「極北の聖女など不要だ」と婚約破棄されましたが、白夜は九十七日続くので日照計算係のわたしが凍死者名簿を閉じます ~前世は気象庁の季節予報官でした~
「アイシャ・ノルデン。貴様との婚約を破棄する。極北に聖女はもう二人も要らん」
白夜二日目、辺境伯城の広間。
天窓から差し込む光は、夜なのに昼のように白い。
オズワルド・フロストヴェイン様は、隣に立つ少女の肩を抱いて、顎を上げたままそう言った。
蜂蜜色の巻き毛。王都から来た新任の聖女、ミレーユ・ラ・サンシェ様。本物の光属性ギフト持ち。
対してわたしは、十二年間、城の北塔にこもって、目盛りのついた板と砂時計と記録帳を睨んでいただけの女。
「お前のやっている“数えごっこ”は、春とは何の関係もない。ミレーユの祈りがあれば雪は解ける」
広間が沸いた。
使用人たちも笑った。厨房係も、侍女頭も、門番までも。
わたしは一応、確認した。
(現在気温、マイナス四度。北西の風、弱。積雪深、麓で六十二センチ。白夜積算日照、二日目で十九時間。――平年より、三日分ほど多い)
頭の中に、数字が立ち上がる。
ギフト【観測】。半径二十キロの気温・日照・積雪深・土壌水分を、数値として視認できるだけのスキル。
戦闘力ゼロ。鑑定でもない。治癒でもない。ただ、測れるだけ。
前世のわたし――気象庁で季節予報をやっていた三十四歳の女にとっては、これは完璧な観測網だったけれど。
それを言ったところで、この広間の誰にも通じない。
「何か言ったらどうだ」
オズワルド様が苛立たしげに言う。
泣くか、縋るか、喚くかを待っているのだろう。
わたしは懐から記録帳を取り出した。
革の表紙はもう黒く光って、角はすべて丸い。十二年分、四千三百八十日分。一日も欠けていない。
「かしこまりました」
静かに、頭を下げる。
「では、本日より『凍死者名簿』の記入を、あなた方に引き継ぎます」
「……は?」
「薪の配給順、暖炉割当、老人と乳児の居室の移動指示。すべて北塔で計算しておりましたので、引き継ぎ書を作成いたします」
ページをめくる音だけが、広間に鳴った。
「――去年は、四十三人でした」
笑い声が、止まる。
「今年の見込みは、六十八人です」
広間が、静まり返った。
天窓の光が、床の石目をやけにくっきり照らしている。
誰かが咳をして、それを慌てて飲み込んだ。
ミレーユ様の肩が、ほんの少し跳ねた。
彼女の視線だけが、オズワルド様の腕の中から、わたしの記録帳を追っていた。
「……何の話だ」
「凍死者の話です」
「この領に凍死者などいない」
オズワルド様はきっぱりと言った。本気で言っていた。
「聖女の祈りが届いた土地に、死者はいないからな」
ああ。そうでしたね。
わたしは記録帳を閉じた。
革の表紙が、ぱたん、と鳴る。
「かしこまりました」
三度目の「かしこまりました」。
「では、名簿は閉じます」
広間を出る時、背中に、小さな、かすれた声が届いた。
「……お姉さん」
振り向くと、柱の陰に、藁のついた栗色の髪の少年がいた。
厩番のトビアス。十一歳。指が霜焼けで、真っ赤に腫れている。
「お姉さんは、数えてる人、でしょう」
わたしは、その場で足を止めた。
数えている人。
この十二年で、わたしをそう呼んだのは、この子が初めてだった。
◇
北塔の階段は百二十七段ある。
十二年で、何度上ったか記録してある。四千五百二十回。
部屋に戻ると、暖炉に火が入っていた。
……今朝も、入っていた。
昨日も、一昨日も。十二年前の冬からずっと。
記録帳の末尾、備考欄に、わたしは毎日こう書いている。
『薪、増。出所不明。三本』
四千三百八十日分の「出所不明」。
いつか突き止めようと思っているうちに、十二年経ってしまった。
わたしは窓辺に行って、黒い布をめくった。
外は、真夜中なのに明るい。
白夜だ。これから九十七日間、太陽は沈まない。
眠るために、窓に黒布を貼って、無理やり夜を作る。この領に来てから覚えた生活の知恵だ。
前世では遮光カーテンという便利なものがあった。ここでは羊毛の黒布を釘で打ちつける。
砂時計をひっくり返す。
板の目盛りを読む。
日照、記録。気温、記録。積雪深、記録。
――婚約破棄されたのに、仕事をしている。
自分で自分に呆れながら、それでも手は止まらない。
十二年、一日も欠かしていないのだ。今日だけ空白にするわけにはいかない。
ノックの音がした。
三回。こつ、こつ、こつ。やけに慎重な、大きな手の音。
扉を開けると、扉枠いっぱいに、壁があった。
壁ではない。人だ。
身長二メートル。銀灰色の短髪。瞳孔が縦に裂けた、氷青の目。首筋に薄く鱗が走っている。
北方守備隊長、ヴァルト・アイゼンクラウ。
竜人の血を引く、氷竜討伐の英雄。領内では『氷像』と呼ばれて、子どもに泣かれている人。
無表情。完全な無表情。
「……薪だ」
腕に三本、抱えていた。
「……あの」
「備品の管理だ」
そう言って、彼はわたしを押しのけるでもなく、律儀に横を向いて体を斜めにし、扉をくぐり、暖炉の横に三本置いて、また斜めになって出ていった。
十秒。発語、七語。
扉が閉まる。
わたしは記録帳を開いて、今日の備考欄に、十二年ぶりに訂正を入れた。
『薪、増。出所――判明。三本』
ペン先が、少し止まった。
この人は、十二年間、毎朝夜明け前に、百二十七段を上っていたのか。
わたしが寝ている間に。一度も名乗らずに。
(誤差十二年。……わたしの観測精度も、大したことはありません)
麦粥を温めて、啜る。塩味だけの、薄い粥。
毛布は二枚。片方は端がほつれている。
その時、また階段を上ってくる音がした。
今度は軽い、ぱたぱたとした足音。
扉の隙間から、トビアスが顔を出した。
寒さで声が出にくいのか、まず大きく息を吸ってから、彼は言った。
「お姉さん。お願いが、あります」
「どうぞ」
「……去年の冬に死んだ、兄さんの名前を」
少年は、袖口を握りしめた。
「ちゃんと、名簿に載せてほしいんです」
わたしは、麦粥の匙を置いた。
「お兄様の、お名前は」
「ヨナス。十六歳です。薪の配給の列に、並んだまま……夜明け前に、動かなくなって」
(昨年、白夜前日。気温マイナス十九度。風速七。体感はマイナス三十を下回る。配給開始は夜明け後。待機時間、推定六時間)
数字が、勝手に立ち上がる。
「でも、お城の記録に、兄さんの名前、ないんです。見せてもらったら、ないんです。死んでないことに、なってて」
トビアスの目から、涙は出なかった。
たぶん、もう去年のうちに、全部出てしまったのだろう。
「お姉さんは、数えてる人だから。……数えて、ください」
わたしは立ち上がって、棚の一番下から、別の帳面を引き出した。
表紙に何も書かれていない、薄い帳面。
十二年分の、誰にも提出していない記録。
城の正式な名簿から消された名前を、わたしが勝手に書き写しておいたもの。
ページをめくる。昨年の冬。
『ヨナス、十六。厩番弟あり。薪配給列。白夜前日払暁』
「――載っています」
トビアスが、顔を上げた。
「ずっと前から、載っています。でも、これはわたしの帳面です。城の名簿ではありません」
「じゃあ……」
「城の名簿にするには、城より上に出すしかありません」
わたしは、自分の声が少し変わったことに気づいた。
十二年、低温を保ってきた声が、わずかに角度を持った。
それは怒りではなかった。
もっと事務的な、けれど引き返せない類いの決意だった。
(わたしが数えなければ、この子たちは、死んだことにもならない)
麦粥は、すっかり冷めていた。
わたしはそれを最後まで飲み干して、新しい紙を一枚、机に置いた。
辞表、と書く。
トビアスが、覗き込んで、首をかしげた。
「……お姉さん、辞めちゃうの?」
「いいえ」
わたしはペン先にインクを含ませた。
「転職です」
◇
翌朝、白夜三日目。
太陽は沈まなかったので、「朝」というのは便宜上の呼び方だ。
わたしは広間の前で、辞表を持って立っていた。
隣に、壁があった。
いや、ヴァルト様がいた。
「……あの、どうして広間へ」
「通りかかった」
北塔から広間までの道は、守備隊詰所とは正反対にある。
わたしは何も言わずにおいた。記録には残すけれど。
扉が開く。
オズワルド様は、朝食の途中だった。白パンと、腸詰と、蜂蜜。
領の七割の民が麦粥を啜っている季節に。
「なんだ、泣きに来たのか」
「辞表です」
紙を差し出す。
「婚約破棄、承知いたしました。あわせて、日照計算係も辞任いたします」
オズワルド様は紙を見もせずに受け取り、蜂蜜のついた指で端を持った。べたりと染みがついた。
「ふん。好都合だ。北塔は物置にする」
「かしこまりました。――ですが、ひとつだけ」
わたしは記録帳を、机の上に置いた。
どすん、と重い音がした。四千三百八十日分の重さだ。
「記録帳は、国の備品でございます」
「……は?」
「領の観測記録は、王国農政院の定めにより『領主の所有物ではなく王国の資料』と規定されております。辺境伯家の備品台帳、第七巻、四十二項。十二年前にわたしが登録いたしました」
オズワルド様は帳簿を一度も読んだことがない。
だから、自分の家の台帳に何が書いてあるかも知らない。
「ですので、写しを一部、王都の農政院へ提出してまいりますね」
広間が、一瞬だけ静かになった。
壁際に控えていた老執事が、何か言おうとして口を開きかけた。
凍死者の抹消に署名してきた側の人間だ。彼は、その意味がわかった。
でも、彼が口を開くより先に、オズワルド様が鼻で笑った。
「好きにしろ」
蜂蜜のついた指を舐めながら。
「数字の落書きなど、誰が読む」
――致命傷、と、わたしは心の中で記録した。
「かしこまりました。発言、記録に残します」
「何をごちゃごちゃと」
その時、ミレーユ様が、階段の途中で足を止めているのが見えた。
朝だというのに、きちんと聖女の白衣を着て、祈祷書を胸に抱いている。
彼女は、わたしと目が合うと、びくりと肩を震わせた。
そして、小さな声で言った。
「あの……祈りの日は、白夜二十日目で、よろしいのですよね」
「祈祷書にはそう書かれております」
「は、はい。書いてあります。でも」
彼女は、祈祷書の表紙をぎゅっと握った。
「どうして、二十日目なんですか」
広間の空気が、固まった。
聞いてはいけないことだった。この領では、三百年間、誰も聞かなかったことだった。
オズワルド様が苛立たしげに言う。
「お告げだろう。初代聖女のお告げだ。いちいち理由を考える必要があるか」
「……はい」
ミレーユ様は、俯いた。
わたしは、彼女を見た。
十八歳。王都の神殿で「極北へ行けば英雄になれる」と送り出された少女。
光属性ギフトは本物。けれど、その出力で解けるのは、せいぜい窓ガラスの霜くらいだ。
本人は、たぶん、薄々わかっている。
「ミレーユ様」
「は、はい」
「わたしからひとつだけ、申し上げます」
わたしは深く頭を下げた。
「融雪水が沢に届いた日から、六日後です。空は、必ず六日ぶん遅れます」
「……え?」
「以上です。失礼いたします」
言っておいた。伝えておいた。
受け取るかどうかは、相手の仕事だ。
わたしは広間を出た。
背後で、オズワルド様が「気にするな、ミレーユ。あの女はただの計算係だ」と言うのが聞こえた。
中庭に、荷馬車が一台停まっていた。
わたしの荷物は、行李ひとつと、記録帳十二冊と、砂時計と、目盛り板。
それだけで十二年が全部入る。
御者台に、巨大な背中が座っていた。
「……ヴァルト様?」
振り返らずに、彼は言った。
「辞表は、並べて出した」
「は」
「……護衛だ」
そして、少しの間があって。
「手数料は、麦一握りでいい」
わたしは、御者台の横によじ登った。
荷台の奥から、藁のついた頭がひょこりと出た。トビアスだ。行李の陰に隠れていたらしい。
「……おれも、数える人になります」
「給金は出ません」
「いいです」
「食事は麦粥です」
「城でも麦粥です」
道理だ。
荷馬車が動き出す。
沈まない太陽が、背中からわたしたちを照らしていた。
わたしは膝の上で記録帳を開き、今日の欄に、淡々と書き込んだ。
『白夜三日目。晴。気温マイナス二度。積雪深、麓五十九センチ。融雪水、第三の沢まで到達。
――本日、辺境伯領を離脱。観測は継続する』
◇
麓の鉱山町ヴェルグは、人が多くて煤くさい。
そのぶん、あたたかい。炉があるからだ。
わたしは空き家になっていた鍛冶屋の跡を借りて、机をひとつ置いた。
看板は、トビアスが書いた。
字が少し曲がっている。
『春の窓口
種蒔き日、お教えします。
手数料は麦一握り』
「……商売になるのか」
ヴァルト様が、毛皮を三枚重ねて着込んだ上に外套を羽織りながら言う。
室温は十二度。彼にとっては極寒らしい。
「なりません。最初の七日は、たぶん誰も来ません」
「来ないのか」
「来ません。その代わり、七日目以降に一人来れば、そこから増えます。信用は、実績でしか買えませんので」
――実際には、五日目に来た。
からん、と扉が鳴って、小さな老婆が入ってきた。
背は曲がり、指の関節は腫れ、歯は半分ない。けれど目が鋭い。
「あんたかい。数えるお嬢さんってのは」
「アイシャと申します」
「グレータ・ハルム。南斜面の、痩せた畑持ちだよ」
彼女は看板を顎で示して、笑った。
「手数料は麦一握り、ねえ。握りが小さい手でよかったね」
「……恐れ入ります」
「で、いつ蒔けばいい」
わたしは記録帳を開いた。
十二年分のページが、指の下で流れていく。
(南斜面。標高三百二十。第三の沢系。融雪水到達、今年は白夜二十五日目の見込み。積算日照、現在のペースなら――)
頭の中で、数字が組み上がる。
前世でさんざんやった作業だ。平年差、トレンド補正、融雪のタイムラグ。
わたしは顔を上げた。
「あなたの畑は南斜面ですので、白夜三十一日目」
「……三十一」
「二日ずれると、霜で全滅します」
グレータ婆さんの眉が、ぐっと寄った。
「聖女様のお告げは、二十日目だよ」
「存じております」
「十一日も遅い」
「はい」
「村中に笑われるよ」
「おそらく」
わたしは淡々と続けた。
「ですが、笑われても麦は生えます。笑われずに蒔いて枯れたら、麦は生えません」
老婆は、しばらくわたしの顔をじっと見ていた。
煤けた窓から、沈まない太陽が斜めに入ってくる。
それから、懐をごそごそやって、麦を一握り、机にばらりと置いた。
「あんた、太陽と話すのかい」
「いいえ」
わたしは麦粒を数えた。四十七粒。記録に残す。
「数えるだけです」
老婆は、はっ、と短く笑った。
「気に入ったよ」
扉が閉まる。
トビアスが、帳面に『グレータ・ハルム 南斜面 三十一日目 麦四十七粒』と書き込んだ。
罫線が、きれいにまっすぐ引かれている。
「お姉さん。おれ、罫線引くの上手くなりました」
「ええ。いつか観測係になれます」
トビアスの耳が、一瞬で真っ赤になった。
「……お、おれ、数えるの、得意なんで」
その夜――便宜上の夜――わたしは薬草茶を淹れた。
熱湯で。三分蒸らして。思いきり熱く。
湯気の立つ碗を、ヴァルト様の前に置く。
彼は、無表情のまま、碗を見た。
見て、しばらく動かなかった。
「……十二年ぶりだ」
「え」
「いや」
彼は碗を持ち上げて、一口飲み、
そのまま、二メートルの巨体が硬直した。
「……熱い」
「熱くしました」
「……口の中が」
「冷ましましょうか」
「いい」
彼はもう一口飲んだ。
無表情のまま、氷青の目から、つうっと涙が一筋落ちた。
「ヴァルト様!? そんなに熱かったですか」
「違う」
「では」
「……味が、同じだ」
彼はそれ以上何も言わず、黙って碗を両手で包んでいた。
大きな手の中で、碗が小さく見えた。
わたしは何も言わず、記録帳の備考欄に書いた。
『薬草茶、提供。相手の発汗および流涙あり。室温十二度。原因、不明』
不明、と書いたけれど。
ペンを置いてから、わたしは少しだけ、窓の外の白い空を見た。
――北塔の薪は、十二年、一度も途切れなかった。
それだけは、たしかな観測事実だった。
◇
白夜二十日目。
辺境伯領の鐘が鳴った。
丘の上から見下ろすと、城の前庭に白い天幕が張られ、人が集まっているのが見えた。
『陽溜りの祈り』の儀式。
ミレーユ様の声は、ここまでは届かない。
けれど、祈りが終わった瞬間、領じゅうの村で人が動き出すのはわかった。
種を蒔いているのだ。
三百年、そうしてきたように。
「……止めなくていいのか」
隣でヴァルト様が言った。毛皮三枚の上から外套、その上から膝掛け。
「止めました」
「いつ」
「広間で。『六日後です』と申し上げました」
わたしは丘の草に座り、膝の上で記録帳を開いていた。
「伝えること以上のことは、できません。受け取るのは、相手の仕事です」
(白夜二十日目。融雪水、第三の沢到達は五日前。――到達から五日。発芽は六日から八日。推定発芽、二十七日目前後)
(二十六日目から二十八日目。北からの寒気、流入見込み。地表気温、夜間マイナス三度)
数字は、嘘をつかない。
嘘をつかないから、残酷だ。
「……何人死ぬ」
「今年は、ゼロにします」
わたしはページをめくった。
「麦は枯れます。それは止められません。でも、凍死は別です。麦の失敗は飢えになり、飢えは冬の薪を買う金を奪います。――薪の備蓄計算表を、今から配ります」
「配る? 領の外から?」
「窓口は、誰でも入れます」
ヴァルト様は、しばらく黙っていた。
それから、低く、ほとんど聞き取れない声で言った。
「……お前は、追い出された側だぞ」
「存じております」
わたしは空を見た。
沈まない太陽。白い、薄い、刃物みたいな光。
「でも、数えるのをやめたら、わたしは何でもなくなるので」
◇
白夜二十七日目。
麦が、芽を出した。
領じゅうが喜んだという。聖女様の祈りが届いた、と。
ミレーユ様は人々に囲まれて、花を渡されて、笑っていたそうだ。
白夜二十九日目、未明。
わたしは観測板の前に立っていた。
(地表気温、マイナス三度。風、無。放射冷却。――霜点、到達)
静かだった。
沈まない太陽の下で、音もなく、それは起きた。
朝になって、丘を登った人々が見たのは、黒くなった畑だった。
芽の出たばかりの麦が、一夜で凍って、崩れていた。
領の七割。
◇
白夜三十一日目。
グレータ婆さんは、ひとりで種を蒔いていた。
曲がった背中で、痩せた南斜面に、ぱらぱらと。
村の連中は、もう笑っていなかった。
笑う畑が、黒くなっていたからだ。
「婆さん、正気か」
「今から蒔いて間に合うもんか」
「もう十一日も遅いんだぞ」
婆さんは顔も上げずに言った。
「あの北塔のお嬢さんはね」
ぱらり。
「太陽と話すんじゃない。太陽を数えるんだよ」
◇
その日の午後、『春の窓口』の扉が開いた。
農民が、一人。
帽子を胸に抱えて、おずおずと。
「……あの。畑が、黒くなって」
「どちらの斜面ですか」
「東です。中腹の」
わたしは記録帳をめくった。
「東斜面中腹、標高二百八十。――蒔き直しが間に合います。三十四日目。種はお持ちですか」
「……間に合うんですか」
「間に合います。ただし、三十六日目を過ぎると収量が半分になります」
男は帽子を握りつぶして、何度も頭を下げて出ていった。
麦一握りを、机に置いて。
一時間後、二人来た。
夕方、五人来た。
翌日、十二人来た。
三日目、商隊の隊長が来た。「峠の雪が消えるのはいつだ」と。
四日目、羊飼いが来た。「放牧を上げていい日はいつだ」と。
トビアスが罫線を引く手が追いつかなくなった。
ヴァルト様が、扉の前で列を整理した。無言で立っているだけで、誰も割り込まなかった。
◇
六日目。
毛皮の襟を立てた使者が、三人、馬で乗りつけてきた。
辺境伯家の紋章。
「アイシャ・ノルデン。オズワルド様がお呼びである。即刻、城へ戻れ」
わたしは筆を置かずに答えた。
「ただいま受付中でございます。整理札は十七番までお出ししております。最後尾にお並びください」
「……なんだと?」
「手数料は麦一握りです」
使者の一人が、腰の剣に手をかけた。
かけて、そのまま固まった。
扉の横に立っていた巨躯が、ゆっくりと顔を上げただけだった。
縦に裂けた氷青の瞳孔が、三人を順番に見た。
一歩も動いていない。
何も言っていない。
使者たちは、馬に乗って帰っていった。
「……ヴァルト様」
「言ってない」
「はい」
「俺は何も言ってない」
「記録に残します」
◇
その夜、わたしは一枚の紙を刷って、窓口の壁に貼った。
『薪備蓄計算表
世帯人数と間取りを言ってください。必要な薪の量と、買う時期をお教えします。
手数料は、いりません』
トビアスが、それを見上げた。
「お姉さん。この薪の表、ただなんですか」
「ええ」
「どうして」
わたしは、閉じたままの薄い帳面を、机の端に置いた。
表紙に何も書かれていない帳面。
「今年の見込みは、六十八人でしたから」
指で、表紙をなぞる。
「それを、ゼロにしたいんです」
◇
王都、農政院、第四書庫。
「で、原簿は」
六十八歳の老査察官、ベルナール・ウルヴィクは、鼻に乗せた片眼鏡を押し上げてそう言った。
部下が、埃をかぶった包みを差し出す。
「これが、三月前に極北から届いていた『写し』であります。ええと……辺境伯領の、日照計算係からの自主提出で、まあ、趣味の記録だろうということで、こちらに」
「極北の収穫報告は」
「七割、壊滅です」
ベルナールは何も言わずに包みを開いた。
十二冊。
黒く光った革表紙。角はすべて丸い。
一冊目を開く。
『白夜一日目。晴。気温マイナス六度。日照十八時間。積雪深、麓七十一センチ、中腹百四センチ。融雪水、第一の沢に未到達。土壌水分、低』
次のページ。
『白夜二日目。――』
次のページ。
『白夜三日目。――』
一日も、欠けていない。
ベルナールは椅子に座った。
片眼鏡を外し、また掛け直した。
末尾に、折り込まれた表があった。
年ごとの、融雪水到達日。播種日。発芽日。遅霜の有無。そして収量。
すべてが線で結ばれ、突き合わされている。
その横に、小さな字でこう書かれていた。
『注:祈祷日(白夜二十日目)と最適播種日の差。
十二年前=一日。十年前=二日。七年前=四日。三年前=五日。本年=六日。
――ズレは拡大している。気候が動いている』
ベルナールの指が、止まった。
◇
三日後。
部下が書庫を覗くと、老査察官はまだ同じ椅子に座っていた。
蝋燭が三本、燃え尽きていた。
「……閣下、お休みになられては」
ベルナールは返事をせず、最後の冊子の最後の頁をめくった。
そこには、数字ではない記述があった。
『備考欄。
本日、薪が三本増えていた。出所不明。
以下、同様の記録が四千三百八十日分ある。
観測者として、不明は不明と記す』
それから、別紙が一枚。
薄い帳面の写しだった。
『非公式記録・凍死者
(辺境伯家公式名簿より抹消された者を、観測者が個人的に記載したもの)
十二年前 二十九名
十一年前 三十四名
……
昨年 四十三名
本年見込み 六十八名
右の者たちは、公式には存在しないことになっている。
だが、死んでいる。
――記録に残す』
最後に、名前が並んでいた。
四百七十三人分。
『ヨナス、十六。厩番弟あり。薪配給列。白夜前日払暁』
ベルナールは、片眼鏡を外した。
そして、四十年間、誰にも言ったことのない声量で――つまり、いつもと同じ声量で、ただ一言こぼした。
「……これは、国に二冊とない財産だ」
◇
「出る」
「え、どちらへ」
「極北だ。査察だ。馬車を用意しろ。令状も」
「令状、ですか。何の」
ベルナールは外套を羽織りながら言った。
「収穫報告書の虚偽記載。死亡記録の抹消。――あと一つ」
「一つ?」
「王国観測事業の資料を、領主家が十二年間、物置に放置した件だ」
◇
極北、辺境伯城。
「これはどういうことですかな、オズワルド殿」
ベルナールは、広間の机に十二冊を積み上げた。
どすん、という音がした。
オズワルドは、それを見た。
見て、意味がわからなかった。
「……帳面が、なんだ」
「で、原簿は」
「は?」
「貴家の凍死者名簿の原簿です。過去十二年分。――こちらには四百七十三名の記載がありますが、貴家の提出された報告書には、十二年で死者ゼロとあります」
「それは、聖女の祈りが――」
「で、原簿は」
同じ声量。同じ速度。
オズワルドの口が、ぱくぱくと動いた。
「……そんなもの、見たことがない」
「署名はございますな。ここに。こちらにも。十二年分、すべてに」
インクで永久に黒い指先が、羊皮紙の上をとん、とん、と叩く。
「数字は下々の仕事だと伺いましたが」
「それは」
「下々の仕事の結果に、貴殿は毎年署名しておられる。読まずに」
広間が、静まり返った。
その沈黙の中で、階段から足音がした。
ミレーユ・ラ・サンシェが、白衣のまま降りてきた。
顔は青く、目は腫れていた。
領の七割が黒くなった夜から、彼女は何度も自分の手のひらを開いては握っていた。
「あ、あの」
「ミレーユ! 下がっていろ」
「査察官様」
彼女は、オズワルドの声を聞かなかった。
「祈りでは、雪は解けません」
広間の空気が、割れた。
「わたしの光は、湯を沸かすくらいです。雪は、解けません。一度も、解けたことがありません。――わたしは、祈祷書に書いてある日付を、読み上げていただけです」
彼女は祈祷書を胸に抱いたまま、ぼろぼろと泣いた。
「どうして二十日目なのか、誰も教えてくれませんでした。聞いてはいけない、と言われました。でも、聞かなかったから、畑が」
ベルナールは、彼女を見て、片眼鏡を押し上げた。
「記録に残します」
◇
三週間後。
辺境伯家は、虚偽記載および死亡記録抹消の責任を問われた。
オズワルド・フロストヴェインは爵位継承権を失った。
彼は最後まで、同じことしか言わなかった。
「なぜだ。なぜ、私が」
誰も答えなかった。
十二年間、答えを書き続けていた帳面は、もう城にはなかった。
◇
ミレーユが王都へ送り返される朝、馬車の前に、わたしは立っていた。
呼ばれたわけではない。
見送りに来たわけでもない。
峠の積雪深を測りに来たついでだった。
ミレーユ様は、わたしを見て、立ち止まった。
そして、泣きながら、それだけを聞いた。
「どうやって、雪を解かすの?」
わたしは、少し考えてから答えた。
静かに。いつもの声で。
「解かすのは、太陽です」
白夜の光が、二人の間に落ちていた。
「わたしたちは、いつ解けるかを、知っているだけです」
ミレーユ様の唇が震えた。
何か言おうとして、言えなくて、彼女は深く、深く頭を下げた。
馬車が走り出す。
その背中を見送りながら、わたしは記録帳を開き、淡々と書いた。
『白夜六十二日目。晴。峠の積雪深、ゼロ。
――本日、聖女が去った。
彼女は、問いを持って帰った。観測の第一歩である』
◇
白夜九十七日目。
太陽は、まだ沈まない。
今日が最後だ。明日からは、少しずつ夜が戻ってくる。
南斜面の麦畑は、黄金色だった。
「あんた、来たね」
グレータ婆さんが、畑のへりに座っていた。
曲がった背中。腫れた指。半分の歯。
「収量の確認に参りました」
わたしは記録帳を開いた。
「反あたり、平年比一割増と推定しております。確認させていただいても」
「後でいいよ」
婆さんは、膝の上の布包みをほどいた。
黒パンが、ひとつ。
焼きたてで、まだ湯気が出ていた。
その横に、雪解け水で洗った野苺が、三粒。
「報酬だよ」
「……手数料は、麦一握りです」
「それは払った。これは別だ」
婆さんは、わたしの手にそれを押しつけた。
パンは熱かった。指の霜焼けの痕に、じん、と沁みた。
「あんたの数えた日に蒔いたからね」
――。
息が、できなくなった。
十二年。
四千三百八十日。
百二十七段の階段を四千五百二十回。
誰にも言わずに、農民の家を一軒ずつ回って「この日に蒔いてください」と伝えて、
そのたびに「聖女様のおかげだ」と言われて、
一度も訂正しなくて、
北塔に戻って、麦粥を啜って、黒い布を貼って、無理やり夜を作って、
翌朝また砂時計をひっくり返して。
誰も、見ていなかった。
「あんたの数えた日に、蒔いたからね」
手の中の黒パンが、あたたかい。
野苺が三粒、転がらないように、指を丸める。
視界が、揺れた。
「……あ」
前世でも、今世でも、人前では泣かなかった。
予報が外れた日も、徹夜明けに倒れた日も、婚約を破棄された日も。
泣いても、数字は変わらないから。
でも。
「あ、あの、すみません」
「いいよ」
「すみません、わたし、これは、その」
「いいから」
ぼたぼたと、黒パンの上に落ちた。
塩味がついてしまう。もったいない。もったいないのに、止まらない。
わたしは畑のへりにしゃがみ込んで、十二年ぶりに、人前で泣いた。
声を上げて。
みっともなく。
記録に残せないくらい、ぐちゃぐちゃに。
◇
「おい」
背後で、低い声がした。
振り返ると、二メートルの巨体が、無表情のまま、滝のように泣いていた。
顔は一ミリも動いていない。
氷青の目から、ただ水が、どばどばと落ちている。
「ヴァルト様!?」
「……先に泣くな」
「いや、わたしが先では」
「……俺のほうが、先に泣く予定だった」
予定とは。
グレータ婆さんが、腹を抱えて笑い出した。歯が半分ないので、すーすー音が鳴る。
「やだねえ、氷像が溶けたよ」
「……溶けてない」
「溶けてるよ」
「寒い」
「夏だよ」
トビアスが畑の向こうから走ってきて、わたしたちを見て、足を止めた。
十一歳の少年は、大人二人が泣いているのを見て、どうしていいかわからず、とりあえず持っていた帳面を抱きしめた。
◇
畑のへりに、四人で座った。
黒パンを四つに割った。熱くて、柔らかくて、少し塩辛かった。
野苺は三粒しかないので、トビアスとヴァルト様と婆さんに一粒ずつ渡した。
「お前は」
「わたしは、パンをいただきましたので」
ヴァルト様は、自分の一粒をじっと見て、それからわたしの手のひらに置いた。
「……備品の管理だ」
「それは備品ではありません」
「薪もそうだった」
「……」
わたしは、野苺を口に入れた。
酸っぱくて、少しだけ甘かった。
沈まない太陽が、黄金色の麦の上を、ゆっくりと横に滑っていく。
わたしは記録帳を開いた。
手が震えていたので、字が少し曲がった。トビアスの罫線のほうがまっすぐだ。
『白夜九十七日目。晴。気温十一度。南風、弱。
麦、平年比一割増。遅霜被害、窓口利用者においてなし。
――本年、凍死者。』
ペン先を止める。
薄い帳面を取り出した。表紙に何も書かれていない帳面。
今年のページを開く。
真っ白だ。
一行も、書かれていない。
「……ゼロ、です」
声に出した。誰に言うでもなく。
「今年の見込みは、六十八人でした」
黒パンの最後のひとかけらを、口に入れる。
「――実績、ゼロです」
ヴァルト様が、また泣いた。
もう誰も驚かなかった。
◇
三日後、王都から馬車が来た。
黒い外套の老人が降りてきて、片眼鏡を押し上げ、挨拶もなしに言った。
「アイシャ・ノルデン殿。で、原簿は」
「こちらに」
「結構。――王国は『気象観測院』を設立する。北方支部を置く。貴殿が院長だ」
「お断りいたします」
「理由は」
「窓口が忙しいので」
ベルナール様は、初めて、ほんのわずかに口の端を動かした。
「窓口ごと、支部にする」
「……かしこまりました」
彼は帰りの馬車で、部下にこう漏らしたという。
「あれは祈りより正確だ。神殿には言うなよ」
◇
さらに三月後。
王都から届いた正式な災害記録簿に、十二年分の、消されていた死者の名が全員記載された。
四百七十三人。
トビアスは、ページをめくって、めくって、見つけた。
『ヨナス、十六歳。フロストヴェイン領。薪配給待機中の凍死』
一行。
たった一行。
少年は、その一行を指でなぞって、声を上げて泣いた。
「兄さん」
なぞって、なぞって、何度もなぞった。
「兄さん、載ってる」
兄の名前が、ようやく、この世界に存在した。
◇
そしてもう一通、王都の神殿から封書が届いた。
差出人は、ミレーユ・ラ・サンシェ。
『アイシャ様。
初代聖女エルナ様の祈祷書を、調べ直しました。
余白に、祈りの文言ではないものが書かれていました。
沢ごとの融雪水の到達日。積雪の消失時期。細かい数字と、線。
最後に、震える字で、こうありました。
――「水、沢に届きし日より六日待て」
初代聖女様は、神託を受けていたのではありませんでした。
観測して、いらっしゃいました。
そして、たぶん、祈りという形にしなければ、誰も従ってくれなかったのだと思います。
わたしは、聖女をやめて、農政院の見習いになります。
数の数え方から、教えてください』
わたしは、その手紙を長いこと読んでいた。
三百年前。
銀髪の女がひとり、沢のほとりに立って、水の到達日を数えていた。
誰にも信じてもらえないまま、それを「祈り」と呼ぶしかなかった。
指で、手紙の文字をなぞる。
十二年、わたしはずっと、ひとりだと思っていた。
三百年、彼女もまた、ひとりだったのだ。
「……先輩」
初めて、声が詰まった。
「引き継ぎます」
◇
翌年の春。
麓の鉱山町ヴェルグ。かつて鍛冶屋だった建物の前に、新しい看板が掛かっている。
『王国気象観測院 北方支部』
その下に、もう一枚、少し字の曲がった板。
『春の窓口
種蒔き日、お教えします。
手数料は麦一握り』
中では、亜麻色の髪を一つに結んだ女が、砂時計をひっくり返している。
指先の出た手袋。ペンだこのある指。右の薬指に、消えない霜焼けの痕。
隣で、十二歳になった少年が、まっすぐな罫線を引いている。
扉の横では、毛皮を三枚重ねた巨体が、熱すぎる薬草茶を両手で包んで、無表情のまま目を潤ませている。
「アイシャ」
「はい」
「……熱い」
「熱くしました」
窓の外、第三の沢に、今年も水が届いた。
わたしは筆を取り、入口に貼る紙に、今日の一行を書く。
『該当日、一件ございます。――六日後です』




