春泥
雪解けは日に日に進み、街道脇に残っていた雪も少しずつ高さを失い始めていた。
冷たい風はまだ残っているものの、その中にはわずかに春の匂いが混じり、凍り付いていた川にも細い流れが戻っている。
宿場市場でも変化は見え始めていた。厚手の外套を脱いで歩く商人が増え、雪の上ではなく、ぬかるんだ土を踏みながら荷を運ぶ姿が目立つようになっている。
長かった冬は、ようやく終わろうとしていた。
そして冬が終わるということは、これまで動けなかった人々が再び街道へ戻ってくるということでもある。
ただ、雪がなくなればすぐにすべてが楽になるわけではなかった。
この時期には、冬とは違う厄介な問題がある。
春泥である。
昼間に気温が上がると、積もっていた雪が一斉に溶けて街道へ流れ込み、凍っていた地面を柔らかくしていく。
そこを何台もの荷車が通れば、道はたちまち泥濘み、深い轍が刻まれる。
場所によっては車輪が半分近く沈み込み、馬も足を取られるため、少し無理をすれば荷車ごと横転しかねない。
宿場市場の脇でも、一台の荷車が泥へ深くはまり込んでいた。
「重ぇ……! もう少し押せ!」
「分かってる! そっちもちゃんと力入れろ!」
数人の商人が荷台へ肩を押し当てていたが、車輪は泥の中で空回りするばかりで、なかなか抜ける気配がない。
少し前までなら、春先にはよくあることとして諦めていた光景だっただろう。
だが今は違う。
周囲で見ていた商人の一人が、すぐに声を上げた。
「改良荷車を持って来い!」
ほどなくして別の商人が一台の荷車を引いてくる。
ノアたちが改良した新しい型で、従来のものより車輪の幅が広く、荷台も軽く作られていた。
試しに同じぬかるみへ進ませてみると、車輪は泥へ入ったものの、古い荷車ほど深く沈み込まない。馬が少し力を込めるだけで、そのままゆっくりと前へ進んでいった。
その様子を見ていた商人たちから、自然と感嘆の声が上がる。
「おお……本当に違うな」
「さっきの場所、そのまま抜けたぞ」
「馬もそんなに苦しそうじゃない」
すでに改良荷車を使っている商人たちは、どこか誇らしげに頷いていた。
「だから言っただろ。ぬかるみじゃ特に違うんだよ」
「壊れる回数も減ったしな」
「長距離を走るなら、馬の消耗も全然違うぞ」
少し前まで半信半疑だった者たちの間でも、改良荷車の評判は着実に広がっていた。
冬を越えた人々は、また街道へ戻ろうとしている。
そして一度動き始めれば、少しでも楽に、少しでも遠くまで進める手段を求めるようになる。
市場の一角では、その荷車を作った本人が木箱の上に立ち、何人もの商人を相手に熱弁を振るっていた。
「だから積み方まで考えろって言ってるだろ!」
ノアは荷車の模型代わりに板切れを持ち、それを傾けながら説明している。
「重い荷を後ろへ寄せすぎるな。車軸に負担が偏る。せっかく荷車を軽くしても、積み方が悪けりゃ意味ないんだよ!」
相変わらず声は大きい。
ただ以前と違うのは、話を聞いている商人たちの表情だった。
少し前なら面倒そうに離れていった者たちが、今では真面目に頷き、中には自分から質問する者までいる。
実際に結果が出ているからだ。
少し離れた場所からその様子を見ていたエルクが、疲れたように息を吐く。
「最近、本当に技師扱いされ始めましたね……」
隣に立っていたレオは、わずかに笑った。
「結果を出したからな」
「最初は完全に変人扱いだったのに」
「今もそこは変わってないだろ」
レオがそう返すと、エルクは一瞬黙ったあと、思わず小さく笑った。
確かに変人であることには変わりない。
ただ今では、それに「腕のいい」という言葉が付くようになっただけだった。
その時、市場の入口付近で小さな騒ぎが起こった。
何人かの商人が一台の荷車を囲んでいる。
片側の車輪は完全に割れ、車軸も大きく歪んでいた。荷台には泥が跳ね上がり、積まれていた荷物の一部まで濡れている。
見るからに、長い距離を無理して走ってきた車だった。
レオはエルクと一緒にそちらへ歩いていき、近くにいたガイゼルも何事かと後から続いた。
「何があった?」
レオが尋ねると、荷車の持ち主らしい男が疲れ切った顔を上げる。
「南側街道でやられました。泥に車輪を取られて、そのまま軸まで曲がったんです」
「どこから来た?」
「ラドール領です」
その名前を聞いたガイゼルが、わずかに眉をひそめた。
「南東か」
商人は頷く。
「向こうはまだ酷いですよ。流民も増えてるし、道もほとんど手が入ってません。春泥で荷車が進まない場所も多いです」
後ろにいた別の商人も、苦笑しながら口を挟んだ。
「橋も一つ、半分崩れたままだ。迂回するだけで半日は余計に掛かる」
ガイゼルが尋ねる。
「それでもここまで来たのか?」
男は泥だらけの荷車を見下ろしてから、小さく肩を竦めた。
「ヴァルディアまで来れば、まだ何とかなるって聞いたんで」
その言葉に、レオの目がわずかに細くなる。
商人はそのまま続けた。
「来てみて驚きましたよ。こっちはまだ道が生きてる」
周囲で話を聞いていた商人たちも、自然と頷いていた。
冬を越せなかった領地は多い。
食料不足で市場が止まり、行き場を失った流民が盗賊化し、壊れた橋や街道を直す余裕さえない場所も珍しくなかった。
雪が溶けたからといって、すぐに交易が戻るわけではない。
むしろ冬の間に傷んだものが、一斉に表へ出てくる時期でもある。
壊れた橋があり、荒れた道があり、痩せた馬がいる。その上で疲れ切った人々が、それでも次の場所を目指して歩いている。
それが、この冬を越した世界の現実だった。
だからこそ、まだ道が使え、宿があり、市場で物を買えるヴァルディア領へ少しずつ人が流れ始めている。
レオは壊れた荷車へ目を向けた。
割れた車輪と歪んだ車軸は、冬を越した周辺領の状況そのものにも見えた。
その横では、いつの間にかノアが本気で頭を抱えている。
「だから古い型は駄目なんだって!」
先ほどまで別の商人へ講義していたはずなのに、壊れた荷車を見つけた途端に飛んできたらしい。
「ちょっと見せろ」
そう言うなり、ノアは勝手に荷車の下へ潜り込んでいった。
持ち主の商人は驚いたものの、周囲から聞こえた「いつものことだ」という声に苦笑する。
「何だ、この軸。よくここまで持ったな」
「もう駄目か?」
「このままなら駄目だ。でも軸を交換して、車輪も作り直せば使える」
ノアは荷車の下から顔だけ出し、そのまま続ける。
「ついでに軽くするぞ」
商人が思わず聞き返した。
「ついでに?」
「どうせ直すなら、壊れたところだけ元に戻しても仕方ないだろ。悪いところ全部直した方がいい」
あまりにも当然のように言われ、商人は少し黙ったあとで笑った。
「じゃあ任せるよ」
少し前なら、初対面に近い技師へ大切な荷車を預ける者などいなかっただろう。
だが今では誰も止めない。
ノアの騒がしさも、その腕も、この市場では少しずつ当たり前のものになり始めていた。
夕方になる頃には、宿場市場一帯に春特有の湿った土の匂いが漂っていた。
雪解け水が道端の溝を流れ、その横を馬が泥を跳ね上げながら歩いている。
露店では鍋から湯気が立ち、商人の呼び声や旅人たちの話し声が重なっていた。
冬の間、この場所を包んでいた静けさは、もうほとんど残っていない。
宿場の入口に立っていたリゼが、人の行き交う市場を眺めながら呟く。
「本当に増えましたね」
隣まで歩いてきたレオも、市場へ目を向けた。
「そうだな」
少し前とは比べものにならないほど、人がいる。
荷車が止まり、商品が並び、商人たちが情報を交換している。
まだ大きな町ではないし、立派な建物も少ない。道だって泥だらけで、雨でも降ればさらに酷くなるだろう。
それでも、この場所には確かに人が集まり始めていた。
リゼは行き交う商人たちを見ながら静かに言う。
「冬を越せば、自然に人は戻ってくるものだと思っていました」
レオは首を横に振った。
「道が死んでたら戻れない」
春になったからといって、すべてが元通りになるわけではない。
冬の間に壊れたものを直さなければ、人も物も動くことはできない。
だからヴァルディア領は、冬の間から橋を直し、街道を守り、宿場を作り、市場を整えてきた。
その積み重ねが、春になった今、ようやく目に見える形になり始めている。
レオは宿場の向こうへ続く街道へ視線を向けた。
泥だらけの道の先から、また一台の荷車がゆっくりこちらへ向かってくる。
冬は越えた。
だが、それで終わりではない。
むしろ人が動き始めた今だからこそ、次にやるべきことが見えてくる。
もっと通りやすい道を作り、もっと多くの荷を運び、もっと遠くから人を呼び込めるようにする。
止まりかけていた辺境は、ようやく息を吹き返し始めたばかりだった。
もし少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
ブックマークやページ下部の☆を押して評価をお願い致します!
作者の励みになります!




