が出た?。」
「お化けだ、お化け、俺ンとこのガキどもに幽霊が憑りついて・・・青い顔して俺を睨んで、怖くって・・・」
「だったらおめぇが子供たちを助けろ。俺ンとこへ来ンな!」
「冗談言うな、こっちが憑り殺されるじゃねぇか。」
甚五郎の悲鳴を寝床で聞いた太助は、奥の戯作者の女が夜になってまた喚き出したのかと勘違いしたが、どうも様子が変だ。
(まったく、毎度毎度はた迷惑な姉ちゃんだぜ。・・・いや、なんか変だな、あの姉ちゃんじゃねぇ・・・騒いでンのは誰だ?)確かめて見るべく外へ出た。
「甚ちゃん、長さん、騒々しいぜ。こちとら朝が早いんだ、騒ぐンなら他所でやれよ。」
「あぁ、太助、たすけて・・・でた、出た。」 「何が・・・?」
「お化けだ、お化け、俺ンとこにいるガキどもに幽霊みたいなやつが抱きついてて、振り返った顔は血の気がなくって、口が耳まで避けててよぉ・・・」
だいぶ誇張し過ぎだ。
「なんだと、そいつは大変だ。」そう言って、怯えている甚五郎を突き飛ばして家の中へ飛び込んで行った。
「清太、無事か?大丈夫か、幽霊はどこだ?俺がおっ払ってやる。」
だがそこで目にしたのは青く揺らめく人の影に寄り添う兄妹たちだった。
「なんだこりゃ・・・」
太助にもその影が人の姿であると認識できた。しかし人間が青く光るはずがない。
「たー兄ィ、父ちゃん戻ってきた!」
清太の表情はこれ以上の喜びはないというもので溢れていた。
「え・・・?戻ってきたって・・・まさかその影が、お前の父ちゃん?・・・火の見櫓に押し潰されて死んだのは・・・俺もこの目で見てるけど・・・」
太助にもそれが亡くなった十助だとハッキリと見てとれた。
「父ちゃんおいらたちをしんぱいしてもどってきてくれたんだ。」
「あぁ、幽霊になって・・この世に戻ってきた・・・ってわけか・・・よ、良かったな・・・」
太助は今の目の前の光景が、まるで夢の中に居るかのように錯覚したが、どうも現実らしい。(どうなってんだい・・・それにしても幽霊なんて初めて見たぜ。)
十助は太助の方に向き直り厚く礼を言った。
「ありがとうな・・・子供たちが無事だったのは・・・お前のおかげだ。此処へ連れて来てくれたのもお前だろ。何から何まで世話になったな。」
「いや、・・・大したことはしてねぇよ。」
十助は何故清太がこの少年に惹かれるのか、その理由が分かった気がする。この少年は難儀にあった友達を見捨てない、という気概があるのだ。
「お前を誤解していたようだ。俺はもうこんな姿だが、今となっては、お前さんだけが頼りだ。・・・・・本当に・・・この子等を頼む・・・・・。」
十助の目から大粒の涙がこぼれた。太助も少し落ち着いたようだ。
「幽霊でも涙が出んのかい、初めて知ったよ。まぁ、俺にどれだけ出来るか分かンねぇけど、・・・約束するよ、親父さん、俺はこいつ等を見捨てる様な真似は絶対しねぇ。」
自分が幽霊になってしまった身ではこの幼子たちの行く末を託せるのはこの少年しかいない。涙が止まらず十助は何度も太助に頭を下げた。
「ところで父ちゃん、よくおいらたちがいるところがわかったね?。」
十助は仔細を話した。此処へ案内して来たのはお前が拾った猫だ、それもどうやらただの猫じゃない、人の言葉を話す化け猫だと------
それを聞いていきり立った太助は血相を変えて表に飛び出した。
------あの化け猫かぁ!まだ近くにいるかもしれねぇ、今度こそ叩っ殺してやる。石をぶつけても死なねぇなら三枚おろしだ。刺身にしてやる。---------
太助は家から出刃包丁を持ちだし路地へ飛び出した。甚五郎がそれを見て・・・
「おい太助、お化けはどうした・・・?おっ払ってくれたか?・・・そうじゃねぇと俺今晩眠れねぇよ。」
「それどころじゃねぇやい!怖いンなら長さんとこへ転がり込んで一緒に震えてな。・・・・化け猫出て来い!。」
清太は大火事の原因が自分が拾ってきたその猫が引き起こしたのではないかと不安な気持ちになった。
「お前のせいじゃないよ。それにあの化け猫はそんなに悪いモンに見えなかったしな、お前たちを探し出して俺をここまで案内してくれたのもアイツだし・・・」
「でもおいらがひろわなけりゃ、・・・」
こんな事にならなかった、と清太は自分を責めている様子だ。
「でもお前にあの猫を拾わせたものがいるんだろう。お前に聞こえてきた声ってやつが、その猫を助けろって・・・」
「うん、ハッキリあたまのなかにきこえたんだよ。でもなんできこえたんだろ・・・?」
「たぶん、訳があるんだ。そいつ(猫)がホントに悪魔のように悪い奴なら子供のお前に拾わせるわけがない。」
その理由が十助にも清太にも分からない。ただ・・・十助が大川で拾った菩薩像が家の中の小箪笥の上からこの家族を見つめていた。
「何処へ行った、出て来い化け猫!それとも、もういなくなっちまったか。」
声を荒げて辺りを探る太助に応える様に表通りの商家の土蔵の屋根の上から声がした。
「騒々しい小僧だな。この前俺に石をぶつけてきたのはお前だな。」
「出やがったな、この化け猫、今度のことは全部お前が元凶だ。おめぇをこのままにして置けねぇ、降りてきやがれ。」
「あの時は随分迷惑をかけちまったな・・・済まなかった。」
「迷惑かけただぁ、そんな軽い言葉で済ませられるか。大勢の人を巻き込みやがって、俺はハッキリと見てるんだ。神田の大火事の時、暴れ回る魔物をぶっ殺して回っている化け猫がいたな、ありゃお前だろ。そんで今度は馬喰町の火事だ。そん時も得体の知れない呪術者が来てお前とやりあってたな。お前らのせいであの騒ぎと大惨事だ。やっぱりあン時、清太にお前を拾わせるンじゃなかったぜ。嫌な胸騒ぎがしてたんだ。親父さんも死んじまったんだぞ。(まぁ、幽霊になって戻ってきたけど)おめぇをこのままにしとくと、またどこで騒ぎを起こすかわからねぇ。そうなる前に俺が退治してやる。・・・・・・ん~~~と、梯子はねぇか?・・降りてこねぇならこっちから登って行って・・・」
「俺を退治する、ってか・・・」
そう言ってるうちにどこからか、梯子を持ち出して来て屋根にかけた。
「そいつは勘弁願いてぇが、ここまで登って来れるかな?」
「造作もねぇ、石をぶつけても死なねぇんなら、三枚おろしにしてやる。肉は四谷のケダモノ店へ売っぱらう、猪と一緒に吊るされやがれ。」
「・・・・魚じゃねぇんだよ・・・・」
太助はが懐から取り出したのは出刃包丁だ。
「そんでもって皮は三味線屋行だ。さぞかしいい音で鳴くだろうな。俺の通り名は二丁出刃の太助ってンだ。冥途の土産に教えといてやるぜ。」
「威勢のいいガキだな。でも(三味線の)皮にするならあれは、盛りがつく前の雌の皮じゃねぇとな、俺のは長く生きてきたせいか、あちこち傷だらけでな。三味線屋もいらねぇって言うだろうぜ。」
「そんなの関係ねぇ、そこにいろ。捌いて叩いて、猫のつみれ汁だ。」
「美味くねぇと思うがな・・・・」
太助がもう一息で上りきる、というところで------千里が梯子の先端にグッと前脚をかけた。
「な、何だ、何する気だ?」
普通の猫に梯子を押す力など無い。だが千里は虎の力を持つ。グワァァッと強い力で梯子を押し出すと太助がしがみついている梯子は垂直に立ち上がった。ユラユラ揺れるその先端を千里の尻尾が二メートル近く伸びて軽く小突いた。
「あぁ、バカやめろ・・・た、倒れる・・・」
案の定、通りの反対側の屋根に激突して太助は地面に投げ出された。
「大丈夫かね。・・・そこの家人が出て来ないうちにとっとと帰りな。」
「そんな心配いらねぇや。それより、おい、・・・お前は一体何者だ?化け猫なんて初めて見るし、幽霊になった人間を見たのも初めてだ。今度の騒ぎは全部お前が引き起こしてんだろう。お前を殺しに来たあの妖術使いもお前と同類だろ、お前らは悪魔か。」
悪魔か・・・そう言われればそうかもしれない。・・・自分の身の上を振り返ればそう言われることがピタリと当てはまる。
「たしかに、この災害を引き起こしてる元凶は俺だろうな。そういう意味じゃ悪魔って呼ばれる方がピッタリかもしれねぇ・・・だが俺もな、まだお前に退治されるわけにはいかない理由があるんでな、お前も俺に下手に関わると命を落とすぜ。」
そう言い残して千里はその場を後にした。
「クソっ、なんだってんだ。なんで此処(江戸)で騒ぎを起こさなきゃならねぇ、人のいねぇ所でやれ!ってんだ、まったく・・・」
その声に応える様に千里の声が聞こえた。
------俺はまだ此処(江戸)を離れるわけにはいかねぇんだ。やらなきゃいけない事があるんでな。---------
「なにがやらなきゃならねぇ事があるだ、騒ぎを起こすことかよ。バッキャーロー!・・・・」
太助は屋根の上を飛び去る千里の姿を見送ることしかなかったが・・・・千里はふと、別の思いに駆られていた。
(なんでアイツに声をかけちまったかな、放っておいても良かったのに・・・)
この先、関わる事はないだろうと思う千里だったが、運命はやがて、この子等と千里を強く引き合わせる事となる。
第三話 完
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