豪雨
春も終わりに近付いていた。
空気は重く、空一面には分厚い雲が広がっている。
数日前から降り続いていた雨は、弱まるどころか日に日に勢いを増し、今では地面を叩きつけるような豪雨へ変わっていた。
宿場市場でも、人々が不安そうに空を見上げている。
「また強くなってきたな……」
「今年は酷ぇぞ」
「このまま降ったら、街道が持つのか?」
そんな声が、あちこちから聞こえていた。
最初は春らしい小雨だった。
だが雨脚は少しずつ強くなり、雪解け水がまだ残る地面へ大量の雨水が加わったことで、街道脇の排水路には濁った水が勢いよく流れ込んでいる。
場所によっては道の端まで水が溢れ、荷車が通るたびに泥水が大きく跳ね上がっていた。
以前のヴァルディア領なら、この時点でかなり危険だっただろう。
道が深くぬかるめば荷車は動けなくなり、橋が傷めばそこで流通は止まる。人も物も動けなくなれば、ようやく戻り始めた市場もあっという間に冷え込む。
だが今は、少し事情が違っていた。
宿場の外れで、レオは雨に霞む街道を見ていた。
激しい雨の中を、何台もの荷車がゆっくりと進んでいる。
その多くは、ノアたちが改良した新しい型だった。
以前より幅の広い車輪はぬかるみに沈みにくく、荷台そのものも軽くなっている。
積み方まで整理されたことで無駄な偏りも減り、馬への負担も以前より抑えられていた。
もちろん、この豪雨の中で普段と同じ速度で走れるわけではない。
それでも止まってはいなかった。
そのこと自体が大きかった。
少し離れた場所では、ノアが泥だらけになりながら、なぜか自分のことのように胸を張っていた。
「だから言っただろ! 車輪を広くしておいて正解だったんだ!」
その声に、近くの商人たちが苦笑しながら頷く。
「分かった分かった。今回ばかりは認めるよ」
「前の荷車だったら、あの辺で埋まってたな」
「馬もまだ余裕がある」
ノアは満足そうに鼻を鳴らした。
少し前まで、荷車へ文句を言う変人として見られていた男が、今では商人たちにとって頼れる技師になりつつある。
市場の中では、商会の職員たちが慌ただしく動き回っていた。
「北側の商隊、到着しました!」
「荷降ろし区画を空けろ! 次が来るぞ!」
「西倉庫、あとどれだけ入る!?」
怒鳴り声は絶えない。
だが以前のような、誰が何をしているのか分からない混乱ではなかった。
それぞれが自分の役割を把握し、決められた場所へ動いている。
その中心にいるのはミレイアだった。
雨に濡れた灰銀色の髪が頬へ張り付いているが、本人は気にする様子もない。
片手に帳簿を抱えたまま、市場全体へ次々と指示を飛ばしていた。
「水濡れした荷は東倉庫へ回してください! 乾いた荷と混ぜないで!」
職員が走り出す。
「乾燥用の火床を二つ増やします。火の管理役も付けてください!」
今度は別の者が頷く。
「荷降ろし列は止めないでください! 一台ずつでも進めて!」
その指示に合わせて、兵士と荷運び人夫たちが次の荷車を誘導していく。
エルクは屋根のある場所からその様子を見ながら、感心したように呟いた。
「本当に回ってますね……」
レオも静かに頷いた。
「止めないことが大事だからな」
完全に平常通りである必要はない。
速度が落ちてもいい。
一度に運べる量が減ってもいい。
大事なのは、完全に止まらないことだった。
一度すべてが止まれば、再び動かすにはそれ以上の時間と労力が掛かる。
だからこそ、少しずつでも流し続ける。
その考え方が、今のヴァルディア領には少しずつ根付き始めていた。
一方、周辺領の状況はかなり悪化していた。
雨の合間を縫うように入ってくる商人たちの話では、南側街道の一部が崩落し、橋が流された場所もあるという。
ぬかるみに荷車を取られ、その場で動けなくなった商隊も多かった。
市場へ避難するようにやってきた商人たちは、全身を濡らし、疲れ切った顔で焚き火の周りへ集まっていた。
「ラドール側はもう駄目だ……」
一人の商人が、濡れた外套を絞りながら呟く。
「橋が一本流された。あれが直るまではまともに通れねぇ」
隣の男も暗い顔で頷いた。
「北側も酷いぞ。荷車が泥に沈んで、馬だけ外して逃がした商隊までいる」
「今年はどこも終わってるな……」
疲れ切った声だった。
その姿は、戦場から戻ってきた敗残兵のようにも見えた。
そんな彼らの横を、ヴァルディア商会の荷車がゆっくりと通り過ぎていく。
普段より速度は遅い。
泥に車輪を取られることもあるし、途中で止まることもある。
それでも、人が押し、馬が引き、少しずつ前へ進んでいた。
完全ではなくても、流れは残っている。
その違いは、商人たちにとって十分すぎるほど大きかった。
やがて、「ヴァルディアならまだ通れる」という噂が広がり始めた。
結果として、他領で足止めされた商人たちまで宿場市場へ流れ込んでくる。
その日の午後には、市場はこれまでにないほどの混雑となっていた。
「荷降ろし列、もう一つ増やせ!」
「倉庫が埋まるぞ! 空いてる建物を確認しろ!」
「乾燥用の布が足りねぇ!」
あちこちで大声が飛び交う。
それでも以前とは違う。
人が増えれば増えるほど混乱していた頃と違い、今ではどこへ荷を運び、どこで待たせ、何を優先するのかがある程度決まっている。
流れがある。
そして、その流れを管理する人間がいる。
それだけで、市場全体が崩れることはなかった。
城壁の上では、激しい雨が石壁を叩いていた。
リゼは雨に霞む街道と宿場市場を見つめながら、静かに呟く。
「……本当に変わりましたね」
少し前までなら、この雨が降った時点でヴァルディア領の物流はほぼ止まっていたはずだ。
だが今は違う。
街道があり、途中で休める宿場があり、濡れた荷物を避難させる倉庫がある。
荷車も改良され、商会が人と荷の動きを管理している。
一つだけでは意味がなかったものが、今では互いに繋がり始めていた。
バルドは城壁の陰で酒瓶を揺らしながら、雨を見て笑う。
「戦より厄介だな。雨ってのは斬っても止まらねぇ」
レオはその言葉に、わずかに口元を緩めた。
「だから備えるしかない」
前世でも同じだった。
災害そのものを消すことはできない。
雨を止めることもできなければ、川が増水することを完全に防ぐこともできない。
だが、排水路を作ることはできる。
壊れにくい道を作ることもできる。
備蓄を置き、人を動かす仕組みを作れば、被害を減らすことはできる。
すべてを防げなくても、生き残れる確率は上げられる。
その時、城壁へ続く階段から慌ただしい足音が聞こえた。
一人の商会職員が息を切らしながら駆け上がってくる。
「報告です!」
全員の視線が集まる。
「西側街道の一部が冠水しました! ただ、今のところ通行そのものは維持できています!」
その少し後ろから、ミレイアも上がってきた。
帳簿は濡れないよう布で包んでいるものの、本人は完全に雨に濡れていた。
「排水路が機能しています」
そう言いながら、街道の方へ視線を向ける。
「ただし南側の低地は、もうかなり危険です。この雨がもう一日続けば、道の端から崩れる可能性があります」
エルクの表情が険しくなる。
「補修は間に合いますか?」
「人を入れれば最低限の補強はできます。ただ、この雨の中での作業になります」
ミレイアはレオへ視線を向けた。
「今なら、まだ間に合います」
レオは少し考えてから尋ねる。
「人は動かせるか?」
「動かせます」
返事は早かった。
「流民の作業班と大工、それに街道補修へ慣れた者を回せます。ただし安全確保のため、兵士も数人必要です」
レオは雨の向こうにある街道を見る。
水は増えている。
泥も深くなっている。
それでも、まだ荷車は動いていた。
完全に止まる前なら、手を打てる。
レオは静かに口を開いた。
「工事を始める」
エルクが思わず目を見開いた。
「この雨の中でですか?」
「ああ」
「危険ですよ」
「だから今やる」
レオは南側の低地へ目を向けた。
「崩れてから直す方が、もっと危険だ」
エルクは言葉を失った。
数秒後、隣で聞いていたミレイアが小さく息を吐く。
「……本当に無茶を言いますね」
ただ、その声には以前のような呆れだけではなく、どこか予想していたような諦めも混じっていた。
「分かりました。人員を組みます」
そう言うと、ミレイアはすぐに帳簿を開きながら階段を降り始める。
レオもその後ろ姿を見送ったあと、もう一度街道へ目を向けた。
雨はまだ降り続いている。
空は暗く、周辺領ではすでに流通が崩れ始めている。
この先、さらに状況が悪くなる可能性もある。
それでも、ヴァルディア領の道にはまだ荷車が走っていた。
宿場では人が動き、市場では荷が運ばれ、商会では次の商隊の予定が組まれている。
止まりかけていた辺境は、豪雨の中でも完全には止まらない。
冬の間から一つずつ積み重ねてきたものが、今になってヴァルディア領を支え始めていた。
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